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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場・・・文楽「心中宵庚申」

2018年02月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回の文楽では、織太夫襲名公演の「摂州合邦辻」は、先月、大阪の文楽劇場で鑑賞していたので、近松門左衛門の「心中宵庚申」と「女殺油地獄」に期待して出かけた。

   今回のこの文楽「心中宵庚申」の舞台は、原作の中の巻からの話で、
   半兵衛(玉男)の妻のお千世(勘十郎)は、これまでに2度嫁入りしたものの、半兵衛とは3度目の縁組みで、今度こそ、夫と添い遂げたいと願っていたのだが、半兵衛の義母である姑(文司)は、お千世のことを良く思わず、半兵衛の留守中に、懐妊中のお千世を実家へ帰す。
 お千世の実家・山城国上田村では、お千世の姉・おかる(清十郎)夫婦が、病気で寝込んでいる老父・島田平右衛門(玉也)と暮らしていて、老父は、姑に戻されて来たお千世の身の上を案じながらも温かく迎え入れる。
 そこへ、半兵衛が、浜松からの帰りがけに訪ねてきて、事情を聞かされて恥じ入り、どんなことがあっても、お千世と添い遂げることを誓う。喜ぶ老父は、娘が二度と実家に戻らぬことを願って見送り半兵衛夫婦は大坂に戻る。
   お千世を連れ帰った半兵衛は、自分に財産を譲り跡を継がせようとしている義母の顔が立つように、一旦お千世を家に戻し、改めて自分から離縁を言い渡して、お千世を家の外に追い出す。半兵衛は、夫婦2人でこの家を「去る」のだと言い聞かせ、庚申詣りの人込みに紛れて、生玉神社へ向かう。
   お腹の子を思いながら、半兵衛はお千代を刺し、辞世の句を詠んで、切腹して果てる。

   この浄瑠璃は、近松門左衛門の最晩年の心中物で、
   大坂新靫の八百屋の養子半兵衛と、姑のために離縁された女房の千世とが宵庚申の夜、生玉の大仏勧進所で心中した事件を脚色したもの。だと言う。
   何故、姑がお千代を嫌うのか分からないが、この舞台では、徹底的な嫌味ばばあで、自分では生き仏だと言っているところが愛嬌だが、血のつながった甥ではなく、血縁も何もない養子の半兵衛に身代そっくり譲り渡すと言う心境との落差が、面白い。

   私など、心中しなくても、いくらでも、家を出て生きる道はあると思うのだが、そこか、当時の庶民の義理と人情に生きる生き様であったのであろうか。
   お千代は、2度結婚していて、1度目は夫の破産で生き別れ、2度目は死別しているので、半兵衛とは3度目だが、この文楽では、真面な相思相愛の夫婦であって、姑だけが、悪者で横車を押しており、旦那の方は、能天気で無関心と言う事らしい。

   実話通りに、生玉神社境内の東大寺再建の勧進所での心中である。
   念仏を唱えた後、半兵衛は、お千代に切っ先を向けるが、あれは自分のための祈りで、お腹の子どもの供養がしたいと涙を流し、半兵衛も唱和して涙にむせぶシーンが、実に切なくて悲しい。
   明日はあの世で夫婦になる、別れはしばらくのことと思い定めて、元は武士の半兵衛は、大切に持っていたのであろう刀で、後ろ振りに仰け反るお千世を刺す。お千代は激しく痙攣しながら息絶え、そして、半兵衛は、辞世の歌を詠み、武士のしきたりどおりに切腹し、心中を遂げる。
   半兵衛が息絶えるまでに、かなり間があるのだが、今回、勘十郎は、横向きに倒れたお千代の首をシッカリと、最後まで握りしめて支えており、玉男の半兵衛が、抱きついて倒れかけるのに応えていた。
   普通は、亡くなった人形は、そのまま、舞台において、人形遣いは、去って行くのだが、勘十郎の温かさを感じて感動。

   玉男の半兵衛、勘十郎のお千代は、東西一の名コンビで、感動の一語。
   真面目一方で人情に篤い娘思いの老長けた玉也の老父、そして、実に優しくて甲斐甲斐しく妹を愛しむ清十郎のおかる、絶品であった。
   文字久太夫と東蔵、千歳太夫と富助、三輪太夫・團七ほかの、義太夫と三味線、とにかく、ぐいぐい、胸を締め付ける、流石に近松の浄瑠璃は凄い。

   余談だが、私が初めて人形の心中シーンを見たのは、もう、30年ほど前の、ロンドンでのジャパンフェスティバルの「曽根崎心中」。
   初代玉男の徳兵衛、文雀のお初。
   同じような後ろ振りのお初を、徳兵衛が抱きかかえるようにして、崩れ折れる壮絶なシーンであった。

   私など、心中する勇気もその思いもないが、大変なことだと思っている。
   
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国立劇場・・・歌舞伎「通し狂言 世界花小栗判官」

2018年01月31日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   新春の国立劇場の歌舞伎は、音羽屋の華やかな舞台「通し狂言 世界花小栗判官」であった。
   歌舞伎座のアラカルトの見取り公演とは違って、復活通し狂言と言う斬新さと何を見せてくれるかと言う時めきや期待を抱かせてくれて、非常に興味深いのである。
   
   

   室町時代、足利義満への復讐と天下掌握を企てる謎の盗賊・風間八郎(菊五郎)は、足利家の重宝「勝鬨の轡」「水清丸の剣」を強奪。足利家の執権・細川政元(時蔵)は風間の野望の阻止を図り、風間に父を殺害された小栗判官(菊之助)は、紛失した重宝と風間の行方を詮議し、風間と政元・判官の対決を軸に、歌舞伎が展開される。
   HPの説明を借りると、
   菊五郎演じるスケールの大きな悪の権化風間の暗躍を軸にして、荒馬・鬼鹿毛を鮮やかに乗りこなす馬術の名手・判官の曲馬乗り、風間と政元との虚々実々の駆け引き、照手姫(尾上右近)の危機を救う元・小栗の家臣浪七(松緑)の命懸けの忠義と壮絶な立廻り、離れ離れになっていた判官と照手姫の邂逅がもたらす長者の後家お槙(時蔵)と娘お駒(梅枝)の悲劇、熊野権現の霊験が判官と照手姫に起こす奇跡など、
   ビジュアルにもサウンドにも舞台全体に面白い趣向を加えるなど工夫に工夫を重ねての演出で、非常に楽しませてくれた。
   早い話、小栗判官の菊之助の乗る荒馬・鬼鹿毛など、張り子の馬と言うよりは、競馬馬のサラブレッドのような颯爽としたスマートな素晴らしい姿であり、並の舞台馬とは違って、それだけに、菊之助の雄姿が脚光を浴びるのである。
   小栗判官伝説に基づく判官と照手姫の物語もこの歌舞伎の軸なのだが、菊之助と尾上右近の華麗な舞台も華を添えていて素晴らしい。
   お槙(時蔵)と娘お駒(梅枝)と言う親子コンビの芸の素晴らしさは流石で、このあたりに、伝統芸術の凄さを感じた。
   勿論、この舞台は、菊五郎あっての歌舞伎なのは言うまでもないが、松緑の骨太の演技は特筆もので、彦三郎父子兄弟、團蔵、権十郎、萬次郎、秀調と言ったベテラン脇役陣の活躍も見逃せない。

   余談だが、新春の国立劇場には、羽子板のディスプレイなど華やかな展示がされていて面白い。
   
   
   
   
   
   

   この日、和服姿の観客に加えて、きもの学院の人たちが参集していて、客席が日頃以上に華やかであった。
   
   
   

   さて、開場時間には、時雨程度であったが、開演中に雪が降り始めて、一気に雪景色に包まれた。  
   休憩時の雪景色は、以下の通りだが、
   終演時には、歩くのにも困るほどの大雪となり、這う這うの体で自宅に辿りついた時には、わが庭は雪一色。
   
   
   
   
   
   
   
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国立文楽劇場・・・「良弁杉由来」「傾城恋飛脚」

2018年01月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   第二部は、追善及び披露公演とは、直接関係ないのだが、「良弁杉由来」と「傾城恋飛脚」の「新口村の段」と言う非常に意欲的な作品であった。

   特に、「良弁杉由来」は、非常に上演機会が少ない感じで、これまで観たのは、文楽では、8年前の国立小劇場での公演で、良弁が和生、渚の方が文雀、歌舞伎では、12年前の歌舞伎座で、良弁が仁左衛門、渚の方が先代の芝翫、夫々、非常に感動的な舞台であった。
   今回の文楽は、良弁が玉男、渚の方が和生で、二月堂の段の浄瑠璃は、千歳太夫と富助であり、非常に感動的な舞台を紡ぎ出して感動ものである。
   何度も訪れて、東大寺の二月堂下の良弁杉には、お馴染みなので、この場が最後の感動的な幕切れの二月堂の段の舞台だと言うことでもあり、親しみを感じている。

   東大寺の開山・良弁は、近江国の百済氏の出身で、2歳の時に、母親が桑を摘む野良仕事の最中、突然舞い降りて来た鷲にさらわれて、東大寺の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを、義淵に助けられて育てられ、高僧となり、全国を流浪して探し続けた母と30年後に、再会したと言う良弁杉由来に基づいた物語で、真偽はともかく、非常に格調の高い感動的な舞台である。
 
   菅丞相を演じれば絶品の仁左衛門が演じると言う良弁僧正であるから、歌舞伎や文楽の中でも、最高峰の高潔な人物像であり、文楽の場合には、初代玉男が、顔の表情も変わらなければ、殆ど動きのない位置づけであるから、人形遣いにとっては、非常に難しいと言っており、独特なキャラクターなのであろうが、強烈な印象を与える。
   特に、かしらは、上人と言う白塗りの超美男子で、この良弁杉由来では、もう少し老成していた方がイメージに合うのだが、正に、安珍清姫の安珍、高野聖の宗朝、横笛と恋に落ちた滝口入道を彷彿とさせるような美しい青年像なので、慈愛に満ちた輝くような姿が、観ていて、実に感動的である。

