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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ハローウィンの思い出・・・フィラデルフィア

2006年10月13日 | 海外生活と旅
   ガーデニング・ショップや植木店に行くと、今、ハローウィンの飾り付けで賑わっている。
   今年は、珍しく、何時も行く園芸店で黄色いパンプキンを見つけたので、買ってきて孫の為にJack-o'-lanternを作った。
   昨年は、黄色いかぼちゃがなかったので、普通の濃緑色のかぼちゃで間に合わせたのだが、堅くて目鼻を開けるのに困った上に、やはり、肝心の感じがもうひとつ出なかった。
   口絵写真は、今年私が作ったJack-o'-lanternであるが、中にローソクの灯を灯すとオレンジ色の温かい光がパンプキンの皮を通して揺らぎ、秋の風情が漂って来て実に懐かしい。

   この季節になって、ハロウィーンの飾り付けを見ると、懐かしいフィラデルフィアでの大学院生活を思い出す。
   もう30年以上も前になるが、娘が地元のナーサリースクールに通っていた頃で、住んでいたペンシルバニア大学の院生用のハイライズ・アパートメントの主婦達が、ハローウィン当日、子供達の為に催し物を用意したのである。
   子供達は、思い思いにお化けの格好をして、部屋部屋を一戸づつ、TRICK OR TREAT(騙されたくなかったらお菓子をくれ)と口々に可愛い声で叫びながら回り歩いた。
   夫々に黄色いカボチャ型の籠を持っているので、その中にお菓子やキャンディを入れてやると、又、次の子供達の家に向かう。
   わが娘も、ニコニコしながら、インターナショナルな子供達の仲間に入って、嬉しそうに沢山の子供達と一緒に我が家にも回って来た。
   疲れて帰って来た時には、籠の中に沢山のお菓子が入っていたのを見せてくれた。

   確か、大学のキャンパスのショップで売っていた娘の衣装や飾り付けを買ってきたと思うのだが、鮮明に覚えているのは、大きな黄色いパンプキンを買ってきて、Jack-o'-lanternを作ったことである。
   この黄色いパンプキンは、少し堅いけれど加工がし易くて、それに、美しくて秋の収穫の喜びを味わわせてくれるので、私は好きなのだが、残念ながら、日本では見かけることが少ない。
   店にはプラスティック製のJack-o'-lanternが所狭しと並べて売られているが、この楽しさと季節感は、ささやかだが、黄色く色づいて熟成したパンプキンに包丁を入れて、プーンとした匂いを感じながら作らないと分からない。

   このハローウィン(HALLOWEEN)は、10月31日で、古いドルイド教徒ケルト人の聖夜で大晦日のこと。翌11月1日は、新年なのである。
   この日の一晩だけは、地上を彷徨う悪霊たちを総て動物に変えて追い払うことが出来ると信じられていたので、ケルトの若者達はお化けに変装して町中を歩き回って騒ぎなぎながらご馳走を楽しんだのである。
   丁度キリスト教ではこの日は万聖節(HALLOWMASS)で、ハローウィンは前夜祭となるのだが、このケルトの古い風習をキリスト教文化に取り入れて祭として定着している。
   アメリカに移ってからは、子供達のお祭となって、大いに騒ぎ、ご馳走を食べて収穫を祝う晩秋の楽しい一日となっているのである。
   
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何となく日本人

2006年08月09日 | 海外生活と旅
   「なんとなく、日本人」と言う小笠原泰氏のPHP新書の序文を見ていて、考えさせられた。
   シカゴ大大学院で教育を受け、マッキンゼーやフォルクスワーゲン、カーギル等々欧米の会社でキャリアーを積み、海外生活の長い典型的なの国際人である小笠原氏が、久しぶりに日本生活に復帰した時に、「帰国子女のワイフとともども実感としたのは、「やはり楽だな」であった。これは言葉の問題ではない。社会に漂うエートスの問題である。」と言うことである。
   いくら国際人を気取っても日本人であることの個性を否定できない、論理・言語を超えた子宮の中の羊水に浮かぶような安著を感じ「やはり、自分は日本人だな」と実感したと言うのである。

   私などのように、遥かに海外経験も浅く短い人間ならもっと実感できることで、本当にそう思うし、話は違うが、大学を出て就職し、すぐに関西を離れて東京と外国暮らしをしてしまったて関西とは縁が切れてしまったが、それでも、やはり、「なんとなく関西人」である。

   小笠原氏の論点は、
   人間生きるためには、「活動としてのグローバル化」と「軸足としてのローカル化」の両視点が必要である。
   しかし、急激な「活動としてのグローバル化」の中で、日本人自身のアイデンティティの危機と言うべきか、日本的なるものの物理的・心理的境界が曖昧になって「なんとなく日本人」を楽観的に維持し辛くなってきた。
   日本人がグローバル社会で生きてゆくためには、異文化と自国文化の差異を問うこと、「日本的なるもの」の本質を見極める必要がある、と言うことである。

   文明には、グローバライゼーションに通じる普遍的な側面「近代の普遍的な思想・価値観を生み出した顔」とローカライゼーションに通じる差異的な側面「民族と宗教に立脚する固有の思想・価値観を主張してやまない顔」の二つの顔がある。
   ところで、グローバライゼーションは、ローカル・コミュニティから人々をグローバルな世界へ放り込むと同時に、ローカル・コミュニティのアイデンティティの主張とその維持(自律分散化)を可能とし多様性を許容する」(アンソニー・ギデンス)と言う相反する要素を包含する、所謂、グローバル・パラドックスを持つ。
   欧米人はこのパラドックスの中に生きているので問題はないが、日本人には馴染みの薄い世界で、現在は、普遍的なグローバライゼーションに幻惑されて、日本人としてのローカル性・アイデンティティを失いつつあり危機的な状態にある、と言う認識である。

   さて、どうであろうか。
   小泉首相の靖国神社参拝は、公約であるから実行すると言うが、このことは日本固有のローカル性の発露なのか、それとも、普遍的なエートスなのか。
   中曽根元首相は、宮司が分祀すれば済む、と言うし、麻生大臣は非宗教法人化し任意解散して国立の追悼施設にすれば良い、と言うのだが、日本の神道とは、その程度のものなのであろうか。
   宮司が決めれば分祀出来、国会で簡単に非宗教法人化出来る様な宗教なら、何故、国論を真っ二つにしてアジアの平安を乱し、人類の平和と安寧のための崇高な努力を妨げるのか、悲しいかな、宰相小泉オトドは差し詰めピエロである。
   それ程、「日本的なるもの」を再発見することは難しい。
   
   
   
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大前研一氏の旅案内「旅の極意、人生の極意」

2006年08月02日 | 海外生活と旅
   大前研一氏が、旅の本「旅の極意、人生の極意」と言う新しい本を書いて、極上15の世界旅行を紹介している。
   一般的なトップ観光地ではなく大前氏取って置き選りすぐりの隠れたトップスポットなのである。
   何より貴重なことは、世界的経営コンサルタントの原点が、高級クラリネット欲しさに始めた早稲田時代のJTB添乗員の経験にあったことを開陳していることで、沢山読んだ大前氏の経営学書より示唆に富んでいることであるが、これは稿を改めるとして、この本の旅についてコメントしてみたい。

   興味深いのは、一番影響を受けた筈のアメリカに対する記述が一箇所もなく、それに、今流行のBRIC’sにも触れていないことであるが、一般的な観光ルートは別として、やはり、大前氏の趣味の豊かさが色濃く出ていて面白い。
   私は、無趣味な所為もあって、大前氏の15のプレミアムツアーの中で、全く、行った事がないところは、カナダ/ウイスラー、ドミニカ共和国/サントドミンゴ、オーストラリア/ノース・ストラッドブローク島、パラオ共和国/パラオ、タイ/プーケット島、アメリカ合衆国/ハワイ島の6箇所であるが、他の9箇所は、何らかの形で側を掠ったにしても一度は訪れている。
   所謂リゾートと言う所とは縁がなかったと言うことである。
   アラブ首長国連邦へ行ったのは、随分前なので、大前氏の言う最近の超近代的に開発されたドバイは知らない。
   ヨーロッパが、8箇所選ばれているが、在住8年なので、何処も何らかの形で訪れているのだが、大名旅行の大前氏とは当然見方が違っている。
   しかし、その差が面白くて興味深く読ませて貰った。
   ただ、大前氏が甚く感動的に書かれている所でも、私自身実際にはそれ程と思わなかった所もあるので、大前氏の感情移入を多少割り引いて読んだ方が良いような気がしている。

   私は、歴史的な関心が強いので、例えばアメリカ大陸の場合では、マチュピチュなどのインカの遺跡、メキシコのマヤ・アズテック遺跡などを選んでしまうのだが、大前氏のイグアスの滝とプラハの記述には全く同じ気持ちで読ませて貰った。

