熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

二月文楽公演・・・壺坂観音霊験記

2008年02月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の文楽で満員御礼が出ていたのは昼の部で、「壺坂観音霊験記」と「鶊山姫捨松 中将姫雪責の段」に人間国宝が登場する舞台であったからであろうか。
   開演時間に遅れて、高橋利樹著「京の花街輪違屋物語」を読んでいたので楽しみにしていたにも拘わらず、最初の「二人禿」を見過ごしてしまったのが残念であった。

   「壺坂観音霊験記」は、言わずと知れた「エヽそりゃ胴欲な沢市様。・・・三つ違ひの兄さんと、云ふて暮らしてゐるうちに、・・・」で始まるお里の口説きで有名なお里・沢市の物語だが、私は、子供の頃ラジオから流れてくる浪花亭綾太郎の「妻は夫を労わりつ、夫は妻を慕いつつ・・・」の名調子で聴いた方が先で、この話はおぼろげながら知っていた。
   次に観たのは歌舞伎の舞台。この物語は、非常に単純な話で、信仰心の厚い妻お里の必死の祈りが通じて壺坂観音の霊験が現われて盲目の夫沢市の目が開くと言う、実話と言うか壺坂寺に伝わる伝説に基づいて作られた浄瑠璃で、夫婦愛と霊験が軸で、今回の舞台も、人形はお里の簔助と沢市の勘十郎の実質二人だけの登場である。
   従って、人形もそうだが、語りである浄瑠璃が如何に上手くて人の心を打つかが極めて重要となる。

   何と言っても見所聴き所は、第二幕の「沢市内の段」で、美人で夫思いで健気な妻お里が、夫婦になって3年の間、毎晩7ツ(午前4時)になると家を抜け出ていなくなるのを、盲目で疱瘡の為に顔の醜くなった生活力のない沢市が邪推して男でも出来たのではないかと詰問すると、お里が疑われているのが悔しいと涙ながらに、沢市の眼病快癒を願っての壺坂寺への観音参りであることを告白してかき口説くところで、住大夫の名調子に乗って簔助のお里が哀切の限りを尽くして夫への深い思いの丈と妻の誠を語る。
   住大夫の時には、真剣に聴いてその良さを十分に鑑賞しようと思って意気込むのだが、この頃ではそれがダメで、舞台にのめり込んでしまって住大夫の語りであることを忘れて最後まで人形の動きを追って舞台に集中してしまっている。それほど、錦糸の三味線に伴奏されて語る住大夫の浄瑠璃が素晴らしいと云うことであろう。
   眼の見えない沢市だが、ジッとうつむいて聞いていて、ひれ伏して心から詫びて、お里の勧めに従って壺坂観音へと連れ立って向かう。

   愛しいお里が3年も必死になって信仰して祈ったにも拘らずご利益が無いので、いっそ自分が死んでしまった方がお里が幸せになると、既に観音への願いが空しいと悟っている沢市は、お里が帰ったすきに、谷底へ身を投げて自殺する。
   胸騒ぎを覚えて戻ってきたお里が、沢市の死骸を見て動転し、天を仰いで号泣し大地を叩いて地団太を踏んで断末魔の苦悶を訴える。この人形の阿鼻叫喚の嘆きと苦しみを、簔助は、お里の小さな人形に託して演じ切り、その哀切の表情は人形にしか表せない悲嘆の極致である。
   甲斐甲斐しく針仕事をして生活を支えているお里の優しい風情を、愛情豊かに演じていた簔助の器用な仕草に微笑んでいた観客も、沢市をあれほど愛して思い続けて、沢市と一緒に生きると言うことだけに命を掛けて来たお里の苦悶を痛いほど叩きつけられて息を呑む。

   この舞台には悪人は出てこない。
   近松の舞台のように、がしんたれでダメな大坂男も出て来ない。
   沢市は、極普通の男で、観音様のご利益で生き返って目が開くと、小躍りして喜び、傍にいる妻に向かって、「お前は、どなたじゃへ」と聞き、お前の女房だと言われて、「コレハシタリ初めてお目に掛ります」と言う。そんな男である。
   しかし、妻のお里は、正に天然記念物と言うべき人物。両親が亡くなって兄妹のように伯父に育てられて沢市の妻となり、貧しいどん底生活に喘ぎながら、何一つ愚痴をこぼさずに沢市の目を治す為に必死になって毎夜の観音参りで祈り続けた。「・・・貧苦にせまれどなんのその、一旦殿御の沢市様。たとへ火の中水の底、未来までも夫婦ぢゃと、思うばかりか・・・」と言うこれ程健気で心身ともに美しい女性はいるであろうか。

   勘十郎の沢市は、正に簔助との師弟コンビで息のあった素晴らしい舞台を見せており、盲目で動きの少ない沢市の苦しみと悲しみを、押し殺したような人形の表情を微妙に操りながら表現していて、動のお里と静の沢市の対比の妙が心を打つ。

   最近、「宮城道雄の世界 琴と随筆十二月」を聴いていて、ユーモアに富んで意外に明るい宮城道雄の音と芸術の世界を楽しんでいるが、盲目ゆえに、音に限りなきセンシティブな感覚と情感を持って筝曲を作曲していた真摯な姿に感動している。
   最初に強烈に印象に残っているのは、宮城道雄自ら琴を弾きシュメーがヴァイオリンで伴奏している「春の海」を聴いた時の感動である。
   その後、妻の影響もあって少しづつ筝曲を聴くようになったのだが、文楽や歌舞伎を好きになったのも、オペラやシェイクスピア経由と同時に、この方面の邦楽への接近が助けとなっているのかも知れない。
   ところで、「春の海」のヴァイオリン演奏で、特筆すべきは、ロンドンで活躍している素晴らしいヴァイオリニスト相曽賢一朗氏が、ヴァイオリンで尺八そっくりのサウンドで演奏する至芸である。
   毎年、秋に東京文化会館で恒例のリサイタルを開いていて、その時に、アンコールでも演奏していたが、一番最初は、彼の留学時代にロンドンの我が家で聴いたのだが、あの尺八のかすれた音色などそっくりで実に情調豊かで素晴らしかった。
   日本の豊かで素晴らしい伝統を、心の中にしっかりと叩き込んだ芸術家であるからこそ、あれほどまでにヨーロッパで愛され認められてインターナショナルな活躍が出来るのだと思っている。

(追記)写真は、文楽カレンダーから転写。
   


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