   尤も、これは、文楽のかしらの話であって、私自身は、これまで、寺院や博物館などで、開基、開山など高僧の仏像や絵画を随分見て来たが、殆どは、かなり個性的な老人像で、美男だと思える像などは全くなかった気がしている。  

   30年を経たある日、二月堂の前に聳える杉の木の梢に貼られた紙を観た良弁が、みすぼらしく落ちぶれた乞食の老女に会って、鷲に攫われた経緯を話す内に、渚の方が、幼子に持たせた如意輪観音像を収めた守り袋を、良弁がその錦の守り袋を取り出して、涙の再会。

   母子の生き別れについては、女の狂いをテーマにした「三井寺」や「百萬」などがあり、女物狂いになって東国まで辿り着いた母が亡き子の墓標に対面する悲しい能「隅田川」などがあるなど、他にも、結構物語になっていてり、恰好のテーマのようで興味深い。

   この「良弁杉由来」の人形については、良弁は、両玉男であり、渚の方は、文雀・和生でなければ、決定版を演出できないような気がする。
   それ程、感動的な素晴らしい舞台なのである。
   それに、二月堂の段は、千歳太夫の義太夫富助の三味線、しみじみとした温かい生きる喜びをも紡ぎ出す熱演。

   傾城恋飛脚の「新口村の段」は、先月、東京の国立劇場で観ている。
   その時は、 亀屋忠兵衛 勘彌 傾城梅川 清十郎 孫右衛門 玉男 であった。
   今回は、孫右衛門が、玉男から、玉也に代わっていて、また、一寸違った感動的な舞台を演出している。
   義太夫は、前は呂勢太夫は同じ(三味線は、燕三から寛治)だが、後は文字久太夫と宗助に代わっていた。
   印象は殆ど変わらなかった。
   
   
   
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国立文楽劇場・・・竹本織太夫襲名披露公演「摂州合邦辻」「平家女護島」ほか

2018年01月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   大阪の国立文楽劇場は、八代目竹本綱太夫 五十回忌追善および豊竹咲甫太夫改め 六代目竹本織太夫 襲名披露公演で賑わっている。
   東京でも、来月同じ公演が行われるのだが、私は、文楽の本拠地であるこの国立文楽劇場で、大阪弁が飛び交う雰囲気の中で鑑賞したくて、襲名や特別な文楽公演の時には、大阪に来ることにしている。

   来月東京では、「口上」と同時に、「花競四季寿」と、追善/襲名披露 狂言「摂州合邦辻 合邦住家の段」が、上演されるのだが、この大阪では、抱き合わせにして、「平家女護島 鬼界が島の段」が、上演されており、この近松作品を是非聴きたい観たいと思った。
   この「平家女護島」については、昨年2月に国立劇場で、「六波羅の段」「鬼界が島の段」「舟路の道行より敷名の浦の段」が上演されて間もないのだが、思い出深いのは、この大阪で、初代玉男の最後の俊寛を観たのである。
  尤も、体調がすぐれなかったのであろう、その時は、別れを惜しむ康頼、成経、千鳥を乗せて船が島を離れた後、俊寛が、岩によじ登って、松の木にしがみついて、茫然と立ち尽くして船を見送るラストシーンは、当時の玉女が、代役を務めた。

   この文楽の「平家女護島」については、先の文楽公演や歌舞伎の「平家女護島」の記事で、作品によって、俊寛の人間像の描写が違っていて興味深く、菊池寛や芥川龍之介の「俊寛」などについて書くなどかなり私見を述べたので、蛇足は避けるが、平家物語の「足摺」をシンプルに取り入れた能「俊寛」と比べると、近松門左衛門の創作が非常に興味深い。

   特に、鬼界ヶ島の海女で成経の妻千鳥と言う架空の女性を紡ぎ出して、清盛の強引なセクハラで、最愛の妻への思いを断ち切られた人間俊寛の義侠心と愛への絶望を描いて感動的である。
   この舞台では、都での成経との生活を夢見た喜びもつかの間、同行を許されなくなった千鳥の悲嘆のクドキが秀逸で、人間国宝簑助が、哀調を帯びた浄瑠璃と三味線の音に乗って、流れるように悲痛の絶頂を歌い上げながらクドキを舞う千鳥の姿は、感動の一語に尽きる。
   今回の俊寛僧都を遣ったのは、玉男で、先代譲りの剛直な芸を継承して、悲哀と愛情綯い交ぜの繊細で優しい人間俊寛を垣間見せて実に上手い。
   呂太夫の義太夫と清介の三味線が、舞台の素晴らしさをいや増して素晴らしい。

   口上は、咲太夫と織太夫と二人だけの雛壇であったが、文楽の場合には、襲名する本人は口上を述べないので、咲太夫が、八代目竹本綱太夫の偉大な業績や五十回忌追善の大切な意義や、芸の精進著しい豊竹咲甫太夫が六代目竹本織太夫を襲名して披露公演が実現できた喜びなどを語った。
   
   「合邦庵室の段」は、俊徳丸伝説に基づいた「摂州合邦辻」の最終段で、俊徳丸を思う玉手御前の嘘と不倫の恋がテーマとなっている凄まじい舞台のハッピーエンドである。
   同じ俊徳丸伝説でも、能「弱法師」とは、随分違った、実に、人間臭さいドロドロした物語だが、人間の強さと同時に、弱さ悲しさを抉り出していて凄い舞台である。

   玉手御前は、後継者争いで、命を狙われている次男の俊徳丸を救うために、毒酒を飲ませて醜くして後継を不可能にして、同時に、次郎丸の陰謀の発覚を隠して、義理の二人の息子を救うのだが、
   俊徳丸の病を治すために、義子俊徳丸に邪恋を仕掛けて、激しいモーションをかけて、父親合邦を怒らせて殺害させようと芝居を打つ。最愛の父の手で殺させて、寅ずくしの奇跡的な自分の生き血を俊徳丸に飲ませる。と言う歌舞伎常套の物語を綯い交ぜにした面白い物語である。

   俊徳丸(一輔)と浅香姫(簑二郎)の若い二人の中に割って入って俊徳丸に邪恋を仕掛けて激しく迫り、がらりと舞台が代わって、終幕の瀕死の状態で真実を打ち明けて苦悶する玉手御前を、勘十郎が実に巧みに演じていて素晴らしい。
   義理と人間の道一点張りの合邦を和生が、その女房を勘壽が、受けて立ち、凄い舞台を展開している。
   父は、人間の道を外れて息子に恋焦がれる娘を許せないが、母親は、「二十そこらの色盛り、歳よった左衛門様より、美しいお若衆様なら、惚れいでなんとするものぞ。」と言うあたりは、モダンで面白いのだが、とにかく、盛沢山の内容の詰まった芝居なので面白い。

   咲太夫と清治が、切場を演じた後、終幕の劇的な舞台を、襲名なった織太夫が絶好調で語りきり、燕三が、感動的な三味線で応える。
   日本の古典芸能の浄瑠璃の凄さ素晴らしさを実感させてくれる素晴らしい襲名披露公演であった。

   ロビーには、八代目竹本綱太夫 五十回忌と六代目竹本織太夫襲名祝いの場が設けられていた。
   毎年のにらみ鯛の飾りつけも同じであり、劇場全体が、東京の国立小劇場とはちょっと違った雰囲気があって面白い。
   
   
   
   
   
   
   
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壽初春大歌舞伎・・・白鷗の「寺子屋」

2018年01月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   高麗屋三代襲名公演の昼の部では、「菅原伝授手習鑑」の「車引」で、幸四郎が松王丸を、そして、白鷗が「寺子屋」で、松王丸を演じた。
   先に観た「夜の部」では、白鷗の歌舞伎を観ることが出来なかったので、やはり、年季の入った高麗屋の伝承の芸を凝縮した白鷗の十八番の寺子屋は、格別である。

   同時に演じる役者たちの布陣も、次の通りで、素晴らしい感動的な舞台を作り上げている。
   松王丸  幸四郎改め白鸚
   武部源蔵 梅玉
   千代 魁春
   戸浪 雀右衛門
   涎くり与太郎 猿之助
   百姓 吾作 東蔵
   春藤玄蕃 左團次
   園生の前 藤十郎
   その他百姓 由次郎、桂三、寿猿、橘三郎、松之助、寿治郎、吉之丞

   悲惨な舞台で、唯一の清涼剤とも言うべき舞台を繰り広げる涎くり与太郎に猿之助、その父親の吾作に東蔵と言う豪華キャストで、スッポンでの寸劇が秀逸であり、観客を喜ばせる。


   私が歌舞伎の「寺子屋」を観たのは、もう20何年も前で、この歌舞伎座で、松王丸が猿之助(猿翁)、千代が菊五郎、源蔵が勘九郎(勘三郎)、戸浪が福助であった。
   また、菅原道真公没後千百年記念の通し狂言で、この時は、松王丸が吉右衛門、千代が玉三郎、源蔵が富十郎、戸浪が松江(魁春)であった。
   その頃、文楽では、元気であった文吾の剛直豪快な松王丸を観ており、それ以降、随分、この寺子屋を観ているが、白鸚の舞台が一番多かったような気がする。
   仁左衛門の松王丸も覚えているが、それ程、私の寺子屋の松王丸は、白鸚の松王丸なのである。

   この「寺子屋」は、白鸚の松王丸を鑑賞する舞台である。
   源蔵が、寛秀才の首を討つ為に首桶を持って奥へ下がると、松王丸は立ち上がって正面に向かうが、首を討つ音が響くと一瞬足がもつれてよろけて棒立ち。吾が子小太郎が討たれた瞬間であり、その苦痛と悲しみを全身に漲らせて後ぶりで慟哭を演じる。 
   振り返った瞬間、居ても立ってもいられなくて走り立った千代とぶつかり、「無礼者めが!」と叫ぶが、目が引きつって正気を失っており、しばし茫然自失。
   恩ある名付け親に忠義を示そうと、自分の子供を身代わりとして差し出したばかりに、遂に首を討たれてしまったと言う絶体絶命の苦痛を噛みしめ、忍従に必死に堪えている松王丸の動揺を、最小限に切り詰めて演じる白鸚の芸の冴えと凄さは、格別である。

