同じ浄瑠璃を基にした舞台だが、丸本に近い文楽と、それを脚色して、より劇化した歌舞伎とでは、ストーリー展開や演出など、かなりの違いがj出ていて、非常に興味深い。
本筋とは殆ど関係ないのだが、「山崎街道出会いの段」での、与市兵衛が定九郎に50両を奪われるシーンが大きく違っていて面白い。
歌舞伎の場合には、
中村仲蔵の脚色で、黒羽二重の着付け、月代の伸びた頭に顔も手足も白塗りにして破れ傘を持つという拵えの定九郎が、与市兵衛が、稲掛けの前にしゃがみこんだところを、突如二本の手を伸ばして、与市兵衛を引き込んで、与市兵衛を刺し殺して財布を奪う。財布の中身を探って、「50両!」。
イノシシに向かって勘平が撃った二つ玉に当たって、死んでしまい、勘平に財布を持ち去られる。
と言ったシンプルな舞台だが、歌舞伎の様式美の最たるシーンで、かなりの名優が演じることになっていて、先月の歌舞伎の舞台では、松緑が定九郎を演じていた。
一方、文楽の方は、オリジナルの浄瑠璃を踏襲していて、老人が夜道を急ぐ後を定九郎が追いかけて来て呼び止めて、「こなたの懐に金なら四五十両のかさ、縞の財布に有るのを、とっくりと見付けて来たのじゃ。貸してくだされ」と老人に迫って、懐から無理やり財布を引き出す。
老人は、抵抗して抗いながら、これは、自分の娘の婿のために要る大切な金であるから許してくれと、必死になって哀願するが、親の悪家老九太夫でさえ勘当したと言う札付きの悪人定九郎であるから、理屈の通らない御託を並べて、問答無用と、無残にも切り殺す。
ストーリーとしてはリアル重視で分かるが、あまりにも殺伐とした感じで、この段を、益々、陰鬱陰惨な芝居にしている感じであり、シンプルで様式美に徹した歌舞伎の方が、良いのではなかろうか。
もう一つ、面白いのは、次の「身売りの段」で、おかるが売られて行く祇園の一文字屋である。
文楽では、一文字屋の亭主が登場するのだが、歌舞伎では、女主の一文字屋お才と判人源六に代えていて、登場人物を分けている分、それだけ、ストーリー性が豊かになっていて面白い。
文楽では、語っているのは同じでも、義太夫語りにもよるのであろうが、どうしても、亭主の台詞は、源六調に近くなって、お才の醸し出す色町の女将の雰囲気が希薄となって、この段のムードをストーリー一辺倒に追い込んでしまっていて味がなくなる。
歌舞伎では、お才を魁春が演じていたが、中々、雰囲気があって好演していた。
今度の文楽を観ていて、一つだけ、歌舞伎の通し狂言と比べて、惜しいと思ったのは、二段目の前半の「桃井館力弥使者の段」が、省略されていたことである。
それ程重要な場ではないので、演じられることは殆どないようだが、大星由良助の子息:大星力弥が、明日の登城時刻を伝える使者として館を訪れるのだが、父母の本蔵と戸無瀬が気を効かせ、許嫁で力弥に恋する小浪に、口上の受取役とさせる。そわそわもじもじ、ぼうっとみとれてしまって真面に受け答えも出来ない小浪と他人行儀の対応で応える力弥の初々しい面会シーンが、実に良いのである。
その場へ、主君若狭之助が現れて口上を受け取り、力弥は役目を終えて帰って行く。
それだけだが、この二段目の力弥使者の段を観ておれば、八段目の「道行旅路の嫁入」と九段目の「山科閑居の段」で、如何に、小浪が、力弥との祝言に命懸けで当たっていたかが良く分かり、父母の本蔵と戸無瀬の生き様が浮き上がってくる。
軽い「おかる」が引き起こした文使いによる塩谷家滅亡と同じように、小浪の恋が本蔵を死に追いやり討ち入りを助けると言う作者の導線の冴えが良く見えてくるのである。
文楽と歌舞伎で、最も大きな違いは、歌舞伎には、文楽には全くない、三段目の後に嵌め込まれた「浄瑠璃 道行旅路の花婿」であろう。
三段目最後の「裏門の段」で、おかるとの逢瀬を楽しんだために塩谷判官の刃傷事件に間に合わずに、裏門で締め出されて、切腹しようとした勘平を、おかるが止めて、父母の在所の京都の山崎に落ち延びようと言うクダリを借用して、
おかると勘平は、駆け落ちを決意して、山崎へと目指すのだが、美しい風景をバックに落ちて行く旅の途中、コミカルタッチで追いかけて来た鷺坂伴内を立回りで追い払うと言う清元節を使った所作事となっていて、楽しませてくれる。
元々の浄瑠璃にある八段目の道行と同じで、鎌倉から、一方は山崎、他方は山科と目的地は違うが、京都へ向かって上って行く旅路で、華やかな楽に乗った舞踊劇が美しい。
普通、東京バージョンの歌舞伎の通し狂言では、八段目と九段目は省略されることが多いので、この山崎への道行旅路の花婿が、華を添えることとなる。
ところで、今回も、十一段目は、「花水橋引揚の段」だけで終わっている。
