今回の国立劇場の親子で楽しむとか社会人のためのと銘打った「歌舞伎鑑賞教室」の「義経千本桜」は、本来なら普及版のプログラムで簡易バージョンなのだが、今回は、恐らく特別な舞台なのであろう。
「渡海屋の場」と「大物の浦の場」を、通しで、2時間弱で一気に演じ切る吉右衛門の監修で、娘婿の音羽屋の御曹司菊之助が、初役で銀平&知盛を演じると言うのであるから、話題性は抜群である。
女形として華麗で水も滴る好い女を演じ続けている菊之助が、立役でも最も豪快な知盛を演じて、大碇を背負って断崖から海に真っ逆さまに入水すると言う大技を見せると言うのであるから、話題にならない筈がない。
それに、相手役の女房&典侍の局を、めきめき実力をつけて上り調子のの梅枝が演じており、弁慶の團蔵が病休で、市川菊一郎に代わったので、役者の総てが若手と言う、実にエネルギッシュな溌剌とした舞台で、非常に、興味深い舞台を見せてくれた。
ところで、「義経千本桜」は、「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」と同じ手法で、夫々の主題を取り込みながら豊かな発想を駆使して浄瑠璃に仕立てた芝居になっているように、義経の逸話を鏤めたストーリー展開に更に創作性に独特の工夫を加えて、非常に面白い作品に仕立て上げている。
しかし、長い浄瑠璃の一部分ではあるのだが、今回演じられた「渡海屋の場」と「大物の浦の場」は、紛れもなく、能「船弁慶」からの本歌取り作品である。
私には、あの能「安宅」が、歌舞伎「勧進帳」に、狂言「花子」が歌舞伎「身替座禅」に素晴らしい作品として生まれ変わったように、そのアウフヘーベンぶりに興味があった。
能は、世阿弥の伝承によって、出来るだけ平家物語に忠実にと言うことになっているのだが、
平家物語では、都落ちした義経一行が、この能の舞台となる大物の浦に至るシーンを、次のように、ほんの数行で描写しているだけである。
「・・・その日、摂津の国大物の浦にぞ吹き寄せらる。 それより船に乗り、押し出だす。平家の怨霊強かりけん、にわかに西風はげしく吹きて、・・・」
この部分を脚色して、嵐を知盛の亡霊に仕立てて「船弁慶」を作曲しているのだが、夢幻能など、あの世の世界を甦らせる能の手法としては、当然の成り行きであろうか。
ところが、歌舞伎では、その能「船弁慶」の後半を、実は、知盛は、安徳帝の入水を見届けてから、最早これまで、「見るべきものは見はてつ」と言って豪快に飛び込み壇ノ浦の藻屑と消えたと言うストーリーを、生き残って、安徳帝を擁して逃げ延びて、この大物の浦に移り住んで、捲土重来再起を期していたと言うことに変えて、義経との対決の場を設定したのである。
壇ノ浦の最後では、鎧を二領着けて家長と手を取り組んで入水したのだが、一説には、囚われの身となる辱めを受けぬために碇を巻き付けて入水したと言われており、この逸話を踏襲して、文楽や歌舞伎の舞台の大詰めでの最もポピュラーな見せ場、太い縄を体に巻き付けて大碇を背負って海に身を投げる豪快な「碇知盛」が成立したのであろう。
渡海屋銀平実は平知盛 と言う設定で、知盛に壇ノ浦の入水の再現を実現させたその着想が非常に面白いのだが、○○実は××と言う人物設定で、もどりが歌舞伎の芝居効果を高めている常套手段であるから、能のように亡霊ではなくて、生きてカクカク変身してこのような人物であったと再登場させるのも、不思議ではないと言うことであろう。
尤も、この歌舞伎でも、
能「船弁慶」の詞章の、後シテ「そもそもこれは。桓武天皇九代の後胤。平の知盛。幽霊なり。あら珍しやいかに義経。・・・