   小太郎の亡骸を乗せた籠に向かって奏されるいろは送り。
   文楽は、悲しい程華やかだと言うこともあろうが、悲しさの絶頂である筈の千代は、踊るように舞うように優雅な姿で、サンサーンスの瀕死の白鳥のように、全身で悲しみを表現して、踊ってはいけないと言われている筈の三味線が華麗に爪弾き、悲嘆ドン底の松王丸も、どこか優雅に振舞っていて絵のようなシーンだが、
   この舞台では、義太夫と三味線の哀調を帯びたいろは送りに乗って、悲しみに満ちた松王丸と千代が、静かに慟哭を噛みしめながら焼香を続けて哀れを誘う。

   首実検寸前までの松王丸は、もの凄く髪の盛り上がった五十日鬘に黒地に雪持松の着付羽織と言う実に個性的な敵役めいた凄みを利かせた偉丈夫な姿で通すのだが、
   源蔵宅に立ち戻って真実を語り始めた松王丸は、一変して、血も涙もあり刃を当てれば血がほとばしり出るような人間に戻って、忠義を貫いた使命感の達成と裏腹にわが子を人身御供に送ってしまった苦悩と悔恨が交錯しながら胸を締め付けられて、断腸の悲痛を吐露する。
   松王丸の激しい心情の落差を、白鸚の松王丸は、実に感動的に演じていて、
   小太郎が未練がましくなかったかと聞き、にっこりと笑って首を差し出したと聞いて、「でかしおった・・・千代 喜べ」と言って、豪快に破顔一笑し、その顔が、徐々に崩れて泣き顔に変って行き、
   桜丸の非業の死を悔恨して激しく慟哭して泣き伏すのだが、
   最後まで、千代に対する思いやりと愛情に満ちた眼差しを忘れない優しさ。
   「泣くな、泣くな」とたしなめられても、苦痛に喘ぎ悲嘆に暮れて身悶えする千代の愁嘆場の悲壮も、胸に応えて苦しくなるほどで、それでいて、魁春の、実に美しく優雅に舞うような身のこなしが感動的である。

   この舞台で、有名な台詞は、源蔵の「せまじきものは宮仕へ」
   松王丸の「持つべきものは子でござる」。
   宮仕へについての源蔵の心境は、師匠の子菅秀才の首を差し出せと厳命されて、窮地に立った心情であるから、今の時代でも真実で、誰でも分かる。
   しかし、「持つべきものは子」と言うのは、ことわざ辞典によると、
   「他人ではあてにできない事も、わが子ならばしてくれる。子は持つべきもので、わが子ほどありがたいものはないということ。」と言うことだが、
   松王丸にとっては、自分の菅丞相への忠義心を示すために、一子小太郎を菅秀才の身代わりとして差し出した、すなわち、わが子があったが故に、子供が自分に代わって手柄を立ててくれた、有難い、と言う心であって、あくまで、前時代の価値観である。

   ところで、いつも、引っかかるのだが、この「菅原伝授手習鑑」の重要キャラクターの松王丸などの3人兄弟は、すべて、舎人である。
   舎人とは、ブリタニカによると、 
   「令制で天皇,皇族などに近侍して警固,雑事にあたった下級官人。内舎人 (うどねり) ,大舎人,中宮舎人,東宮舎人,衛府の兵士などの総称。内舎人には身分の高い貴族の子弟が,大舎人以下には下級官人,地方豪族の子弟,白丁 (庶民) が任じられ,課役免除の恩典があった。」とある。
   ところが、この「寺子屋」の松王丸に至っては、下級役人どころか、最高峰の武人貴人と言った風格と威厳を持った存在として、描かれており、実際にもそのような舞台が展開されているのだが、歌舞伎だから、そんなことを考えずに、伝統の芸を楽しめと言うことであろうか。

   最後になったが、梅玉の源蔵、雀右衛門の戸浪の素晴らしさは、正に、襲名披露公演に華を添えている。
   左團次の玄蕃の嫌味の少ない昇華された枯れた芸が好ましい。
   藤十郎の園生の前は、ご祝儀出演と言うところであろう、登場するだけで千両役者の風格である。
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壽初春大歌舞伎・・・幸四郎の「勧進帳」

2018年01月13日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   白鸚・幸四郎・染五郎の三代にわたる37年ぶりの襲名披露公演が話題を呼んでいて、連日、歌舞伎座は大変な賑わいである。
   まず、私が観たのは、襲名披露口上のある夜の部で、襲名する三代の高麗屋を真ん中にして、22人の威儀を正した名優たちが居並ぶハレの舞台である。
   近年立て続けに多くの名優が逝き、国立劇場や新橋演舞場、大阪松竹座などでの公演が並行して行われているので、多少寂しい感じではあるが、流石に高麗屋の襲名披露公演なので、披露口上は、藤十郎の司会で、非常に華やかに執り行われた。
   
   夜の部の演目は、
   双蝶々曲輪日記 角力場(芝翫、愛之助ほか)
   二代目松本白鸚 十代目松本幸四郎 八代目市川染五郎 襲名披露 口上
   歌舞伎十八番の内 勧進帳
   上 相生獅子 下 三人形(扇雀、孝太郎、および、雀右衛門、鴈治郎、又五郎)

   夫々、襲名披露公演に華を添える素晴らしい舞台ではあるが、襲名披露口上を除けば、高麗屋の登場する舞台は、「勧進帳」だけであり、私の場合は、別の日の昼の部の、菅原伝授手習鑑の寺子屋で、白鸚の松王丸を観られるのだが、何となく、白鸚の出ない襲名披露公演は寂しい感じがした。

   幸四郎の弁慶を観たのは、この歌舞伎座の顔見世公演2014年11月02日で、この時、私は、次のように書いた。
   東西随一の弁慶役者である実父松本幸四郎を富樫に、そして、同じく叔父中村吉右衛門を義経にと言う超豪華なサポートを得て、手負い獅子の如く勇猛果敢に、満を持して檜舞台に躍り出た。
   激しい気迫と気負いはあっても、お小姓弥生のたおやかさも、近松の大坂男の弱さ悲しさも微塵もなく、正に剛直そのものの弁慶染五郎になり切った舞台である。
   頂点を極めた弁慶役者幸四郎と吉右衛門のその目の前で、それも、曽祖父である七代目幸四郎が約千六百回勤めるなど高麗屋ゆかりの弁慶役を、初めて演じると言う、強烈なプレッシャーに抗しながら、不惑を越えたが故にか、
   黒紙の巻物を勧進帳に見立てて天も響けと読み上げる胆力と決死の覚悟、主の義経を杖で打擲する苦渋と悲哀、富樫の振る舞い酒を豪快に煽る豪胆さ、そして、「延年の舞」の巧緻さと「飛び六方」の豪快さ、澱みなく演じ切った。

   今回は、吉右衛門の富樫で、義経は、染五郎を襲名した実子金太郎、そして、四天王は、鴈治郎、芝翫、愛之助、歌六と言う名優揃いで、豪華な舞台を披露した。
   流石に、幸四郎で、お家の芸である「勧進帳」の弁慶を、既に、自分の重要なレパートリーに取り入れての極めて堂に入った豪快でエネルギッシュな舞台を見せてくれて、飛び六方で揚幕に消えるまでの全舞台を、一気に見せて観客を魅了した。

   尤も、この舞台を、非常に格調高く、素晴らしく感動的にしたのは、吉右衛門の絵の様に美しく風格のある富樫あってこそであることは言うまでもない。
   偽の勧進帳を読む弁慶ににじり寄る微妙な挙動、義経主従だと分かっておりながら、一行を通過させる決心をして、じっと運命の不可思議を噛みしめながら意を決して退場して行く武士としての愛情と悲哀、万感胸に迫る義経一行を見送るラストシーン、
   こんな素晴らしい富樫のカウンタベイリングパワーが炸裂した勧進帳の舞台、
   武士の情けに心の底から感謝しながらも、
   ”手束弓の、心許すな。関守の人々。
   暇申して、さらばよ、とて。笈を、おっ取り。肩に打ち懸け。
    虎の尾を踏み、毒蛇の口を、のがれたる、心地して、
   陸奧の国へぞ、下りける。" と、決死の思いで、飛び六方を踏みながら揚幕に消えて行く幸四郎の弁慶の芸が光るのである。

   私は、能を見始めてから、「勧進帳」のオリジナルである能「安宅」に非常に興味を感じて、能と歌舞伎・文楽と見比べており、5年前に、このブログに、「国立能楽堂:能「安宅」、そして、勧進帳との違い」を書いたのだが、偉大な名優たちが、最高峰の戯曲の舞台に、大変な思いと辛苦を投入して取り組んでいる姿を感じて、感激しながら鑑賞し続けている。
   これまで、シテ武蔵坊弁慶を、金剛永謹宗家、観世清和宗家の舞台で鑑賞したのだが、中々、観る機会には、恵まれていない。
   歌舞伎・文楽ともに、かなり、能の詞章を踏襲しているのだが、関所通過については、殆ど能では強行突破、歌舞伎文楽では切腹覚悟の富樫の武士の情け、と言った調子で演出に差があって、その違いなどの微妙な差が興味深いのである。

   さて、今回、義経を演じたのは、若くて清新な染五郎。
   これまで、随分、勧進帳を見て来たが、この義経は、最近では、吉右衛門、それ以前には、先代の芝翫、藤十郎、玉三郎、梅玉などと言った座頭級の大役者の舞台が大半であった。
   山川静夫さんが、この舞台の主役は義経だと言うのが良く分かったのだが、正に、染五郎となると、子方の演じる能の世界と相通じる感じがして、それもありかなあ、と新鮮な思いで見ていた。
  
