goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

壽初春大歌舞伎・・・玉三郎の「茨木」

2016年01月06日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   やはり、正月の歌舞伎座は、華やいでいて良い。
   今日、歌舞伎座の1階ロビーで、江戸消防記念会・第一区六番組による「木遣り始め」が行われて、楽しませてくれた。
   何時もの通り、ロビーの壁面に飾られた凧などの飾りつけも、初春の雰囲気を醸し出していて、中々奇麗である。
   
   
   

   さて、歌舞伎の公演だが、この日は、昼の部を鑑賞した。
   冒頭は、「郭三番叟」。
   三番叟と言えば、能「翁」を真っ先に思い出し、そして、そのバリエーションである歌舞伎や文楽の翁が登場する舞台が念頭に来るのだが、この「郭三番叟」は、似ても似つかぬ華やかな吉原の遊郭を舞台にした舞踊バージョンの三番叟である。
   傾城(孝太郎)を翁、新造(種之助)を千載、太鼓持(染五郎)を三番叟に見立てたと言うのだが、観ていて良く分からないし、とにかく、郭の情趣に仕立てた華やかな舞踊を楽しめばよいのだと言う事らしい。
   それに、傾城の衣装が素晴らしいのも見どころであろう。

   私が、この日興味を持ったのは、羅生門で左腕を切り落とされた鬼・茨木童子(玉三郎)が、その腕を取り戻しに渡辺源次綱(松緑)宅に、伯母真柴に化けてやってきて、綱を騙して左腕を奪って本性を現し、綱と戦う歌舞伎「茨木」であった。
   この歌舞伎は、松羽目ものの舞台をバックに演じられており、能や狂言からの脚色の舞台化だと思えばさもあらず、河竹黙阿弥作のれっきとした歌舞伎オリジナルの舞台で、明治の初演だと言うから、私には驚きであった。

   能には、「羅生門」と言う曲があって、綱が茨木童子の腕を切り落とすシーンがテーマになっていて、言うならば、この歌舞伎の前の舞台と言う感じである。
   この茨木が能なら、夢幻能ではなくて現在能で、前場は、伯母真柴が綱を訪ねてやってきて左腕を取り戻して逃げて行くシーンまでで、間狂言に当たる部分は、士卒運藤(鴈治郎)と士卒軍藤(門之助)が演じるストーリー解説的なコント芝居であろうか。
   この間に、玉三郎が、素晴らしい鬼神の隈取と白頭風の鬼の衣装に身を固めて、綱が威儀を正した凛々しい武将姿に変身して、揚幕が揚がると、一気に二人が舞台に雪崩れ込んできて華麗な戦いが展開される後場が始まる。

   この歌舞伎は、観ていて、能「安宅」が歌舞伎「勧進帳」になり、狂言「花子」が歌舞伎「身替座禅」になったように、本当に、能の舞台から脚色した舞台のように思えて不思議であった。
   玉三郎がシテ、松緑がワキ、家来宇源太の歌昇と太刀持音若の左近がワキツレ、鴈治郎と門之助がアイである。
   専門知識がないので分からないが、逆に、この歌舞伎を題材にして、能阿弥とか何とかい言って、新作能を作曲してはどうかと思ったりしている。

   玉三郎の真柴は、能の衣装のような雰囲気で、白塗りの化粧をして白髪の老婆姿で、下向き加減で目を微かに閉じて、長い間、花道で殆ど動きをセーブして舞うように踊りながら登場し、物忌み中の松緑の綱に門前払いを食らって、門の外で、笠と扇子を使って静かな所作。
   歌舞伎の舞台であるから、極端に動きを切り詰めた能役者とは違って、玉三郎は、殆ど舞台を移動しないのだが、とどまることなく流れるような所作を続けている。
   歌舞伎なので舞踊と言うべきなのか分からないが、私には、能を舞っているように思えた。
   勿論、綱に入室を許されて、皆と夫々、踊り始めると、玉三郎本来の素晴らしい舞踊シーンが展開され、後場の厳つい隈取で綱を威嚇して戦う姿などは、歌舞伎役者の姿であるが、前場の真柴の静かな玉三郎は、能役者のような美しさがあった。

   玉三郎の鬼神姿は、威厳と鬼の風格はあって素晴らしいのだが、実に優しくて温かく、私は、こんな鬼が好きである。
   隈取も、大きな逆立った眉毛や厳つい表情も素晴らしいのだが、目をむき鼻を開いて真っ赤な舌を出して睨む姿にどこか愛嬌がある。
   凄い形相をするのは、前場の左腕を見つけた時と、その腕を取り上げた時以降で、その目力の迫力と鋭さ凄さは大変なもので、最後の綱との戦いは、むしろ、流れるように美しかった。
   花道のすっぽんで倒れて伏すのだが、勝負はつかなかったのであろう、最後に、花道を消えて行く姿も、素晴らしい絵になっていて、私には、奇麗な印象的な舞台であった。

   松緑の渡辺綱の凛々しさ格調の高さ、そして、偉丈夫に堂々と見得を切る格好良さ。
   私は、久しぶりに凄い松緑の舞台を観た思いであり、また、立派に歌舞伎役者の仲間入りをして太刀持ちで父をサポートしていた左近の成長ぶりを感激して観ていた。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立劇場:十二月歌舞伎・・・「東海道四谷怪談」

2015年12月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場の12月の歌舞伎は、通し狂言「東海道四谷怪談」。
   お岩の幽霊シーンが有名だが、れっきとした忠臣蔵外伝で、主人公が塩谷浪人かその関係者であり、今回の通し狂言では、前後に、忠臣蔵の舞台が展開されていて、大詰めの最終場面は、仇討の場で、討ち入りシーンが繰り広げられるなど、正に、年末のプログラムである。
   忠臣蔵との関係は、南北に扮装した染五郎が、すっぽんに登場して、冒頭で、その次第を語るので良く分かる。
   ただし、四世鶴屋南北作の怪談であり、父親のみならず、貞女のお岩までもが夫の伊右衛門に惨殺されて、幽霊となって復讐を果たすという物語で、浪々の身となった家臣たちやその家族の屈折した陰惨な運命を主題にしている所為もあって、ストーリーそのもののが暗くて陰鬱であり、怪談として面白くても、見ていて楽しい歌舞伎ではない。
   
   そんなこともあってであろうか、お岩に伴う舞台の仕掛けや4役を演じ分ける染五郎の早変わりなど、舞台展開に興味深い趣向や工夫が施されていて、それなりに面白く見せてくれるのは、これまでに築き上げられた伝統の賜物であり演出の冴えであろうか。

   お岩(染五郎)の夫民谷伊右衛門(幸四郎)は、お岩の父である元塩冶藩士四谷左門(錦吾)に、公金横領などの極悪非道な行いを悟られて、辻斬りに見せかけて殺した上に、
   隣家の高家の重臣伊藤喜兵衛(友右衛門)が、伊右衛門に恋い焦がれる孫娘(米吉)の婿に迎えるべく、お岩の面相を醜くして離縁させようと仕込んだ毒薬によって、化け物のようになったお岩は、恨みを残して死んで行く。
   その後、お岩の幽霊が伊右衛門を悩まし続けて、伊右衛門の母(萬次郎)や仲間を次々に死へ導き、最後に伊右衛門は、お岩の妹お袖(新悟)と夫の佐藤与茂七(染五郎)によって討たれる。
   とにかく、伊藤の口車に乗って孫娘を娶り、お岩の身ぐるみ剥いだ上に子供の着物まで持ち出すと言う、どうしようも救いのない極悪人の伊右衛門が主人公なので、私など、少しも面白くないのだが、しかし、どう考えても悪人にはなり得ない、と言うよりも、どう演じても悪人とは思えない幸四郎が演じているので、私にとっては、救いだと思って観ていた。
   同じように、騙してお袖を嫁にした極悪人の直助権兵衛を演じていた彌十郎の方は、サブキャラクターなので、それなりに、観ていた。

   この歌舞伎では、お馴染みの「元の伊右衛門浪宅の場」がメインであろうか。
   毒薬を飲んで悶え苦しみ顔が醜くなったお岩が、「下座音楽」の「独吟」に乗って、鉄漿を塗り、櫛で髪を梳くのだが、櫛を当てる毎に、髪が抜け落ちていく鬼気迫る壮絶な「髪梳き」シーンが、たまらなく哀れである。
   蒼白でくちゃくちゃになった染五郎の悲壮な表情が実にリアルで悲しい。

   この歌舞伎での見せ場である仕掛けのシーンが、「堀の場」で展開される。
   まず、「戸板返し」で、 堀で釣り糸を垂れる伊右衛門の前に、戸板が流れついて、その戸板には、彼が殺したお岩と小平の死体が表裏に打ち付けられている。「戸板返し」は、この戸板にお岩と小平の2役を演じている染五郎が打ち付けられている勘定であるから、ひっくり返した瞬間、染五郎は早変わりしなければならない。
   びっくりして観ていたのだが、後で調べて分かったのは、お岩と小平役の衣裳が、前もって戸板の表裏に打ち付けてあって、戸板にあけられた穴から顔だけを出せば良くて、戸板を裏返すと同時に早替りができると言う寸法である。(今回の早変わりについては、これとは違っていたようで、まるさんのコメントをご参照ください。私も1階7列目で観ていて、リアルだと言う印象はありましたが。)
   この他に、この場では、お岩の幽霊が、燃えさかる提燈から飛び出して来て中空を泳ぐ「提灯抜け」や、仏壇の中に人を引き入れる「仏壇返し」などのシーンが登場してきて面白い。
   この仕掛けは、小さな模型だが、東京の江戸東京博物館にあって、毎日実演をしているので、見ることが出来て、そのカラクリが分かって面白い。

   これまでに、確か、2回、四谷怪談を観ており、最初は、吉右衛門の民谷伊右衛門、中村福助のお岩、そして、2回目は、染五郎の伊右衛門、菊之助のお岩であった。
   伊右衛門役は、高麗屋家の芸なのであろう。
   染五郎は、伊右衛門を演じているので、そのほかの役にも馴染みがあり、やり易かったのであろうか。

   この歌舞伎では、やはり、幸四郎の重厚な伊右衛門あっての舞台であると思うが、特筆すべきは、お岩と小平と余茂七を演じた染五郎の八面六臂 の活躍と華麗で確かな芸であろうと思う。
   小平や与茂七は、これまでの延長線上の芸であるから造作もなかろうが、お岩は、この舞台の看板であり象徴であり、同じ、女形でも異色の役柄である。
   前回は、女形の福助と菊之助なので、当然の役作りであろうが、主に、立役専門の染五郎にしてみれば、それなりの挑戦であったのであろうが、器用に4役を演じ分けていて、流石であると思った。

   正味、4時間の舞台であり、充実した歌舞伎であった。
   劇場正面の庭に、1本だけ、もみじの木が植わっていて、紅葉していた。
   
   
   
