メンタルヘルス改善、「テトリス」が一役? 北欧で研究
ナショナル ジオグラフィック 日経 2023年10月23日
1980年代に世界的ベストセラーになったコンピューターゲームの「テトリス」を、メンタルヘルスの改善に役立てる研究が進められている。具体的には、テトリスをプレイして、性的暴行や自動車事故、戦争、自然災害、または困難な出産などを体験した後に起こるフラッシュバック(過去に経験したトラウマ的な記憶が自分の意志とは無関係に侵入すること)の回数を減らせる可能性があるという。
世界24カ国で実施した調査によると、人が死ぬところを見たり、愛する人が突然亡くなったり、命が脅かされたりする事故に遭ったりするなどのトラウマ体験があると報告した人の割合は70%を超えていた。だが、その後に睡眠障害や自己破壊的行動などの心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症するのはわずか4%前後だった。
PTSDとまではいかなくとも、つらい記憶というのは何の前触れもなく突然よみがえってくることがある。フラッシュバックは、精神的な負担になるだけでなく、集中することが困難になって、職場や学校で問題を引き起こしてしまう場合がある。こうした記憶の侵入はしばしば、画像や短い動画となって心の目に映る。
そこで、スウェーデンにあるカロリンスカ研究所とウプサラ大学の心理学教授であるエミリー・ホームズ氏は、トラウマを経験したばかりで記憶が完全に形成される前の脳に、トラウマ体験と競合する画像を与え、それに意識を集中させることで、フラッシュバックの回数を減らせないかと考えた。つらい記憶が完全になくなることはないものの、それが頭に侵入してくる回数は減るかもしれない。
「人間の頭はビデオカメラとは違います。経験したことすべてを直ちに録画してしまうわけではありません。実際には、記憶が形成され、頭の中で固められるまでに数時間かかることもあります。ですからその前に、それがフラッシュバックにならないようにする方法はないかと考えたわけです」とホームズ氏は言う。
「認知ワクチン」
ホームズ氏の研究チームは、心の目で画像を生成したり操作したりするという様々な視空間作業の実験に取り組み始めた。そんなある日、一人の学生がコンピューターゲームを試してみてはどうかと提案した。それならば、と候補に挙がったのが、テトリスだった。
「テトリスには色や空間が関わってきます。段を完成させるために、ブロックを左右に移動させなければなりません。そして何より重要なのは、心の目でブロックを回転させる必要があることです。ブロックを正しい位置にはめるために、頭の中で思い描く能力が求められます」
最初は研究室で、被験者にトラウマ的な映像を見せて実験を行った。そして次に、病院の救急外来へ行き、実際に自動車事故にあったばかりの人を対象に実験を行った。どちらの場合も、トラウマ体験から数時間以内にテトリスをプレイした人は、プレイしなかった人に比べてその後の1週間でフラッシュバックを起こす回数がはるかに少なかった(映像視聴者で58%減、実際の自動車事故にあった人で62%減)。
ホームズ氏は、フラッシュバックを積極的に予防するこの対処法を「認知ワクチン」と呼んでいる。その有望な研究結果を受けて、チームは次に、確立された記憶に目を向けた。
「現実問題として、トラウマになるような出来事が起こってから数時間以内にこの治療法を試せる人は限られています。一方、フラッシュバックは数年から数十年続くことがありますから、こうした古い記憶にも対処する必要があります」
そこでホームズ氏の研究チームは、PTSDの治療を受けている患者に、テトリスを25分間プレイしながら特定のフラッシュバックの記憶に意識を集中させるよう求めた。患者はこれを週に一度、5〜10週間続けた。
すると実験終了までに、被験者が意識を集中させた特定の記憶がよみがえる回数は平均で64%減少し、それ以外の記憶に関しても11%減少した。この研究の論文は、2018年12月、学術誌「Journal of Consulting and Clinical Psychology」に発表された。