   
   
   
   
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十二月大歌舞伎・・・「瞼の母」「楊貴妃」

2017年12月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の大歌舞伎は、3部編成だが、私が観たのは、第3部だけで、玉三郎と中車の舞台を観ようと思ったのである。

   演目と配役は、次の通り。

   長谷川 伸 作 石川耕士 演出
  一、瞼の母(まぶたのはは)

   番場の忠太郎 中車
   金町の半次郎 彦三郎
   板前善三郎 坂東亀蔵
   娘お登世 梅枝
   半次郎妹おぬい 児太郎
   夜鷹おとら 歌女之丞
   鳥羽田要助 市蔵
   素盲の金五郎 権十郎
   半次郎母おむら 萬次郎
   水熊のおはま 玉三郎

   夢枕 獏 作
  二、楊貴妃(ようきひ)

   楊貴妃 玉三郎
   方士  中車

  『瞼の母』は、幼い頃に経験した自分自身の母との別れを題材にした長谷川伸の新歌舞伎で、渡世人となった番場の忠太郎が、幼い頃に別れた母を一途に思い続けて、母を訪ねて旅を続けて、江戸で、やっと探し当てて母おはまと対面する。しかし、娘の将来のことを考えて冷たい態度をとる母おはまは母と名のらず、突っぱねられた忠太郎は涙を飲んで家を出て、親子は再び別れてしまうと言う、実に悲しい、あまりにも有名な親子の物語である。
  一心に母の面影を求め続ける息子と、娘可愛さにヤクザを許せない母との肺腑を抉るような心の葛藤と命の鬩ぎ合い、激しい言葉の応酬が胸を打つ。

   この「瞼の母」を、6年前に、一度だけ見ている。
   場末の劇場と言う感じの日本青年館の舞台であったが、獅童の忠太郎、秀太郎のおはま、笑也の娘お登勢と言う素晴らしいキャスティングで、今でも、感動的な舞台の印象が鮮明に残っている。
   この時に強烈な思いがあるので、今回の舞台への感慨は、大分違っていたのである。

   さて、凄い役者であり、歌舞伎役者へ転身後も必死に頑張って快進撃を続けている中車だが、今回、中車の忠太郎で注目したのは、中車自身が、同じような親との関係、すなわち、実父猿翁との不幸な確執を経験しており、普通の役者以上に、感情移入もあって、凄い芝居を演じるのではないかと言う思いがあった。
   中車が、1歳の時に父が家を捨て、3歳の時に両親が離婚以来、父子は没交渉となった。
   しかし、中車が、大学を卒業して俳優デビューした25歳の冬、思い切って公演先の父を訪ねて行ったのだが、大事な公演の前にいきなり訪ねてくるなど配慮が足りないと叱責され、家庭と訣別した瞬間から関係を断ち、父でも子でもない、と冷たく言い放たれ、その後、長い間確執が続いていた。
   しかし、中車は、それでも、父の舞台を何度も観続けていたと言う。
   父の偉大さ、血の騒ぎ・・・煮え盛る芸術への疼きをじっと耐えていたのであろう。

   この芝居「瞼の母」でも、繰り返し出てくる親子の血のつながりと言う切っても切りきれない宿命が、そうさせるのかどうかは分からないが、中車の父親への思いは、この番場の忠太郎とダブルのである。
   作者の生い立ちと中車の父への思い、ダブルの親への愛憎が綯い交ぜに渦巻いて、慟哭を押し殺した肺腑を抉るような感動的な芝居、 
   これを受けて立つ人間国宝の玉三郎の至芸が、正に絶品である。
   健気に、二人の間を取り持とうとする娘お登勢の梅枝が泣かせる。
   二時間弱の素晴らしい「瞼の母」であった。

   次の歌舞伎舞踊「楊貴妃」は、
   長編詩「長恨歌」と能「楊貴妃」を題材として、夢枕獏が坂東玉三郎のために書き下ろした作品だと言う。
   しかし、白居易(白楽天)の「長恨歌 」にすべてうたわれているので、パーフォーマンス・アーツとして、どう表現するかと言う違いが重要なのである。

   馬嵬で亡くなった楊貴妃への思いがつのった玄宗に、楊貴妃の魂を探すよう命じられた方士(中車)が、蓬莱山の宮殿で楊貴妃を呼び出すと、楊貴妃の魂が在りし日の美しい姿で現れて、玄宗との幸せな日々を回想しながら舞い続ける。名残は尽きないが、去ろうとして行く方士にかんざしを渡して静かに消えて行く。
   能舞台の作り物のような宮殿から現れた楊貴妃が、二輪の牡丹を描いた艶やかな二枚扇を巧みに遣って華麗な舞を舞い続ける、これが実に優雅で、天国からのサウンドの様に浄化された美しい、琴5、十七絃3、笛1、胡弓1、謡いをバックに、正に、夢幻の境地へ誘う燦爛たる舞台を見せて魅せてくれるのである。
   「長恨歌」の
   在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」
   の詞章を、素晴らしい謡と楽の音に乗って舞い続ける玉三郎の艶やかで優雅な舞姿を観ながら聴いていると、感慨ひとしおである。

   以前に、一度、玉三郎の「楊貴妃」を観たように思うのだが、記憶と言うものは悲しいもので、いつか消えてしまう。
   脳裏に焼き付けようと、舞台を観続けていた。
     
   今回は、年末最後に、素晴らしい歌舞伎を観た。
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国立劇場・・・12月歌舞伎 『今様三番三』『隅田春妓女容性 ―御存梅の由兵衛―』

2017年12月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「今様三番三」は、曽我二の宮実は平忠度の息女・如月姫(中村雀右衛門)が、烏帽子に素襖の姿で踊る三番叟を舞い、そして、振袖姿での艶やかな踊りを踊ると言う美しい舞台で、三番叟とは、全く違う世界。
   箱根権現で源頼朝が奉納した源氏の白旗が紛失し、源氏の武者・佐々木小太郎行氏(中村歌昇)と結城三郎貞光(中村種之助)が詮議するも、曽我二の宮が、白旗を晒しに見立てて華麗に振り、捕らえようとする二人や軍兵たちを蹴散らすと言う勇壮な舞踊劇で、雀右衛門が、華麗な舞台を披露して興味深い。

   「今様三番三」は、主筋の姫君を救出しお家の重宝を探してお家の再興を図ると言う歌舞伎でお馴染みの常套テーマ。
   金谷金五郎(中村錦之助)と駆け落ちして芸者となっている由兵衛の旧主の娘・小三(中村雀右衛門)を見受けして救出し、紛失したお家の重宝を、由兵衛(吉右衛門)と信楽勘十郎(中村東蔵)が、源兵衛堀の源兵衛(中村歌六)、土手のどび六(中村又五郎)や曽根伴五郎(大谷桂三)ら悪人一味から取り戻すと言う話である。
   悪者に、やぶ医者・三里久庵(中村吉之丞)を絡ませて、惚けたどび六との諧謔とコミカルタッチの笑い満開の演技が、悪を笑い飛ばす解毒剤で面白い。
   一方、由兵衛の女房・小梅(尾上菊之助)は、夫を助けるべく、米屋で丁稚奉公をしている弟の長吉(尾上菊之助)に身請けの金の工面を頼むのだが、長吉は、姉を助けるべく、長吉にゾッコンの、米屋佐治兵衛(嵐橘三郎)の娘・お君(中村米吉)に、その金の工面を頼んで、その金を持って、姉の許へ急ぐ。
   その邪魔をするのが、狂言回しの、小梅に恋する米屋の居候の長五郎(中村歌昇)。
   長吉は、姉の許へと急ぐ道中、由兵衛と行き会い、金策に困った由兵衛が、その金を貸してくれと哀願するも、絶対金を姉に渡す必要のある長吉が抵抗し、もつれ合っている間に、由兵衛は、忠義のためとは言え、女房の弟と知らずに長吉を殺めてしまう。
   断腸の悲痛の由兵衛、夫の思いを察して身替わりに罪を被ろうとする小梅、互いに相手を深く思いやる夫婦の情愛が実るなど、由兵衛は、源兵衛堀の源兵衛からお家の重宝を奪い返して、解放された金谷金五郎と小三を、国元へ送り出す。

  義理と人情に篤い侠客「梅の由兵衛」の心意気と苦衷を描いた並木五瓶の名作
  忠義を貫き通す由兵衛の意気地と周囲の人々への情愛、そして様々に織り成される人間模様をお楽しみください。と言うことだが、通し狂言として、推敲を重ねて、久しぶりに再演された歌舞伎で、
   由兵衛が、紫の錣頭巾を取り、尻からげの勇ましい姿になって啖呵を切る、目にも鮮やかで痛快なシーンや見得
   「米屋塀外」では二役を演じ分け右菊之助の早替りによる小梅と長吉のやり取り、
   米屋奥座敷」で、隣家から聞こえてくる浄瑠璃『ひらかな盛衰記』<梅ヶ枝無間の鐘の段>が、金の調達に苦心する長吉の心象風景の表現
   本所大川端の殺戮の場で、二人が客席を通る間に川辺の風景が変わる演出
   等々、舞台展開に施された工夫や面白さも、中々捨てがたい。

   脚本作家としても高名な吉右衛門であるから、定番ではない新作に近い歌舞伎でも、創意工夫を加えて、演出に工夫を凝らして、座頭として、名優たちを存分に活躍させて、素晴らしい舞台に仕上げているのは、流石である。

   テレビで語っていたが、もう大分以前になるのだが、播磨屋に加わった歌六と又五郎、その子息たちの米吉と歌昇と種之助の活躍やサポート、その貢献が、実に著しく、今回の歌舞伎を更に、充実させているように感じる。 