先日、歌舞伎のところで、十一段目は、面白くないと書いたのだが、不思議なもので、やはり、討ち入りのシーンがないと、忠臣蔵を見た感じがしないのである。
本筋とは殆ど関係ないのだが、「山崎街道出会いの段」での、与市兵衛が定九郎に50両を奪われるシーンが大きく違っていて面白い。
歌舞伎の場合には、
中村仲蔵の脚色で、黒羽二重の着付け、月代の伸びた頭に顔も手足も白塗りにして破れ傘を持つという拵えの定九郎が、与市兵衛が、稲掛けの前にしゃがみこんだところを、突如二本の手を伸ばして、与市兵衛を引き込んで、与市兵衛を刺し殺して財布を奪う。財布の中身を探って、「50両!」。
イノシシに向かって勘平が撃った二つ玉に当たって、死んでしまい、勘平に財布を持ち去られる。
と言ったシンプルな舞台だが、歌舞伎の様式美の最たるシーンで、かなりの名優が演じることになっていて、先月の歌舞伎の舞台では、松緑が定九郎を演じていた。
一方、文楽の方は、オリジナルの浄瑠璃を踏襲していて、老人が夜道を急ぐ後を定九郎が追いかけて来て呼び止めて、「こなたの懐に金なら四五十両のかさ、縞の財布に有るのを、とっくりと見付けて来たのじゃ。貸してくだされ」と老人に迫って、懐から無理やり財布を引き出す。
老人は、抵抗して抗いながら、これは、自分の娘の婿のために要る大切な金であるから許してくれと、必死になって哀願するが、親の悪家老九太夫でさえ勘当したと言う札付きの悪人定九郎であるから、理屈の通らない御託を並べて、問答無用と、無残にも切り殺す。
ストーリーとしてはリアル重視で分かるが、あまりにも殺伐とした感じで、この段を、益々、陰鬱陰惨な芝居にしている感じであり、シンプルで様式美に徹した歌舞伎の方が、良いのではなかろうか。
もう一つ、面白いのは、次の「身売りの段」で、おかるが売られて行く祇園の一文字屋である。
文楽では、一文字屋の亭主が登場するのだが、歌舞伎では、女主の一文字屋お才と判人源六に代えていて、登場人物を分けている分、それだけ、ストーリー性が豊かになっていて面白い。
文楽では、語っているのは同じでも、義太夫語りにもよるのであろうが、どうしても、亭主の台詞は、源六調に近くなって、お才の醸し出す色町の女将の雰囲気が希薄となって、この段のムードをストーリー一辺倒に追い込んでしまっていて味がなくなる。
歌舞伎では、お才を魁春が演じていたが、中々、雰囲気があって好演していた。
今度の文楽を観ていて、一つだけ、歌舞伎の通し狂言と比べて、惜しいと思ったのは、二段目の前半の「桃井館力弥使者の段」が、省略されていたことである。
それ程重要な場ではないので、演じられることは殆どないようだが、大星由良助の子息:大星力弥が、明日の登城時刻を伝える使者として館を訪れるのだが、父母の本蔵と戸無瀬が気を効かせ、許嫁で力弥に恋する小浪に、口上の受取役とさせる。そわそわもじもじ、ぼうっとみとれてしまって真面に受け答えも出来ない小浪と他人行儀の対応で応える力弥の初々しい面会シーンが、実に良いのである。
その場へ、主君若狭之助が現れて口上を受け取り、力弥は役目を終えて帰って行く。
それだけだが、この二段目の力弥使者の段を観ておれば、八段目の「道行旅路の嫁入」と九段目の「山科閑居の段」で、如何に、小浪が、力弥との祝言に命懸けで当たっていたかが良く分かり、父母の本蔵と戸無瀬の生き様が浮き上がってくる。
軽い「おかる」が引き起こした文使いによる塩谷家滅亡と同じように、小浪の恋が本蔵を死に追いやり討ち入りを助けると言う作者の導線の冴えが良く見えてくるのである。
文楽と歌舞伎で、最も大きな違いは、歌舞伎には、文楽には全くない、三段目の後に嵌め込まれた「浄瑠璃 道行旅路の花婿」であろう。
三段目最後の「裏門の段」で、おかるとの逢瀬を楽しんだために塩谷判官の刃傷事件に間に合わずに、裏門で締め出されて、切腹しようとした勘平を、おかるが止めて、父母の在所の京都の山崎に落ち延びようと言うクダリを借用して、
おかると勘平は、駆け落ちを決意して、山崎へと目指すのだが、美しい風景をバックに落ちて行く旅の途中、コミカルタッチで追いかけて来た鷺坂伴内を立回りで追い払うと言う清元節を使った所作事となっていて、楽しませてくれる。
元々の浄瑠璃にある八段目の道行と同じで、鎌倉から、一方は山崎、他方は山科と目的地は違うが、京都へ向かって上って行く旅路で、華やかな楽に乗った舞踊劇が美しい。
普通、東京バージョンの歌舞伎の通し狂言では、八段目と九段目は省略されることが多いので、この山崎への道行旅路の花婿が、華を添えることとなる。
ところで、今回も、十一段目は、「花水橋引揚の段」だけで終わっている。
先日、歌舞伎のところで、十一段目は、面白くないと書いたのだが、不思議なもので、やはり、討ち入りのシーンがないと、忠臣蔵を見た感じがしないのである。