と言う部分を踏襲してか、知盛を、幽霊の白装束を模した武装姿で登場させ、最後の碇知盛でも、義経に、襲ったのは知盛の亡霊であったと人に伝えてくれと言っているところなど、大変興味深いところである。
歌舞伎なので、史実らしいストーリーとはあっちこっち違っていて、例えば、歌舞伎では静と伏見稲荷で別れることになっているのだが、実際には、静は吉野まで連れて行って、その後京への道で捕われている。
また、頼朝に追われて義経が九州に向かって都落ちした時には300騎だけで、大物の浦に向かったと言うことであるから、確かに、船出して途中暴風のために難破し摂津に押し戻されたと言うことながら、知盛と海戦を行う能力などは全くなく、まして、威儀正しく盛装して安徳帝を助けて、守護して行くなどと言ったストーリー展開など無理な話である。
いずれにしろ、平家の名将知盛への追悼、そして、義経への判官贔屓をテーマにして、観客サービスに徹した歌舞伎作家の力量なのであろうが、安徳帝が実は姫宮でその偽っての帝位が天照大神の罰を受けて平家の滅亡を招いたと言う奇想天外な発想も面白いが、手負い獅子状態の知盛が、安徳帝の安堵を確かめて「昨日の敵は今日の味方」と言ったような調子の安直な結末なども、やはり、芝居だからであろうか。
それに、この歌舞伎では、冒頭、知盛の家来である相模五郎(坂東亀三郎)と入江丹蔵(市川右近)が、追っ手を装って寸劇を演じて逗留中の義経一行を安心させるシーンや、この歌舞伎では省略されていたが、弁慶が、寝ている子供お安(安徳帝)を跨ごうとしたら足がしびれてタダ者でないことが分かるなど、知盛も義経も、相手の素性をすでに知っていての舞台展開で、海戦の結末も暗示されているのである。
上手く出来た芝居は、注意して見ておれば、ストーリー展開が手に取るように良く分かるようだが、機転が利かず空気の読めない私などは、解説を読んでも何回観ても分からないので、苦労している。
さて、実際の歌舞伎の舞台だが、何回観ても記憶が曖昧なのだが、この歌舞伎では、知盛が豪快に仰け反って入水した後で、退場する義経がすっぽんで安徳帝を家来から受け取って、自ら抱えて花道に消えて行き、最後に、弁慶が一人で、勧進帳のように花道を去って行った。
典侍の局が、安徳帝を頂いて入水しようとするシーンの様子や舞台装置など、それに、義経の登場も幕で舞台展開を図るなど、従来、歌舞伎座で見慣れている演出とは、少し、変化していたように思う。
この舞台で、最大の収穫は、菊之助が、知盛と言う典型的な立役を、それも、剛直な碇知盛を演じて、華麗な女形からのイメージチェンジとも言うべき新境地に挑戦して、見事に素晴らしい成果を上げたと言うことであろう。
台詞回しも本格的な立役で、実父菊五郎の艶と色香、颯爽として端正な人情味豊かな芸風に加えて、豪快で風格豊かな格調高い岳父吉右衛門の薫陶を受けての新境地の舞台で、これからの成長が如何ばかりかと思うと末恐ろしい、そんな期待を抱かせてくれる。
実父時蔵の芸風を受けての梅枝の銀平女房と典侍の局も、実に良い。
女房としてのしっとりとした演技から急転直下、風格と威厳、それに、運命の悲哀を身に背負っての哀惜極まりない自害への伏線など、菊之助をサポートしての爽やかな舞台が感動的であった。
弟の萬太郎が、歌舞伎のみかたの解説で、達者な語り部を上手くこなしていたが、本舞台での、義経も、中々、堂に入った演技をしていた。
相模五郎の亀三郎の性格俳優ぶりのコミカルな演技や魚尽くしの台詞回しなども秀逸で、何時も、綺麗な女形で存在感を増している市川右近が、今回は、入江丹蔵と言う若侍姿で、素晴らしい面構えで颯爽とした演技を見せてくれて面白かった。
最近、歌舞伎界の大御所が、どんどん、逝ってしまって大きな穴が空いていたが、幸いなことに、若い有能な役者たちの成長と努力で、新鮮味豊かで魅力的な舞台が、立て続けに表れて来ているようで、嬉しい限りである。