   ただ、今回の舞台で、一寸引っかかったのは、どび六に騙されて贋金をつかまされた金谷金五郎に、景気よく100両をポンと差し出して助けた由兵衛が、何故、最後の100両の金策に切羽詰まって窮地に立ち、会ったことがなくて顔を見知らなかったとは言え、義弟長吉を殺してまで、金を奪わなければならなかったのか、と言うこと。
   尤も、詳しい台本などを読んでおらず詳細は分からないのだが、これは、並木五瓶の作であるから、舞台上には関係ないことかも知れない。

   いずれにしろ、自分の金策のために奔走していた義弟を、知らずに誤ってとは言え殺してしまったことは、由兵衛にとっては、悔いても悔い切れない、嘆いても嘆き切れない、断腸の悲痛であるのだが、その時に、長吉に食い切られた小指の先を、妻小梅が、自分の指を切って身替わりに罪を被ろうとする健気さ熱いほどの由兵衛への熱愛に、胸が詰まる。
   今回、この重要な役割を演じる小梅と長吉を、菊之助が担っているのだが、非常に、格調の高いしっとりとした芸を見せてくれており、感動的であり、娘婿になって、吉右衛門劇団に加わった菊之助の貢献も、限りなく大きいと思う。
   
   錦之助と雀右衛門の瑞々しさ、東蔵の芸の風格、橘三郎、吉之丞、桂三たちベテランの芸の冴えと味、とにかく、脇役陣の活躍も見逃せず、素晴らしい大晦日の歌舞伎を見せてもらって楽しかった。
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国立劇場・・・文楽「ひらがな盛衰記」

2017年12月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   この「ひらがな盛衰記は、この文楽の「大津宿屋」や「笹引」、「松右衛門内」や「逆櫓」と言った舞台を、歌舞伎でも、見とり形式で、別々に見ることはあるのだが、今回の文楽のように、半通し狂言であっても、通して上演されると、よく分かって面白い。
   特に、「大津宿屋」の前に置かれた「義仲館の段」は、何十年ぶりかの上演のようだが、義仲が、妻子を残して、死を決して巴を伴って出陣する場を描くことによって、義仲の正室山吹御前や駒若君主従の敗走と流浪の経緯、そして、義仲の四天王の一人樋口次郎兼光の忠義などが鮮明となって、更に、ストーリー性が見えてきて楽しませてくれる。

   先の秀山祭で、松右衛門内と逆櫓を繋いだ「逆櫓」が、吉右衛門や歌六、東蔵などによって素晴らしい芝居が演じられて、その余韻も冷めやらぬ間の文楽の舞台だが、歌舞伎と文楽との微妙な差があって、興味深った。
   特に、歌舞伎では、義経たちとの奮戦で傷つき、血まみれになった手負い獅子のような形相になった樋口次郎が追われて登場してくるのだが、文楽では、三人の船頭を倒した後、松の木に上って物見して包囲されていることを悟って、およしより、権四郎が訴人したことを知ると言うストーリーになっていて、もう少し淡白で、歌舞伎では最も絵になる壮絶な樋口の雄姿はない。

   ところで、この文楽では、やはり、歌舞伎でも良く演じられる「松右衛門内の段」が、最も充実した舞台であろう。
   先の「大津宿屋の段」で、鎌倉方の番場忠太に踏み込まれて、身代わりとなって危うく命が助かった駒若君を求めてやってきた腰元お筆が、権四郎とおよしに、槌松として育てられている若君を返してくれと言って繰り広げられる両者の心の葛藤と苦衷極まりない愁嘆場、そして、その後、
   聟入りして義子として愛しんでいた槌松が主君の遺児駒若君であったことを知った松右衛門が、樋口として威儀を正して、義父権四郎に、武士としての忠義を立てさせて欲しいと哀願して、両者和解すると言う劇的な舞台展開であろう。
   この段の奥は、呂太夫と清介の義太夫と三味線、胸に響く。

   
   権四郎は、玉也の遣う独壇場の人形とも言うべきであろう、その素晴らしさは、特筆ものである。
   樋口次郎は、ダブルキャストで、この日は、ベテランの玉志、豪快な遣い手で、権四郎との武士としての忠義を越えた親子の情愛を見せていて上手い。
   これも、ダブルキャストであったが、山吹御前に健気に仕え、梅若君を守り通した腰元お筆を遣った簑二郎の活躍も凄く、役柄もあろうが、退場の時観客の拍手を浴びていた。
   権四郎の娘で松右衛門の女房、と言うよりも、若君の身代わりとして殺された槌松の母:およしだが、微妙な立場で難しく、歌舞伎では、人間国宝の東蔵が演じていたが、文昇も流石に上手く、庶民の雰囲気を匂わせているところが良い。

   とにかく、私見だが、文楽も歌舞伎も、名演を見せるミドリの舞台もよいが、やはり、一本の物語芸術であるので、通し狂言で鑑賞すべきであって、それこそが、醍醐味であろうと思っている。
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国立劇場・・・文楽:傾城恋飛脚の「新口村の段」ほか

2017年12月08日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   働く貴方にと銘打った「12月文楽鑑賞教室」
   プログラムは、
   日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)渡し場の段
   解説 文楽の魅力
   傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)新口村の段

   2時間一寸の短い公演だが、非常に中身が濃くて、本舞台の「ひらがな盛衰記」にも過ぎた熱のこもった文楽公演で、楽しませてくれた。

   傾城恋飛脚の「新口村の段」は、先月の歌舞伎座で見た「恋飛脚大和往来 新口村」の文楽バージョンで、
    亀屋忠兵衛 藤十郎
    傾城梅川 扇雀
    孫右衛門 歌六 に代わって、
    人形は、
    亀屋忠兵衛 勘彌   
    傾城梅川 清十郎
    孫右衛門 玉男


    多少、ストーリー展開には、微妙な差があって、その違いが、歌舞伎と文楽との味わいの差でもあろうか。
    最も印象的なのは、ラストシーンで、
    歌舞伎では、寒々とした、しかし、実に美しい奈良の田舎道を遠ざかって行く二人を孫右衛門が見送ると言う哀切極まりない絵のように詩情豊かな幕切れだが、
    文楽の場合には、部隊展開に制限があろうか、孫右衛門が、二人を見送った後、とぼとぼと雪の中を歩き始めると、舞台の忠三郎の家が、少しずつ下手に移動して行く。
   この段切れの一文、”・・・子を思ふ、平紗の善知鳥血の涙、長き親子の別れには・・・”と、子供を漁師に獲られて血の涙を流した能「善知鳥」を引用しており、孫右衛門は、正に、断腸の悲痛。
   傘を半開きにして顔を埋めて、前かがみになって泥濘を踏みしめながら、とぼとぼと家路につく孫右衛門の悲しさ慟哭を、玉男が人形に託して痛いほど聴衆に叩きつけて感動的である。

   亀屋忠兵衛の勘彌、傾城梅川の清十郎も、実に情感豊かに、美しくて流れるような舞台を作り出していて素晴らしい。
   清十郎は、忠兵衛と孫右衛門と言う全くシチュエーションの違った相手に対応する梅川の心の揺れを、実に微妙に演じ分けながら、近松が愛してやまなかった筈の梅川の心情を表出してくれているようで、感動した。
   勿論、上手く表現できないが、呂勢太夫と燕三、千歳太夫と富助の義太夫と三味線の素晴らしさは言うまでもない。

   日高川入相花王の「渡し場の段」は、安珍清姫の物語である。
   道成寺に逃げ込んだ安珍を、必死になって追いかけて来た清姫(紋臣)が、日高川の渡し場にやってきて、安珍に小金を貰って買収された船頭(紋秀)が、舟を出してくれないので、切羽詰まった清姫は、ざんぶと日高川に飛び込んで、みるみるうちに蛇身となって川を渡りきる。
   元の赤姫の姿に戻った清姫の口は割けて鬼の形相、「ガブ」と言う首を使っての変身が素晴らしい。
   水模様の幕が上下に揺れ動いて、日高川をイメージ、・・・その上を浮きつ沈みつ激しくのたうつ蛇体の清姫は、人間では表現できない人形の世界。
   10年以上も前の舞台、このブログに書いているのだが、残念ながら、玉三郎の舞台はどうだったか、思い出せない。

   文楽の魅力を語る希太夫、寛太郎、玉誉は、実に説明語り上手で、面白かった。
   この同じ公演を、外国人にもプログラムがあって、ダニエル・カールが解説していると言う。
   今月は、「ひらがな盛衰記」を含めて、東京の歌舞伎公演は、早くから満員御礼。
   素晴らしいことである。
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国立劇場・・・歌舞伎「坂崎出羽守」「沓掛時次郎」

2017年11月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   11月の国立劇場の歌舞伎公演は、次のとおり。

   山本有三生誕百三十年 山本有三=作 二世尾上松緑=演出
   坂崎出羽守(さかざきでわのかみ) 四幕
       
   長谷川伸=作 大和田文雄=演出
   沓掛時次郎(くつかけときじろう) 三幕
      
   二演目とも、新作歌舞伎で、新国劇を観ているような感じで分かり易く、ストーリー展開も現代感覚で進行するので、ストレートに楽しめてよい。

   「坂崎出羽守」は、
   大坂夏の陣での大坂城落城の時、家康(梅玉)から千姫(梅枝)を救出した者に、千姫を嫁がせると言われて、猛火の中から決死の覚悟で千姫を救い出し、顔に火傷を負った坂崎出羽守(松緑)だったが、千姫を江戸へ護送する途中、桑名の七里渡しの船中で、千姫は、本田平八郎忠刻(亀蔵)を見初めて、家康は約束を反故にして、平八郎に輿入れさせることになったので、千姫の嫁入り行列を目の当たりにして、憤懣やるかたなく慙愧の思いで行列へ乱入して、意を決して切腹すると言う悲惨な末路を辿る悲劇である。
   千姫を護送する船中で、何事も優れた本多平八郎に嫉妬心を抱いて対抗意識を燃やす姿が行く末を暗示しつつ、
   坂崎を憎んで平八郎に恋に落ちた千姫に手を焼いた家康が、対策を金地院崇伝(左團次)に依頼して、困った崇伝が、千姫が出家すると偽って、坂崎を諦めさせたのだが、尼になるはずの千姫が本多家に輿入れすることになったので、行列に乱入して、「今夜にも討手の者が向かうであろう。そうしたら、この火傷の首を上使の者に渡してやれ」と悔しさを滲ませながら、静かに切腹の座に就き、幕が下りる。

