今月の国立劇場の文楽公演は、仮名手本忠臣蔵の通し狂言で3部に分かれていて、今回観たのは、第2部で、五段目の「山崎街道出会いの段」から七段目の「祇園一力茶屋の段」までである。
前半は、お軽の田舎に引きこもった勘平(桐竹紋寿)が、あだ討ちに加わりたくその金の工面にお軽(桐竹勘十郎)が身売りする。その半金を持ち帰る途中父親与市兵衛(桐竹亀次)が、浪人斧定九郎(吉田幸助)に殺されて金を奪うのだが、これをいのししと間違えて勘平が撃ち殺し金を持ち帰る。
与市平衛の亡骸が運び込まれて財布の模様から勘平が疑われて切腹するが、誤解と分かり、死の間際に連判状に血判を押して一味に加えられる。
西国街道の京都手前の淀川のほとりの山崎、お軽一家の平穏な田舎暮らしが一挙に暗転する劇的な場面であるが、一人だけ浮いて田舎で不遇を囲っていた勘平の死が、赤穂浪士の裏面を語っていて興味深い。
主君円塩冶判官にお供して登城したが、判官が殿中で高師直に切りつけた時に、お軽と逢引していてその場に居なかった勘平。「色に、色に耽ったばっかりに・・・」切腹を思い止まらせたお軽と共に山崎に落ちのび田舎生活を始めるのだが、所詮武士、主君の為の復讐あだ討ちしか意識にない。しかし、お軽や老夫婦は4人の生活に幸せを感じている。
映画やTVの忠臣蔵は、武士としての赤穂浪士に焦点を当てて描かれているが、やはり、庶民が観客の文楽や歌舞伎は、このように武士と庶民との間など一井の人間の生き様に光を当てているのが面白い。
随分前に、この国立劇場で同じ通し狂言仮名手本忠臣蔵を観たが、あの時は、吉田玉男が由良助で、吉田簔助がお軽を遣っていたと思うが、今回は、お軽を勘十郎が遣っているが、実に色気があって初々しくて簔助とは一寸違った魅力的なお軽像を作り出している。
特に、祇園一力茶屋での2階部屋で柱に背を預けて佇む姿や梯子を降りる姿、時々見せる後振りの美しさとその色気は秀逸である。
それに、この場は、本来の奥女中ではなく庶民の女房と遊女を演じているが、その燐とした一本筋の通ったお軽が清清しく、また、兄に勘平の消息を聞きだそうとするあの恥じらいの新鮮さを観ながら、玉三郎のお軽の舞台を思い出していた。
女形の紋寿が、珍しく勘平を遣っているが、これが、緊張した凄い意気込みで舞台に登場し、気合を入れて遣っていて中々素晴らしい。
普通に安穏な生活をしていた狩人が少しづつ疑心暗鬼になりはじめて、姑に責められて男の面目丸潰れの罪の意識に追い詰められて行く心の襞を上手く演じている。
それに、優男風ではないが、どこか流れるような柔らかい雰囲気の勘平の動きは、やはりベテラン女形人形遣いのなせる技であろうか。
後半の一力茶屋の場は、なんと言っても由良助を遣う簔助の世界で、玉男と違った別な雰囲気の実に優雅な品のある由良助の素晴らしさである。
手紙を読みながらも、見られているのを意識しているので、床下や二階を引き込むように読むあたり芸が細かいし、それに、酔っ払って寝ながら平右衛門の願書を庭に投げ落とすところなど実に丁寧で心配りが滲んでいる。
それにこの七段目の由良助は、玉男でさえ、若い時は出来ないといって断ったと言うが、人生の年輪を重ねて豊かな人生経験を経ないと出せない至難の芸なのであろう。
前半は正体もないほどに酔っ払った由良助だが、力弥(吉田蓑二郎)から顔世御前の手紙を受け取る時の緊張、そして、獅子身中の虫・裏切り者の斧九太夫(吉田玉也)をお軽に成敗させる時の凄い迫力までの緩急自在の心を演じる人形遣いは流石に最高峰の芸である。
玉女の寺岡平右衛門は、剛直で豪快、足軽でありながら本来入り込めない筈の一力茶屋で主のように振舞っていて爽快である。とにかく、後先など考えない一本気の忠義一途の男で、妹お軽と元城代家老の由良助との異質な相手との受け答えを丁寧に描いている。
この日、文吾が休演していたようだが、玉男が居ない舞台では、極めて重要な立ち役遣いである。
後の舞台は後日観ることにしているが、来月から、この国立劇場で3ヶ月に渡って歌舞伎で忠臣蔵が演じられる。
吉右衛門、藤十郎、幸四郎が夫々由良助を演じるようだが、どんな舞台になるか楽しみである。