「渡海屋の場」と「大物の浦の場」を、通しで、2時間弱で一気に演じ切る吉右衛門の監修で、娘婿の音羽屋の御曹司菊之助が、初役で銀平&知盛を演じると言うのであるから、話題性は抜群である。
女形として華麗で水も滴る好い女を演じ続けている菊之助が、立役でも最も豪快な知盛を演じて、大碇を背負って断崖から海に真っ逆さまに入水すると言う大技を見せると言うのであるから、話題にならない筈がない。
それに、相手役の女房&典侍の局を、めきめき実力をつけて上り調子のの梅枝が演じており、弁慶の團蔵が病休で、市川菊一郎に代わったので、役者の総てが若手と言う、実にエネルギッシュな溌剌とした舞台で、非常に、興味深い舞台を見せてくれた。
ところで、「義経千本桜」は、「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」と同じ手法で、夫々の主題を取り込みながら豊かな発想を駆使して浄瑠璃に仕立てた芝居になっているように、義経の逸話を鏤めたストーリー展開に更に創作性に独特の工夫を加えて、非常に面白い作品に仕立て上げている。
しかし、長い浄瑠璃の一部分ではあるのだが、今回演じられた「渡海屋の場」と「大物の浦の場」は、紛れもなく、能「船弁慶」からの本歌取り作品である。
私には、あの能「安宅」が、歌舞伎「勧進帳」に、狂言「花子」が歌舞伎「身替座禅」に素晴らしい作品として生まれ変わったように、そのアウフヘーベンぶりに興味があった。
能は、世阿弥の伝承によって、出来るだけ平家物語に忠実にと言うことになっているのだが、
平家物語では、都落ちした義経一行が、この能の舞台となる大物の浦に至るシーンを、次のように、ほんの数行で描写しているだけである。
「・・・その日、摂津の国大物の浦にぞ吹き寄せらる。 それより船に乗り、押し出だす。平家の怨霊強かりけん、にわかに西風はげしく吹きて、・・・」
この部分を脚色して、嵐を知盛の亡霊に仕立てて「船弁慶」を作曲しているのだが、夢幻能など、あの世の世界を甦らせる能の手法としては、当然の成り行きであろうか。
ところが、歌舞伎では、その能「船弁慶」の後半を、実は、知盛は、安徳帝の入水を見届けてから、最早これまで、「見るべきものは見はてつ」と言って豪快に飛び込み壇ノ浦の藻屑と消えたと言うストーリーを、生き残って、安徳帝を擁して逃げ延びて、この大物の浦に移り住んで、捲土重来再起を期していたと言うことに変えて、義経との対決の場を設定したのである。
壇ノ浦の最後では、鎧を二領着けて家長と手を取り組んで入水したのだが、一説には、囚われの身となる辱めを受けぬために碇を巻き付けて入水したと言われており、この逸話を踏襲して、文楽や歌舞伎の舞台の大詰めでの最もポピュラーな見せ場、太い縄を体に巻き付けて大碇を背負って海に身を投げる豪快な「碇知盛」が成立したのであろう。
渡海屋銀平実は平知盛 と言う設定で、知盛に壇ノ浦の入水の再現を実現させたその着想が非常に面白いのだが、○○実は××と言う人物設定で、もどりが歌舞伎の芝居効果を高めている常套手段であるから、能のように亡霊ではなくて、生きてカクカク変身してこのような人物であったと再登場させるのも、不思議ではないと言うことであろう。
尤も、この歌舞伎でも、
能「船弁慶」の詞章の、後シテ「そもそもこれは。桓武天皇九代の後胤。平の知盛。幽霊なり。あら珍しやいかに義経。・・・
と言う部分を踏襲してか、知盛を、幽霊の白装束を模した武装姿で登場させ、最後の碇知盛でも、義経に、襲ったのは知盛の亡霊であったと人に伝えてくれと言っているところなど、大変興味深いところである。