   イグアスは、仕事の関係もあって10回以上も訪れていて、ブラジル側の「悪魔の喉笛」の耳を劈くような轟音の下で地球の凄さを感じていたが、残念ながら、大前氏のように船で滝壺に近づいたり、ヘリで上空を飛んだりはしていない。
   しかし、イグアスの滝の上空至近距離からボーイング737の旋回で何度も観ており、それに、あの凄い水量の滝が殆ど水枯れして悪魔の喉笛さえ枯れかけていたのを知っている。

   プラハは、世界一美しい街だと思っているし、2度訪れていて、ヴェルディ・イヤーでは4日間毎夜オペラを鑑賞したし十分楽しんできている。
   モルダウ河畔で、バドワイザーを飲みながら、長い間、対岸高台の美しい王宮を眺めていた。
   それに、大前氏の言う東欧では、回数を重ねて訪れたハンガリーのブダペストの方が思い出も多いし、それに、プラハに劣らないほど魅力のある街だと思っている。
   ベルリンの壁が崩壊した後、素晴らしい宮殿のような国会議事堂の中で、丁度国会が終わって同僚と談笑していたネーメト首相に議場でお会いして雑談したのも懐かしい思い出である。
   壁の崩壊の前と途中と後を見たのは、このブダペストと東ベルリンだけだが、あの頃は、私も若かったし、正に、ヨーロッパは風雲急を告げていた。

   ヘルシンキからストックホルムへのバルチック海の船旅、サンマロからモンサンミッシェル、コートダジュールのサントロペ、ヴェネチア、・・・思い出しても懐かしいが、ほんの1時間の大前研一氏の「旅の極意、人生の極意」が、また、私の旅心を呼び起こしてしまった。
   「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人なり」、学生の頃、芭蕉の故郷・伊賀上野を訪れて、蓑虫庵で奥の細道を読んでいて心に沁みた文章だが、随分旅と共に人生を過ごして来たものだと正直なところ感慨深い。
   
   
   
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歴史的建造物がそのまま生活に生き続けるヨーロッパ

2006年06月03日 | 海外生活と旅
   この口絵写真の建物は、イギリスのカンタベリー(ケント州の歴史都市で英国教会の主教座のある所で、カンタベリー物語のチョウサーやベケットでも有名)の旧市街にある。
   一階は、画材や文具などを売っている店で、なかなかシックであるが、上階は住宅であろう。
   柱は曲がっていて、支柱で支えてはいるが、地震がない所為であろうか、しっかり立っていて、雰囲気がある。
   このように柱が傾いたり、家が歪になって立っている建物はイギリスのみならずヨーロッパには多い。
   アムステルダムの住宅など、傾いて前面にせり出し、一番上の5階の窓から外を覗くと、通りを越えて真下に運河が見えるなどと言った所もある。

   上に行くと建物が張り出しているが、これは、汚物を上階から道路にぶっちゃけるので、通りの人が被らないようにするためである。
   おちおち道の真ん中など歩けなかったのである。

   ハリー・ポッターの映画で見るようにイギリスには古くて不気味な建物が多いのだが、兎に角、幽霊が出てくると言われる古い住宅ほど資産価値が高い。
   不動産屋の物件案内に堂々と幽霊出没が明示されているし、古いホテルなど幽霊が出ることを宣伝にしており、廊下やロビーに幽霊の絵まで飾られているのだが、日本人の私には悪趣味にしか思えない。

   シェイクスピアの故郷ストラットフォード・アポン・エイボンのシェイクスピアホテルなど古いホテルには、床の傾いだ部屋がまだ残っていて、夜、スワン座でマクベスなど観劇して帰ってきてそんな所で一夜を過ごすと、タイムスリップ感覚間違いない。
   部屋の名前まで総てシェイクスピア戯曲縁の固有名詞なのである。

   ヨーロッパの田舎町も含めて、随分歩いてみたが、何百年も経っている古い館やシャトーが古城ホテルになっていて、素晴しい旅情を醸し出してくれるのだが、大概、人里離れた所にあるので都会生活に慣れた人間には少し寂しい。
   旧市街の古いホテルは比較的こじんまりしていて、床の傾きやドアの傾ぎなどは序の口で、上階の床を歩く客の足音で眠れないこともあるが、気にしなければ人の温もりを感じさせてくれる。
   ザルツブルグやローテンブルグ等の騎士の館の古いホテルも、重厚な味があってなかなか良い。
   ヨーロッパの古くて立派なホテルの客室は、広くて天井が非常に高くて、慣れないので落着かない。
   折角の機会だからと思って、出張の時も、自腹を切って色々なホテルを渡り歩いたが、古いだけの本当の安宿を除いて、歴史建造物のような古いホテルに宿泊した時には、悪い印象は殆どなかった。
   
   私の住んでいたキューガーデンの家は、100年以上は遥かに経っている古い家で、二重サッシがあたり前の日本では考えられないけれど、窓など立て付けが悪くてスムーズに動かず、エネルギー効率は悪かったが、自由に建物に手を入れられるのかどうか分からなかった。
   ロンドンの別な所に居た時は、隣の家が改築するのに役所が図面を送ってきて住人の私に賛否を聞いて来た。
   オランダなどは、立ち木1本切るのに許可が必要だったし門扉を広げて駐車スペースを新設するなどもっての他、窓枠の色は白と決まっていたし、歴史的建物でもないのに喧しかった。
   それでありながら、モンドリアン風の派手なカラーの家を認可したり、四角や三角がひっくり返ったようなデザインの家を建てさせている。
   
   小泉首相が、今日は会津を訪問とか、退任間際になって歴史の街並を歩いているようだが、歴史の風雪に耐えた建造物や街並には、特別な懐かしさとゆかしさがあって心を豊かにしてくれる。
   それはヨーロッパでも日本でも同じだと思うが、何故か、日本の建物は神社仏閣を別にすれば寿命が短すぎるような感じがするのは何故であろうか。

   
   
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外国旅行は早いほうが良い・・・グランドツアー

2006年05月08日 | 海外生活と旅
   今日、TVを見ていたら、旅行会社にも変化があって、老年・熟年を対象にした海外旅行を企画・実施している専門会社が脚光を浴びていると言う。
   普通8日間で行くヨーロッパの旅をシニアに合わせて12日間コースに組み替えてゆっくりした旅に変更し、現地でのバスや船なども余裕たっぷりのシニア向けに改造したものを自分達で調達する等、時間と金を十分に使った団体旅行にする。今夏の企画は、既に予約で満杯で、いつも、企画すればすぐに売れるのだと言う。
  
   先日、クイーン・メアリー2世号より巨大な世界最大の豪華客船フリーダム・オブ・ザ・シーズ号が竣工して、サザンプトン港でニューヨークへの旅の出航準備中だと報道していたが、日本でも飛鳥号が人気を集めていて、世界中で豪華な船旅がブームになっているらしい。
   暇と金に余裕のある豊かなシニアを標的にした観光サービスは盛況だと言うが、堺屋太一氏が言うように、労働市場から退場しつつある団塊の世代が、生活をエンジョイする為に消費を拡大して日本の経済社会を活性化させるのであろうか。

   ところで、前述の新しい船はフィンランドで建造されたようだが、以前に、ヘルシンキからストックホルムまで船旅をしたことがあるので、あのバルチック海には豪華客船が頻繁に行き来しており、なるほどと思った。
   ノキアの快進撃やリナックス以外にも、サンタクロースやムーミンの国でもあり、フィンランドの産業には、ユニークな先進的な技術ノウハウと豊かで粋なセンスが同居している素晴しい先進国なのである。

   ところで、私が言いたいことは、昔から、これは一寸別な意味かも知れないが、「可愛い子には旅をさせろ。」と言うように、海外旅行も、好奇心が強くて感受性の豊かな若い時ほど値打ちがあり、早ければ早いほど良いと言うことである。
   私は、ヨーロッパで、日本から来た多くのシニアの旅人が、現地のみやげ物店でぐったりして座り込んでしまって動かなくなっているのを随分見て来たが、素晴らしい旅であればあるほど体力と気力が要求される。

   もっとも、シニアの場合は、これまで十分働いて来たし、骨休めと楽しみの為に暇が出来たので旅を楽しんでいるのだと言うことで、目的が違うかも知れない。
   しかし、体力気力共に衰えててからでは異文化との遭遇の喜びや旅の醍醐味など十分には味わえず、遅過ぎて、時には楽しみが苦痛に変わる場合もあり得る。
   アレキサンダー大王が、師アリストテレスに、「私は王なのだから、もう少し易しい勉強の仕方はないのか。」と問うた時に、師は「学問に王道なし。」と突っぱねたと言うが、やはり、旅を楽しむ為には、多少楽な方法があるかも知れないが、所詮は自分の体力と気力との勝負であり、楽して楽しむなどは論外だと思われる。
   