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十二月大歌舞伎・・・「妹背山婦女庭訓」

2015年12月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の夜の部は、通し狂言「妹背山婦女庭訓」。
   これと同じバージョンに最後の入鹿誅伐を加えた四段目の舞台を、国立劇場の決定版ともいうべき文楽で見ているので、その比較から言っても非常に興味深い舞台であった。
   この歌舞伎は、玉三郎の座頭公演とも言うべき企画演出で、若手の花形役者を揃えて紡ぎあげた新鮮なイメージの綺麗な舞台であった。

   この四段目は、三輪の酒屋の娘お三輪の悲恋の物語で、文楽では、勘十郎が師匠の簑助譲りの素晴らしい人形を遣ったが、歌舞伎では、前半の「杉酒屋」と「道行恋苧環」のお三輪を七之助が、後半の「三笠山御殿」のお三輪を玉三郎が演じた。
   二年前の文楽では、道行から御殿まで、紋壽が、温もりのある端正なお三輪を遣って、ベテランの冴えを見せて好演していた。

   人形である筈のお三輪が、隣の淡海に思い焦がれて恋一途にのめり込み、悩み悶えて嫉妬に狂う。乙女が優しく、そして、激しく息づきながら舞台を泳ぎながら、観客の感動を誘う。
   こんなに慕われて愛されて一途に思い詰められても、肝心の求馬(淡海)は、お三輪を、現地妻とは言わないまでも、当座の体良い愛人扱いで、訪ねてくる人品卑しからぬ上品な乙女・入鹿の妹・橘姫の方にご執心。
   最初から分かっている結末にも拘らず、お三輪は、七夕には、白い糸を男、赤い糸を女に見立てて、男の心が変らないようにと願いを込めて、苧環を祭る風習があるので、神棚に苧環を祭り、「心変わりはない」と言う求馬の誓いに安心して、赤い苧環を求馬に渡す。
   あろうことか、この苧環の赤い糸の端を、次の「道行恋苧環」の舞台で、求馬は、夜明けの鐘に驚いて去って行く橘姫の袖に付け、後を追って行き、一悶着はあるものの、御殿で祝言と言う事になる。
   可哀そうなのはお三輪で、橘姫を追って去って行く求馬の裾に白い糸を付けて後を追いかけて行くが、途中で糸が切れてしまい、難渋して入鹿御殿に着くものの、意地悪な官女たちに散々虐め甚振り続けられて、最後には、運命の悪戯で殺されてしまう。

   折角の通し狂言であるから、お三輪は、一人の女形が、全舞台を通して演じるべきだと思うのだが、歌舞伎では、今回は、前述したように、七之助と玉三郎が演じ分けていた。
   七之助の初々しくて健気で品のあるお三輪が、素晴らしくて感動的であっても、大ベテランで人間国宝の玉三郎の演技と、七之助との演技の差は、歴然としていて、後半の御殿の場は、やはり、格別である。

   今回、前半の「杉酒屋」と「道行恋苧環」の舞台は、七之助のお三輪、松也の求馬、児太郎の橘姫と言う今人気の高い若い花形俳優の非常に意欲的な、新鮮で華麗な魅力的た舞台が展開されて、見せて魅せる舞台になっている。
   玉三郎が、後世に残そうと思って作り上げた現在の「妹背山婦女庭訓」のお三輪物語のスタンダード・バージョンと言う事であろう。
   一方、先の文楽では、お三輪が勘十郎、求馬(実は藤原淡海)が玉男、橘姫が和生、と言った重鎮3人の揃い踏みで、すごい舞台を見せてくれていたが、これはこれで、文楽の世界であろう。
   
   しかし、今回、前半の舞台で、七之助の代わりに玉三郎が、お三輪を演じておればどうだったであろうか。
   そう考えれば、御殿の場で、お三輪の玉三郎が、ベテランの歌六の入鹿や灰汁が強くて厳つい女官たち、そして、パンチの利いた鱶七の松緑、初めての女形だと言うコミカル芸が抜群に上手い中車の豆腐買おむらを相手にして超ド級の芸を見せても、バランスが取れたと言う事であろう。

   玉三郎のお三輪を注視しながら、双眼鏡で、顔の表情を追い続けていた。
   女官たちに担ぎ上げられて、花道のすっぽんに投げ出されて、放心状態になって中空を仰いだ美しい顔が、一気に、屈辱と怨念に歪み始めて、阿修羅のような険しい表情になって御殿を睨みつける。
   紅葉狩の鬼女の隈取よりも、能の般若の面よりも、もっともっとリアルで凄まじく、御殿に向かって突き進む。
   鱶七に突き立てられて瀕死の状態で生き血を取られて、「喜べ、北の方」と言われて喜びの表情をちらりと覗かせながらも苦痛を耐えて、「一目お顔を見たい」と断末魔の恋情、苧環を小脇に抱えながら息絶えて行く健気さ崇高さ、・・・玉三郎の独壇場であろう。
   
   年末も押し詰まって、もうすぐ、正月。
   奇麗な歌舞伎を楽しませてもらった。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立劇場・・・十二月文楽「奥州安達原」

2015年12月06日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   平安時代の末期、源頼義・義家父子が、奥州で勢力を誇っていた安倍頼時等一族を、反乱や前九年の役で討伐するのだが、戦に敗れた息子の安倍貞任・宗任兄弟が、義家を討とうとするストーリーが主題の浄瑠璃が、今回の「奥州安達原」である。

   4年前に、この劇場で、「奥州安達原」が上演されたが、その時は、枝折戸外に締め出された悲痛な袖萩とその娘お君と父母との再会、その夫であり父である貞任との最後の分かれの物語であるメインの「環の宮明御殿の段」の前に、「外が浜の段」と「善知鳥文治住家の段」があって、南兵衛と偽って仮の姿の弟・宗任が、義家にまみえるべく、罪人となって都へ引かれて行く経緯までが語られている。
   今回は、代わって、「朱雀堤の段」が上演されて、京都七條の朱雀堤で盲目の物貰いに落ちぶれた袖萩とお君が、父親・平丈直方の切腹と言う一大事を知って、居合わせた儀仗の後を追うと言う話が展開されている。
   この「奥州安達原」では、他にも、能の「黒塚(安達原)」を脚色した「黒塚」の素晴らしい舞台がある。

   桂中納言則氏が来訪して、儀仗が、預かっていた宮の弟・環の宮が、安倍兄弟の陰謀で誘拐されて、期限内に探し出せなくなったので、切腹を申し渡す。
   雪の中を、父の身を案じた袖萩が、氏素性の分からぬ浪人と駆け落ちしたことを責められて勘当されているために、人目を忍びながら、お君に手を引かれて御殿に来る。、
   突っぱねる両親に必死に縋り付こうとする母娘の悲しくも哀切極まりない対面が、簡素な枝折戸を隔てて展開される。
   袖萩の夫が、書き物で安倍貞任と分かるのだが、敵であるから、尚更許せない丈。娘の変わり果てた姿と寄り添う幼い孫娘の哀れな姿を見て、激しい嗚咽を忍びながら、知らぬふりをしておろおろする母・浜夕。
   母に門付けとして歌を謡えと言われて、袖萩は、お君が手渡した三味線を爪弾き、歌祭文に託して、親不孝を詫び、子を持って初めて知った親心の有難さを切々とかきくどく。    寄り添ってじっと聞き入るお君が、何の望みもないけれど、一言言葉をかけてくださいと、枝折戸に縋り付いて祖父母に訴える。

   冷たく突き放された袖萩が、持病の癪が起こり倒れ伏すと、お君は、雪を口に含んで溶かせて母に含ませ、自分の着物を脱いで母に着せて背をさする。娘が、自分は温かいと言って裸同然で居るのに気付いた袖萩は、(わしがやうな不幸な者が、そなたのやうな孝行の子を持った、これも因果の内か)としっかりと抱きしめて泣き伏す、それを見て堪らなくなった浜夕は、せめてもと、垣根越しに打掛を投げ
   (さつきにから皆聞いてゐる、まゝならぬ世じゃな、町人の身の上なれば、若い者じゃもの淫奔もせいじゃ、そんなよい孫生んだ娘、ヤレでかしたと呼び入れて、婿よ舅と言ふべきに、抱きたうてならぬ初孫の顔もろくに得見ぬは、武士に連れ添ふ浅ましさと諦めて去んでくれ、ヨ、ヨ)
   儀仗に呼ばれて、(娘よ、孫よもうさらば、可哀の者や)と老いの足、見返り見返り、奥へ行く

   何回聴いても、このくだりが身に染みてたまらなく切ない。
   燕三の三味線に乗って文字久大夫の慟哭を地で行く名調子が肺腑を抉る迫力で、清十郎の袖萩、勘次郎のお君、簑次郎の浜夕が命の限りの悲哀を演じて感動的である。
   この日、住大夫が鑑賞されていたが、跡を継いで大きく羽ばたいた文字久大夫の浄瑠璃をどのように聴いておられたであろうか。

   さて、この後、突然、宗任が現れて、貞任の妻ならば、儀仗を討てと懐剣を渡す。義家が声をかけたので、宗任は覚悟を決めるが、逃がしてやる。
   儀仗は、責任を取って切腹し、袖萩もわが身を嘆き懐剣を胸に刺す。
   夫と娘を亡くした浜夕は嘆き悲しむ。
   二人の自害は仕方がないと現れた桂中納言を、義家が、貞任だと見破ったので、戦いを挑むが、義家は、それを止めて、袖萩との最後の別れを促す。
   瀕死の状態の袖萩が一目だけでも顔が見たいとお君とともに貞任に縋りつく。
   宗任も現れるが、義家は、二人に、後の戦いを約して別れる。

   この歌舞伎では、袖萩が、親の許さぬ契りを結んだ故に勘当されるのだが、これは、伊賀越道中双六の唐木政右衛門の妻であるお谷と同じケースで、封建思想では、侍の世界では許されぬ基本的な規律であったのであろうか。
   ここで、母の浜夕が、「町人の身の上なれば、若い者じゃもの淫奔もせいじゃ」と言っているのが面白い。
   浄瑠璃や歌舞伎の世界では、この武士と町人の恋を描いた和事の世界の違いが、例えば、近松門左衛門の心中物など、芝居を面白くしているようで、興味深い。
   
   さて、この舞台としては、格調の高い豪快な人形を遣った玉志の貞任が主役であり、文司の儀仗や幸助の宗任が、メインキャラクターなのであろうが、私には、清十郎の袖萩が、最も、印象に残っている。
   前には、勘十郎が、素晴らしい袖萩を遣っていて魅せてくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立劇場・・・十二月文楽:紅葉狩

