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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・能「夕顔」

2019年07月18日 | 能・狂言
   昨日の能は、久しぶりに、源氏物語の「夕顔」、先日の能「融」と同じ「河原院」が舞台である。

   源氏物語には、その最初の情景描写は、
   ”そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く、露けきに、・・・”
   紫式部は、定かに描かずに、「なにがしの院」としているが、この河原院をモデルにしたと言うのは常識化していたようで、この能では、夕顔の霊である前シテ/里の女が、「融の大臣住み給いにしところ・・・河原の院」とはっきりと謡っている。

   しかし、室町時代の能の荒れ果てた廃墟の「河原院」ではなくて、100年後の紫式部の時代には、古びて古色蒼然とはしていたが、別棟には人も住んでいて管理人もいて、光源氏が愛しい夕顔と、一夜を共にするだけの場所としては不足ではなく、ただ、源氏と夕顔が、逢瀬を営んでいる棟の近くには、夕顔の侍女右近がいただけで、夜は真っ暗であり、
   ”宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」 とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。 物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて・・・この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我かの気色なり。”
   六条御息所の生霊が枕元に現れて、「本当に立派な私を尋ねないで、こんなどうと言うこともない女を引き連れて大切に愛しんでいるのは、実につらい」と責め苛むのであるから、怖がり性の夕顔は、堪らず怯えて、源氏が人を呼びに外に出て帰って来た時には、冷たくなっていたのである。

   ところで、源氏が夕顔をどう思っていたのか、
   「世になく、かたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心は、いとあはれげなる人」
   儚げながら可憐なそぶりで、純粋無垢で自分に頼りきって身を任せる夕顔の心情に心を奪われて、のめりこんで行く、・・・才色兼備で非の打ちどころのない姉様女房然として情の深い六条御息所との逢瀬の快楽とは違った新鮮な喜びには抗しがたいということであろうか。
   夕顔の死に直面して、憔悴しきった源氏の右往左往ぶりを、紫式部は情趣豊かに描いている。
   さすがに大作家で、この巻の描写だけ読んでも、現代の並の作家の域を遥かに越えている。

   源氏は、この能にも謡われるのだが、
   「優婆塞が行ふ道をしるべにて 来む世も深き契り違ふな」
   長生殿の古き例はゆゆしくて、翼を交さむとは引きかへて、弥勒の世をかねたまふ。と大袈裟だが、夕顔は、
   行く先の御頼め、いとこちたし。 「前の世の契り知らるる身の憂さに 行く末かねて頼みがたさよ」 かやうの筋なども、さるは、心もとなかめり。

   この時、源氏は、17歳、源氏と関わった女性は、まだ、正妻の葵上、六条御息所、空蝉、そして、この夕顔くらいであろうか、藤壺とは、その後の「若菜」であり、源氏物語の冒頭部分でもあるので、「夕顔」は、ストーリーが非常に丁寧に描かれていて面白い。

   夕顔の素性については、雨夜の品定めでの頭中将の話を思い出して、ほぼ、源氏には分かっていたようだが、夕顔は、「海人の子」と言うだけで答えず、亡くなってから、右近から、頭中将との関係を知らされるストーリー展開になっている。
   夕顔も、源氏であることを察していた筈だが、それ故に、頭中将とのことを明かせなかったのであろう。
   夕顔の美しくて魅力的な娘玉鬘が、筑紫・豊後で育っていて、ワキの旅僧が豊後で、所縁があると言うところなど、作者の心遣いが見え隠れしている。
   源氏は、この玉鬘に魅せられて、好き心を起こして一生懸命モーションを掛けるのだが、髭黒に掻っ攫われてしまうのが面白い。

   さて、夕顔の話が長くなったのだが、この夕顔は、物の怪が出現して急死するのだが、別に、地獄に落ちたと言うわけではなく、何故、後場で、僧の読経「法華経」の功徳で成仏できて喜ぶと言う夢幻能になるのか一寸解せない。
   同じ、夕顔を主人公にした能「半蔀」は、後シテの夕顔の女の霊が現れて、源氏との楽しい恋の宿の思い出を語って、夜明けとともに消えて行くと言うことになっている。
   岩波講座では、夕顔の花の精とも、夕顔の女ともとれる漠然とした描き方だと言うことで、気分能、情緒能であり、一つの中世的幽玄のあり方で、幽玄能だと解説しているが、私は、「夕顔」の捉え方としては、この能の方が、相応しいと思っている。
   私など、六条御息所の方が遥かに魅力的だと思うのだが、夕顔ファンが、結構多いと聞く。

   シテ/里の女、夕顔の上 梅若万三郎、ワキ/旅僧 福王茂十郎、アイ/所の者 茂山忠三郎
   笛/赤井敬三、小鼓/幸清次郎、大鼓/亀井忠雄、地謡/観世銕之丞ほか
コメント
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