   この千姫事件については、諸説あって定かではないのだが、山本有三は、逸話を取捨選択して、素晴らしい創作劇を生み出し、武士としての坂崎出羽守の悲劇的な生き様を浮き彫りにしていて感動的である。
   天下人の家康と孫娘の千姫との関係は、現在のファミリー関係と全く変わらない会話が交わされていて、結構モダンであり、
   船中での坂崎出羽守に対して、千姫救出と言う勲功を鼻に掛ける嫌な奴と言った感じで、小姓や家来たち、千姫の対応が露骨に表現されていて、面白い。
   良識派の家臣三宅惣兵衛(市村橘太郎)と、主君思いの熱血漢松川源六郎(歌昇)が、坂崎を思って働きかける忠臣ぶりが、せめてもの救いであろうか。

   この舞台は、松緑あっての芝居。
   メリハリの利いた松緑の一世一代の大芝居で、全力投球の演技が光っている。

   「沓掛時次郎」は、
   一宿一飯の義理で、已む無く六ッ田の三蔵(松緑)を斬った博徒の沓掛時次郎(梅玉)は、博徒たちに命を狙われた三蔵の女房おきぬ(魁春)と息子の太郎吉(市川右近)を助けて旅に出る。
   中仙道熊谷宿で、極寒の中を、時次郎は、貧乏に泣きながら、おきぬと太郎吉を連れて門付けをして回っていたのだが、やがて三蔵の子供を宿す身重のおきぬが病床に就いたので、博徒の世界から足を洗った時次郎だったが、貧苦に迫られて金策のために、密かに喧嘩の助っ人を引き受て、産気づいて苦しむ姿に後ろ髪を惹かれながら、必ず無事に帰ってきて欲しいとすがる病床のおきぬを残して出かけて行く。
   無事帰ったものの、赤子諸共おきぬは亡くなってしまっていて、時次郎は、太郎吉を連れて再び旅に出る。
   母恋しく泣く太郎吉に向かって、時次郎は、おきぬを追慕し、「俺も逢いてぇ、逢ってひと言、日頃思ってた事が打ち明けてえが―未来永劫、もうおきぬさんにゃ逢えねえのだ 」と哀愁を漂わせまて慨嘆する。
   真人間になって幸せを掴みかけていた時次郎の悲しい恋の終わりであった。

   沓掛時次郎、名前だけは知っていたのだが、この歌舞伎を見る限り、実に、感動を呼ぶ渡世人、博徒である。
   ローマの傭兵と同じように、雇われれば私情を排して、その使命を全うすべく、全く恨みも辛みも勿論なければ、何の関りもない三蔵を殺害せねばならず、妻子まで殺そうとする博徒の非情に激怒して、今わの際の三蔵に頼まれて、愛情を感じて、おきぬと太郎吉を守り抜く。
   おきぬと時次郎のなさぬ恋ながら、抑えきれない思慕と慕情、梅玉と魁春の兄弟役者であることを忘れさせる、しみじみとした人情と純愛の疼きが、感動を呼ぶ。
   こう言う芝居になると、流石に、歌右衛門の後継者、実に上手い。
   松緑の長男・太郎吉を演じた左近の成長が著しい。
   
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顔見世大歌舞伎・・・「夜の部」

2017年11月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   顔見世興行だけあって、昼夜とも、歌舞伎座のプログラムは豪華である。
   この日観たのは、「夜の部」で、演目は次の通り。

   仮名手本忠臣蔵 五段目 六段目
   山崎街道鉄砲渡しの場
   同   二つ玉の場
   与市兵衛内勘平腹切の場
    早野勘平 仁左衛門
    女房おかる 孝太郎
    斧定九郎 染五郎
    千崎弥五郎 彦三郎
    判人源六 松之助
    母おかや 吉弥
    不破数右衛門 彌十郎
    一文字屋お才 秀太郎

   恋飛脚大和往来 新口村
    亀屋忠兵衛 藤十郎
    傾城梅川 扇雀
    孫右衛門 歌六


   真山青果 作 真山美保 演出
   元禄忠臣蔵 大石最後の一日
    大石内蔵助 幸四郎
    磯貝十郎左衛門 染五郎
    おみの 児太郎
    細川内記 金太郎
    吉田忠左衛門 錦吾
    赤埴源蔵 桂三
    片岡源五右衛門 由次郎
    久永内記 友右衛門
    堀内伝右衛門 彌十郎
    荒木十左衛門 仁左衛門

   仮名手本忠臣蔵の五段目六段目については、仁左衛門と孝太郎、秀太郎が出演するので、上方バージョンの舞台を期待したのだが、そうではなく、決定版となっている五代目菊五郎の編み出した音羽屋型であった。
   勘平が猪に向かって打つ二つ玉についても、与市兵衛の殺害シーンについても、勘平が切腹の時に、「色にふけったばっかりに」で血糊で顔を汚すところも、浅葱の紋服に着替えて切腹するところも、江戸バージョンであったように思う。
   浅葱の紋服に着替えるところは、13代仁左衛門も、その方が良いと言うことで上方版でも取り入れており、仁左衛門が、多少江戸版に傾斜しても、不思議はないのだが、前に観た舞台では、多少、折衷版に近かったような気がするのだが、記憶は定かでないので分からない。
   いずれにしろ、私は、仁左衛門、と言うよりは、松嶋屋の仮名手本忠臣蔵なら、上方版を観たかったので、残念であった。

   本格的な上方版の五段目六段目を観たのは、5年前の四月の歌舞伎座公演で、猿之助が亀治郎の頃の舞台で、亀治郎の勘平に、いたく感動した。
   藤十郎の「鴈治郎芸談」で、
   江戸版と上方版の主要な違いは、勘平の人間像の解釈の差で、浅葱の紋服に着替えて応対し、形容本位に運び、武士として死んで行く音羽屋型に対して、上方はすべて丸本本位で、武士に戻りたい一心の勘平が、ついに武士に戻れないままに死んで行く哀れを描くことに力点があるのだと言う。
   おかやが、紋服に着替えようとする勘平の紋服を取り上げて許さず、はじめて、死に行く勘平の後ろからおかやが武士の象徴である紋服をかけてやることによって、死んで初めて、武士の姿に戻れたと言うことであろうか。

   音羽屋型で、最も脚光を浴びる一場面は、仲蔵が編み出した斧定九郎(染五郎)が、与市兵衛を殺害して50両を奪い勘平の弾に当たって死ぬ一連のシーンで、黒羽二重の着付け、月代の伸びた頭に顔も手足も白塗りにして破れ傘を持つという拵えにしたので、絵の様に様式的で絵画的な舞台となり、これまでに、海老蔵や松緑など若手の名優の格好良い芝居を楽しんでいる。
   しかし、この定九郎の与市兵衛の殺害場面は、丸本踏襲の文楽の舞台では、もっと泥臭い人間的な芝居が演じられており、私は、この方が面白いと思っている。

   いつも、この舞台を観ていて、勘平が、一応、定九郎の懐の財布をそのままにしてその場を去って、もう一度現場に帰って財布を取って、その金50両を持って、京へ向かう千崎弥五郎(彦三郎)に追い付いて手渡す、すなわち、他人の金を着服して、仇討に加わろうとする、このことに対する罪の意識が、作者にはなかったのかと言う疑問を感じている。

   この時の50両を包んだ財布だが、終幕に近い泉岳寺での「早野勘平の財布第二の焼香」のシーンで、
   一番焼香は、柴部屋から師直を見つけ出した矢間十太郎重行だが、二番焼香に押された由良之助が、懐中より、碁盤目の財布を取り出して、「これが忠臣第二の焼香。早野勘平がなれのはて。」と言って、勘平の死の経緯を語って、六段目の勘平切腹の場で、自分の指示で、折角の拠金を、数右衛門と弥五郎に突っ返させたことについて、さぞ無念であろう口惜しかろう、ふびんな最期を遂げさせたのは、由良之助が一生の誤り、片時忘れず肌身離さず、今宵夜討ちも財布と同道。と語って、妹婿の平右衛門に焼香を命じる。
   財布を香炉の上に着せ、「二番の焼香 早野勘平重氏」と、高らかに呼ばわりし。声も涙にふるはせれば、列座の人も残念の、胸も、張り裂くばかりなり。
   となるのだが、尤も、あの六段目のストーリーがなければ、この場面も生きてこないのだが、しかし、いつも引っかかってはいる。

   「恋飛脚大和往来 新口村」は、近松門左衛門の世界。
    亀屋忠兵衛の藤十郎と傾城梅川の扇雀のコンビは、望み得る最高のキャスチングであろう。
   絵のように美しい詩情あふれる情感たっぷりのシーンの連続。
   孫右衛門の歌六が、哀切極まりない心情をギリギリまでセーブしてしみじみとした老父を演じて泣かせる。
   曽根崎心中など近松門左衛門の文楽の死への道行きシーンもそうだが、美しくも切ない男女の慟哭忍び泣きが走馬灯のように絵になった舞台は、上方の和事の世界であろうか。

   真山青果 作 真山美保 演出の「元禄忠臣蔵」は、どの舞台を、何時観ても感動する。
   「大石最後の一日」は、浪士の磯貝十郎左衛門とその許婚のおみのの純愛が、最も感動的なサブストーリーだが、
   吉良家の家名断絶を聞き満足し、初一念を貫きとおした内蔵助は、従容として威儀を正して切腹の場へ歩みゆく。
   幸四郎のこの舞台を何回観たか、とにかく、決定版であろう。
   磯貝十郎左衛門の染五郎は、幸四郎襲名の前哨戦で上手いのは当然だが、おみのを演じた児太郎が、実に感動的な舞台を見せて秀逸である。
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国立劇場・・・歌舞伎・仁左衛門の「霊験亀山鉾」