次に研究チームは、新型コロナウイルス感染症のパンデミックに関連するフラッシュバックをすでに体験していた集中治療室の看護師を対象に、同様の実験を行った。なかには、3カ月以上前のトラウマの記憶もあった。
4週間後、テトリスをプレイした看護師は、そうしなかった看護師と比較して記憶が侵入する回数が10分の1に減っていた。記憶だけでなく、不眠症や不安症、うつなど、ほかの症状でも改善が見られたと報告されている。全体的に、テトリスをプレイした看護師は、テトリスをプレイし始めた時期の違いにより、フラッシュバックが平均で73〜78%減少した。この論文は2023年9月1日付で、学術誌「Translational Psychiatry」に発表された。
ホームズ氏が指摘するように、テトリスだけに何か特別な力があるというわけではないだろう。絵を描くことやジグソーパズル、モザイク作りなど、高度な視空間能力を要する作業は何でも似たような効果をもつ可能性があると、ホームズ氏は考えている。一方で、クロスワードパズルや読書など言葉を使って意識をそらせる方法はあまり効果がないと思われる。
効果的なプレイの方法
この実験で重要なことは、ただゲーム機を渡してテトリスをやってください、と言われるわけではない点だ。
最初に、被験者はとりわけ悪い記憶のかけらを思い出すよう求められる。それからゲームをはじめるが、このときブロックが画面で落ちはじめる前に頭の中でその向きを変えてみるよう促される。また、10〜20分ほどの十分な時間をとってゲームに取り組むようにする。
これまでのところ、ホームズ氏の実験はすべてこの手順で行っている。結果を出すためにはこの手順が重要であると、研究者たちは考えている。
「トラウマの記憶の侵入は、これまで治療が非常に困難でした。それが頭にこびりついているのには理由があるからです。脳が警告モードに入り、あなたを守ろうとしているのです。それを変えるのは、とても大変です。ただゲームをするだけなら、その間は嫌な記憶を忘れてストレスを軽減させてくれるかもしれませんが、この先ずっとフラッシュバックが起こらないという保証はありません」
とはいえ、ホームズ氏の研究の手順を踏むことなく、自分でテトリスをプレイするだけでも、害にはならないだろうし、それで気持ちが上向きになる可能性もある。
カナダ人セラピストのモーガン・ポメルズ氏は、不安症や過覚醒に悩む患者の気持ちを鎮めるために、テトリスをすすめている。セラピーの時間にテトリスを使っているわけではないが、普段の生活の中で何かつらい記憶がよみがえってきたときや頭に画像が浮かんだときに使える一つの選択肢として提案している。
「対処法の一つとして準備しておくものだと言えますが、テトリスは多くの人にとって、とても助けになっているようです。特に、一部の症状を経験するときに視覚的要素が非常に強い患者の場合、たとえ数分でもゲームに没入すれば、安全な気持ちになり、気分が落ち着きます。そして、現実世界に戻ってきたときには、穏やかな状態で周囲の状況を適切に把握できるようになるのです」
ただし、テトリスにしても、そのほかのどんな対処法にしても、セラピストの代替にはならないと、ポメルズ氏は指摘する。この意見にはホームズ氏も同意しており、フラッシュバックに苦しんでいる人は、まず専門家に相談し、証拠に基づいた治療を受けるべきだと話す。いずれはテトリスも証拠に基づいた治療になる可能性はあるが、研究はまだ臨床的な証拠集めの初期段階にある。
臨床試験は今も続けられており、研究者たちは将来的に、フラッシュバックに対するテトリスの長期的な効果を調べ、脳の中で実際に何が起こっているのかを理解したい考えだ。さらに、薬物依存症やうつ病など、トラウマ以外の症状に関連して現れる侵入記憶の軽減にもテトリスが有効かどうかを調べたいという。
文=SARAH KUTA/訳=荒井ハンナ(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで10月2日公開)
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