やはり、オペラのカルメンと同じで、名作のスタンダードナンバーは何時演じられても観たくなる、不思議であるが仕方がない。
前半は、お軽の田舎に引きこもった勘平(桐竹紋寿)が、あだ討ちに加わりたくその金の工面にお軽(桐竹勘十郎)が身売りする。その半金を持ち帰る途中父親与市兵衛(桐竹亀次)が、浪人斧定九郎(吉田幸助)に殺されて金を奪うのだが、これをいのししと間違えて勘平が撃ち殺し金を持ち帰る。
与市平衛の亡骸が運び込まれて財布の模様から勘平が疑われて切腹するが、誤解と分かり、死の間際に連判状に血判を押して一味に加えられる。
西国街道の京都手前の淀川のほとりの山崎、お軽一家の平穏な田舎暮らしが一挙に暗転する劇的な場面であるが、一人だけ浮いて田舎で不遇を囲っていた勘平の死が、赤穂浪士の裏面を語っていて興味深い。
主君円塩冶判官にお供して登城したが、判官が殿中で高師直に切りつけた時に、お軽と逢引していてその場に居なかった勘平。「色に、色に耽ったばっかりに・・・」切腹を思い止まらせたお軽と共に山崎に落ちのび田舎生活を始めるのだが、所詮武士、主君の為の復讐あだ討ちしか意識にない。しかし、お軽や老夫婦は4人の生活に幸せを感じている。
映画やTVの忠臣蔵は、武士としての赤穂浪士に焦点を当てて描かれているが、やはり、庶民が観客の文楽や歌舞伎は、このように武士と庶民との間など一井の人間の生き様に光を当てているのが面白い。
随分前に、この国立劇場で同じ通し狂言仮名手本忠臣蔵を観たが、あの時は、吉田玉男が由良助で、吉田簔助がお軽を遣っていたと思うが、今回は、お軽を勘十郎が遣っているが、実に色気があって初々しくて簔助とは一寸違った魅力的なお軽像を作り出している。
特に、祇園一力茶屋での2階部屋で柱に背を預けて佇む姿や梯子を降りる姿、時々見せる後振りの美しさとその色気は秀逸である。
それに、この場は、本来の奥女中ではなく庶民の女房と遊女を演じているが、その燐とした一本筋の通ったお軽が清清しく、また、兄に勘平の消息を聞きだそうとするあの恥じらいの新鮮さを観ながら、玉三郎のお軽の舞台を思い出していた。
女形の紋寿が、珍しく勘平を遣っているが、これが、緊張した凄い意気込みで舞台に登場し、気合を入れて遣っていて中々素晴らしい。
普通に安穏な生活をしていた狩人が少しづつ疑心暗鬼になりはじめて、姑に責められて男の面目丸潰れの罪の意識に追い詰められて行く心の襞を上手く演じている。
それに、優男風ではないが、どこか流れるような柔らかい雰囲気の勘平の動きは、やはりベテラン女形人形遣いのなせる技であろうか。
後半の一力茶屋の場は、なんと言っても由良助を遣う簔助の世界で、玉男と違った別な雰囲気の実に優雅な品のある由良助の素晴らしさである。
手紙を読みながらも、見られているのを意識しているので、床下や二階を引き込むように読むあたり芸が細かいし、それに、酔っ払って寝ながら平右衛門の願書を庭に投げ落とすところなど実に丁寧で心配りが滲んでいる。
それにこの七段目の由良助は、玉男でさえ、若い時は出来ないといって断ったと言うが、人生の年輪を重ねて豊かな人生経験を経ないと出せない至難の芸なのであろう。
前半は正体もないほどに酔っ払った由良助だが、力弥(吉田蓑二郎)から顔世御前の手紙を受け取る時の緊張、そして、獅子身中の虫・裏切り者の斧九太夫(吉田玉也)をお軽に成敗させる時の凄い迫力までの緩急自在の心を演じる人形遣いは流石に最高峰の芸である。
玉女の寺岡平右衛門は、剛直で豪快、足軽でありながら本来入り込めない筈の一力茶屋で主のように振舞っていて爽快である。とにかく、後先など考えない一本気の忠義一途の男で、妹お軽と元城代家老の由良助との異質な相手との受け答えを丁寧に描いている。
この日、文吾が休演していたようだが、玉男が居ない舞台では、極めて重要な立ち役遣いである。
後の舞台は後日観ることにしているが、来月から、この国立劇場で3ヶ月に渡って歌舞伎で忠臣蔵が演じられる。
吉右衛門、藤十郎、幸四郎が夫々由良助を演じるようだが、どんな舞台になるか楽しみである。
やはり、オペラのカルメンと同じで、名作のスタンダードナンバーは何時演じられても観たくなる、不思議であるが仕方がない。