この日の普及公演は、
《月間特集・能のふるさと・越路》
解説・能楽あんない <山姥>はどう解釈されてきたか
宮本 圭造(法政大学能楽研究所教授)
狂言 佐渡狐(さどぎつね) 野口 隆行(和泉流)
能 山姥(やまんば) 金井 雄資(宝生流)
今回は、狂言「佐渡狐」について、書いてみたい。
野村又三郎は休演したが、野村又三郎家の3人の素晴らしいパーフォーマンスで、楽しませて貰った。
この狂言は、越後のお百姓(奥津健太郎)と佐渡のお百姓(野口隆行)が、年貢納めの途中に出くわして、佐渡にはないものがある筈だと煽られて、狐が居るかと問い詰められた佐渡のお百姓が、居ると虚言を吐いて、一腰を賭けた勝負となり困ってしまい、奏者(松田 高義)に賄賂を渡して加勢を頼む話。
表向きは拒絶するも、賄賂を懐にせしめた奏者は、狐が居ると偽りの証言をした上に、何も知らない越後のお百姓に狐の姿を詳しく教えて、賭けた刀は佐渡のお百姓のものだと手渡して退場する。
納得できない越後のお百姓は、追いかけながら「それでは、鳴き声は?」と聞いたので、狐を知らない佐渡のお百姓が、東天紅と返答をしたので、刀を取り上げて退場する。
まず、面白いところは、佐渡のお百姓が、小さな紙包みを寸志でござると渡そうとすると、奏者は、ここを何処だと思っている!むさとした物を出すと言うことがあるか、と居丈高に叱り飛ばすのだが、奥の方の手を下から伸ばして懐に収めて、佐渡のお百姓ににっこり。
この日、脇正面中央に、アメリカ人と思しき30人ほどの白人が、見所で見ていて、派手な高笑。
ことに、どうに入った下っ端役人の、賄賂を収める奏者の仕草表情が秀逸なので、これなど、通訳要らずの万国共通の習性(?)だと言うことがよく分かって面白かった。
奏者が、狐は犬より大きい、尾は、色は、・・・と教えて、勝負に出るのだが、佐渡のお百姓は、覚えきれないので、一つ一つ、奏者の指示を仰いでオウム返しで返答。
本来の対話問答なら、奏者の佐渡のお百姓さんへの助けが、越後のお百姓に分かる筈で、中に割って入るバージョンもあるようだが、今回は、そのまま舞台が進行して事なきを得ていた。
この奏者と佐渡のお百姓との掛け合いにも、アメリカのお客は、一挙手一投足、敏感に反応して、笑い続けていた。
狂言は、詞章の面白さ、日本語としての値打など、狂言師の台詞回しの微妙な芸の深さも大切だが、多少言葉が分からなくても、笑劇としての価値も高いので、このあたりは、外国人にもよく分かって楽しめるのであろう。
この日のように、外国の観客が、最初から最後まで、派手に、観劇中に反応していたのを始めてみた。
一方、能「山姥」の方は、音なしの構えながら、身を乗り出すような雰囲気で、熱心に鑑賞していたのだが、かなり水準の高い鑑賞グループなのであろうか。
余談だが、最近、気になり始めたのは、狂言では、普通の芝居と違って、重ねて複数の演者が同時に台詞を喋ることがあることで、オペラなどでは、音楽的要素が強いので、重唱が普通だし、シェイクスピア戯曲でも、かなり、頻繁だが、何となく、日本の劇舞台なので、慣れない所為かフォローし難い感じである。
この狂言の話は、万国共通と言ったが、どこかの国でも、今なおポピュラーな話題。
魚心あれば水心、良くも悪くも互酬は、人間社会の習わしと言うべきか。
《月間特集・能のふるさと・越路》
解説・能楽あんない <山姥>はどう解釈されてきたか
宮本 圭造(法政大学能楽研究所教授)
狂言 佐渡狐(さどぎつね) 野口 隆行(和泉流)
能 山姥(やまんば) 金井 雄資(宝生流)
今回は、狂言「佐渡狐」について、書いてみたい。
野村又三郎は休演したが、野村又三郎家の3人の素晴らしいパーフォーマンスで、楽しませて貰った。
この狂言は、越後のお百姓(奥津健太郎)と佐渡のお百姓(野口隆行)が、年貢納めの途中に出くわして、佐渡にはないものがある筈だと煽られて、狐が居るかと問い詰められた佐渡のお百姓が、居ると虚言を吐いて、一腰を賭けた勝負となり困ってしまい、奏者(松田 高義)に賄賂を渡して加勢を頼む話。
表向きは拒絶するも、賄賂を懐にせしめた奏者は、狐が居ると偽りの証言をした上に、何も知らない越後のお百姓に狐の姿を詳しく教えて、賭けた刀は佐渡のお百姓のものだと手渡して退場する。
納得できない越後のお百姓は、追いかけながら「それでは、鳴き声は?」と聞いたので、狐を知らない佐渡のお百姓が、東天紅と返答をしたので、刀を取り上げて退場する。
まず、面白いところは、佐渡のお百姓が、小さな紙包みを寸志でござると渡そうとすると、奏者は、ここを何処だと思っている!むさとした物を出すと言うことがあるか、と居丈高に叱り飛ばすのだが、奥の方の手を下から伸ばして懐に収めて、佐渡のお百姓ににっこり。
この日、脇正面中央に、アメリカ人と思しき30人ほどの白人が、見所で見ていて、派手な高笑。
ことに、どうに入った下っ端役人の、賄賂を収める奏者の仕草表情が秀逸なので、これなど、通訳要らずの万国共通の習性(?)だと言うことがよく分かって面白かった。
奏者が、狐は犬より大きい、尾は、色は、・・・と教えて、勝負に出るのだが、佐渡のお百姓は、覚えきれないので、一つ一つ、奏者の指示を仰いでオウム返しで返答。
本来の対話問答なら、奏者の佐渡のお百姓さんへの助けが、越後のお百姓に分かる筈で、中に割って入るバージョンもあるようだが、今回は、そのまま舞台が進行して事なきを得ていた。
この奏者と佐渡のお百姓との掛け合いにも、アメリカのお客は、一挙手一投足、敏感に反応して、笑い続けていた。
狂言は、詞章の面白さ、日本語としての値打など、狂言師の台詞回しの微妙な芸の深さも大切だが、多少言葉が分からなくても、笑劇としての価値も高いので、このあたりは、外国人にもよく分かって楽しめるのであろう。
この日のように、外国の観客が、最初から最後まで、派手に、観劇中に反応していたのを始めてみた。
一方、能「山姥」の方は、音なしの構えながら、身を乗り出すような雰囲気で、熱心に鑑賞していたのだが、かなり水準の高い鑑賞グループなのであろうか。
余談だが、最近、気になり始めたのは、狂言では、普通の芝居と違って、重ねて複数の演者が同時に台詞を喋ることがあることで、オペラなどでは、音楽的要素が強いので、重唱が普通だし、シェイクスピア戯曲でも、かなり、頻繁だが、何となく、日本の劇舞台なので、慣れない所為かフォローし難い感じである。
この狂言の話は、万国共通と言ったが、どこかの国でも、今なおポピュラーな話題。
魚心あれば水心、良くも悪くも互酬は、人間社会の習わしと言うべきか。