   しかし、旅には王道はないかも知れないが、18世紀のイギリスの富裕な貴族の子弟には素晴しい修行の総仕上げの卒業旅行とも言うべき大規模な「グランドツアー(The Grand Tour)」と言う制度があった。
   シェイクスピアを産み、産業革命で先端を切り、七つの海を支配していた大国イギリスも、文化的には後進国で、文化の花開いたフランスやイタリアに憧れて、イギリスの若者達は、数ヶ月から何年間にも亘って、家庭教師や召使を引き連れて旅をし、見物、買い物、勉強等に精を出して見聞を広めたのである。
   フランスでは洗練された社交術を身につけ、イタリアではルネサンスで花開いた素晴しい芸術の世界に浸り、限りなく青春を謳歌した。
   彼らが持ち帰った学問や芸術が、新古典派の建築物やイングリッシュ・ガーデンに反映され、経済社会を大いに変えたと言う。
   それに、家庭教師としてイギリスの大学者もこのグランドツアーに参加しており、これ等を通じてのイギリスにおける学問的な貢献が大きいとも言われている。

   当時のヨーロッパは、遥かにグローバルであったが、残念ながら日本だけが鎖国政策をとって世界から隔離されていたが、案外、僅かに開かれた長崎以外にも、狭い範囲ではあるが参勤交代が文化の交流を促進していたのかも知れない。
   しかし、幕末と明治維新に入ると一気に風穴が開いて異文化交流が進展し怒涛のように西洋文化が雪崩れ込んできて日本の近代化を迫った。
   明治の政治、経済、社会、文化等を大きく変えたのは、欧米に旅立った視察団や留学生の貢献が大きいと思うが、やはり、これも外国への旅の効用と言うべきであろう。
   

   
   
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海外旅行、そして異文化との遭遇

2006年05月07日 | 海外生活と旅
   樋口裕一氏の「旅のハプニングから思考力をつける!」と言う新書を読んでいて、旅は、人それぞれだなあ、と思った。
   フランス語などを教えている先生で、西欧文化に心酔しながらも、若い時から、100万円で60日間の東欧を主とした新婚旅行を試みるなど、可なり安い旅行と冒険心旺盛な世界旅をしている。
   本書に書かれてる旅は、大分データが古いが、ヨーロッパ以外に、インドや北朝鮮、ヴェトナム、カンボジア等、私の行っていない国の話が語られていて興味を持って読んだ。

   私の海外旅行は、海外に住んでいて海外を旅行したと言うのが相当多くて、それ以外は、外国出張の時とか、個人的な旅行である。
   海外在住の時は、年末年始と夏期休暇を利用しての2週間程度の少し長い旅であるが、海外出張を利用しての旅は短時間だが、色々な異文化との遭遇と言う貴重な機会を与えてくれた。
   アメリカ在住時は、アメリカやメキシコ、ブラジル在住時は南アメリカ諸国、ヨーロッパ在住時はヨーロッパ諸国になるのは仕方がないが、日本に居た時は、出張で、東南アジアや中東にも出かけた。

   海外旅行を始めたのは、アメリカ留学中であった。
   最初は、大学でフロリダまでの団体旅行が企画されたのでこれに参加したのが始まりだが、その翌年に家族を連れてヨーロッパまで個人旅行をすると言う可なり思い切ったことをしたので、それ以降は、殆ど、自分自身の手作りの個人旅行である。
   海外駐在員であった所為もあり、十分用心して大事を取ったりかなり余裕を見た旅行に心がけたので、樋口氏のように異常なハプニングや危険、事故等にあったことはない。

   本のタイトルの「ハプニングから思考力を」と言う発想は特にないが、私自身は、異文化に遭遇してカルチュア・ショックを受けること自体が豊かな発想と思考力の源だと思っている。
   ヨーロッパの文化文明の進歩とその豊かさは、あの人種の坩堝のような異民族が、言葉や宗教や歴史や風俗習慣などを異にしながらモザイク模様のように同居して、切磋琢磨し、時には血で血を洗いながら生きていることを無視しては語れないと思う。

   異文化に遭遇して外国人と付き合う時には、やはり、経験以外にはないと思うが、何処の国の人も人間として同じだと言う要素と、この国は違うのだと言う違いの要素を嗅覚として摑むことが肝要だと思っている。
   もっとも、車で1時間も走れば国境を越えてしまうオランダでさえ、時には北と南では言葉が通じないと言う信じられないような話を聞くし、某大建設会社のトップは、私にオランダ国内にも少なくとも8つ別々の支店を置かないと仕事にならないのだと言っていた。
   それでも、私は、ヨーロッパでは、飛行機に乗ったら、これから出かける国にビジネスの頭を切り替える努力をした。信じられない人が多いが、オランダも、ドイツも、フランスも、イギリスも、スペインも、ベルギーも、例えば、システムや慣行が違うので、建設会社一つを使って工事するだけでも全く対応が違うのである。

   面白いのは、フランスのアルザス地方。ここは、普仏戦争でドイツ領になっていたが2度の世界大戦で4回も国が変わって今はフランス領だが、文化文明的にはドイツの影響が濃厚に残っている。
   しかし、アルザスの中心都市で実に美しいストラスブールで、商工会議所のトップでもある不動産会社の社長と土地買収の交渉をしたが、これが実にユニークなラテン商法で非常に貴重な経験をしたことがある。
   今では完全なフランス文化圏に取り込まれて隣のドイツやオランダとは全く違ったビジネス・ルールが支配していて、東京と大阪の違いの次元どころの差では全くないのである。

   話が横道に逸れてしまったが、樋口氏の言いたかったことは、外国旅行で日常とは違ったことを見る事によって、日頃あたり前だと思っていたことが違って見え、新しい自分を発見出来る。発想が豊かになって自分をもっと広げられる。と言うことであるようである。

   その場合、危険や苦労が伴うが、やはり、お仕着せの旅行会社が仕立てた団体旅行ではなくて、自分自身の手作りの旅を心掛けるべきであろう。
   もっとも、その時は、英語力がほどほど備わっていることが必須条件ではあるが、海外旅行の醍醐味とその楽しさは抜群に増す筈である。


   
    
   
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チューリップやシクラメンの故郷イスラエル・・・花を訪ねる平山郁夫

2006年02月07日 | 海外生活と旅
   今日、BS『世界・わが心の旅「イスラエル””約束の地”に花咲いて」』で、画家平山郁夫さんの花行脚を放映していた。
   全部は見られなかったが、野生のシクラメンの花に囲まれて、地中海の風に吹かれながら、静かに花を写生されていた。
   自然の摂理を描きたいと言う。
   人々をバブルに狂奔させたチューリップもこの地中海の産で、白い小さな原種のチューリップが大地に咲いているのが映っていたが、オランダ人があんなに豪華な花に変えてしまって、自分達の国花にまでしてしまった。

   このパレスチナの地は、戦争の火薬庫であるが、ここで、ユダヤ教とキリスト教が生まれ、永い間のイスラムの支配の中に、20世紀にユダヤ人の国イスラエルが建国された。
   映画「栄光への脱出」を思い出す。

   ヨーロッパに8年間も居ながら、行きたかったがとうとうイスラエルには行かずじまいであった。
   ヒースローやスキポール空港でのイスラエル行きの飛行機の出国チェックは厳しさを極めていて、紛争など発生すると自動小銃を持って武装した兵士が立って居たりした。

   シュンペーターもドラッカーも、バーンスティンもオーマンディも、アインシュタインも、とにかく、偉大な人の多くはほとんどユダヤ人、ノーベル賞学者の3分の1以上はユダヤ人だと聞くが、素晴しい人材を輩出する民族である。
   イスラエルは、私には遠い国ではあるが、ささやかながら、私にも何人かのユダヤ人の思い出がある。

   ウォートン・スクールの院生の時、同じ課題を共同で研究していたジェイコブス・メンデルスゾーンは、私を、過ぎ越しのお祝いの日に、自宅へ招待してくれた。フィラデルフィアから車で2時間ほど田舎道を走った。
   あのソロモンのパス・オーバーの記念日だと思うが、当日、親族の男達が集まって、当時の貧しい同じ食べ物を食べながら経典を輪読する。
   何故か、私も呼ばれて、みんなと同じに長方形のテーブルについて、あの帽子を被って輪読に加わった。
   英語なので読めたが、ヘブライ語の固有名詞になると詰まって読めない。適当に発音して読んだら、隣の少年がクスリと笑ったのを覚えている。

   印象に残っているのは、ジェイコブスの部屋に入って見せてもらった家系図ツリーである。
   額に入った大きな楠木のような絵であったが、祖先から男系の子孫までビッシリと名前が書いてあった。
   端の方のJayと言う名前をさしてこれが自分だと言った。
   ここがアメリカ、ここがソ連、ここがイギリス、と言いながら、国別に親族の分布を説明してくれたが、真ん中に歪にちじれて切れてかたまっているところに来ると、ナチにやられたんだと顔を曇らせた。
   私は、ユダヤ人の結束の強さとナチに対する憎しみが尋常でないことを知って苦しかった。
   今でも飄々としてキャンパスを歩いていたJayを思い出す。音楽の才はあったのかどうか聞くのを忘れた。

