やはり、正月の歌舞伎座は、華やいでいて良い。
今日、歌舞伎座の1階ロビーで、江戸消防記念会・第一区六番組による「木遣り始め」が行われて、楽しませてくれた。
何時もの通り、ロビーの壁面に飾られた凧などの飾りつけも、初春の雰囲気を醸し出していて、中々奇麗である。



さて、歌舞伎の公演だが、この日は、昼の部を鑑賞した。
冒頭は、「郭三番叟」。
三番叟と言えば、能「翁」を真っ先に思い出し、そして、そのバリエーションである歌舞伎や文楽の翁が登場する舞台が念頭に来るのだが、この「郭三番叟」は、似ても似つかぬ華やかな吉原の遊郭を舞台にした舞踊バージョンの三番叟である。
傾城(孝太郎)を翁、新造(種之助)を千載、太鼓持(染五郎)を三番叟に見立てたと言うのだが、観ていて良く分からないし、とにかく、郭の情趣に仕立てた華やかな舞踊を楽しめばよいのだと言う事らしい。
それに、傾城の衣装が素晴らしいのも見どころであろう。
私が、この日興味を持ったのは、羅生門で左腕を切り落とされた鬼・茨木童子(玉三郎)が、その腕を取り戻しに渡辺源次綱(松緑)宅に、伯母真柴に化けてやってきて、綱を騙して左腕を奪って本性を現し、綱と戦う歌舞伎「茨木」であった。
この歌舞伎は、松羽目ものの舞台をバックに演じられており、能や狂言からの脚色の舞台化だと思えばさもあらず、河竹黙阿弥作のれっきとした歌舞伎オリジナルの舞台で、明治の初演だと言うから、私には驚きであった。
能には、「羅生門」と言う曲があって、綱が茨木童子の腕を切り落とすシーンがテーマになっていて、言うならば、この歌舞伎の前の舞台と言う感じである。
この茨木が能なら、夢幻能ではなくて現在能で、前場は、伯母真柴が綱を訪ねてやってきて左腕を取り戻して逃げて行くシーンまでで、間狂言に当たる部分は、士卒運藤(鴈治郎)と士卒軍藤(門之助)が演じるストーリー解説的なコント芝居であろうか。
この間に、玉三郎が、素晴らしい鬼神の隈取と白頭風の鬼の衣装に身を固めて、綱が威儀を正した凛々しい武将姿に変身して、揚幕が揚がると、一気に二人が舞台に雪崩れ込んできて華麗な戦いが展開される後場が始まる。
この歌舞伎は、観ていて、能「安宅」が歌舞伎「勧進帳」になり、狂言「花子」が歌舞伎「身替座禅」になったように、本当に、能の舞台から脚色した舞台のように思えて不思議であった。
玉三郎がシテ、松緑がワキ、家来宇源太の歌昇と太刀持音若の左近がワキツレ、鴈治郎と門之助がアイである。
専門知識がないので分からないが、逆に、この歌舞伎を題材にして、能阿弥とか何とかい言って、新作能を作曲してはどうかと思ったりしている。
玉三郎の真柴は、能の衣装のような雰囲気で、白塗りの化粧をして白髪の老婆姿で、下向き加減で目を微かに閉じて、長い間、花道で殆ど動きをセーブして舞うように踊りながら登場し、物忌み中の松緑の綱に門前払いを食らって、門の外で、笠と扇子を使って静かな所作。
歌舞伎の舞台であるから、極端に動きを切り詰めた能役者とは違って、玉三郎は、殆ど舞台を移動しないのだが、とどまることなく流れるような所作を続けている。
歌舞伎なので舞踊と言うべきなのか分からないが、私には、能を舞っているように思えた。
勿論、綱に入室を許されて、皆と夫々、踊り始めると、玉三郎本来の素晴らしい舞踊シーンが展開され、後場の厳つい隈取で綱を威嚇して戦う姿などは、歌舞伎役者の姿であるが、前場の真柴の静かな玉三郎は、能役者のような美しさがあった。
玉三郎の鬼神姿は、威厳と鬼の風格はあって素晴らしいのだが、実に優しくて温かく、私は、こんな鬼が好きである。
隈取も、大きな逆立った眉毛や厳つい表情も素晴らしいのだが、目をむき鼻を開いて真っ赤な舌を出して睨む姿にどこか愛嬌がある。
凄い形相をするのは、前場の左腕を見つけた時と、その腕を取り上げた時以降で、その目力の迫力と鋭さ凄さは大変なもので、最後の綱との戦いは、むしろ、流れるように美しかった。
花道のすっぽんで倒れて伏すのだが、勝負はつかなかったのであろう、最後に、花道を消えて行く姿も、素晴らしい絵になっていて、私には、奇麗な印象的な舞台であった。
松緑の渡辺綱の凛々しさ格調の高さ、そして、偉丈夫に堂々と見得を切る格好良さ。
私は、久しぶりに凄い松緑の舞台を観た思いであり、また、立派に歌舞伎役者の仲間入りをして太刀持ちで父をサポートしていた左近の成長ぶりを感激して観ていた。