2015年12月03日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりに文楽の「紅葉狩」を鑑賞する機会を得たのだが、先々週、国立能楽堂で、能「紅葉狩」を観て、9月に歌舞伎の染五郎の「紅葉狩」の舞台も見ているので、その違いを感じて、非常に興味深かった。
   勿論、オリジナルは能であって、その後、歌舞伎化され、文楽は、歌舞伎版を脚色したのだと言う。
   ところが、歌舞伎は、かなり、能に沿った舞台となっていると思っていたのだが、結構、加わったシーンもあり、少しずつ変わってきており、文楽に至ると、かなりの違いが出てきて面白い。

   能の「紅葉狩」は、大体、次のようなストーリーで、歌舞伎もこれに近い。
   信濃国戸隠で、若い美女が数人連れ立って紅葉見物にやってきて宴会となる。そこへ、馬に乗り供の者を従えた平維茂がやってきて、楽しげな宴会が開かれているのを見て、供の者に様子を見て行かせる。美女一行は素性を明かさないので、維茂は馬を降り通り過ぎようとするが、美女が一緒に紅葉と酒を楽しもうと誘惑するので、無下に断ることもできず宴に参加する。維茂は、美女の舞と酒に酔って不覚にも前後を忘れて寝入ってしまうと、美女は本性を覗かせキット睨みつけて消える。そこへ八幡宮の神が現れて、夢中の維茂に、目を覚まして、あの美女は鬼が化けたもので討ち果たせと告げて神剣を残して去る。目を覚した維茂は、鬼を退治すべく身構えて、嵐と共に炎を吐いて現れた鬼と激しく戦って、神剣の威光によって鬼を切り伏せる。

   ところで、文楽の方だが、
   戸隠山の時雨に濡れて輝く錦の紅葉の山道を、平惟茂(一輔)が、ともも連れずに上ってくると、琴の音が聞こえる。木の間から幔幕が見えるが、通り過ぎようとすると、呼び止める声がして、更科姫(勘彌)と言う気高く美しいお姫様が現れて、酒宴に誘う。一度は断るが、尚も引き留めるので、誘いを受けて、酒を酌み交わして姫とも打ち解けて、酒の肴にと優雅に舞う姫の姿にうっとりとして寝込んでしまい、姫は消える。日が暮れると、寝こんでいる惟茂のもとに山神が現れて起きるよう警告する。目が覚めると、強風が吹き、凄まじい鬼と化した姫が、討たれた仲間の鬱憤を晴らすためと襲い掛かり、激しい戦いの末に、惟茂は鬼を退治する。

   文楽も、歌舞伎と同様に、全山紅葉の華やかな舞台の幕開きで、やや、赤みが勝った濃いオレンジ色一色の紅葉風景が、華やかさを醸し出して素晴らしい。
   ストーリー展開が、単純化されているのか、上演時間が33分と、能や歌舞伎と違ってかなり短くなっているのだが、登場する人形に比べて、大夫と三味線が豊かで、華やかさを増している。
   前半の演目が、「奥州安達が原」と言う重厚かつ2時間半と言う大舞台であったので、気分展開としては、恰好の舞台であった。
   鬼女の頭は、「増補大江山」にも使われる頭とかで、迫力があるけれど、能の面や歌舞伎の隈取と比べて、何となく、可愛くて愛嬌のある感じで、鏡獅子のように、長い毛を豪快に振って舞い狂うところなど、中々愛嬌があって面白いと思った。

   文楽では、冒頭、惟茂一人で登場すると言うのも面白いが、更科姫の誘惑もかなり激しくて、袖を引いてしなだりかかると言うアタックぶりであるから、美女にこのようにされれば、いくら朴念仁でも、陥落間違いない。
   それに、能でも歌舞伎でも、寝入った惟茂の前に、山神が現れて、神剣を残すと言うのもストーリー展開として分かり辛いが、文楽では、惟茂持参の剣の威徳と言う事になっていて現実的である。

   能の美しい装束に身を固めた美女たちの華やかな相舞など華麗で素晴らしいが、歌舞伎になると、豊かな音曲と背景の豪華さや登場人物の華麗さなど、想像の世界である能とは違って、魅せる舞台となっているのだが、文楽の方も、姫の二枚扇の艶やかさを踏襲しているのみならず、この舞のシーンでは、人形遣いは出遣いで、素晴らしい至芸を披露してくれる。

   最後の「・・・斬り掛け斬り伏せ惟茂が、たちまち鬼神を滅ぼして・・・」と言うシーンでは、能の場合には、シテが倒されて退場すると言う字義通りだが、歌舞伎では、斬られた筈の鬼神が、舞台中央の大きな松の幹に上って、惟茂と一緒になって、その上で大見得を切ると言う見せ場になっていて、文楽も、これを踏襲している。
   能でも、最後の惟茂と鬼神の決闘シーンは、流派によって違っていて、普通は、1対1のようだが、前に観た金春流では、全女性たちが全員鬼女となって一人ずつ惟茂に戦いを挑んで舞うと言う華麗な見せ場のあるダイナミックな能舞台を展開して素晴らしかった。
   
   いずれにしろ、歌舞伎は、最も演劇的な芝居の世界であるから、非常に分かり易い。
   それに比べて、能の場合は、シテやワキの謡はセリフと言うよりもナレーションに近くて地謡と呼応して謡に乗って演じられている舞台芸術であり、文楽の場合は、大夫がすべてを語って人形遣いが登場人物を演じると言う、どちらかと言うと、両方とも、役者がリアルに演じる実際の芝居の舞台と言うよりも、謡と語りをベースにしそれに乗った舞台芸術でありながら、これほど、違っているのが、私には、興味の対象でもあって、何時もそう思いながら、そんな我流の観劇を楽しんでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立劇場:11月歌舞伎・・・「神霊矢口渡」

2015年11月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場の歌舞伎は、平賀源内作の「神霊矢口渡」。
   それも、通し狂言ということで、「頓兵衛住家の場」以外は、これまで、殆ど演じられたことがないと言う珍しい演出で、今回、吉右衛門が登場する二幕目の「 由良兵庫之助新邸の場」は、先代吉右衛門が演じて100年ぶりだと言う。

   この場は、新田義貞の子、義興が矢口の渡しで底に穴を開けた舟に乗せられ、非業の死を遂げたので、重臣であった由良兵庫之助が、足利尊氏に降伏して、敵方に仕えながら、新田家存続のために忠義を尽くすと言う話である。
   やはり、源内は、プロの浄瑠璃作者、戯作者でなかった所為か、このあたりは、熊谷陣屋の直実や菅原伝授手習鑑の松王丸のケースを借用して、自分の子供を身代わりにして首を差し出して、主君の子息徳寿丸を助けると言うストーリー展開である。
   芝雀の御台所筑波御前や藤蔵の兵庫之助妻の役割も、藤の方や相模などと殆ど同じで、夫々お馴染みの演技であるから手慣れており、尊氏に加担したとして欺き続けてきた兵庫之助の忠節を、颯爽と格好良く演じた吉右衛門の芸が突出して光っている舞台である。
   しかし、名場面として洗練し抜かれた直実や松王丸の舞台のような緊迫感にはやや欠ける感じは否めない。

   事前に、兵庫之助が、重臣南瀬六郎(又五郎)と示し合わせておいて、鎧櫃に徳寿丸を隠し持って旅を続けて自宅にやってきた六郎を殺害して櫃の中から徳寿丸を引き出して、命令通り首を落とすと言うストーリーは斬新だが、やはり、奇想天外で、今から考えれば、分かって分からない封建時代のお家大事は、別世界の物語として観るということである。

      後半の三幕目の「生麦村道念庵室の場」は、話ががらりと変わって、逃亡中の義興の弟義岑(歌昇)と愛人のうてな(米吉)が、生麦村で、旗持であった堂守の道念(橘三郎)に匿われて形見の旗を渡されて、次の大詰の「頓兵衛住家の場」で、義興が殺害された矢口の渡しまで逃れてくる。
   義興の船底に穴をあけた張本人の頓兵衛宅に、知らずに、二人は逃げ込み、そこの娘お舟(芝雀)が、義岑に一目ぼれして激しい恋に落ち、金儲け一途の頓兵衛が、必死に義岑をかばおうとして行く手を遮る自分の娘を殺すと言う殺伐とした場になる。
   瀕死の状態のお舟が、這いながら火の見櫓に上って捜索解除の合図の太鼓を打ち、義岑を追う頓兵衛が、義興を殺した川中に差し掛かったところで、義興の霊(錦之助)が放った矢に射抜かれて死ぬ。

   歌昇と米吉の若い二人の匂うような絵のような舞台も印象的だし、年季の入ったコミカルタッチの芸達者な演技の橘三郎も素晴らしいが、やはり、出色の出来は、頓兵衛の歌六とお舟の芝雀のベテランの演技であろう。
   比較的善玉で風格のある役作りの上手い歌六が、今回はがらりと変わって、徹頭徹尾悪玉の、それも、新田家の後継者義興を騙し打ちして、更に、娘を殺してまで金の亡者と化す超悪人を演じていて、興味深かった。

   芝雀のお舟は、義岑を一目見た瞬間から恋に落ちてしまう初々しいおぼこ娘を演じており、雀右衛門襲名間近の風格とイメージが合わずに、やや、違和感を感じるのだが、やはり、上手い。
   文楽のように、人形が演じると、人形遣いの年齢やその姿かたちに関係なく、そのものずばりの役を演じきれるのだが、善かれ悪しかれ、歌舞伎は、生身の役者が演じるので、どうしても、その歌舞伎役者の姿かたち、立ち居振る舞いが、大きく、イメージに影響してしまう。
   あの不世出の歌右衛門でも、私は、最晩年の数舞台しか鑑賞する機会がなかったが、やはり、最盛期の舞台姿の印象は、ビデオや写真で想像する以外にはなかったのである。

   さて、この浄瑠璃のメインとなる人物の新田義興は新田義貞公の妾腹の第2子で、足利尊氏が謀反に抗して、父亡き後、新田一族を率いて、南朝の恢復に尽力したのだが、謀略により、多摩川のこの芝居の舞台である「矢口の渡」で壮烈なる最後を遂げる。
 その後、義興の怨霊が現れたり、夜々「光り物」が矢口付近に現れて悩ますようになったとかで、その御霊を鎮める為に、墳墓の前に「新田大明神」が建てられ、その縁起を基にして、この歌舞伎が出来ていると言う。

   私は、入試の時には、社会科は、世界史と世界地理を選択したので、日本史はあまり勉強しておらず、興味のあったのは、飛鳥や奈良、平安くらいで、趣味が能狂言に広がってから室町時代に、鎌倉に移ってから鎌倉時代に、少し関心を持って学び始めたので、新田義貞を知っていても、義興は知らなかった。
   歴史を知らなくても、、物語であり、芝居であり、フィクションなのだから、それで良いではないかと言う事なのだが、どうしても、気になってしまうのは性分なのだから仕方がない。
   国立劇場で興味深いのは、ロビーにおいて、その歌舞伎の演目の舞台となっている土地やゆかりの名物などが、展示即売されていることで、面白いと思っている。
   それに、観光誘致を兼ねて、地図や観光パンフレットなどが並べられていて、手に取ってみながら、一寸した発見があったりするのも良い。