   フィラデルフィアのインターナショナル・ハウスに住んでいた時、同じフロワーに住んでいたユダヤ人の医者が、私の部屋に来て、今日はエレベーターを使えない日なので、階段を駆け上がるまで上で非常ドアーを開けておいてくれと頼んできたことがある。
   治安が悪いので、常時、非常ドアは階段から部屋には入れないようになっていたのだが、この文明の世の中に、変な民族だと思ったことがある。

   名前は失念したが、アメリカの実業家ユダヤ人とブダペスト行きの飛行機で知り合った。少し、オープンになりかけていたが、ハンガリーも、まだ、鉄のカーテンの彼方でベルリンの壁崩壊前であった。
   初めてでビザがなかったので入管の手続きを助けてくれた。
   2~3日の内に連絡するので会おうと言って分かれた。
   気にしていなかったが、連絡して夜ホテルに来てくれた。食事の後、ナイトクラブに案内してくれて、ハンガリー事情を丁寧に教えてくれた。
   民族色を少し感じる綺麗な素晴しいショーをしていて、共産社会の裏を垣間見た気がした。
   お礼をしなければ思ってそう言ったが、わが祖国ハンガリーを愛してくれたらそれで良いと言って帰って行った。

   ダボスのフォーラムの別セミナーがアテネで開かれた時、オーストラリアの実業家ユダヤ人アブラハム氏と隣り合わせた。
   オーストラリアにはギリシャ移民が多いのだと言っていた。
   夜、彼のアテネのマンションでパーティーをやるので来いと招待を受けた。
   行ってみると、アテネ駐在オーストラリア大使など沢山の人が集まっていて、楽しそうに談笑していた。
   あのオナシスもマリア・カラスもギリシャ移民、何処に行こうと故郷を思う気持ちと民族の結束は強い。

   翌日、バスに乗ってデルフィに向かったが、ギリシャの大地は、イスラエルのように乾燥地帯で、平山画伯のイスラエルと良く似ている。
   廃墟に真っ赤な芥子の花が咲き乱れていて、何とも言えないほど旅情を誘う。
   殆ど人の居ないアポロン神殿で長い時間を過ごしたが、気の遠くなるほど静かで、ここで神の神託が行われたのかと思うと感無量だったが、何故か、真っ赤な芥子の花がいまだに瞼にちらついている。
   
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雪景色の思い出・・・オランダの雪、アルプスの雪

2006年01月22日 | 海外生活と旅
   関西に生まれ育ったが、故郷を遠く離れて、その後、東京、アメリカ、ブラジル、オランダ、イギリスと渡り歩き、帰国後はずっと千葉に住んでいるので、雪深い所に住んだことがない。
   夜中に深々と雪が降って、今日のように天気が良くなって、翌日に美しい雪景色が目の前に展開されるとカメラを持って飛び出したくなる。

   昔、出張でサウジアラビアのリヤドで仕事をしていた時、異常気象で大雨が降った時のことを思い出した。
   この時、パートナーのアラビア人たちは、会社を休んで家族を引き連れ弁当を持って、大水で氾濫して激流する川を見物に出かけた。
   雨など殆ど降らない水不足の砂漠の民には、川自体が珍しくて、何時も見慣れた普通の谷底が俄か河川になって、それが氾濫して激流するのなどは滅多に見られない見ものなのである。
   何のことはない、泥水が凄い迫力で流れているだけなのだが、珍しいと言うことはそう言う事なのである。
   私の雪にたいする感覚も、これと同じかもしれない。

   フィラデルフィアやアムステルダムやロンドンも冬は寒い所だが、東京と同じで殆ど大雪の経験はない。
   しかし、一度だけ、アムステルダムで大雪が降って、珍しい経験をした。
この時は、娘に雪橇を買ってやったのだが、その時だけで、その後は一度も使わなかった。
   その年は、大変寒い年で、氷点下21度まで下がって家の中の水道管が破裂して水浸しになった。
   車は、各住宅の前庭に野外駐車なので、朝車に乗ろうとすると鍵穴が凍って開かないので苦労する。一度、熱湯をぶっ掛けて開けようとしたら、その熱湯が瞬時に凍り付いて益々困ったことがあった。

   オランダは低地で殆どフラットなので、雪が降ると全く雪で真っ白に埋まってしまう。
   しかし、風車や観光地のオモチャのような極彩色の民家が雪を頂く風情は実に美しい。
   30キロメートル以上一直線に続く大堤防の中の巨大なアイセル湖が完全に凍結して、人々が行き交い、帆を張った橇が湖上を滑ってゆく。

   しかし、このように寒い冬には、オランダ中の全部の運河が凍りついて繋がるので、全オランダ運河一周のスケートレースが開かれるので、全オランダが沸きに沸く。
   確か、優勝者のタイムは6時間少しだったように記憶しているが、真っ直ぐに繋がった運河ばかりではないので、陸に上がって橋を越えたり、とにかく、オランダの運河も色々あるのが分かって面白かった。
   アムステルダムの郊外のアムステルフェーンに住んでいたのだが、家のすぐ側に運河があって、家族はオランダ人に混じってスケートを楽しんでいた。

   雪の恐さを知ったのは、雪の日に、車を出して走り始めて途中でブレーキを踏んだら、車が半回転してしまった時である。
   オランダでは、雪が降りそうだと分かると、役所が車を出して事前に道路に塩を撒くので、冬季でも車はチェーンを付ける等と言った準備をせず普通に走っている。
この日は、途中から急に降り出して、それに、雪道を運転した経験がないので、急ブレーキをかければスリップすると言う初歩的なことさえ知らなかったので、平生どおりに走っていたのである。
   本来はビジーな道路だったが、休日で後続車がなかったので助かった。

   フィラデルフィアの冬も寒いが、東京と同じで雪は少なかったし、それに、ロンドンも雪は東京並みである。
   勿論、サンパウロには雪は降らないので、南米で雪を見たのは、ずっと南極に近いアルゼンチンのバリローチェやアンデスの山の中であった。

   旅の途中では随分雪景色を見た。
   やはり美しいのはヨーロッパ・アルプスの山々の雪景色である。
   一番最初に見たのは、スイスのベルンからヨッホまでケーブルで行ったユングフラウ、そして、シャモニーからモンブラン、最後は、マッターホルンであった。
   鉄道と登山電車で乗り継いだ旅であるが、私は写真だけだったが、家族は可能な時はスキーやスケートを楽しんでいた。
   マッターホルンなどは、観光客の大半はスキー客で、30畳以上もある大きなケーブルカーが一挙に多くの客を運び上げて、スキーヤー達は3000メートルの高地から一斉に飛び出して滑降して行く。

   寒い雪に凍てついた夜道を、舗道をほのかに照らすショウウインドーの輝きや外灯の滲んだ優しい光にホッとしながらホテルに向かって歩いていたあの頃のヨーロッパの街並を、時々思い出す。写真や絵画と重なって、あれは夢だったのかも知れないと思うこともある。
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殆ど役に立たない通訳による国際ビジネス・・・グローカル視点が必須

2006年01月05日 | 海外生活と旅
   口絵の写真は、イギリス・カンタベリーの住宅である。2~3百年は建っている。
   オランダにも、最上階の窓から覗くと街路を越えて川面の上に飛び出たような錯覚を起こすほど、前に大きく傾いた住宅がいくらでもあり、これが何百年の風雪に耐えて建っている。
   何処かの国の耐震強度偽装事件のような建物ではなく、いくら傾いていても倒れない。
   もっとも、自然条件や風土が違うので一概には言えないが、私がこのコラムで言いたいことは、この建物のように、国や土地が違えば、その地域での生活を統べる文化や文明、価値観が、全く違うと言うことである。

   先日のブログで、パラグアイでのビジネスについて触れ、中国のMBAについても書いたが、国際ビジネスを有効に行う為には、ホスト国の言葉や文化・文明、そして、生活、その国の人々の価値観等を十分知っていないと失敗する可能性が高いと言うことを言いたかったのである。

   いくら有能な通訳を使ってビジネス交渉を行っても、相手の国の商習慣なり、ビジネス慣行を知っていないと、まず、成功は覚束ない。
   まず、最初に、通訳の能力だが、例えば、健康保険のことで交渉するのなら、その通訳が、日本語と相手国の言葉を同等程度に理解していることが最低条件必要で、次に、両国の健康保険のことに十分な知識を持っていることである。
   良く現地に長くて言葉も生活習慣も良く知っている現地人と結婚した日本人が通訳をしていて、これを使うケースがあるが、交渉の対象の専門知識がないと結果は最悪になる。