歌舞伎なので、史実らしいストーリーとはあっちこっち違っていて、例えば、歌舞伎では静と伏見稲荷で別れることになっているのだが、実際には、静は吉野まで連れて行って、その後京への道で捕われている。
また、頼朝に追われて義経が九州に向かって都落ちした時には300騎だけで、大物の浦に向かったと言うことであるから、確かに、船出して途中暴風のために難破し摂津に押し戻されたと言うことながら、知盛と海戦を行う能力などは全くなく、まして、威儀正しく盛装して安徳帝を助けて、守護して行くなどと言ったストーリー展開など無理な話である。
いずれにしろ、平家の名将知盛への追悼、そして、義経への判官贔屓をテーマにして、観客サービスに徹した歌舞伎作家の力量なのであろうが、安徳帝が実は姫宮でその偽っての帝位が天照大神の罰を受けて平家の滅亡を招いたと言う奇想天外な発想も面白いが、手負い獅子状態の知盛が、安徳帝の安堵を確かめて「昨日の敵は今日の味方」と言ったような調子の安直な結末なども、やはり、芝居だからであろうか。
それに、この歌舞伎では、冒頭、知盛の家来である相模五郎(坂東亀三郎)と入江丹蔵(市川右近)が、追っ手を装って寸劇を演じて逗留中の義経一行を安心させるシーンや、この歌舞伎では省略されていたが、弁慶が、寝ている子供お安(安徳帝)を跨ごうとしたら足がしびれてタダ者でないことが分かるなど、知盛も義経も、相手の素性をすでに知っていての舞台展開で、海戦の結末も暗示されているのである。
上手く出来た芝居は、注意して見ておれば、ストーリー展開が手に取るように良く分かるようだが、機転が利かず空気の読めない私などは、解説を読んでも何回観ても分からないので、苦労している。
さて、実際の歌舞伎の舞台だが、何回観ても記憶が曖昧なのだが、この歌舞伎では、知盛が豪快に仰け反って入水した後で、退場する義経がすっぽんで安徳帝を家来から受け取って、自ら抱えて花道に消えて行き、最後に、弁慶が一人で、勧進帳のように花道を去って行った。
典侍の局が、安徳帝を頂いて入水しようとするシーンの様子や舞台装置など、それに、義経の登場も幕で舞台展開を図るなど、従来、歌舞伎座で見慣れている演出とは、少し、変化していたように思う。
この舞台で、最大の収穫は、菊之助が、知盛と言う典型的な立役を、それも、剛直な碇知盛を演じて、華麗な女形からのイメージチェンジとも言うべき新境地に挑戦して、見事に素晴らしい成果を上げたと言うことであろう。
台詞回しも本格的な立役で、実父菊五郎の艶と色香、颯爽として端正な人情味豊かな芸風に加えて、豪快で風格豊かな格調高い岳父吉右衛門の薫陶を受けての新境地の舞台で、これからの成長が如何ばかりかと思うと末恐ろしい、そんな期待を抱かせてくれる。
実父時蔵の芸風を受けての梅枝の銀平女房と典侍の局も、実に良い。
女房としてのしっとりとした演技から急転直下、風格と威厳、それに、運命の悲哀を身に背負っての哀惜極まりない自害への伏線など、菊之助をサポートしての爽やかな舞台が感動的であった。
弟の萬太郎が、歌舞伎のみかたの解説で、達者な語り部を上手くこなしていたが、本舞台での、義経も、中々、堂に入った演技をしていた。
相模五郎の亀三郎の性格俳優ぶりのコミカルな演技や魚尽くしの台詞回しなども秀逸で、何時も、綺麗な女形で存在感を増している市川右近が、今回は、入江丹蔵と言う若侍姿で、素晴らしい面構えで颯爽とした演技を見せてくれて面白かった。
最近、歌舞伎界の大御所が、どんどん、逝ってしまって大きな穴が空いていたが、幸いなことに、若い有能な役者たちの成長と努力で、新鮮味豊かで魅力的な舞台が、立て続けに表れて来ているようで、嬉しい限りである。