   9月の秀山祭もそうだが、吉右衛門一座の舞台の素晴らしさを堪能させてくれた通し狂言であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

顔見世大歌舞伎・・・夜の部「勧進帳」「河内山」ほか

2015年11月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   一番早い江戸の顔見世興行であるから、何となく華やかな雰囲気が漂っていて、歌舞伎座の前も大変な賑わいである。
   観光バスが止まって、大挙して観光客が下りたので、観劇客かと思ったら、順番に歌舞伎座の正面に立って見るだけで、また、バスに乗って行ってしまった。
   開演前は大変な人出だが、それが終わるとペルシャの市場のように静かになる。
   
   

   この日、観たのは、「夜の部」で、やはり、顔見世で、意欲的なプログラムである。
   「江戸花成田面影」は、十一世團十郎を称えると言う趣旨で、海老蔵の長男堀越勸玄の初お目見えの舞台で、前半に、芸者お藤の藤十郎、 鳶頭の梅玉 、染五郎、松緑 が踊ると言う見せ場がある華やかな舞台。
   二歳の堀越勸玄は、幼いながらも中々の素晴らしい面構え(?)で、栴檀は双葉より芳しで、大いに期待できるかわいさで、怖気ることなく「ほりこしかんげんでございます」と頭を下げていた。

   「元禄忠臣蔵」の「仙石屋敷」は、
   宿敵吉良上野介の首を討ちとり、本懐を遂げた浪士大石内蔵助以下赤穂浪士たちが、仙石伯耆守の屋敷において、伯耆守のねぎらいを受けて、尋問されて受け答えする場面。そのあと、浪士たちは諸家へのお預けが決まって退出し、内蔵助と息子主税との別れを惜しむ。
   真山青果による歴史劇『元禄忠臣蔵』の一幕で、伯耆守の梅玉と内蔵助の仁左衛門の対決が見物であり、仁左衛門の肺腑を抉るような誠心誠意の陳述が感動を呼ぶ。この舞台は、6年前にこの歌舞伎座で、二人の舞台を観ている。
   9年前に、国立劇場で、3月に亘っての元禄忠臣蔵の通し狂言を観た。内蔵助は幸四郎、伯耆守は三津五郎であったが、通しでこその感激であって、何となく、心理劇的な要素が強くて劇的な迫力に欠けるこの「仙石屋敷」だけの一幕を取り上げての舞台は、名舞台だけに、感動がもう一つで惜しいと思う。
   梅玉も素晴らしい舞台を務めていたが、仁左衛門の「御浜御殿綱豊卿」を観たかったと思ってみていた。
   
   高麗屋の「勧進帳」は、先に憧れであった弁慶を初めて演じた染五郎が、今回は富樫に回って、押しも押されもしない弁慶役者の幸四郎の弁慶を相手にして互角に渡り合って、颯爽とした風格のある舞台を作り上げた。
   今回は、義経を松緑が演じていたが、能の様に、子方が義経を演じる舞台なら、金太郎が義経を演じれば、親子3代の「勧進帳」が観られる筈である。
   尤も、歌舞伎での「勧進帳」は、義経が主役だと言われており、名だたる名優が演じているのであるから、無理であろうが、義経に対する能と歌舞伎の違いが、非常に興味深いと思っている。

   最後の「河内山」は、「天花粉上野初花」の一部で、今回は、「松江邸広間より玄関先まで」の舞台である。
   前座の様にして上演される「質店「上州屋」見世先」が省略されているので、ガラクタを持って質屋に来て金を揺すろうとする主人公の河内山宗俊(海老蔵 )の悪辣ながら小賢しいところもあるお数寄屋坊主ぶりが表現されていない。
   その分、神妙な顔をして僧衣姿に威儀を正した宗俊の登場から始まるので、化けの皮を剥がされて、ベランメエ調のヤクザにかえる幕切れが面白くなる。
   團十郎には、同じヤクザ坊主でも、どこか、悪の権化のようなドスの利いた年季の入った悪の風格らしきものが漂っていたが、海老蔵は、若さとモダンさがあって、やや、スマートな感じで、上野寛永寺からの使僧と身分を偽り、松江出雲守の屋敷へ単身乗り込んで、ジワリと遣り込めるあたりのソフトタッチの感触は、流石に、上手いと思った。
   口答えする出雲守に苛立って、一瞬、本性を表して顔を強張らせてベランメエ言葉が出かかって、また、にこりと表情を変えるのだが、ここだけで、北村大膳(市蔵)に、宗俊と見破られて啖呵を切るまでは、高僧の遣いとしての威厳と品格をモダンタッチで演じ続けており、面白かった。
   出雲守や家老重役の見送りを受けて、「ばかめ!」と捨て台詞を残して、悠々と退場するラストシーンまでは、ヤクザと渡り合って喧嘩をしたと言う海老蔵であるから、正に、立て板に水、江戸城で茶道を務める坊主ながら、天下の大大名を脅し挙げて揺すると言う大胆不敵な悪事をはたらく河内山宗俊を、豪快に演じ切って爽やかである。
   先に格調の高い伯耆守を演じていた梅玉は、今度は、大名ながら、出雲守で登場して、腰元奉公の質屋上州屋の娘浪路が靡かないので手討ちにしようとする乱行で、脅し挙げられてぐうの音も出ない情けない役回り。ところが、それなりに風格が出ていて、様になっているところが、梅玉の本領であろうか。
   善玉の家老高木小左衛門と、悪玉の市蔵は、正に、適役。
   進境著しい市蔵の活躍が素晴らしいが、悪役のイメージが強い所為もあって、先の「仙石屋敷」での、吉田忠左衛門には、一寸、違和感があったのだが、どうであろうか。

   アラカルトながら、名舞台がプログラムされていたので、楽しませてもらった。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸術祭十月大歌舞伎・・・「一條大蔵譚」「文七元結」

2015年10月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回の歌舞伎座の公演は、私にとっては非常に印象的で、玉三郎の「阿古屋」を除けば、昼の部の「一條大藏譚」と「人情噺文七元結」は、正に、歌舞伎の醍醐味を魅せてくれた感動的な舞台であった。
   まず、「一條大蔵譚」だが、ストーリーそのものは、「鬼一方言三略巻]」の四段目で、その前の三段目の「菊畑」が比較的演じられるのだが、主人公が、源氏を応援する吉岡鬼一、鬼次郎、鬼三太の3兄弟であり、この「一條大蔵譚」は、吉岡鬼次郎が登場するものの、この舞台での主人公は阿呆の一條大蔵卿である。

   一條大蔵卿とは、大蔵省の長官であった一条長成のことで、、清盛が、重盛に諌められて妾にしていた常盤御前を下げ渡したので、義経の養父になったことで、この物語になっている。
   大蔵大臣にもなった人物が、保身のために、作り阿呆で通せる筈がないのだが、そこは、物語で、上手くストーリーになっていて面白い。
   阿呆と言うよりは、狂言舞いに入れ込んで、仕事にも雑事にも、とんと関心のない公家だったと言うことであろうか。

   この芝居では、自分の腹心である筈の勘解由が、お家乗っ取りを図る悪心であることが分かって、御簾の蔭から刺し殺し、正気に戻って源氏再興を願うと言うもどりシーンが展開されるのだが、
   長成自身は、親戚筋に当たる奥州平泉の藤原秀衡に、義経を託すなどしており、また、常盤との子供一条能成が、義兄の義経に仕えており、義経をサポートしているので、歌舞伎の筋が、あながち作り話だと一蹴は出来ないであろう。

   当時は、「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫を更えず」と言うことが鉄則であったから、義朝の妾であった常盤御前が、成敗されたとはいえ、憎き清盛の妾となり、更に、下げ渡されて長成の妻となって、夫々の子をなすなどは、考えられなかったことであろう。
   幼気な子供を守るために、必死に生きようとした常盤御前の思いが正しいのかどうかは別として、歴史が変わってしまったことだけは事実である。

   ところで、何時も疑問に思うのは、源氏の頭領の証である名刀「友切丸」を、何故、大蔵卿が所持していて、「この剣は源氏重代のわざ物、汝にくれるぞ 時節が来るまで源氏再興のための挙兵は慎むように 犬死にをするなと義経に伝えよ」と鬼次郎に剣を託すのか、
   尤も、助六の探していたのも「友切丸」であったようだから、いくらでも言い伝えがあるのであろう。

   とにかく、この芝居は、作り阿呆の大蔵卿が、源氏のサポーターであることが分かることと、鬼次郎と妻のお京が、源氏の恩を忘れて遊侠に耽る常盤御前を成敗しようとしたのだが、常盤の毎晩遅くの楊弓あそびは、清盛の絵姿を射抜く清盛調伏であったことが明かされると言うことで、ストーリーは、総てその伏線である。

   さて、仁左衛門の大蔵卿だが、吉右衛門や勘三郎などのように、満面に笑みをたたえた阿呆姿で登場するのではなくて、どちらかと言えば無表情の腑抜けスタイルに近い姿で現れた。
   愛嬌のある阿呆姿ではなくて、本当の腑抜けと言うか間抜けの阿呆なら、どちらかと言えば、神経が傷んでいるのだから、こうだろうと言う阿呆姿であり、あの男前の顏であるから、リアリティ抜群である。
   しかし、本当は阿呆でなくて、人一倍細心で気配りの利いた作り阿呆であるから、要所要所で正気に戻るところの表情は、仁左衛門そのものであり、退場する時に、門前に立つ鬼次郎と目が合う瞬間の表情など鋭いし、大詰め近くの正気と阿呆の転換の匠さは秀逸である。
   吉右衛門も仁左衛門も、阿呆姿も様になるのだが、文武両道に秀でながら源平どちらにも加担せずに阿呆を通しぬいて生きて来た大蔵卿が、「今まで包むわが本心」を爆発させて、苦衷を吐露して義経への檄を伝えるシーンの凄さ素晴らしさは、流石に、人間国宝の芸である。

   面白かったのは、吉右衛門の時には、切落とした勘解由の首を、甚振っていたのだが、仁左衛門の時には、舞台にほおり投げていたことである。
   それに、水も滴る鬼次郎の菊之助、いぶし銀の様に冴えたお京の孝太郎、
   そして、地味ながら、勘解由の松之助、鳴瀬の家橘、も上手い。
   勿論、立女形の常盤御前の時蔵は、艶やかな風格があって素晴らしい。