   たとえ、これ等の条件が揃っていて、日本語に正確に通訳されても、交渉する自分自身に正しく理解できるであろうか。
   例えば、銀行だが、英米ではBANKで、ブラジルではBANCOで、通訳は、銀行と訳してくれる。
   しかし、インフレの激しかった頃のブラジルの銀行は、金利も本来の利子にゼツリオバルガス研の価値修正数値を加えたり、乞食でも小切手で支払をするなど全く日本の銀行と違っていたし、欧米の銀行だって、もっと、日本の銀行と違っている。
   通訳が銀行と通訳したので、自分の知っている三菱や住友と同じだと思って交渉すると、えらい事になる。

   建設の話であっても、ブラジルでは、地震が無いと言うことで、30階建てでも姉歯級の鉄筋の数だし壁は煉瓦積なので夫婦喧嘩で妻が壁を突き抜けて吹っ飛んだと言うアホナ噂まである。
   工事が何時終わるか分からないので、施工済みの低層階には店が開店し人が住んでいて、上層階ではコンクリートを打っている等と言うのはざらであった。
   高速道路の橋桁が細くてスパンが長すぎるので、日本人の土木技師が恐れをなしてしまった。

   しかし、幸いなことに、ブラジルには、日本人の歴史と文化を背負った優秀な日系人が沢山いて、日本企業は随分助かった筈である。

   もう少し、建築の話をしよう。
   オランダとイギリスとは隣どおしで付き合いも長い。しかし、全く違っていた。
   例えば、建築工事の契約であるが、オランダは、いくら熟知し親しい間柄でも、プロジェクト毎に、全く一から切った張ったで熾烈な交渉を繰り返す。
しかし、一度合意に達すると多少の変更があっても日本の建設会社のように文句を言わずに完全に工事を仕上げる。
   一方、イギリスは、極めて紳士的に和やかに交渉し理解のあるところを示して交渉を終える。
しかし、工事が始まれば、プロジェクト・マネージャーがクレイム・マネージャーに変身して、クレイム・クレイムで、工事費の増額を要求、仕事にならない。契約条件の不備やスペックの問題点を衝いて金にしようとするのである。
その所為か、イギリスでは、アーキテクトやエンジニアーの評価は高いが、建設業の地位は低い。
イギリスには、工事の監視役にクオンティティ・サーベイヤーが存在する所以でもある。
   もっとも、このオランダもイギリスも、一寸走れば国境を越える小国だが、数時間走れば、もう喋っている言葉も分からなくなるし、商習慣など全く違ってくる。

   国際ビジネスは、それ程難しいのである。
   まして、良き通訳を雇えれば、ビジネス交渉が上手く進むなどと言ったことはあり得ないのである。
   親会社のビジネス感覚と価値観を共有し、ローカルの商習慣を熟知しかつ現地での経験豊かな、近代経営の知識と豊かな国際感覚を持った人材を如何に育成し確保するのか、That is a question.である。
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カルチュア・ショックの連続・・・パラグアイと言うラテン・アメリカの国

2006年01月04日 | 海外生活と旅
   今日、TVを見ていたら、パラグアイで成功した日本人移民農家の話を放映していて、懐かしいアスンションの風景が写っていたので、30年前の彼の地でのことどもを思い出した。

   私が、アメリカ留学を終えて、すぐ赴任したのがブラジルのサンパウロだったが、本格的な仕事を始めたのは、隣の国パラグアイであった。
   ブラジル移民の人々が移動して来たと言うことで、比較的日本移民の多い所だが、パラグアイから日本へ国際電話(たった2本しかなかった)を架けた時、交換手が「腹具合が、悪いのですか」と応えた位に、日本では馴染みがなかった。

   世界銀行の借款による道路工事の入札に参加して、幸いにも、落札できたのだが、それからが苦難の連続であった。
   全くビジネス倫理やビジネス感覚の違う国においての国際事業が如何に困難であるかを地で行ったような、ラテン国家でのプロジェクトであった。

   まず、最初の躓きが、下請けの問題。
   入札の段階で、一番施工能力のある工兵隊に見積もりをさせたのだが、さて、工事契約の為に交渉に入ると、その金額では下請けが出来ないと言って見積りには一切責任を持たずに、足元を見て法外な工事費を要求してきた。
   以前、同じことを中国でも経験したが、結局、工兵隊の下請けを諦めて自分たち自身で施工体制を組んで施工することにした。

   一方、ブラジルへ発注したアスファルト・プラントは、待てど暮らせど、納入時期を過ぎているのに到着しない。
   契約など完全無視、アミーゴにしか約束を守らない国なので、転用してしまっていて埒が明かない。仕方なく強引に取り外して持ってきた。

   次の問題は、発注者政府道路局への対策で、要は賄賂の問題。
   月給5万円の局長が、貧しい国であるにも拘らず、車庫にはベンツが2台、玄関を開くと心地よい音楽が流れでる間口30間以上の豪邸に住んでいる国なので押して知るべしであるが、まして、世銀借款の大型工事は私利を肥やす為には千載一遇のチャンスで、この目的遂行の為にあらゆる手を打ってきた。
   まず、工事管理のコンサルタントはアメリカの会社だが当時は全く倫理観は欠如していて、道路局の言いなりになっていて建設業者を徹底的に締め上げることを指示されていたので、スペックを満たしているにも拘らず、中々OKを出さないので、何度も工事のやり直しで何倍もの工事をしたことになり、機械の消耗が激しく工事費は鰻上り。
   しかし、我々は、世界中で国際事業に参加している以上、国際的なルールの厳守と倫理観の維持は当然必須だと考えており、一切、パラグアイ流のやり方に妥協しなかったので、大変な苦労をした。
   パラグアイの別の地区で前年に米国のM社が施工した道路は、もう、既に、1年も経たない内に表層が剥がれてきていた、要するに、皆で食ってしまったのである。これが、パラグアイの道路工事の現状であった。
   世銀借款の道路工事で立派に施工して成功したのは、我々のパラグアイの道路と東名高速道路くらいではなかろうか、と思ってしまう。

   もう一つ誤算だったのは、自然現象や自然条件の違いで、彼の地は、イグアスの滝に近いジャングル地帯で、それに大地はテラロッサ、とにかく、日本人感覚で計算に入れた自然条件と全く違っていて、この克服にも悪戦苦闘した。
   最後の留保金を取り戻すまで数知れない苦労をしたが、何故か、星が降ってくるような美しい夜空や、旧漢字のホタルの様にお尻ではなく頭、即ち目玉が光る大きなホタルを見たことなどばかりを思い出す。

   私自身は、サンパウロ常駐だったので、直接にこの工事を担当していなかったが、ビジネススクールで勉強した国際ビジネスの恐さを思い知らされたプロジェクトであった。
   他にもラテンアメリカには、一切外国企業の本国の介入を許さないカルボ条項など独特な商慣習があって、それに、アミーゴ関係が総てを律していて、法律・契約等は二の次、理屈が通らないそんな国でのビジネスの苦労は筆舌に尽くし難い。  
   その意味では、日本人移民の人々の苦難と忍従、そして、その大変な努力に尊敬の念を禁じえない。

   パラグアイ人は、非常に誇りが高くて、隣のブラジル、アルゼンチン、ボリビアを敵にまわして3国戦争をしかけて、男が殆どいなくなってしまったので、一時、木から女が降って来るとまで言われたことがある。

   アルパと言う小型の独特のハープがあり、この演奏に合わせて壷を頭に載せて乙女達が優雅に踊る。
   何故か、民族音楽は、実に優雅で穏やかで美しかった。

   イグアスの滝に程近いトリニダードには、未完で廃墟になったイエズス会の巨大な教会跡がある。
   ミッションと言う映画の舞台である。
   側のチロルには、ドイツ移民のオーナーがコツコツ煉瓦を積み上げて建設した美しいチロルホテルがあり、素晴しい料理を出していた。
   この側に隠れ住んでいたナチの高官が逮捕されたのを聞いたのもこの頃であった。

   首都アスンションのパラナ川の中州に原住民のグアラニー族インディオの集落があり見に出かけたが、街の店で店員をしていた乙女がインディオの恰好をして裸で出て来たのにはビックリ、しかし、懐かしい思い出である。

   もう一つ忘れられないのは、当時パラグアイは、ラテンアメリカ唯一の自由貿易の国で、世界中の物品が自由に輸入されていた。
殆ど目ぼしい産業のない貧しい南米の小国が、言い換えれば、ラテンアメリカの密輸の貴地でもあったと言うことである。
それに、外貨の交換も自由で、交換性のない南米の通貨もドルなどのハードカレンシーに交換出来た。
正に、買い物天国で、ブラジルやアルゼンチン等から沢山客が来ていて、国境のイグアスのパラナ川を渡る橋にはトラックが犇めいていた。
   当時、後に追放される大統領の独裁政権等を含めてパラグアイ特集を記事にした穏健なナショナル・ジオグラフィック誌が発禁になった。