今日、歌舞伎座の1階ロビーで、江戸消防記念会・第一区六番組による「木遣り始め」が行われて、楽しませてくれた。
何時もの通り、ロビーの壁面に飾られた凧などの飾りつけも、初春の雰囲気を醸し出していて、中々奇麗である。



さて、歌舞伎の公演だが、この日は、昼の部を鑑賞した。
冒頭は、「郭三番叟」。
三番叟と言えば、能「翁」を真っ先に思い出し、そして、そのバリエーションである歌舞伎や文楽の翁が登場する舞台が念頭に来るのだが、この「郭三番叟」は、似ても似つかぬ華やかな吉原の遊郭を舞台にした舞踊バージョンの三番叟である。
傾城(孝太郎)を翁、新造(種之助)を千載、太鼓持(染五郎)を三番叟に見立てたと言うのだが、観ていて良く分からないし、とにかく、郭の情趣に仕立てた華やかな舞踊を楽しめばよいのだと言う事らしい。
それに、傾城の衣装が素晴らしいのも見どころであろう。
私が、この日興味を持ったのは、羅生門で左腕を切り落とされた鬼・茨木童子(玉三郎)が、その腕を取り戻しに渡辺源次綱(松緑)宅に、伯母真柴に化けてやってきて、綱を騙して左腕を奪って本性を現し、綱と戦う歌舞伎「茨木」であった。
この歌舞伎は、松羽目ものの舞台をバックに演じられており、能や狂言からの脚色の舞台化だと思えばさもあらず、河竹黙阿弥作のれっきとした歌舞伎オリジナルの舞台で、明治の初演だと言うから、私には驚きであった。
能には、「羅生門」と言う曲があって、綱が茨木童子の腕を切り落とすシーンがテーマになっていて、言うならば、この歌舞伎の前の舞台と言う感じである。
この茨木が能なら、夢幻能ではなくて現在能で、前場は、伯母真柴が綱を訪ねてやってきて左腕を取り戻して逃げて行くシーンまでで、間狂言に当たる部分は、士卒運藤(鴈治郎)と士卒軍藤(門之助)が演じるストーリー解説的なコント芝居であろうか。
この間に、玉三郎が、素晴らしい鬼神の隈取と白頭風の鬼の衣装に身を固めて、綱が威儀を正した凛々しい武将姿に変身して、揚幕が揚がると、一気に二人が舞台に雪崩れ込んできて華麗な戦いが展開される後場が始まる。
この歌舞伎は、観ていて、能「安宅」が歌舞伎「勧進帳」になり、狂言「花子」が歌舞伎「身替座禅」になったように、本当に、能の舞台から脚色した舞台のように思えて不思議であった。
玉三郎がシテ、松緑がワキ、家来宇源太の歌昇と太刀持音若の左近がワキツレ、鴈治郎と門之助がアイである。
専門知識がないので分からないが、逆に、この歌舞伎を題材にして、能阿弥とか何とかい言って、新作能を作曲してはどうかと思ったりしている。
玉三郎の真柴は、能の衣装のような雰囲気で、白塗りの化粧をして白髪の老婆姿で、下向き加減で目を微かに閉じて、長い間、花道で殆ど動きをセーブして舞うように踊りながら登場し、物忌み中の松緑の綱に門前払いを食らって、門の外で、笠と扇子を使って静かな所作。
歌舞伎の舞台であるから、極端に動きを切り詰めた能役者とは違って、玉三郎は、殆ど舞台を移動しないのだが、とどまることなく流れるような所作を続けている。
歌舞伎なので舞踊と言うべきなのか分からないが、私には、能を舞っているように思えた。
勿論、綱に入室を許されて、皆と夫々、踊り始めると、玉三郎本来の素晴らしい舞踊シーンが展開され、後場の厳つい隈取で綱を威嚇して戦う姿などは、歌舞伎役者の姿であるが、前場の真柴の静かな玉三郎は、能役者のような美しさがあった。
玉三郎の鬼神姿は、威厳と鬼の風格はあって素晴らしいのだが、実に優しくて温かく、私は、こんな鬼が好きである。
隈取も、大きな逆立った眉毛や厳つい表情も素晴らしいのだが、目をむき鼻を開いて真っ赤な舌を出して睨む姿にどこか愛嬌がある。
凄い形相をするのは、前場の左腕を見つけた時と、その腕を取り上げた時以降で、その目力の迫力と鋭さ凄さは大変なもので、最後の綱との戦いは、むしろ、流れるように美しかった。
花道のすっぽんで倒れて伏すのだが、勝負はつかなかったのであろう、最後に、花道を消えて行く姿も、素晴らしい絵になっていて、私には、奇麗な印象的な舞台であった。
松緑の渡辺綱の凛々しさ格調の高さ、そして、偉丈夫に堂々と見得を切る格好良さ。
私は、久しぶりに凄い松緑の舞台を観た思いであり、また、立派に歌舞伎役者の仲間入りをして太刀持ちで父をサポートしていた左近の成長ぶりを感激して観ていた。