   さて、「文七元結」は、菊五郎の独壇場の舞台で、この菊五郎の左官長兵衛を見るだけで、歌舞伎座に来る値打ちがあると、何時も思っている。
   「芝浜の皮財布」もそうだが、江戸庶民の生きざまを活写した圓朝もの主人公を、これ程までに感動的に演じ切る役者が、菊五郎以外に考えられるであろうか。
   特に、声音は勿論その間合いと言いテンポと言い、その人物をまる裸にするほど、表情豊かに語り切る話術の冴えには、感動しきりである。

   今回、質と印象は、違うが、角海老女将お駒の玉三郎にも、同じ感動を覚えた。
    淡々と、スローテンポで、やや朗詠調にとつとつと語る情感豊かな語り口が、心地よかった。

   菊五郎と時蔵の息の合った丁々発止、緩急自在の夫婦像は、今や、定番とも言うべき芝居の楽しさで、時蔵は、このような汚れ役(?)も実に上手い。
   今回、素晴らしい新境地を見せて、素晴らしい芝居を演じたのが、和泉屋手代文七の梅枝で、流石に、時蔵の薫陶よろしきである。
   健気で優しい娘お久の尾上右近、ベテランの和泉屋清兵衛の左團次、角海老手代藤助の團蔵、そして、いなせな鳶頭伊兵衛の松緑など、脇役陣も人を得て素晴らしい。

    それに、二世尾上松緑二十七回忌追善狂言の「矢の根」を松緑が演じて、藤十郎が曽我十郎で登場し、
    更に、花形役者たちが、「音羽獄だんまり」の華麗な舞台を披露してくれるのだから、今月の歌舞伎座の昼の部は、大変なプログラムである。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立劇場十月歌舞伎・・・通し狂言「伊勢音頭恋寝刃」

2015年10月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎は、先月の文楽に続いて「伊勢音頭恋寝刃」だが、53年ぶりの本格的な通し狂言であるので、ストーリーが分かって面白い。
   ミドリ公演が大半の歌舞伎座にくらべて、国立劇場歌舞伎の良さは、通し狂言の上演で、私など、ストーリーを追いながらの観劇志向なので、この方が有難い。

   阿波の国の家老の倅・今田万次郎(高麗蔵)が、君命を受けて名刀「青江下坂」を手に入れるのだが、謀反の企てに加担する徳島岩次(由次郎)一味に、刀の折紙(鑑定書)と共に盗み取られて、実家が今田家の家来筋である伊勢の御師・福岡孫太夫(友右衛門)の養子である福岡貢(梅玉)が、取り返す。と言う話である。

   この芝居は、伊勢古市の遊女屋・油屋での殺傷事件に想を得ているので、貢と油屋遊女・お紺(壱太郎)との恋を絡ませて、貢が、岩次一味で嫌がらせをする仲居万野(魁春)を誤って切り殺し、名刀の妖気に導かれて錯乱状態になって、岩次など手当たり次第に殺戮すると言う油屋での凄惨なシーンが見せ場となって、取り入れられている。
   
   冒頭は、伊勢内宮と外宮を結ぶ参道の相の山で、遊興費捻出のために名刀を質入れした万次郎が、更に、岩次一味から、折紙まで騙し取られると言うシーンからの波乱含みの展開で、
   その後、折紙を騙し取られたと知った奴の林平(亀鶴)が、お家乗っ取りを企む藩主の弟蓮葉大学から岩次に宛てた密書を持つ杉山大蔵と桑原丈四郎を夜道を追い駆けて、密書の一部を奪い取り、更に、万次郎を連れて二見ケ浦に来た貢は、逃げてきた二人に闇の中で出会い、密書の残り半分を奪い取り、宛名と差出人、そして、密の悪事の全容がわかる。
   この闇夜のだんまりの演技が延々と続くのだが、貢は、密書を奪ったものの闇夜で読めない。
   二見ケ浦に朝日が昇って、貢の「うれしや日の出」のシーンで、一気に変わる舞台展開がワザとらしくて面白い。

   もう一つ面白いのは、取って付けたような第二幕の「御師福岡孫太夫内太々講の場」で、御師の福岡孫太夫宅で、弟の彦太夫(錦吾)が太々神楽をあげていて、甥の正太夫(鴈治郎)に、太々講の積立金100両を盗ませて、その罪を貢に負わせようとするのだが、訪ねてきた叔母のおみね(東蔵)の機知で、悪事がバレルと言う舞台が挿入されていること。
   この舞台で、冒頭、貢の許嫁榊に言い寄りながら登場するにやけた正太夫の鴈治郎のコミカルタッチ万点のズッコケた演技が秀逸である。
   この鴈治郎は、大詰め古市油屋の場では、真面目で忠実な料理人喜助を演じていて、変わり身が早い。

   さて、この歌舞伎で最もポピュラーな「古市油屋店先の場」は、
   名刀青江下坂を叔母から受け取った貢は、これを一刻も早く、伊勢古市の遊廓「油屋」で万次郎に渡そうとやって来るのだが、あいにく留守で、待つことにして、馴染みにしている遊女お紺に会いたいと仲居の万野に言うのだが、意地の悪い万野は「お紺はいない」と嘘をついて会わせず、「代わり妓」を強要する。
   仕方なく同意して出て来たのが貢に岡惚れのブスお鹿(松江)で、つれなくする貢に、鹿は「恋文をやり取りして金も用立てたのに」と泣きつくのだが、全く身に覚えがない貢は困惑。総て万野の仕業で、手紙は偽物で金は万野が着服したのだが、シラを切り通され反証も出来ずに、貢が地団太を踏む。
   そこへ、お紺が北六たちと入ってきて、北六たち皆が貢をののしり、お紺までもが貢に愛想づかしをし、満座の前で恥をかかされた貢は、堪忍袋の緒が切れて、喜助から刀を受け取て出て行く。
   後に残ったお紺は、北六を安心させて、青江下坂の折紙を手に入れる。

   前回、文楽の項で書いたので、蛇足は避けるが、
   威勢の良いお紺の啖呵は、惚れた貢のために折紙を奪うための愛想づかしだったのだが、この歌舞伎では、刀を間違えて持って出たと思って油屋に帰って来た貢に、お紺が、二階から折紙をほり投げて渡した瞬間に、「有難や」で終わってしまう。
   籠釣瓶の八ッ橋とは、大違いで、満座の前で愛想づかしをされ徹底的に赤恥をかかされた貢の簡単に変わる気持ちが分からないのだが、いずれにしろ、この歌舞伎は、あっちこっちで、あまりにも出来過ぎたストーリー展開やシーンが多いので、屁理屈を言わずに、すんなりと納得すれば良いのであろう。

   歌舞伎の舞台では、「代わり妓」として登場したお鹿の活躍が面白く、アクの強い立役が演じても様になる役柄でもあろうが、新境地の展開か、松江の熱演が見ものである。
   
   梅玉は、颯爽として風格のある貢を演じていて秀逸で、特に、舞うように流れるように立ち回る最後の殺戮シーンが良かった。
   魁春の万野は、徹頭徹尾、冷たくてユーモアも色気も何もない無色透明な冷徹一途に徹したような演技が流石で、前に観た玉三郎や福助の性の悪さや意地悪さなど娑婆っ気が前面に出た芝居とは違った味があって興味深かった。
   壱太郎の、あの何とも言えない女らしさ、匂うような遊女の色気と粋、それに、あ長台詞のキレのある啖呵が素晴らしい。
   高麗蔵の萬次郎、何時も、風格のある女形で楽しませて貰っているのだが、優男の遊び人も堂に入っていて良かった。

   非常に意欲的で素晴らしい舞台であったが、残念ながら、かなりの空席があった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸術祭十月大歌舞伎・・・「阿古屋」

2015年10月03日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座の夜の部は、壇浦兜軍記の「阿古屋」と、梅雨小袖昔八丈の「髪結新三」である。
   阿古屋は、『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責」とよばれる場面に登場する傾城で、あの「籠釣瓶」で登場する八ッ橋などと同様、典型的な傾城の扮装である豪華な打掛や俎板帯という姿で登場し、その華麗さ美しさに感動する。
   その上に、阿古屋を演じる女方は、舞台上で実際に琴・三味線・胡弓を演奏し、殆どその演奏スタイルで正座したままで、阿古屋の複雑に揺れ動く心情も表現しなくてはならないのであるから、大変な難役なのである。
   玉三郎が演じるまでは、歌右衛門の独壇場だったと言われており、演者が限られている所為か、殆ど鑑賞する機会が少ない。

   豪華な刺繍で装飾された打掛と華麗な孔雀が浮き立った素晴らしい俎板帯を纏った玉三郎は、正に、篠山紀信の撮った絵姿が、そのまま舞台に躍り出て舞っている、いや、それよりもはるかに、素晴らしく光り輝いている。
   いつも観ながら感心しているのだが、日本の着物、それに体現されているもの、その素晴らしい華麗さ美しさは、正に、世界屈指の芸術であり、人類の文化遺産の最たるものだと思っている。
   その極致が歌舞伎や能などで体現される舞台衣装で、それが、謡や舞、音曲、演劇と相まって総合化されたのが、日本の伝統芸能であるから、日本の宝として大切に守り通さなければならないと思っている。

   さて、この演目は、元は浄瑠璃として作曲されて、文楽で演じられていたので、阿古屋を詮議する悪役の岩永左衛門(亀三郎)は、衣を二人従えた人形振りで登場して、最初から最後まで、人形として舞台をつとめる。
   それに、詮議の途中に、竹田奴と言われる、落書き模様の奇妙な面を付けた一人遣いの人形みたいな人物が沢山登場して「ウキャキャキャ」と奇声を発しながら、美しい阿古屋を取り囲んでツイストを踊るなど、場違いながら、歌舞伎の奥深さ(?)を垣間見せる。
   おかしなもので、浄瑠璃からの転作が多い歌舞伎では、このような人形振りのシーンが多いのだが、文楽の人形の方の動作は極めてリアルなのに、歌舞伎になると、むしろギコチナク演じて人形だと見せなければならないのが面白い。
   これは、洋の東西を問わずで、「天国と地獄」の音楽で有名なジャック・オッフェンバックのオペラ「オフマン物語」での人形のオランピアなどは、もっとぎこちない人形振りを披露する。

   この歌舞伎は、阿古屋のほかは、裁きの秩父庄司重忠の菊之助と岩永左衛門の亀三郎、それに、家来の榛沢六郎の功一の3人だけで、極めてシンプルだが、阿古屋の琴攻めの審議シーンが大半を占める。
   阿古屋は、愛人の「悪七兵衛景清」すなわち、勇猛果敢で有名な平家の武将・藤原景清の行方を詮議するために、問注所に引き出され、景清の所在など知らないという阿古屋に、代官の岩永左衛門は拷問にかけようとするのだが、詮議の指揮を執る秩父庄司重忠は、阿古屋に琴、三味線、胡弓を弾かせて心のうちを推量しようと試みる。言葉に嘘があるならば、わずかな調べの乱れでもそれとわかるという重忠は、阿古屋の見事な三曲演奏に感服して釈放する。