   ここに書いたのは30年前のパラグアイの話で、今では随分変わっていると思うが、南十字星が美しく光り輝く別天地、走馬灯のように懐かしい思い出が駆け巡る。
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クリスマス・ディナーの思い出・・・オランダ・ビューケンホフ

2005年12月25日 | 海外生活と旅
   留学と仕事で、都合14年間、海外生活を送ってきたのだが、あまり、クリスマスについての記憶はない。
   大概、その時期には、休暇を取って旅に出ていたので、その行き先で、クリスマスの雰囲気を感じたと言うことであろうか。
   アメリカ留学時は、一年目はヨーロッパの旅に出ていて、二年目に、アメリカ人宅に招待されて夕食を共にしたが、別に特別な雰囲気ではなかった。
   ブラジルの4年間は、とにかく、真夏であるから、イメージがぜんぜん違っていて戸惑った記憶はあるが、殆ど何も覚えていない。
   ヨーロッパでの8年間は、やはり、旅に出ていたが、ウイーンやザルツブルグ、コペンハーゲン、パリ等、そして、住んでいたアムステルダムやロンドンでの思い出だが、やはり、キリスト教徒ではないので、外国の祭日と言った程度で異邦人としての印象しかない。
   
   クリスマスのイルミネーションであるが、アメリカ(私の場合はフィラデルフィア)の家庭の飾りつけ、特に、夜の屋外のディスプレイが実に美しい。
   各家庭の庭先には競って飾り付けが輝いており、照らし出されたベスレヘムの厩をデザインした舞台設定の側で、クリスマスツリーが、チカチカしているもの等凝った物もあって、寒い夜道を歩くのも楽しかった。
   イギリスでは、あまり気付かなかったが、家族中心のクリスマスと言うことで、翌日もボクシングデイと言ってボックス、即ち、プレゼントを交換する日とかで祭日であった。
   友人は、貰ったクリスマスカードを、部屋に糸を張って万国旗のように飾って楽しんでいたが、これは、日本の年賀状よりは都合が良い。

   ヨーロッパの冬は、夜が長くて厳しいので、クリスマス時期の商店やデパート等の飾りつけは、特に素晴しくて、毎年、人々は、どのようなデイスプレィをするのか楽しみにしている。
   リージェント街のオモチャの百貨店ハムリーズの前には子供たちが集まっていて動かない。
   毎年、商店は大変な意気込みでディスプレィに力をかけて物語を創作する。
   特に、夜のイルミネーションに輝くショウウインドーは美しくて、何度かカメラを持って出かけたことがある。
   旅をしていて、ヨーロッパの街々での思い出が沢山あるが、どんなに寒くても、クリスマス・シーズンのショウウインドーを見るとホッとする。

   クリスマス・シーズンに旅行をしていてレストランで食事を取るのだが、予約制なので、中々、クリスマス・ディナーを経験したことがない。
   ところが、偶々、その時は、オランダに居て、予約が取れたので、はじめてクリスマス・ディナーに出かけた。
   ライデンの郊外のミシュランの星付きのレストラン「ビューケンホフ」であった。
   古い貴族の館を改造したレストランで、オランダ在住中は、お客さんを誘ったり、家族でも良く出かけた私のお気に入りの店であった。
   田園地帯の住宅街にある店で、庭木の多い綺麗な庭があって、窓からの眺めが良かった。
   いくらか小部屋もあって、個室でディナーを取っている感じにもなり、こじんまりした館のレストランは、中々、アットホームで雰囲気も良い。

   当然、タキシードで、家内も、それなりの服で出かけたが、客は、殆ど、オランダ人の様であった。
   もう、15年も以上前の話なので、何を食べたのか忘れてしまったが、フルコースで、ワインは注文する必要がなく、料理毎に、ウェイターが、違ったワインを注いでくれた。
   こんな食事を、別の機会に、ベルギーで、やはり、ミシュランの星レストランで取ったが、ヒュー・ジョンソンが言うように、本当は、皿ごとにワインを代えないと食事が美味しく頂けないのかも知れない。
   私の場合は、前菜と魚に合わせて、まず白ワイン、そして、メインの肉に合わせて赤ワインを通してきたが、最初は、不遜にも銘柄を指定していたが、途中から好みと予算を示してソムリエに聞くことにしている。

   途中で小休止、別室に行ってハープの演奏を聞いた。優雅である。
   また席に戻って、メインコースが始まり、店を後にしたのは深夜であった。

   イギリスに居た時、夏に家族でスコットランドを旅した。当然、あのネス湖も行ったが、特別に少し無理をして、古城や領主の館をホテルにした宿をハシゴした。
   勿論、ホテルは街の中などにはなく、半島の先にあったり、奥深い森の中にあったりで不便であったが、どうせ車なので、気にはならなかったし、朝晩の散策など素晴しい経験が出来た。
   この時の朝夕の食事であるが、当然、この古城ホテルで取る。
食前酒は、リラックスしてゆったりとしたリビングで頂き、用意が出来るとシャンデリア輝く食堂に案内される。
大きな館でも客室数は限られているので客は少なく、こじんまりした雰囲気が良い。
食事が終わると、また、別室に移って食後酒とコーヒーを頂く。
寝室は階上にあるので、ゆっくり夜長を楽しんで、部屋に戻る。
   ミシュランのレストランとは、また違った食事の楽しみ方である。
   

   
   
   
   
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世界への旅立ち・・・憧れの新天地か?ブラジル

2005年10月12日 | 海外生活と旅
   先週NHK総合テレビで5回にわたって橋田壽賀子ドラマ「ハルとナツ 届かなかった手紙」が放映された。
   私は、放送を飛び飛びに見ながら、ビデオにも収録したが、まだ、通しては見ていない。涙が込上げて来るほど懐かしい、しかし、懐かしさと言うよりは、堪らなくて正視出来なかったのである。

   私がブラジルに赴任したのは、1974年、丁度ブラジルが、ブラジルブームに沸き、世界中から注目を浴びていた時期であった。
フィラデルフィアから、2年間の留学を終えて帰ってきて、やっと、船便が届いた日に赴任命令が出て、3ヶ月ほど日本に居ただけででサンパウロに向かった。
   当時は、お金を出せば簡単にパーマネント・ビザが貰えたし、進出企業の社員と言うことで、最初から身分が補償されていたので、殆ど苦労はなかった。
   サンパウロには、ガルボンブエノと言う日本人街があって、文句を言わなければ、日本のどこかの地方都市と殆ど変わらない雰囲気を味わえたし、日本食も食べられたし日本のものも手に入った。
   もっとも、ブラジルに移住した人々が苦労して作った品物が多かったので、多少、品質には差があり、似ても似つかないものもあったが、初めての海外生活の日本人には一番恵まれた外国であった筈である。
   

   進出企業にとって最も恵まれていたのは、優秀な日系の若い働き手の助けを借り得たことであろう。
   日本人は、いくら苦労をしても子供には教育をつけようとする民族なので、サンパウロには、日系の人口が1%程度の筈だったが、サンパウロ大学の学生数の10%以上が日系の学生であった。
   国際語と言っても英語はそれ程通用しなかったし、ポルトガル語は特殊な言葉で難しい。日本語とポルトガル語両方を駆使できる優秀な人材を確保できたのである。
   それに、日系の移住者達が、苦労しながらも頑ななほどに日本の文化と伝統に誇りを持って生活しており、それを子供達に継承していた。
厳しく躾て教育していたので、殆ど同じ考え方・感覚であり、若い2~3世の日系人とカルチュア・ショックを感じることなくコミュニケーションが出来て殆ど苦労がなかった筈である。
   全く異文化の、それも、アスタマニアーナ(何でも、またあした)とアミーゴ(友達)の日本とは雲泥の差があるブラジルで、架け橋として働いてくれたのだが、この貢献は大きいと思っている。(日系進出企業が海外で失敗するのは、総て異文化とビジネス慣行の差に足を掬われるからである。)

   ところで、ハルとナツに描かれているブラジル、すなわち、日系移民の塗炭の苦しみ、筆舌に尽くし難いほどの苦難の生活、であるが、結論から言うと日本政府の移民政策とその対応に問題の総てがあったように思う。
   戦前では、棄民政策としての対応、戦後では、欧米と比較して殆ど日系移民のサポートをしていないこと。
   ドイツ人やイタリア人の移住地を訪れたが、本国の援助で立派な学校など公共施設が整っていたし、継続的な援助は勿論、立派に立ち行くように大変な気の使いようであった。
   戦前の日本政府の棄民政策の片鱗があのテレビドラマにも垣間見えていたが、あんな生易しい程度ではなくもっと厳しく筆舌に尽くせないほどの苦難の連続であったはずである。
大切な自国民を見捨てた国がこの地球上にあったと言うことを、よくよく、肝に銘じて置くべきである。