2017年10月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座が、定評のある演目をみどり形式のアラカルトプログラムで上演するのに対して、国立劇場は、歌舞伎を通し狂言で上演したり、上演が途切れていた演目を舞台に掛けるなど、非常に意欲的なプログラムを提供するので、いつも楽しみにしている。
   歌舞伎でも文楽でも同じだが、やはり、芝居は、一巻完結の通しで見るのが、一番楽しめる筈だと思っている。

   今回は、鶴屋南北の「霊験亀山鉾」、仁左衛門が、悪役二役を務める惡の華満開の歌舞伎で、久しぶりの上演だと言う。
   先月、あぜくら会予約解禁の9月4日朝10時には、歌舞伎としては珍しく、国立劇場のチケットセンターのインターネットが、長い間輻輳して繋がらなかったのだが、その割には、結構空席があった。

   この歌舞伎は、小諸の石井源蔵・半蔵兄弟が、父と長兄の仇・赤堀源五右衛門を、親族が何度も仇討を試みるが返り討ちに合い、28年後に、伊勢国亀山で討ち取ったと言う話が元になっており、曽我兄弟の仇討に似ていることもあって、元禄曽我とも呼ばれていると言う。
   鶴屋南北と提携して悪役で名演を残した五代目松本幸四郎が、赤堀源五右衛門をモデルにした主人公藤田水右衛門ほか二役を初演したと言うのだが、今回、どちらかと言えば、二枚目役者として華麗な舞台を魅せる仁左衛門が、演じる。
   これまでにも名演を演じて定評のある舞台なので、観客の期待も大きかったようで、本来なら、極悪人の憎々しい舞台を観ると、観客は、腹を立てる筈なのだが、仁左衛門の場合には、むしろ、惡の華と言う表現があるように、錦絵から抜け出たような美しい見得の数々を見たくて来ており、拍手喝さいであったのが面白い。

   水右衛門の最初の返り討ちは、立ち合いに負けた腹いせで兄を闇討ちにされた石井兵介を、立ち合いの審判・掛塚官兵衛(彌十郎)と図って杯に毒薬を仕込んで殺害し、
   続いて、養子の源之丞(錦之助)を、偽手紙で誘き出して、安部川堤で、仲間に落とし穴を掘らせて陥ったところを返り討ちにし、
   駿州中島村の焼き場で、源之丞の愛人芸者おつま(雀右衛門)と腹の子諸共に殺害する。
   しかし、最後は、重臣の大岸頼母(歌六)・主税(橋之助)の援助で、源之丞の女房お松(孝太郎)と長男源次郎たちによって、水右衛門は、無念の形相で殺害され、石井家苦節の本懐が遂げられる。

   勿論、歌舞伎は、このような単純な筋書きではなく、どこかで見たようなシーンが展開されるなど、綯い交ぜ歌舞伎を得意とする南北の面目躍如で、とにかく、魅せて見せてくれる。
   と言っても、水右衛門の悪辣ぶりも、極めて姑息で、悪人面が出来るような代物ではないが、そこが歌舞伎で、千両役者の仁左衛門が、その度毎に、格好よく大見得を切って、目の覚めるようなシーンを展開して、観客を釘付けにする。
   ただ、気になるのは、あのシェイクスピアのオセロー(Othello)を見れば、イアーゴーに対してムカつくほど悪辣ぶりに腹が立つのだが、仁左衛門の水右衛門やチンピラやくざ風の八郎兵衛を見ていても、表情は、阿修羅や閻魔以上に地獄顔なのだが、絵になっていて、少しも憎さ悪辣さを感じないのである。
   これを、團蔵や市蔵が演じていれば、石を投げたくなるほど、そのエゲツナサや姑息なやり方に腹が立つのだろうと思うと、逆に、魅力的な舞台を見せる仁左衛門の芸の奥行の凄さに感嘆せざるを得ないと思うのである。

   仁左衛門は、インタビューで、
   この作品は、“色気”と“冷酷さ”、“華やかさ”と“暗さ”、“陽”と“陰”がうまく入り混じって構成されています。悪人が活躍する残酷なお話ではありますが、お客様には残酷と感じさせずに「ああ、綺麗だな、楽しいな」と思っていただけるような雰囲気を出したいです。そして、“退廃的な美”と言うか、昔の“錦絵”を見ているような色彩感覚や芝居の色を楽しんでいただければ、何よりです。と言っているので、正に、意図通りに成功した舞台であろう。

   見せ場は、「駿州中島村焼場の場」で、燃え盛る火に煽られた樽型の棺桶が四方八方に吹き飛んで水右衛門が格好良く飛び出したり、舞台前面に幕状に本物の雨が降りだして、水右衛門とおつまとのくんずほぐれつの凄惨なシーンが繰り広げられるところ。
   仁左衛門の舞台なので、近松門左衛門が草葉の陰で喜んだと思うほど凄かった、大分前に観た「女殺油地獄」のお吉の孝太郎との舞台を思い出した。

   先に役どころのところで紹介した名優たちのほかに、何を演じても威厳と風格のある秀太郎、石井兵介と袖介を演じた又五郎、丹波屋おりきの吉弥、縮商人ほかの松之助などのベテランの活躍など、脇役に人を得て素晴らしい舞台を見せてくれた。
   こう言うめったに見られない舞台を、新しく練り直して、通しの形で芝居として見せてくれる国立劇場の歌舞伎公演は、非常に有難いと思っている。
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芸術祭十月大歌舞伎・・・マハーバーラタ戦記

2017年10月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   菊之助のシェイクスピアの「十二夜」に次ぐ、新作歌舞伎で、今回は、世界三大叙事詩の一つインドの「マハーバーラタ」に挑戦した意欲的な作品。
   ウイキペディアによると、原本はサンスクリットで書かれ、全18巻、100,000詩節[注釈 2]、200,000行を超えるとされる。これは聖書の4倍の長さに相当する。と言うことで、日本には全訳がないと言う。

   インドに侵入したアーリア人によるヒンドゥー教の重要な聖典の1つで、パーンダヴァ王家とカウラヴァ王家の争いを軸に進められる一大叙事詩である。
   そして、物語の中に、ヒンズー教の神々や多くの聖仙が登場して、教訓を施したり、諭したり、ヒンズー教の教典などが語られているので、宗教上重視されている。

   新作の歌舞伎や、オリジナルの作品のある芝居などを観る時には、一応、原典に当たることを試みているのだが、マハーバーラタに関しては、あまりにも膨大なので、略式ながら、マハーバーラタの翻訳者山際素男著「踊るマハーバーラタ 愚かで愛しい物語」を読んでみた。
   そのうち、八話が収載されていて、非常に面白く、今回の歌舞伎「マハーバーラタ戦記」を鑑賞するのに役立った。
   今回の菊之助が演じる歌舞伎の主人公迦楼奈(カルナ)は、太陽神が、王女汲手姫(時蔵、梅枝)に生せた子供だが、面白いのは、好色で恋に現を抜かすインドの神々の大らかさである。
   ダナエに黄金の雨に扮して近づき英雄ペルセウスを生ませ、白鳥に変じて鷹に追われるふりをしてレーダーの腕に隠れて絶世の美女ヘレネを生ませるなど、好色の限りを地で行ったギリシア神話の主神たる全宇宙を支配した全知全能の神ゼウス(ジュピター)と好一対。

   今回の歌舞伎の冒頭の舞台は、上段に、那羅延天(菊五郎)やシヴァ神(菊之助)など4神、下段に、梵天(松也)など5神が、黄金色に輝くインドのヒンズー神の神像の出立で並ぶ豪華さ。
   一寸、インド風の豪華な衣装に、光背をつけて、立派な髪飾りを頂いた日本の仏像を想像すればよい。
   そこへ、両側の花道から、太陽神(左團次)と帝釈天(鴈治郎)が登場して、夫々、人間社会に平和を実現するために、武力で平定治安を維持するために、人間との間に、子供を残したいと宣言して、神々が了承する。
   まず、太陽神が、王女汲手姫(梅枝)に、迦楼奈(カルナ)を生ませ、汲手姫は赤子をモーゼばりにガンジスに流す。舞台では省略されているのだが、帝釈天が、同じ汲手姫に百合守良王子など五王子のうち3人を生ませ、その3男の阿龍樹雷王子(アルジュラ 松也)が、後に、カルナと骨肉の争いで勝利しカルナを倒す。のである。

   この歌舞伎は、戦記と銘打つように、後半は激しいパーンダヴァ王家とカウラヴァ王家の争いで、パーンダヴァ王家の五王子たちと、鶴妖朶王女(七之助)と道不奢早無王子(片岡亀蔵)姉弟のカウラヴァ王家が、激しく戦い、カルナは、カウラヴァ王家側につくのだが、全部滅びて、パーンダヴァ王家の勝利に終わる。

   現代演劇の劇作家、青木豪が脚本化し、宮城聰が演出した、新作歌舞伎「極付印度伝 マハーバーラタ戦記」。
   かなり、ストーリーがシンプリファイされていて分かり易くて面白いのだが、バックの舞台は、エキゾチックな背景ながら、王女は、赤姫の衣装だし、男も女も殆ど完全に古い前時代の日本の衣装で登場するので、一気に、歌舞伎の舞台に転換して、セットの雰囲気など、中華風であったり、日本風であったり、一寸インド風であったり、全く国籍不明の歌舞伎と化す異様さ。
   このような異文化異文明を混交したような、ある意味では、奇天烈な芝居の面白さは、独特な雰囲気を醸し出していて興味深いのだが、イギリスでよく見た日本の衣装や舞台設定などを模した疑似日本風のオペラや芝居の舞台を思い出して、何となく、同じような違和感は拭えない。
   もう、40年ほど前に、ニューヨークのメトロポリタン・オペラで、完全に舞台考証をして当時のパリを精巧に設営したフランコ・ゼフィレッリの「ラ・ボエーム」を観て感激したのだが、全く同じ演出とセットで、今年のシーズンも上演すると言う。私など、これに傾倒している方だから、シェイクスピアでもオペラでも、クラシックな演出の方が、どちらかと言えば好きである。
   しかし、今回の「マハーバーラタ」は、面白く楽しませて貰った。
   
