熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

根井雅弘著「ガルブレイス」

2017年06月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先にレビューしたライシュの「最後の資本主義」で、暗礁に乗り上げている資本主義の救済には「拮抗力」の再構築が必要だと、蘇ってきたガルブレイスを、久しぶりに反芻しようと思って、この本を手にした。
   伊東光晴の「ガルブレイス」とどちらから読み始めようかと思ったのだが、まず、古い方からと言うことにした。

   私事になるが、最初に読ん経済学の洋書が、ガルブレイスの「American Capitalism: The Concept of Countervailing Power 1952」であって、この拮抗力というコンセプトに、いたく感激して、その後、「大恐慌――その教えるもの」「ゆたかな社会」「新しい産業国家」などを読んで、一気に、ガルブレイスに傾倒した。
   フィラデルフィアのウォートン・スクールで勉強していた時に、ガルブレイスの「Economics and the Public Purpose, 1973」が出版されたので、恩師岸本誠二郎教授に、この本と、ダニエル・ベルの「The Coming of Post-Industrial Society: A Venture in Social Forecasting, 1973」を送ったら、早速、丁重なご返事を頂き、ガルブレイスの経済学について、高く評価した見解を開陳されていた。
   それを知って、ゼミの時に、ガルブレイスについて、ご教示頂ければ良かったと残念に思ったのを覚えている。

   余談だが、私が、経済学部で学び、卒業後も勉強し続けたのは、このガルブレイスとシュンペーターの経済学で、勿論、時流であったから、ケインズも勉強した。
   恩師岸本誠二郎教授は、「理論経済学界の長老で、古典派経済学の方法論を使い新しい理論も批判的に取り入れ、理論経済学の主要テーマの「分配と価格」に関する基本原理を作り上げた。著書に「分配の理論」「価格の理論」「労働価値論の研究」など。」と言うことで、ゼミの教授であり、経済原論の講義を受けたが、偉大な先生であった。
   しかし、当時の京大経済学部は、マル経の勢力が強くて、近経の講座は非常に貧弱で、ケインズやサミュエルソンなどの主流派経済学の片鱗は、青山秀夫教授や島津助教授など、極一部から学んだ程度で、ケインズ経済学の本格的な講座など皆無であったし、勿論、シュンペーターやガルブレイスなど聴くことさえなく、私の近経の知識は、殆ど独学と、ウォートン・スクールでのMBAでの勉強と、その後、欧米を渡り歩いてのビジネスマン生活で、趣味と実益を兼ねた長い長い自学習であった。

   恐らく、米欧のトップビジネス・スクールで、MBAコースを修了された人たちが感じている実感だと思うが、私の場合、ペンシルバニア大学のウォートン・スクールで勉強した多くの学科の内、マクロとミクロの2科目の経済学だけで、ゆうに、京大4年間に学んだ経済学総量および質をはるかに超えていたと思う。
   また、京大では、経営学については、1~2科目しかなかったと思うが、ウォートンでは、ほんの数日で終わる授業内容と量で、あのサミュエルソンの「エコノミクス」でさえも、確か、マクロ・エコノミクスの最初で、リーディング・アサインメントが加わるので、ほんの4~5回の授業で終わった。
   推して知るべしで、まして、十二分にリベラル・アーツを学んだ米欧のトップエリートに対して、日本の学卒が太刀打ちできないのは、火を見るより明らかである。

   余談が、長くなったが、著者の根井教授は、非常に、懇切丁寧に、ガルブレイスの自伝を交えながら、順を追って著書を紐解きながら、学説やその進展、学会での動向など、解説しながら、ガルブレイス経済学を、論じていて、非常に興味深く読ませて貰った。
   このブログでは、「悪意なき欺瞞」について、少しコメントしたくらいだが、「不確実性の時代 he Age of Uncertainty (PBS and BBC 13 part television series), 1977」以降は、大著が少なくて、最晩年の日経の「私の履歴書」ほか数冊を読むくらいであったので、私のガルブレイス経済学の勉強は、1970年代くらいまでが最盛期であった。
   この項では、ガルブレイスの経済学には、触れずに、感想だけを書くことにする。

   根井教授は、ガルブレイスを、当時の正統派経済学、すなわち、新古典派経済学とケインズ経済学の総合を謳ったサミュエルソンの「新古典派総合」に反旗を翻す異端派経済学者として描いている。
   主流派経済学者ではなかったが、大恐慌の解釈等を含めて、主流派経済学の理論や経済通念が如何に間違っており欺瞞に満ちているかを身を持って糾弾し続けた。最晩年の著作「悪意なき欺瞞」は、現代の社会を統べている理論や通念、特に保守派経済学のそれが如何に現実からかけ離れていて欺瞞に満ちているかを語って、その論旨は実に爽やかで爽快でさえある。
   最高の経営学者であったピーター・ドラッカーが、スタンフォードなどの象牙の塔では殆ど著作が引用されなかったと言われているのだが、はるかに正確に真実を語り続けながら正当に評価されないのは、主流派経済学者ではなかった故に、ノーベル賞の候補にさえならなかったガルブレイスに相通じるものがあって、悲しい。

   また、根井教授は、ガルブレイスは、一連の著作活動を通じて、「拮抗力」「依存効果」「社会的アンバランス」「テクノストラクチュア」などの新概念でもって現代資本主義の本質に迫ろうとしたが、その際に依拠したのは、数学的能力ではなく、多年にわたる現実観察によって磨き上げられた自らの「直感」であった。かって、シュンペーターが、自らの優れた「直観」に基づいて起業家の「新結合(イノベーション)」の遂行という資本主義の本質を把握したように、かれもまた「直観」の経済学者であった。と述べている。
   偶然とは言え、私が、勉強し続けてきたガルブレイスとシュンペーターが、スケールの大きな「直観」の経済学者であり、それ故に、偉大な学説を築き上げてきた、ということが非常に嬉しい。
   あのドラッカーが、いわば、同郷の偉大な先輩シュンペーターに傾倒して、そのイノベーション論を経営学の根幹に据えて継承したことも、偉大なら、この3人が残した業績の凄さに、感動を覚えている。

   サミュエルソンが、ガルブレイスの追悼記念論文集に、「芸術家および科学者としてのガルブレイス」と題する文章を寄稿したということだが、ロイ・ハロッドも、経済学が自然科学の方法を模倣する方向に流れすぎたことを痛烈に非難して、経済学者はもっと人間の感情を理解する努力を積むべきで、何よりも人間感情の理解者である文豪から学ぶべきだと言ったと言うが、芸術家であり感性豊かな人間であったが故に、ガルブレイスは、孤高ではあったが、経済学に金字塔を打ち立てることが出来たのであろう。
   先日レビューしたセドラチェクが、「善と悪の経済学」で、本来、経済学は、人間の幸せを追求する学問であり、善が報われるのかを追求し、経済学と倫理が表裏一体である筈なのに、現在の主流派経済学が、これを忘れてしまっている、と糾弾していたのだが、ガルブレイス経済学の精神と相通じるような気がして、経済学の、政治経済学としての回帰の必要性を感じている。
   
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