   この景清だが、能は勿論、他の歌舞伎など古典芸能の数々、それに、落語にさえも登場すると言う歴史上でも傑出した人物で、そんな男の愛人であるから、才色兼備であって、このように3曲を素晴らしく弾き遂せるというのは当然なのであろう。
   この鎌倉の鎌倉山から急峻な化粧坂を下る途中に、景清が果てたと伝わる洞窟・景清土牢、景清窟があるのだが、余りにも貧弱なのが寂しい。
   「平家物語」の「弓流」において、那須与一の的のシーンの後に、景清が、源氏方の美尾屋十郎の錣を素手で引きちぎったという豪快な「錣引き」の記述があり、その「悪七兵衛景清」をバックシーンに描きながら、この「阿古屋」を見ないと、その良さが理解できない。

   問注所に引き出されて、知らぬ存ぜぬと答えても応じない裁きに応えて、階の真ん中にどっかと座って、大きく後ろに仰け反って「殺せ」と迫る玉三郎の阿古屋の貫録と艶姿。
   絶えず、口元を緩めて目を半開きにして微笑み続ける菊之助の重忠の風格。
   とにかく、緊迫感の充実した見せて魅せるシーンの連続である。
   それに、亀三郎の人形振りの悪役が、堂に行って上手い。
   宏一の颯爽とした凛々しさも申し分なく絵になっている。

   久しぶりに、素晴らしい歌舞伎を観たと言う充実感を味わわせて貰った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秀山祭九月大歌舞伎・・・「競伊勢物語」「紅葉狩」ほか

2015年09月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の秀山祭は、意欲的な演目が多くて、第一部も、冒頭から、「双蝶曲輪日記の「新清水浮無瀬の場」、「紅葉狩」、そして、歌舞伎座ではじつに半世紀ぶりの上演だと言う初代と父が得意とした「競伊勢物語」と言う吉右衛門会心の舞台である。

   この「競伊勢物語」は、「伊勢物語」や紀有常の逸話などをベースにして脚色された歌舞伎なのであろうが、非常に、悲痛なストーリー展開で、ニュアンスが、大分変化していて興味深い。

   人臣を極めた紀有常が、大和国春日野に住む老婆小由の住居を訪れ、訳あって小由に託していた実娘信夫を返してくれと頼む。自分の娘として育てている井筒姫が、先帝の子であり、在原業平と深い仲なのだが、惟喬親王が、これを知らずに井筒姫を所望するので、二人を助けるために、有常は姿形のよく似た信夫とその愛人の豆四郎を殺害して、二人の首を差し出す。
   有常の説得によって、親子の名乗りをした直後に、無残にも身替わりとして殺される若い二人の悲痛と、最後まで事情を知らずに都へ行って貴族となって幸せになるものと喜んで見送ろうとした育て親小由の断腸悲痛。
   空しく逝った二人を思って泣き崩れる有常と小由。
   ラストシーンで、盛装した井筒姫と業平が、二人の死を悼む。

   信夫と井筒姫が菊之助、豆四郎と業平が染五郎、紀有常が吉右衛門、小由が東蔵と言う、望み得ないような名優の素晴らしい舞台で、感動的である。
   若い二人の瑞々しくて美しい絵のようなシーンの数々、
   吉右衛門の円熟した風格のある有常と、人情身豊かで慈母のような、それでいて、庶民の老女を凝縮したような東蔵の演技が胸を打つ。
   悲痛な使命を帯びてやってきた有常が、貧しくて生活不如意であった昔に帰って、小由と和気藹藹に昔語りに興ずる姿にちらりと魅せる哀歓、それに応えて懐かしさ人間の温かさ悲しさを綯い交ぜにして喜ぶ小由の平安な幸せと、嵐の前の静けさ、
   この平和なシーンが、一気に、急転直下、悲劇の舞台へ突き進む。
   吉右衛門の演じる有常は、徹頭徹尾、貴族としての風格と威厳は崩さず、最後の最後まで、高貴さを失わず、断末魔さえ、美しく魅せてしまう。
   

   さて、文徳帝の跡目争いで、朝廷では惟喬親王と惟仁親王が対立して、妹の子であった惟喬親王が勝っておれば、万々歳だったのだが、惟仁が藤原氏の強引な策略によって清和天皇として即位する。
   その後は、藤原氏による他氏排斥政策によって、皇位継承の政争に敗れた紀有常は、藤原氏から危険視され、近寄る人もいなくなり、没落して行く。
   家は荒れさびれ、妻も出家して家を出て行ってしまのだが、何もしてやれず、悲嘆にくれる様子は、「伊勢物語」の十六 紀の有常 に書かれている。

   もう一つ、有常の娘だが、新古今和歌集の贈答歌の詞書に、「業平朝臣きのありつねのむすめにすみけるを、・・・」と書かれていて、業平の妻であったことが分かる。
   この関係をテーマにして、伊勢物語の第二十三段の想を得て、世阿弥が、在原業平と紀有常の娘の恋の物語を能「井筒」として、作曲したのである。
   伊勢物語は、殆ど実名を記さずに物語が展開されているので、推測や想像で読まれているのだが、実に、シンプルな物語ながら、語られている中身が豊かで、面白い古典である。

   さて、「紅葉狩」は、2年前に、錦之介と扇雀で見たが、結構、綺麗な舞台なので、能でも歌舞伎でも、観る機会が多い。
   とくに、主役の更科姫が、前半の紅葉の舞台では、美しい品のある美女を演じて優雅な舞姿を見せ、後半は、一転して、おどろ驚ろしい戸隠山の鬼女として、凄まじい隈取をした厳つい恰好で登場して、平維盛と戦うと言う大立ち回りを演じる魅せ場十分の活躍をする。
   最初に観た舞台は、玉三郎であったが、能とは違って、三味線が登場する歌舞伎では、「竹本」・「長唄」・「常磐津」の3つの「音曲」によって伴奏される華麗な舞踊劇となっているので、正に、見せて魅せる舞台である。

   今回は、珍しく、女形ではなく、立役として豪快な弁慶から近松門左衛門の優男まで演じて人気絶頂の染五郎が、実に華麗な美しい更科姫を見せ踊ってくれた。
   これまで、一度だけ、染五郎の女形を見た。
   それは、ロンドンでの公演「葉武列土倭錦絵(はむれっとやまとのにしきえ)」で、染五郎は、確か、ハムレットとオフェリアを演じた筈で、そのオフェリアの赤姫姿を見たように記憶している。
   二十歳前だったと思うので、美しかった筈である。

   平維盛を演じたのは、松緑。
   貫録ある貴公子然とした佇まいが良い。
   特筆すべきは、染五郎の長男金太郎が、山神として登場し、達者な芸を披露したことである。
   幸四郎が幼い孫の手を引いて嬉しそうに舞台に立ったのが、ほんの先ほどのような気がするのだが、やはり、栴檀は双葉より芳しと言うことであろうか。
   
   

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立劇場:文楽・・・「伊勢音頭恋寝刃」「鎌倉三代記」

2015年09月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりに満員御礼の看板が立つ公演で、華やかな雰囲気が良い。
   人間国宝になった嶋大夫の浄瑠璃を期待していたのだが、共同通信によると、
   ”嶋大夫さんは、四月の大阪での公演中に肺炎で入院。検査で腎臓の機能低下が分かり、五月に手術を受けた。”と言うことらしく、あの名調子が聴けないのが残念であった。

   古典芸能だけではないのであろうが、とにかく、人間国宝は、何故、高齢者にならないと認定されないのか、頂点の芸は最盛期に生まれ出る筈だと思っているので、分かって分からない認定基準に、何時も疑問を感じている。
   九世竹本源大夫など、人間国宝に認定されてから、殆ど、その素晴らしい浄瑠璃を語らずに逝去されたのなど、勿体ない限りである。
   シェイクスピア俳優のケネス・ブラナーなどは、若くても傑出していてCBEに叙せられたし、私の分からない世界だが、エルビス・プレスリーやマイケル・ジャクソンなどは歳に関係ないであろうし、ビートルズなどは、早くからナイトの称号を受けていた。

   さて、第一部は、「面売り」「鎌倉三代記」「伊勢音頭恋寝刃」である。
   やはり、人気狂言は、来月の歌舞伎とのダブル競演の「伊勢音頭恋寝刃」であろうか。
   この物語は、最初に、伊勢古市で起こった殺人事件に想を得て歌舞伎で上演されたものを、人形浄瑠璃に脚色したもので、ストーリー展開など、少し変わっていて面白い。

   元侍で、今は伊勢神宮の御師である福岡貢が、主筋が紛失した青江下坂と言う名刀とその折紙(鑑定書)を探索しており、名刀は手に入ったが、折紙を、夫婦約束をした油屋の遊女のお紺に手助けをして貰って手に入れると言う話がメインで、
   お紺が、折紙を所持しているのは客の岩次であると見込んで、貢を袖にして岩次に靡いた振りをして貢を激怒させる。
   貢やお紺を良く思っていない仲居の万野が、女郎のお鹿に、貢を騙って金をせがんだ手紙を何通も出して煽っているので、お鹿が出て来て、二人で責めるので、貢は窮地に立ち、お紺は、偽手紙と知りながら、貢に愛想尽かしをする。
   一度は、万野に追い出されて油屋を飛び出した貢が、刀を違えたので引き返して来て、万野と諍い鞘が割れた弾みで万野を殺めて、次から次へと出会った人を切り殺す。
   そこへ、岩次を騙して手に入れた折紙を持ってお紺が駆け込んできて、貢は、岩次も殺して、二つの重宝を持って、主筋万次郎のもとへ急ぐ。
   この芝居では、刀が効果的に使われている。遊郭に上がる時には刀を預けることになっていて、岩次にすり替えられるのだが、味方の料理人喜助が機転を利かせて難を逃れるものの、最後まで貢は知らないので、暴れ回る。

   歌舞伎では、お紺に逢いに来た貢に対して、万野が、嫌がらせの限りを尽くすのだが、文楽では、その点多少抑え気味である。
   例のブスのお鹿だが、歌舞伎の場合には、代わり妓として登場して貢に逼るが、文楽では、万野に呼び出されて出てくる。橋之助のお鹿が、実に面白かった。
   万野はシラを切り通すのだが、歌舞伎では、この意地悪性悪女の万野が、立女形の役どころで、私は、玉三郎や福助で観ていて、その凄さ嫌らしさにびっくりして見ていた。

   今回の文楽では、貢が和生で、お紺が簑助、万野が勘十郎、咲大夫と燕三の義太夫と三味線であったが、前に観た時には、貢が玉女、お紺が文雀、万野が簑助で、住大夫と錦糸が浄瑠璃を語り、何時も最高の布陣での公演であった。