   興味深いのは、豊かでエキゾチックな音楽で、私としては、インドネシアのガムランを聴いているような感じであったが、音楽の棚川寛子さんの話では、楽器のメインは、鍵盤系の打楽器、木琴や鉄琴といったシロフォン系で、ジャンベなどアフリカ系の太鼓やブラジルのスルド、中東のサントゥール、それからスチールパン等々20~30種類の、基本的に弦ものではなく、たたけば鳴る楽器ものを使い、インドの楽器はタブラくらいだと言う。
   日本のものは、効果音としてツケだけで、楽譜などはなく台本に書き込まれたものが総てで、演奏者は、SPAC(静岡県舞台芸術センター)の公演で何度か一緒にやっているメンバーだと言う。
   これが、竹本や長唄や囃子と上手くコラボして紡ぎあげたサウンドの魅力は、独特であり、実に瑞々しくて楽しい。

   この歌舞伎は、正に、菊之助あってのマハーバーラタで、今回は、立役全開の素晴らしい舞台の連続で、次に、どのようなスケールの大きな新作歌舞伎を、作り出してくれるのか、その期待こそ、菊五郎と吉右衛門二人の人間国宝を父に持つ歌舞伎界の寵児としての宿命でもあろう。
   神々しいまでに威厳と風格を備えて舞台を締めていた座頭の菊五郎始め、左團次や鴈治郎や楽善などベテランの神々、時蔵の艶やかさと気品、
   今回、特に、光っていたのは、七之助のパンチの利いた強烈な烈女としての実に個性的なツルヨウダ王女で、アルジュラ王子と梵天を演じた松也の匂うような爽やかな演技も特筆ものである。
   それに、彦三郎と亀蔵の坂東兄弟、梅枝をはじめ、若手の活躍と進境が著しく楽しませて貰った。
   
   
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秀山祭九月大歌舞伎・・・「ひらかな盛衰記 逆櫓 」「再桜遇清水」

2017年09月08日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回、歌舞伎座は、夜の部を鑑賞した。

   演目は、
   ひらかな盛衰記 逆櫓
   再桜遇清水

   「ひらかな盛衰記 逆櫓」は、旭将軍木曽義仲の重臣樋口次郎兼光が、義経を討つために、義経の御座船に乗ろうと、漁師権四郎の入り婿になって逆櫓の技術を身に着けたのだが、そこへ、腰元お筆がやってきて、巡礼先で権四郎が取り換えっ子になって育てている孫の槌松が、木曽義仲の遺児駒若丸であるから返してくれと言ってきたので、船頭松右衛門で通していた樋口が、自分の素性と義経追討の意思を明かす。と言う話。
   その後、義経の乗る船の船頭になる命令を受けていたので、逆櫓の指導を受けにやってきた同僚船頭たちに、既に素性がばれていたので、襲われ捕らわれるのだが、権四郎の機転と畠山重忠の恩情で、槌松(駒若丸)の命が救われたので、縄目にかかる。
   海上での「逆櫓」の練習と組み討ちでは、体の小さい子役を使っての「遠見」の演出が面白い。

   吉右衛門の初舞台が、この槌松だったと言うことだが、今回の舞台は、久方ぶりの上演だと言う。
   これ程、吉右衛門が大きく偉丈夫に輝く舞台も少ないと思うのだが、前後に変わって行く世話と時代の使い分けの素晴らしさも、特筆ものである。
   孫を身代わりに殺されて断腸悲痛の義父権四郎に、義理故に、駒若丸を死守して武士道の誠を貫かせて欲しいと血の滲むような懇願、この父子の人間としてのギリギリの命の交感が感動的である。

      女房およしが、もう少し若々しい雰囲気を醸し出して居れば、もっと良かったのにと思うのだが、相変わらず、老成したいぶし銀の様に光る歌六の権四郎、特に、お筆に理不尽な要求をされて苦悶し慟哭する祖父としての生き様が素晴らしい。
   特に目立たず奥ゆかしく、感情を押し殺して誠実にお筆を演じる雀右衛門は、素晴らしい秀山祭の貴重な女形。吉右衛門の従兄弟と言うだけの関係以上である。

   このブログでは、「逆櫓」は、2年前の芝翫の舞台と、玉男と勘十郎のそれぞれの文楽の舞台について書いているのだが、歌舞伎でも、結構見ているような気がしている。
   前場の「大津の宿」で、お筆とその父鎌田隼人が、山吹御前と駒若丸を連れて泊まっているところを賊に襲われて、丁度、そこに権四郎と槌松も同宿していて、取り換えっ子になると言う舞台も観ているので、よく覚えている。
   12月の国立小劇場での文楽では、「ひらかな盛衰記」が通しで上演されるので、楽しみである。

   この舞台のキャスティングは、次の通りだが、恐らく、最高の手堅い布陣であろう。
   左團次は適役だが、又五郎、金之助、松江などは、ちょい役と言った感じで惜しいくらいである。

   船頭松右衛門実は樋口次郎兼光 吉右衛門
   漁師権四郎 歌六
   お筆 雀右衛門
   船頭明神丸富蔵 又五郎
   同 灘吉九郎作 錦之助
   同 日吉丸又六 松江
   松右衛門女房およし 東蔵
   畠山重忠 左團次

   松貫四の名で書いた吉右衛門の作品「再桜遇清水」は、金丸座20周年記念に初演されたとかで、13年後の今日、歌舞伎座では初めての上演である。
   これまでは、主役の清水法師清玄/奴浪平または清水法師清玄を、吉右衛門が演じていたが、今回は、芸の継承であろうか、代わって、染五郎が演じている。
   ストーリーが、恋に落ちて煩悩を断ち切れずに、奈落の底に転落して行く高僧の悲惨な生き様をテーマとした歌舞伎なので、吉右衛門が演じるとどうなるのか分からないが、久米川で洗濯する若い女性の白い脛に見惚れて、神通力を失い、墜落した久米仙人とは違った深刻な物語でありながら、もっと、泥臭い若いエロチックな雰囲気の濃い世界なので、染五郎の方が、適役ではないかと思って観ていた。

   鎌倉の桜が満開の新清水観音を舞台に、源頼朝の厄除けのため、「薄縁の御剣」の奉納が行われ、その奉納役の千葉之助清玄が、北条時政の娘桜と恋仲。
   一方、荏柄平太胤長と言う男も、この桜姫に御執心なのだが、門前での逢引き中に、清玄が、桜姫からもらった誘いのラブレターを落として荏柄に取られて、二人は窮地に立つ。
   ところが、機転の利いた桜姫の腰元波路が、これレターは、清玄(きよはる)に当てられたものではなく、清水法師清玄(せいげん)に当てられたものだと言いつくろい、丁度、通りかかった僧清玄に、桜姫の思い人は清玄だと言い含めて納得させて、人目見て圧倒されていた手前もあって、人助けも修業の内とそれを認める。
   一方、こうなった以上生きていく甲斐がなくなったと悲観した桜姫が、清水の舞台から飛び降り自殺を図るが、気絶していたのを下にいた清玄が、口移しで水を飲ませて助け起こして、思い余ってものにしようとするところを、千葉之助清玄が助ける。
   逃げて行く桜姫からもぎ取った左袖を後生大事に曼陀羅の様に、破戒僧となって落ちぶれて、廃寺の様な寺にかけて、桜姫を思い、抱きたい抱かれたい成仏させてほしいとのたうつ悲惨さで、天国を見せるとだまして参寺者を殺害して金を奪うなど、見かねた弟子たちも悲観して入水する。
   色々あって、追っ手から逃れようと、葛篭を背負った惣兵衛が、葛篭を一時預けて去ったので、この葛篭を開けてみると、中には恋しい桜姫が入っていた。清玄は、今度こそ思いを遂げようと桜姫に迫るのだが、奴磯平が駆けつけてきて、清玄を切り殺す。
   亡霊となった清玄が、無間地獄に落ちても抱くと桜姫を我が物にしようと襲い掛かるのだが、その時、千葉之助清玄が「薄縁の御剣」を手に現れて、御剣の霊験のおかげで、桜姫は危ういところで助けられる。
   舞台上手上段の洞穴から、邪鬼と化した清玄の亡霊が、二人を咆哮し威嚇して幕。

   この歌舞伎は、次の段の順に進行する。
   桜にまよふ破戒清玄
   新清水花見の場
   雪の下桂庵宿の場
   六浦庵室の場

   歌舞伎座のチラシには、「陥れられた僧の執念を描いた一幕」と銘打たれているのだが、陥れられたのではなく、恋の魔力に負けて邪恋に身を焦がして自ら地獄へと転落して行った破戒僧の壮絶な軌跡である。
   よく台詞を覚えていないのだが、一度で良いから抱きたい抱かれたいと極めて現代的なストレートな表現で、染五郎の清玄が、凡人と変わらずに煩悩にノタウツ新鮮さは、面白い。
   先にダンテの「神曲」を読んだが、同じ人間でも、ベアトリーチェへのダンテの思いと、随分違うものだなあ。と思って観ていた。

   キャスティングは、次の通りで、染五郎、雀右衛門、錦之助を軸にして、ベテランと若手の脇役が頑張って良い味を出していて面白い。
   魁春が良い味を出して好演していた。
   清水法師清玄/奴浪平 染五郎
   桜姫 雀右衛門
   奴磯平 歌昇
   奴灘平 種之助
   妙寿 米吉
   妙喜 児太郎
   大藤内成景 吉之丞
   石塚団兵衛 橘三郎
   按摩多門 宗之助
   荏柄平太胤長 桂三
   千葉之助清玄 錦之助
   山路 魁春

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