   パラグアイへ移住した人にこんな話を聞いた。
船でサントスの港に着いたが、何日も留め置かれた後に、封印列車に乗せられて、何の説明もなく、何日もかかってパラグアイの奥地のジャングルに送り込まれた。
仮小屋に荷物を置いて仕事に出て帰ってきたら、大切に日本から持ってきたものは全部取られてなくなっていた。
徒手空拳、誰の助けもなく、熱帯雨林のジャングルとの大変な戦いが始まったが、毒蛇に噛まれても、マラリヤにかかっても、何日もジャングルを抜けて行かねばならない医者や病院などには縁がなく、苦しむ肉親を見殺しにせざるを得なかった。
よく、ここまで生きて来られたと思う。
「朝起きると、空は晴れ渡り、爽快な気分で、朝のカフェで気分を新たに・・・」政府の言ったことはここまではウソではなかったけれど、と言いながら顔をくしゃくしゃにした。

   「ジャングルの苦しい農業に耐えられずに夜逃げしてサンパウロに出て働いた人が出世している。
まだ、ブラジルのジャングルで、そのまま残っている日系人もいて、裸足で走っている女の子がいる。
農業でも先に行って成功した日系人が、新しく来た日本人移民を搾取していることもある。日本人どおしだって信用できない。」そんな話も聞いた。
   日本の文化や伝統が、移民船に乗ったその時点で凍り付いて化石化して残っている、そんな古くて懐かしい日本にブラジルで何度も出会っている。
   日本への愛国心、そして、望郷の念は、日本人より遥かに強い人が多くて、こちらの方が困った。

   1979年の末に日本に帰って、その後、10数年パーマネント・ビザを維持する為に2年ごとにブラジルに行っていたが、その後は、もう、随分ブラジルにご無沙汰している。
   テレビの最後の場面でサンパウロのパウリスタ通りを、ナツが車で走っているのを見たが、昔のままの風景で懐かしかった。

   ブラジルでは、柿のことをカキと言う。
   何にもなかったブラジルの農作物や果物を、あんなに豊かに作り出したのは、総て、日本人移民の丹精のお陰である。
   世界中で、苦労して頑張っている同胞を思いやり暖かい気持ちで接すること、これが、まず、国際化、グローバリゼーション社会での要諦ではなかろうかと思っている。
   
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世界への旅立ち・・・スペイン、中世が息づく街並

2005年09月26日 | 海外生活と旅
   古い旧市街が残っている都市はヨーロッパには多い。
しかし、大概、よく保存された小さな旧市街の周りに新しい都市が出来ていて、旧市街は観光目的の為に残った博物館地区と言う感じがして何となく違和感を感じることがある。
   ところが、スペインの場合は、旧市街がそのまま今も現役で、庶民の生活の舞台となっていて、新旧入り混って息づいている感じがする所が多い。

   随分前になるが、出張時の週末に、車で、マドリッドを離れて、カステリア地方の北部、アビラを経てサラマンカに行き、取って返してセゴビアまで旅をしたことがある。
サラマンカは、学術都市として可なり人口がある大きな都市だが、アビラやセゴビアは、こじんまりした古い街で、起伏のある細い迷路のような旧市街の路地を歩いていると、自分がヨーロッパの時代劇映画に登場している様な錯覚に陥ることがある。

   まず、最初に北に車を走らせてアビラに向かった。
   街道から市街に入る入り口を少し通り越した所にクワトロ・ポスタ(4本柱)と言う展望所があり、そこからアダハ川越しに、城壁に囲まれたアビラの街が展望できる。
   砂漠の様に緑けが乏しく赤茶けた大地に立つ全長2.5キロ、88の防塁、9つの城門のある城壁で囲まれた都市の姿は壮観である。
   私が一番興味深かった城塞都市は、フランス南部のカルカソンヌであるが、ここは、もう少し旧市街に傾斜があって、城門を潜ると少し登る感じであり、遠くからは軍艦の様に浮かび上がって見える。
ヨーロッパには可なり城塞都市が残っているが、見ると何故かワクワクする。
   所で、この騎士の町アビラのカテドラルは、城壁にくっ付いて立っていて、シモーロと言う後陣が少し城壁から飛び出して居るが壁が城壁と一体となっていて外からは砦の様に見える。

   更に北に走るとサラマンカに着く。マドリッドから230キロくらいなので渋滞がなければ3時間くらいの車旅であるが、全くの田舎道で、少し寂しかったのを覚えている。
   私がサラマンカを訪れたかったのは、サラマンカ大学を見たかったからである。
   この大学は、1212年に設立されたスペイン最古の大学で、メキシコを征服したコルテスやあのドンキホーテを書いたセルバンテス等も学びに来ている。
そして、コロンブスもアメリカ大陸発見前に、天文学の教授に会うためにここを訪れたという。
   大航海時代の幕開け時代には、学問と文化・知の中心であり、スペインの黄金文化を開いた担い手でもあったのである。

   昔、大学の教壇に立って当時元気だった思想家羽仁五郎が、学生運動について檄を飛ばしていたが、何を聞いたのか総て忘れてしまったが、一つだけウニベルシタス(大学)について語ったのを覚えている。
   世界最古の大学は、イタリアのボローニア大学(創立1088年)で、最初は、勉強をしたい学生の組合としてスタートして、その道に秀でた先生を学生達が探し出してその先生に教授を頼むと言った形式だった様である。
   その後、パリ、サラマンカ、オックスフォードと大学が設立された。
その後、ヨーロッパ中に大学が広がっていったが、ルネッサンス、航海時代、新世界の発見、近代・近世、と人類の歴史と科学文化の発展に寄与した大学教育の力は大きい。
   日本では、北大くらいしか大学が観光地になっていないが、欧米では、大学は、必ず観光地として組み入れられていて極めて重要な観光資源である。
ケンブリッジやハーバードなどでも結構観光客が多い。

   ところで、サラマンカ大学であるが、建物は、プラテレスコ様式と言う極めて精緻で豪華な美しいファサードで装飾されていて実に素晴しい。
   壁の色は、ピンクと言うよりは常滑の陶器の色に少しオレンジをかけて明るくした感じの色であろうか、それが、夕日を浴びて輝くと本当に美しい。
   門の正面のファサードの精巧な彫刻の中に、髑髏の彫刻があり、その髑髏の一つの頭に小さな蛙が乗っている。これを見つけると試験に合格するとか幸運が来るとか、とにかく、必死になって探す観光客も結構多いのが面白い。
   教室など当時のままで、枕木様のイスや机がそのまま残っている。

   この街には、12世紀に建った旧カテドラルに16世紀に建てられた新教会が被さった様な建物があるなど興味深い歴史建造物が多いが、旧市街全体が世界遺産になっている。
   私は、街の外に宿を取ったのが幸いして、霧雨が降ったお陰で、この小高くなっている新旧教会の上から町全体に二重に美しい虹が架かったのを見ることが出来た。

   長くなってしまったが、セゴビアも実に素晴しい街である。
   街外れに今も現役の素晴しいローマの水道橋がそそりたっている。
   街の中に、ディズニーの白雪姫のモデルになったお城アルカサールがある。ここから、下を見下ろすと、13世紀初めに聖堂騎士団が建立した小さな多角形の教会が荒野の中に立っていて何故か感慨を誘う。
   セゴビアで思い出すのは、古風なレストランで食べたコチニージョ・アサードと言う子豚の丸焼き料理の実に美味しかったこと。
   母豚の母乳だけで育った生後20日以内の子豚の丸焼きとかで、こんがりと焼きあがった皮に、とろける様な脂肪分の肉の味は、素晴しいスペインの赤ワインとの相性が良く格別の味である。
   スペインでは、とにかく、精力的にミシュランの星のレストランを回ったが、やはり名物料理には勝てない場合があることが分かった瞬間であった。
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世界への旅立ち・・・スペイン、イスラムの残り香

2005年09月25日 | 海外生活と旅
   この写真は、スペインのトレドの絵で、ブラジルの日系の女流画家が描いたもので、サンパウロで買った。
   ブラジルの北部バイヤ地方の色彩豊かな民族衣装を着けた女性の絵を得意としていたが、個展でこの絵だけが変わっていたので、迷わずに買った。
   トレドを訪れた時に感激したので、一寸メルヘンチックに描いたのだと言っていた。