   もう一つ、歌舞伎と文楽との違いで面白いのは、お紺の心変わりで、歌舞伎では、お鹿の恋文事件で窮地に立った貢をお紺が愛想尽かしをするのだが、文楽では、万野の説得でお紺が岩次との結婚を承諾して、その祝言の席に貢が登場すると言う話になっていて、もっとストレートである。

   ところで、面白いのは、「籠釣瓶花街酔醒」の佐野次郎左衛門のように、愛想尽かしを食らった八ッ橋を、憎さ余って切り殺すと言うのが、このような話の結末の筈だが、この伊勢音頭恋寝刃では、駆けつけたお紺が、折紙を貢に渡して本心を打ち明けて、目出度し目出度しとなり出来過ぎている。
   それに、妖気迫る名刀青江下坂ゆえか、文楽の方が、後半の「奥庭十人斬りの段」で、貢が、廓の人たちを次から次へと斬り殺す殺戮シーンが、これでもかこれでもかと言った調子で手を変え品を変えて展開されているのだが、多少くどいかも知れない。

   咲大夫と燕三の名調子にのって、絶好調で性悪女万野を遣う勘十郎は、水を得た魚のように、存分に意地悪女の本性を暴いて痛快でさえあった。
   簑助の遣うお紺に、何とも言えない女の弱さ悲しさ、そして、意を決した女の芯の強さを感じて楽しませて貰った。
   貢と言う優男ながらも激情にかられた手負い獅子を和生は上手く遣っていて、豪快で厳つい立役ではない、大人しくて風格のある立役では、素晴らしい芸を見せてくれる。
   何よりも、感動的なのは、複雑な人間模様を実に繊細緻密に語り分けてドロドロした人間の生きざまを浮き彫りにした咲大夫の語りの魅力で、正に、人形を縦横無尽に踊らせて舞台を展開させている。

   「鎌倉三代記」は、「局使者の段」から「高綱物語の段」までで、三浦之助と母の死を見送る時姫との別れと高綱の登場がメインだが、歌舞伎で観ることの方が多い。
   大坂方の悲劇をテーマに据えた物語で、真田幸村をモデルにした高綱を、玉男が豪快に遣っていて、清楚で品のある清十郎の時姫との相性も良く、しみじみとしたストーリー展開が良い。

   この舞台で、興味深かったのが、ベテランの紋壽が遣った女房おらちで、近所の田舎のおばはんであるから、お姫育ちの時姫の台所仕事を見ていると、じれったくて仕方がないので、井戸水の汲み方からコメの研ぎ方まで実演して教える。大酒は飲むは、ガラも悪いが、実に温かくて人情味豊かな憎めぬおばはんで、この悲劇の舞台では一服の清涼剤。
   呂勢大夫と宗助の軽快な義太夫に乗って、コミカルに演じる紋壽の芸の冴えは流石で、著書「文楽・女形ひとすじ」を読んでからファンになって、ずっと、舞台を楽しみに観ているのだが、これほど、人形浄瑠璃の良さとその味をしみじみと実感させてくれる人形遣いは稀有である。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立劇場:文楽・・・「妹背山婦庭訓」

2015年09月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場文楽公演第二部は、「妹背山婦庭訓」の四段目のお三輪の恋の物語を通しての狂言で、非常に意欲的な舞台である。
   「井戸替」から「入鹿誅伐」まで一気の公演は、1969年以来だと言う。
   第一部は、簑助や咲大夫が登場する「伊勢音頭恋寝刀」が上演されるためか、すぐにチケットは完売となったが、この第二部の方が、もっと、魅力的だと思うのだが、平日は、まだ、チケットが残っているらしい。

   人形は、お三輪が勘十郎、求馬実は藤原淡海が玉男、橘姫が和生、と言った重鎮3人の揃い踏みで、漁師鱶七実は金輪五郎の玉也、曽我入鹿は玉輝と言った豪快な立役が脇を固める布陣で、千歳大夫と富助、文字久大夫と藤蔵、咲甫大夫と團七、それに、道行恋苧環での呂勢大夫と清治ほかの華麗な演奏など、浄瑠璃と三味線が、感動的な舞台を創り上げている。
   しっとりとしてほろりとさせる「杉酒屋の段」や、華麗で美しい恋の道行も素晴らしいが、舞台を三笠山の入鹿御殿に移しての「鱶七上使の段」から「入鹿誅伐の段」までは、インターミッションなしの2時間を一気に魅せての熱のこもった文楽上演は、久しぶりの快挙であろう。
   今回は、前列右寄りの席で、大夫と三味線の息遣いや擦れる微妙な音を聞きながらの臨場感たっぷりの観劇であったので、印象は強烈であった。

   「井戸替」は、久しぶりの上演らしいが、歌舞伎の「権三と助十」の、井戸替えの場面を思い出した。
   舞台の冒頭で、井戸の滑車に付けた綱を、長屋の住人たちが、大勢で綱を持って引っ張っているシーンで、水道などがなかった時代には、共同井戸の定期的な清掃は必須であって、仕事の後、作業に加わった住人たちには祝い酒がふるまわれたと言うことで、いわば、夏の風物詩でもあったのであろう。
   この文楽では、杉酒屋での井戸替に近所の長屋の連中が手伝いに来て、その振る舞い酒のシーンからで、作業に出なかったので咎められていた隣の鳥烏帽子折求馬が出て来て習慣を知らなかったと詫び、しばらく付き合うも場違い故に盛り上がる踊りの輪を抜けて去る。
その後、家主(文司)が来て、お三輪の母(文昇)に鎌足の息子淡海を見つけ出したら大金が貰えると伝えたので二人は慌ただしく出かけて行く。

   今回の文楽の筋のメインテーマの一つは、お三輪の恋の顛末である。
   三輪の里の杉酒屋の娘お三輪が、隣の求馬(淡海)にぞっこんで恋仲なのだが、その求馬を、白衣を被った女が訪ねて来ているのを知ったお三輪が、求馬を呼んで不実を責めるているところに女(橘姫)が現れたので、求馬の奪い合いのバトル。それに、求馬が淡海だと悟った母が、求馬奪い合いに加わる。
   まず、白衣の女が逃げ出し、その後を求馬が追い、そして、お三輪も続いて外へ逃げ出して行く。
   この後のシーンが、道行で、白衣の女が、夜道を北へ逃げて、布留の社で、求馬が追いついて、女に素性を聞くのだが叶わぬ恋の辛さを訴えるばかりで答えず、そこへ、お三輪が追いついて、再び、求馬を中にして恋のバトル。
   求馬が、逃げ出す女の袖に赤い苧環の糸を、お三輪が、求馬の袖に白い苧環の糸を結びつけて、その糸の後を追う。
   赤い糸に導かれて入鹿御殿に辿り着いた求馬は、女が入鹿の妹橘姫と分かって殺そうとするのだが、愛情一途であることを悟って、入鹿から十握の宝剣を盗み取ることを条件に二世を誓う。(橘姫は、求馬を淡海と知っていて通っていたのだが、何故か?)
   その後、白い糸が切れて難渋しながら御殿に着いたお三輪が、求馬と橘姫との内祝言を知って、せめて、婿君に合わせてくれと懇願するのだが、官女たちに祝言の席に出してやると騙されて、酌や謡の稽古をさせられ馬子歌まで歌わされて、その挙句笑いものにされて、縋り付くも捨て置かれたので、恥かしさと嫉妬に逆上。
   激しい嫉妬に狂ったお三輪は御殿に駆け上がり走り出すところを、鱶七が現れて、お三輪の脇腹を刀で刺す。
   白い牝鹿の生血を母親が摂取して生まれた入鹿には、弱点があって、爪黒の牝鹿の血と、嫉妬などに狂った偽着の相のある女の生血を混ぜて注いだ笛を吹くと、正気を失うので、お三輪の死が、思う男・藤原淡海のためになった、北の方だ、と言われて喜んで死んで行く。
   次の段で、この笛の音で弱った入鹿は、誅伐される。

   さて、この舞台は、「杉酒屋の段」で、寺子屋から帰ってくる可憐でおぼこいお三輪の登場から感動もので、正に、徹頭徹尾、お三輪を使った勘十郎の至芸が光っていて、恋に目覚めて必死に思いつめる乙女から、恋のやみ路に迷い込んで嫉妬に狂う修羅道の女まで、木偶である筈の人形を、縦横無尽に泳がせ踊らせて、舞台狭しと舞い続けるその凄さは、観ていて鳥肌が立つほどの感激する。
   私など、感動すると、その人形の些細な振る舞いや仕草一つ一つを、浄瑠璃の語りと音曲に合わせて注視しながら見ているのだが、勘十郎のお三輪の女ぶりに、痛く女らしさを実感して興味深かった。
   以前には、このお三輪を簑助が遣っていたようだが、最近は、勘十郎ばかりのようで、正に、勘十郎の独壇場の舞台なのであろう。

   和生の橘姫は、正に、お姫様で、その大らかさお鷹揚さが、実に良い。
   和生のアーカイブを見ると、求馬・淡海を遣っていて、橘姫は、珍しいようであるが、やはり、女形のトップ演者であるから、その風格と艶やかさは素晴らしい。

   さて、玉男の求馬は、平成18年に、先代休演で代演したようだが、珍しい出演のようである。
   殆ど動きがないので、難しい役なのであろうが、二人の乙女を両天秤にかけて、はっきりしない優男であるから、一寸、玉男の遣う立役の人形のイメージから遠い感じで、本領を発揮できなかったのではなかろうか。
   しかし、水も滴る良い男ぶりで、それが良いのであろう。
   この淡海は、藤原不比等で、一時は不遇だったとしても、天皇ご落胤説もあったり、藤原の開祖とも言うべき存在で、結構、政治的にも活躍した人物だが、何故、この浄瑠璃では、こんな姿で登場することになったのか、興味深いところではある。

   余談ながら、子供の頃だが、何度か、三輪の大神神社に行ったことがあるので、この三輪の里の雰囲気は、何となくイメージできるし、親しみを感じる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秀山祭九月大歌舞伎・・・伽羅先代萩

2015年09月03日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   播磨屋に、玉三郎や梅玉や菊之助などが加わっての通し狂言「伽羅先代萩」で、素晴らしい秀山祭大歌舞伎の幕開けを迎えた。
   歌舞伎を観はじめた頃、最初に観た政岡は、芝翫だったか玉三郎であったか、いずれにしろ、玉三郎の華麗な政岡の舞台は久しぶりである。

   残念ながら、当日、急用ができて、劇場に駆け込んだのは、「御殿の場」の幕開け前になってしまったので、放蕩の殿さま足利頼兼が登場する「花水橋」と、政岡追い落とし失敗の「竹の間の場」は、ミスってしまった。
   当日、その前にあった国立能楽堂の能・狂言も、チケットをパーにしてしまったのだが、能・狂言は一回限りで、あらためてと言うわけには行かない。
   欧米に居た頃には、オペラもコンサートも、シーズンメンバー・チケットを保持して、かなり漏れをカバーして来たのだが、日本はチケットが高いので、それも、出来なくなった。

