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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

文楽への関西旅・・・(11)お初天神、「曽根崎心中」

2016年02月25日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりに、梅田の曽根崎に来て、お初天神を訪れた。
   久しぶりと言っても、殆ど半世紀ぶりである。
   私の記憶には、曽根崎の繁華街のはずれの、そこだけぽつんと鄙びた感じの小さな祠のような社があって、これが、あの近松門左衛門の「曽根崎心中」の悲劇の舞台かと思って、素通りした思い出しか残っていない。

   ところで、私など「お初天神」のイメージしかないのだが、この神社の正式名称は、露天神社(つゆのてんじんしゃ)である。
   元禄16年4月7日に、堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が、この神社の「天神の森」で心中した事件を、近松門左衛門が、事件記者よろしく駆けつけてきて取材し、人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書いて舞台にかけて有名になったので、「お初天神」と呼称されるようになったと言うのである。


   梅田の地下街も、随分複雑になって、企業戦士として走り回っていた若かりし頃の面影など全く残っていないのだが、とにかく、曽根崎警察を目指して地下街を通り抜けて、地上に出て大通りからお初天神に入った。
   お初天神通り商店街のはずれのビルが参道への入り口になっていて、そこからが、派手派手のカラフルな境内が続いている。
   とにかく、良く分からなくて、本殿まで行き、引き返したら、稲荷社まであった。
   
   
   
   
   

   稲荷社の入り口の横から、どうも、お初と徳兵衛らしきブロンズ像が電光に光っているのが見えたので、近づいてみると、これが、お初天神社らしい雰囲気であった。
   
   
   
   



   ところで、半世紀前の私のイメージとは、今や様変わりで、このお初天神は、恋の成就を願う「恋人の聖地」になっていると言うのである。
   「恋人の聖地」は、今、日本に、135ヵ所もあるようだが、このお初天神は、
   近松門左衛門の「曽根崎心中」の一節である、
   ”誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。取伝へ貴賤群集の回向の種。未来成仏疑ひなき恋の。手本となりにけり。”に肖っての呼称だと言う。
   「何あほなこと言うてんねん。ここは、お初と徳兵衛が、切羽詰まって心中したとこやで。何で、こんなとこが、恋の手本になったり、恋人の聖地になるねん。」
   そんな影の声も聞こえてくるような気もするのだが、恋の成就を願って、多くの老若男女が、沢山の絵馬を掛けている。
   恋をすれば、藁にも縋りつきたい気持ちで恋人を想う、何でもええ、この切ない思いが叶うんやったら、一所懸命手を合わせたい。これが、正直なところであろう。

   「祈願 絵馬掛け処」には絵馬が掛かっており、近松の曽根崎心中の物語を要約した掛看板などもディスプレィされていて面白い。
   
   

   さて、この浄瑠璃では、
   お初と徳兵衛は、死の道行の末にこの天神の森に辿りついて、
   松と棕櫚が枝をからませている連理の木を死に場所に決め、体を木に縛り付けたうえ、徳兵衛が、お初を脇差で刺し殺し、徳兵衛は、お初が持っていた剃刀で自害して果てる。
   私には、もう、20年以上も前にロンドンで観た玉男と文雀、そして、日本に帰ってきて観た玉男と簑助の、悲しくも壮絶な、しかし、あまりにも美しいこの幕切れのシーンが、目に焼き付いて離れない。
   この連理の木を模した庭木が、この境内に植えてあるのだが、楊貴妃と玄宗皇帝の連理の枝とはイメージが違っていて、お飾り程度と言った感じである。
   私など、文楽の舞台としてのお初天神だが、さて、恋人の聖地として訪れてくる若い恋人たちは、どのような思いで、この境内でひと時を過ごすのであろうか。
   

   ところで、お初天神通りには、お初と徳兵衛に肖った恋人たちのイメージ画が、ディスプレィされていて面白かった。
   
   
   
   
   
   阪急梅田駅に出て、蛍が池でモノレールに乗り換えて伊丹空港に行き、JAL便で羽田に帰った。
   嶋大夫引退披露狂言観劇を目的にして歩いた二泊三日の関西旅であったが、結構充実していたので、満足している。
   

コメント
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