   この絵のトレド風景が見える場所には、トレドの街を離れてタホ川を渡って対岸の丘の上のパラドールまで行かねばならない。
   私が、そこからトレドを眺望したのは、ずっと後になってからであるが、霧に霞んで墨絵の様に幻想的であった。
   ローマ人によって基礎が置かれ、イスラムからキリスト教へと歴史の変転を繰り返してきた古い都なので、とにかく、異文化の坩堝で、中世がそのまま残っている博物館の様な佇まい、それが無性に旅情をそそる。
   三方を切り立ったタホ川の渓谷に囲まれ、背後に城壁を築いた要害の街であるが、裏の路地などに紛れ込むとタイムスリップした様な錯覚に陥る。
   一番印象に残っているのは、カテドラルの主祭壇の裏にあるトランスパレンテで、大理石、ブロンズ、アラバスター等の華麗な彫刻に装飾された洞穴の様な明かり窓で、頭上から天国からの燭光のように光が差し込んでいたことである。

   私が、最初にスペインに行ったのは、もう、26年も前の話で、ブラジルから帰任の途中、休暇を取ってヨーロッパ旅行をした時である。
   まず真っ先にアルハンブラ宮殿を見たかったので、マドリッド乗継でグラナダに入ったのが間違いで、丁度その日は、4月1日、ヨーロッパの夏時間採用日で、イベリア航空が、1時間の時間変更に上手く対応できずに、飛行機が無茶苦茶遅れてしまった。
   信じられない話だが、当時のイベリア航空はその程度のマネジメントで、アメリカ人や英国人、ドイツ人などはカンカンだったが、とにかく、遅れに遅れて、昼に着く予定の飛行機が、日が変わって深夜に着いた。
   幾ら遅延で深夜着でも、イベリア航空は一切客の面倒など見ない。幸い、1台だけ残っていたタクシーに乗れたので、事なきを得てホテルにチェックインした。
   しかし、乗客は僅かで、空港には殆ど人が居ず、空港の灯は殆ど消えていて、スペインは初めてでスペイン語も殆ど分からない、深夜そんな所で、子供連れの家族が放り出されたらどうなるか。
   これで、完全にスペインに対する先入観が出来上がってしまった。
   文化的にも、歴史的にも類を見ないほど素晴らしい国だと思うが、ビジネスと旅には、最後まで細心の注意を払って対したのは勿論のことである。

   ビジネス・スクールの国際経営論で、国によって時間と場所の観念が全く異なるので気をつけろ、と教えれれていたが、時間に対するスペイン人の考え方は全く違う。
   日本人は時間に煩いが、スペインでは約束の時間に30分遅れるのは常識である。
   自分でも何回も経験したが、時には1時間以上待たされたことがあるし、立派な大企業の役員から少なくとも30分遅れて来い、とはっきり言われたことがある。
   まだ、シエスタ(昼寝)の習慣が一部に残っていて事務所や銀行は夕方にならないと午後は開かないし、夕食は9時からと、とにかく、夜が遅かった。
   EUの優等生になってからは、大分変わったようだが、モノの考え方まで、そう簡単に変わる筈がない。
   それに、アミーゴの国であるから、我々の常識との差が大きい。

   ところで、アルハンブラ宮殿であるが、最初の頃は、観光客も少なくて、寝不足だったが翌日出かけて、夜のフラメンコツアーの時間まで、一日中、この宮殿で過ごしイスラム文化の粋を満喫した。(その後、少しずつ観光客が増えて、シーズンだと長く待たされて、観光ポイントの部屋等は10秒位で追い出されるようになってしまった。今や、世界の超有名観光地は、総てそうなってしまっている。)
   アルハンブラ宮殿は、想像以上に美しく、イスラム文化の素晴しさを教えてくれた。あの限りなく繊細な美意識をもったイスラムの人々が、何故、アメリカを嫌って刃向かうのか、今になって分かるような気がしている。
その後、あっちこっちでイスラム文化・文明の凄さを実感しているが、この時のイスラムに対する衝撃は大きかった。

   その後、何度かアルハンブラを訪れているが、後の2回は、セビーリアを観光した後、コルドバまで、そして、コルドバからグラナダまで、随分距離はあるが、タクシーをチャーターして移動した。
   あまり団体旅行をした経験がないので、バスで走るのと同じかも知れないが、車でスペインの田舎を走るのは素晴らしく、色々な発見があって面白い。
   遠くに、白雪を頂いたシエラネバダの山々が近づいてくるともうすぐグラナダ、ワクワクする。
   このシエラネバダ山中で、あのドクトルジバゴの厳寒のシベリヤ風景が撮影されたという。真夏には焼け付くような南の国スペインのこのシエラネバダが、それ程、冬には厳しいのである。

   スペインは、飛行機で飛ぶのも、タルゴ特急で移動するのも、車で走るのも、兎に角、ヨーロッパにはないエキゾチックな素晴らしい風景が展開されるので、車窓を見ているだけでも楽しい。
   フランスとスペインとの国境ピレネーを越えるとアフリカであると言う。アフリカはダカールの空港だけしか知らないが、全く他のヨーロッパにない風土が展開する。

   スペインの思い出を書こうと思ったが長くなってしまった。
   セビリア、コルドバは勿論、マドリッド、バルセロナ、サラマンカ、アビラ、セゴビア、項を改めようと思う。

   
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世界への旅立ち・・・イギリス、わが故郷?

2005年09月04日 | 海外生活と旅
   私が今までに永住権を取った国が2カ国ある。ブラジルとイギリスである。
   ブラジルは、もう、30年以上も前に取得して、帰国してからもしばらくの間、2年毎に訪伯して永住権を維持していたが、続かなくなって消滅してしまった。
   イギリスの方は、取得したのは10数年前で最近のことなので、これも、1~2年に一回は訪英して維持している。
   外国で永住権を取得することは、大変難しいことであるが、幸い仕事の関係で取得できた。

   これまでに2年間以上滞在した外国は、4カ国、アメリカ、ブラジル、オランダ、そして、イギリスである。
   それなりに、私の人生にとっては貴重な経験を与えてくれ、思いでは数限りない。
   どの国も夫々私にとっては強烈な印象を残してくれて貴重であるが、一番、住んでいて AT HOME 即ち、気楽に暮らせるのは、イギリスである。
   何故そうなのか、色々な要因があるが、やはり、古い歴史と伝統を持った島国の所為なのか、ものの考え方なり、生活への姿勢が良く似ていて、一番異国を感じさせない国であるからだと思っている。

   モノの考え方から見れば、アメリカとブラジルは両極端にあるように思う。
   例えば、アメリカは典型的な法治国家で、何事も法律や契約で処理しようとする傾向が強い。
   色々な国から、全く生活背景や人種、民族の違った人々が、移民してきて出来上がった新しい国なので、国家社会の秩序を維持する為には、共通の価値観に基づいた法律で処理することが最善だと考えたのであろう。
   私の祖先のユダヤではこうだ、とか、いや、我々イングリッシュはこう考えるなどと言っては異民族の坩堝であるアメリカでは話にならないので、法律に基づいて契約を結んで取引をすることにしたのである。

   ところが、同じ異民族の坩堝のような国・ブラジルでは、法律は朝令暮改
で、無税だったのが急に法律が変わってパーになる等は日常茶飯事で、契約など、スッタモンダと言って無視されることが多い。
   法律や契約よりも、アミーゴとしての人間関係が総てに優先する社会なのである。
   極論すれば、アミーゴ社会で、自分達だけの集団の中だけにしか信義則、秩序はないのである。
   華僑の世界では、10億円の貸し借りでも契約書がないといわれているが、アミーゴとしての人間の信頼が総てを征する、そんな世界に近い。一度、約束を違えると村八分、その社会では生きて行けない。

   世の中は近代化グローバルかして変わって来ているが、何れにしろ、基本的なものの考え方の背後には、アメリカでは法律や契約が、ブラジルではアミーゴ社会の人間関係が、重要な位置を占めている。

   ところが、我々日本人は、この両極端の狭間で生活している。
元々アミーゴ社会に近い社会であったのが最近はアメリカナイズされて来て法化社会への転換が急である。
しかし、法律無視の役所の窓口指導や窓口規制が巾を利かせたり、紳士協定とか言って商談を纏めながら出るところに出ると契約が不備と言って争う、安値受注をして恩を売って次の工事で穴を埋めてもらう、等など、法治国家なのかアミーゴ社会なのか分からない程錯綜している。

   話が横道にそれてしまったが、要するに、アメリカやブラジルのような考え方の生活環境よりは、もっと日本人の生活感覚に近い考え方をするイギリス人の方が、私には親しみやすいと言うことかもしれない。
   日本人は、英米と言って、イギリスとアメリカとは極めて近くて同じ考え方をするモノだと思っているが、全く違うし、その差は大きい。
   やはりイギリスは歴史と伝統の国で大陸近接の島国、中々、イギリス人の懐には入り込めないが、親しくなると実に人間的で、人生の奥深さを感じさせてくれる。

   EUにありながら、ユーロにそっぽを向いたふりをし、EU憲法を脇におしやり、何か大陸ヨーロッパから距離をとるイギリス、そして、時の覇権国アメリカに親しく擦り寄るイギリス、どこかの国に似ていないであろうか。
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