   さて、御殿の場の玉三郎の政岡だが、前の舞台を覚えていないので、何とも言えないのだが、栄御前を見送った後、一人になって、眼前の亡骸に近づいて初めて我に返って千松に対峙する。
   以前には、千松を抱きしめて慟哭して悲嘆の限りをかき口説いていた藤十郎が、前回の舞台では、一切千松を抱きしめずに演じていたが、今回の玉三郎も、千松には触れずに、周りを右往左往したり、亡きがらに覆いかぶさるようにして愁嘆場を演じており、より奥深く、でかしゃったと国を守った千松の忠義を褒めながらも、わが子として本当の情愛を示せなかった母親としての慙愧と悔恨を、芸で見せようとのしたのであろう。
   最初は、千松の忠義を称えつつも、遂には生身の母親に回帰して、
   「三千世界に子を持った親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食うなと云うて叱るのに、毒と見えたら試して死んでくれと云うような胴欲非道な母親がまたとひとりとあるものか、・・・」と必死と千松を抱きしめて天を仰いで号泣するところを、今回は、懐剣を床に突きたてて千松に覆いかぶさるようにして、悲哀をかき口説く。
   断腸の悲痛、玉三郎の独壇場である。

   毒菓子を食べて苦しみ始めると間髪を入れずに、八汐が、千松を捕まえて喉に懐剣を突き立てる瞬間だが、玉三郎は、かなり大きな動作で左右に泳ぎ、動揺した様子を見せて、”千松が目の前で殺されても顔色一つ変えなかった政岡の様子から、二人を取り替え子にして鶴千代を殺させたと栄御前(吉弥)が判断する”と言う思いに、微妙な一石を投じた感じで、人間政岡を演じているようで、興味深かった。
   その後は、政岡は、衣を左手に鶴千代を隠し、花道の揚幕方向を睨みつけて微動だにせず仁王立ち。
   八汐が、じりじりと、嫌味の限りを尽くして、千松の喉に突き立てた懐剣で甚振り続けるのをじっと耐えていて、栄御前の心証を証するのであろうが、残虐に目を背けるのではなく、政岡の一挙手一投足を観察するために、扇で顔を隠す栄御前の姿が、悪の証左であろうか。
   このシーンをインターネットから借用。
   

   前回の玉三郎の相手の八汐は、如何にも腹が立つ程憎々しかった仁左衛門だが、今回は、性格が出たのであろうか、どこか好々爺が良く似合う歌六の八汐には、悪辣さ憎らしさが、やや欠けていたように思う。
   政岡が、立派な侍の息子千松が、八汐如きの下賤に嬲り殺しにあった悲痛を吐露して嘆いていたように、ここは、風格があってはならないのであろう。

   それに、今回、気付いたのは、この御殿の場で、巻物を鼠にさらわれて、政岡が八汐を討って終わるところを、その前に、沖の井(菊之助)が、御殿医の妻小槇(児太郎)を連れて登場して八汐の悪事を暴露して八汐を討つと言う文楽のストーリー展開にして、分かりやすくしていたことである。
   茶の湯に精通して鮮やかな袱紗捌きの玉三郎のまま炊きの美しさは、冗長になり易い単調な場を救っていたが、チンの登場を省略するなどメリハリが利いて、やはり、歌舞伎屈指の名場面で、素晴らしい舞台を楽しませてくれた。
   子役の二人、特に、千松が上手い。

   床下の場は、ストーリーにすれば、極めて単純。
   御殿床下で鶴千代を守護している荒獅子男之助(松緑)が、捕えた鼠を踏みつけるが逃げられて、その逃げた鼠が、本性を現して仁木弾正(吉右衛門)に変身して、巻物を持って悠々と立ち去ると言う話。
   豪快で威丈夫な男之助が居丈高に大見得を切り、ふてぶてしく悪の権化を体現した弾正が、不敵な笑みを浮かべて花道を消えて行く、それだけのシーンを見せ場に観客を魅了する。
   流石に、吉右衛門の風格と威厳は天下一品。
   松緑も魅せる。

   最後の「対決・刃傷」では、細川勝元の大岡裁きが、流石に、染五郎の若さと老練さを綯い交ぜにした絶頂期のパフォーマンスで、惚れ惚れするような展開で、やや、トーンを落として逃げ切ろうとする吉右衛門の弾正をぐうの音も言わせず追い詰めて行く爽快さ。
   忠臣渡辺外記左衛門を演じる歌六は、この方が適役。その子息民部を演じる歌昇が良い味を出していて好感。

   久しぶりに魅せてくれる「伽羅先代萩」であった。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八月納涼歌舞伎・・・「逆櫓」「京人形」

2015年08月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   ニッパチと言うが、二月はともかく、八月は、何となく、暑さの所為もあって、観劇から足が遠のく。
   特に、日本では、納涼と銘打たれても、そうである。
   ヨーロッパに居た時などは、いくら寒くても、秋深くなり始めてからのシアター・シーズンでの観劇には、それなりの情趣と楽しさがあって、シェイクスピアを聴いても、オペラを観ても、あるいは、オーケストラを聴いても、トータルで楽しめたのを思い出すと、やはり、会食を楽しみながら、観劇を交えた夜長の過ごし方は、文化であったような気がする。

   ひらかな盛衰記の「逆櫓」は、歌舞伎の舞台でも、結構見ているのだが、このブログでは、文楽の方で2回書いているだけなので、歌舞伎の方では、印象が弱かったのかも知れない。
   芝居としては、後半の結末が、出来過ぎて腰砕けであるが、前半の取り替えっ子になった子をめぐる祖父と母親、そして、御曹司の乳母との人間模様が面白い。

    大津の宿の騒動で間違えて連れ帰った若君(そうとは知らずに)を、船頭権四郎(彌十郎)とおよし(児太郎)が、槌松として大切に育てているのだが、ある日、腰元お筆(扇雀)が、笈摺に書いてあった所書きを頼りに訪ねて来て、若君を返せと言う。
   自分たちの孫・子供に会いたいばっかりに、必死になって大切に育てて来た子供を理不尽にも返せと言うのであるから、権四郎は、怒り心頭に達して若君を殺して首にして戻すと言う。
   この若君は、実は木曽義仲の遺児駒若丸で、追っ手に踏み込まれながらも、取り替えっ子で命が助かると言う設定で、お筆としては若君安泰で取り返したい一心だが、祖父の権四郎と母およしにしては、自分の子が間違われて身替りとして殺されたことを知り、理不尽にも、可愛がって育てた槌松までも連れ帰ろうとされるのであるから、正に、断腸の悲痛。
   この前半のシーンは、世話物として、実に上手くストーリーが組み立てられていて、この悲痛と、義理と人情の柵に泣く三人三様の熱演は見もので、ベテランの彌十郎、成熟の扇雀、全力投球の若手のホープ児太郎が、実に上手くて感動的である。
   文楽では、お筆の簑助が良かった。

   ところが、前述したように、それからのストーリー展開が、不自然と言うか、無理にこじつけたような話になっていて、面白いのだが、一気に大詰めに向かうので消化不良になり、主役のおよしの夫船頭松右衛門(橋之助)の大立ち回りも、ショーに終わってしまう。
   三人の修羅場の後、奥の障子があくと、その家の主人船頭松右衛門が、威儀を正して、若君を小脇に抱えて現れる。
   実は、松右衛門は、義仲の重臣樋口次郎兼光で、主君の仇を討つために、逆櫓の技術で梶原に近づき、義経の船頭となって義経を討とうと考えたのだと明かして、わが子となった槌松が、主君のために身代わりになったとその忠義を褒めると、権四郎父娘は、(仕方なく)納得してめでたしめでたし。

   その後は、鎌倉方に身元の割れている松右衛門が、逆櫓の稽古に出たところ、捉えるようにと命令を受けていた3人の船頭たちに襲われ、浜で、多くの捕り手に囲まれて大立ち回りを演じる。
   そこへ、鎌倉勢の畠山重忠(勘九郎)が、権四郎を伴い現れたので、松右衛門は、権四郎が自分の素性をバラしたと怒るが、若君助命のために猟師の子槌松だと認めさせるべく、権四郎を、訴人したのだと言われて
   委細承知で、武士の情けで、若君の命が保障されたのを確認すると、おとなしく、松右衛門は、縄に掛かって、幕となる。
   何故か、大碇も登場して来るし、「義経千本桜」の「渡海屋」「大物の浦」の焼き直しの舞台を観ている感じであった。

   女形では傑出した成駒屋にあって、唯一とも言うべき豪快な拡張高い立役を演じている橋之助の船頭松右衛門実は樋口次郎兼光は、やはり、座頭役者の風格十分で、如才のない世話物風の役柄から一変して、重量感十分の樋口は流石。
   それ程力まなくても、と思わないでもなかったが、逆櫓を魅せる舞台にした貫録は、納涼と銘打つのが惜しいくらいであった。

   このような人情味溢れた、しかし、程良く押し殺しながらも心情を激しく吐露するような舞台を務めると如何なく本領を発揮するのが彌十郎。
   何時も匂うような若い女性の、何とも言えないようなしとやかさ優しさをほんのりと匂わせる姿が印象的なのが児太郎。
   品と風格、それに、成熟した高貴な上臈然とした色香さえ感じさせる扇雀。
   この三人が、思い思いの苦悩と心の葛藤をぶっつけ合って修羅場を演じる舞台は圧巻であった。

   この舞台の三人の船頭役で、橋之助の子息国生と宣生が、立派な役者として成長して来たのが頼もしく、勘三郎の部屋子の鶴松とともに、中々新鮮な爽やかな舞台を務めていて興味深かった。
   この鶴松は、後の演目「京人形」で、可憐な娘おみつを綺麗に演じていて、好印象を与えていた。


   「京人形」は、二回目くらいだが、左甚五郎が、美しい太夫に恋をして忘れられずに、太夫と生き写しの京人形を彫り上げて、その人形が動き出して戯れると言う話を舞踊形式に仕立てて、常磐津連中と長唄連中の華やかな樂の奏に乗せて繰り広げられる華麗な舞台。
   いわば、自ら彫った理想の女性像に恋をしたピグマリオンの日本バージョンと言うところで、このようなことが可能なら、必死に腕を磨いてでも、愛しのマドンナを彫ってみたいと思うのだが。「マイ・フェア・レディ」ともなると、感動的なストーリーになる。
   甚五郎の勘九郎の軽妙な芸も味わい深いが、七之助の京人形が品があって美しい。
   達者な芸の女房おとくの新悟、それに、奴照平の隼人と井筒姫の鶴松の絵のような若いカップル、夫々が存在感を示して楽しく、30分くらいの小品だが、魅せる舞台であった。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする