熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「文蔵」・能「芭蕉」

2018年12月07日 | 能・狂言
   今月最初の企画公演は、大蔵流狂言「文蔵」と観世流能「芭蕉」。

   狂言「文蔵」は、初めて観た狂言で、普通の狂言と違って、能の間狂言で、比較的観ることのある仕方話の狂言である。
   主(茂山千三郎)の許しも得ずに、都見物に出かけた太郎冠者(茂山あきら)が、主の叔父の家で頂いた御馳走の名前を思い出せなくて、主のいつも読む草紙に出てくる名前だと言って、主に、源平盛衰記の石橋山合戦を語らせて、文蔵と言う名を聞いて、温糟粥(うんぞうがゆ)の名を思い出すと言う話である。
   狂言の重要な要素として、「語り」は大変重要な芸であるのだが、主の千三郎は、葛桶に腰を掛けて、石橋山合戦の様子や情景を派手な身振りを交えて、息の流れを生かして緩急を付けながら、迫力満点に語り続ける。
   奈須与市語の小書付の能「屋島」では、間狂言の素晴らしい奈須与市語りが演じられるのだが、この間狂言を思い出しながら聴いていた。
   「それはうんぞう、これは文蔵、よしない物を食らうて主に骨を折らせた。しさりおれ」と叱って留めるのだが、冒頭に、主が、立て板に水に当時の食べ物の名前を列挙して太郎冠者の注意を喚起するのが面白い。
   しかし、文蔵が、温糟粥(うんぞうがゆ)に、
   石橋山合戦とは、何の関係もないのを、一くさり仕方話で語らせて、狂言師の巧みな芸を披露させるところが面白い。
   狂言の奥深さかも知れない。
   「芭蕉」の間狂言に登場した七五三同様、京都茂山家の超ベテラン二人の円熟した芸の凄さを見せてもらって、興味深った。

   能「芭蕉」は、
   中国 楚の湘水で修行する山居の僧(ワキ/福王茂十郎)の庵に、一人の里の女(前シテ/大槻文蔵)が現れ、法華経に結縁するために来たと明かし、草木までもが成仏するという法華経の教えに帰依し、その教えに出逢えた身を喜んで、自分は芭蕉の精だと仄めかして姿を消す。夜が更けた頃、先刻の女(後シテ)が現れて、自らを芭蕉葉の精だと明かして、仏法の慈雨に浴する身を喜び、土も草木もありのままこそが真実の姿だと諸法実相を語り、美しく咲く春秋の草花に引きかえ、日陰の身として生涯を送る自らの無常を語りながら、月光の下で静かに袖を翻して舞い続ける。やがて、風が吹きつけて庭の草花は吹き払われて、あとには破れた芭蕉だけが残っている。

   銕仙会によると、楚の小水は、名高い秋月の名所・洞庭湖にも程近く、谷川のほとりに清廉高雅の気を湛えた隠逸の地であった。と言う。
   また、芭蕉だが、主に観賞用として見ているのだが、英名でジャパニーズ・バナナと言うようで、バナナのような実を着けるので、子供の頃は、バナナの木だと思っていた。
   確かに、華奢な大きく広がった葉っぱなので、風雨や自然の災害には弱く、すぐにダメになってしまう儚い植物で、この能のテーマが良く分かる。

   諸法実相の理や草木成仏の教えを語った後、15分ほど、皓々と輝く月下の下で、実にさびさびと、しかし、厳かに優雅に、静かに舞い続ける人間国宝大槻文蔵の序ノ舞が素晴らしい。
   この能は、シテとワキの宗教問答が主体と言った感じで、殆ど動きのようなものが無く、心理劇のような舞台展開なので、一層、静まり返った能楽堂に、霜露で織られたような葉袖を翻して無心に舞い続ける女の姿は、印象的なのである。
   その直後に、烈しく吹き荒れる秋風が、花は勿論のこと、芭蕉の葉を、ずたずたに引き裂いて、女の姿も無残にちりじりに飛ばしてしまう、と言う劇的な結末。

   さて、この日、沢山の外国人の高校生らしき団体が、鑑賞していた。
   フランス語系のインターナショナルスクールの生徒だと言っていたが、聞き慣れない北欧系の言葉も聞こえてきたので、珍しいと思った。
   
   

    中庭の紅葉が美しかったので、休憩中にコンパクト・デジカメで撮った写真を掲載しておく。
   
   
   
   
   
   
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