朝、日経を開いて最初に読むのは、伊集院静の「ミチクサ先生」。
最近は、ロンドンでの生活にもようやく落ち着いた漱石の様子が描かれていて面白い。
興味深いのは、ロンドンでの美術品(主に絵画)との出逢いは、それまで空の色に鬱々とした気分になり、深い霧に神経衰弱さえ自覚し、毎日、鬱陶しい日々を送っていた金之助に、ある光を差しのべてくれた。それからの金之助は絵画を積極的に鑑賞するようになり、美術館や博物館に優先して出かけるようになった。と言うことである。
めぼしい博物館や美術館には殆ど出かけたようだが、特に、ナショナル・ギャラリーには良く出かけたらしい。
ウィキペディアによると、大学の講義は授業料を「拂ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。と言うことで、公式な勉強というのは、クレイグのシェイクスピア講義だけと言うことなので、美術館行脚などによる雑学の方が、役に立ったのであろう。
何を持って英文学の聴講を無意味だと判断したのか、オックスブリッジにアプローチしていたら変っていたかも知れないし、常識的に考えれば、そんなことはない筈だが、小説家漱石を生むためには、それが良かったのかも知れないが、当時の海外留学とはそう言うものであったのであろう。
私などの場合には、はっきりと、はるかに学問的にも進んでいたアメリカで経営学を学んでMBAを取得して帰って来いと言う使命があったので文句なしだったが、あの頃は、テーマだけを決めて、二ヶ月なり一年なり、自由に海外で勉強して来いと言ったかたちで、社員を海外へ送り出すことがあった。
実際に、現地に行って、四苦八苦してからでないと、何を勉強したら良いのか分からないし、関心も興味もどんどん変るであろうし、学んで帰ってきたのが、当初の意図とは全く違っていたと言うこともあろう。
さて、漱石が、最初に見て強烈なショックを受けた絵画は、ナショナル・ギャラリーのターナーであった。
その次に、クレイグ教授に教えられて見て、いたく感激したのは、口絵写真のジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア(1852年)」である。
この後で、他の絵画が出てくるのかどうかは分からないが、両方とも、英国絵画であるのが、興味深い。
私など偏見が強いのか、ナショナル・ギャラリーで、真っ先に出かけたのは「岩窟の聖母」などレオナルド・ダ・ヴィンチの作品で、英国絵画に興味を感じ始めたのは、ずっと後になってからであった。
ロンドンに5年間も住んでいて、ナショナル・ギャラリーと大英博物館には、歴史書や美術書などを紐解き勉強しながら、数え切れないほど頻繁に訪れていたのだが、何故か関心がなくて、テート・ギャラリーには行っていないので、このミレーの「オフィーリア」は見ていない。シェイクスピアに入れ込んでいたので、この繪は、何度も口絵などで見ていたのでお馴染みだが、次にロンドンに行った時には、遅ればせながら、テート・ギャラリーを訪れようと思っている。
著者の伊集院静には、スペインとフランスを行脚した「美の旅人」と言う素晴らしい作品があって、私もこの本をレビューしているが、絵画にも造詣が深いので、この辺りの漱石の描写も、実際はどうだったのかは別にして、臨場感があって読まてくれる。
これらの絵画の印象が、後の小説に想を加えたという。
絵画は、雄弁に物語を語っているだろうし、多くの物語や詩が、絵画をインスパイアーしているのだから、当然のことであろう。
この小説には、ウエストエンドでの芝居の鑑賞や書店での書籍漁りの話なども出てきて、漱石のロンドン生活が語られれているのだが、私自身の経験を反芻しながら読んでいるので、結構、楽しませて貰っている。
最近は、ロンドンでの生活にもようやく落ち着いた漱石の様子が描かれていて面白い。
興味深いのは、ロンドンでの美術品(主に絵画)との出逢いは、それまで空の色に鬱々とした気分になり、深い霧に神経衰弱さえ自覚し、毎日、鬱陶しい日々を送っていた金之助に、ある光を差しのべてくれた。それからの金之助は絵画を積極的に鑑賞するようになり、美術館や博物館に優先して出かけるようになった。と言うことである。
めぼしい博物館や美術館には殆ど出かけたようだが、特に、ナショナル・ギャラリーには良く出かけたらしい。
ウィキペディアによると、大学の講義は授業料を「拂ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。と言うことで、公式な勉強というのは、クレイグのシェイクスピア講義だけと言うことなので、美術館行脚などによる雑学の方が、役に立ったのであろう。
何を持って英文学の聴講を無意味だと判断したのか、オックスブリッジにアプローチしていたら変っていたかも知れないし、常識的に考えれば、そんなことはない筈だが、小説家漱石を生むためには、それが良かったのかも知れないが、当時の海外留学とはそう言うものであったのであろう。
私などの場合には、はっきりと、はるかに学問的にも進んでいたアメリカで経営学を学んでMBAを取得して帰って来いと言う使命があったので文句なしだったが、あの頃は、テーマだけを決めて、二ヶ月なり一年なり、自由に海外で勉強して来いと言ったかたちで、社員を海外へ送り出すことがあった。
実際に、現地に行って、四苦八苦してからでないと、何を勉強したら良いのか分からないし、関心も興味もどんどん変るであろうし、学んで帰ってきたのが、当初の意図とは全く違っていたと言うこともあろう。
さて、漱石が、最初に見て強烈なショックを受けた絵画は、ナショナル・ギャラリーのターナーであった。
その次に、クレイグ教授に教えられて見て、いたく感激したのは、口絵写真のジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア(1852年)」である。
この後で、他の絵画が出てくるのかどうかは分からないが、両方とも、英国絵画であるのが、興味深い。
私など偏見が強いのか、ナショナル・ギャラリーで、真っ先に出かけたのは「岩窟の聖母」などレオナルド・ダ・ヴィンチの作品で、英国絵画に興味を感じ始めたのは、ずっと後になってからであった。
ロンドンに5年間も住んでいて、ナショナル・ギャラリーと大英博物館には、歴史書や美術書などを紐解き勉強しながら、数え切れないほど頻繁に訪れていたのだが、何故か関心がなくて、テート・ギャラリーには行っていないので、このミレーの「オフィーリア」は見ていない。シェイクスピアに入れ込んでいたので、この繪は、何度も口絵などで見ていたのでお馴染みだが、次にロンドンに行った時には、遅ればせながら、テート・ギャラリーを訪れようと思っている。
著者の伊集院静には、スペインとフランスを行脚した「美の旅人」と言う素晴らしい作品があって、私もこの本をレビューしているが、絵画にも造詣が深いので、この辺りの漱石の描写も、実際はどうだったのかは別にして、臨場感があって読まてくれる。
これらの絵画の印象が、後の小説に想を加えたという。
絵画は、雄弁に物語を語っているだろうし、多くの物語や詩が、絵画をインスパイアーしているのだから、当然のことであろう。
この小説には、ウエストエンドでの芝居の鑑賞や書店での書籍漁りの話なども出てきて、漱石のロンドン生活が語られれているのだが、私自身の経験を反芻しながら読んでいるので、結構、楽しませて貰っている。