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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

人類文明論を考える(7)~文明繁栄の要因が衰退を招く

2010年04月20日 | 学問・文化・芸術
   青柳正規名誉教授の文明論の重要な指摘の一つは、いくつかの文明の興亡をたどると、その文明を繁栄させた原因や要素こそが、同じ文明を衰退させる働きをすると言うことである。
   余談だが、この考え方は、会社の経営についても言えることで、イノベーションの成功によって大成功を収めた会社が、その成功ゆえに新しい潮流にキャッチアップ出来ずに衰退して行くと言うことをクリステンセンが「イノベーションのジレンマ(原題は、イノベーターのジレンマ)」で説いており、エクセレント・カンパニーの多くが消えて行くのも故なしとしないのである。

   総延長約8万キロと言う立派な道路網を建設し、地中海には何千隻もの船が物資を運搬し、都ローマとアレクサンドリアでも半月以内で連絡しあえる通信網が確立しており、それらのネットワークが帝国内の地域や地方、そして都市や村々を緊密に結びつけていたからこそ、アウグストゥスが建設し、トラヤヌスが最大版図にまで拡大し、史上最強と異民族に恐れられていたローマ帝国の繁栄があったのだが、その一部が切断されただけで、精巧なネットワークは恐慌を来して、衰亡の足を速めたのである。
   
   世界最古の都市文明を誇ったシュメール文明の場合にも、この隆昌によって衰退すると言うケースであろう。
   創意工夫によって築き上げられた灌漑施設を前提とした農耕ゆえに各都市の領域が運河や水路などの水体系ごとに区切られ、その範囲内で余剰農産物を生み出す豊かさを手に入れたので、自分たちの都市国家だけで居心地の良い自己完結的な経済社会を享受して、その自己完結性から抜け出せず、それ以上の発展を阻害して、結局は、シュメール衰退の一因となったのである。
   また、自然環境を凌駕した筈の灌漑施設が、塩害を引き起こすなど環境破壊に加担して農業収穫量の減少と農業生産性の低下を惹起してしまったのだが、さきの都市国家の自己完結性の限界と相俟って、これらのシュメール文明を大いに隆昌させた要因こそが、皮肉にも滅亡をまねく衰退要因となったのである。
   
   さて、最近の日本の衰退の原因がどこにあるのかを考えてみると、戦後の経済社会の発展を促進し成功させて来た要因の多くが、時代の潮流について行けずに、制度疲労などの問題を引き起こして、無用の長物であるならまだしも、ブレーキとなり足枷となって来ていることが良く分かる。
   エズラ・ボーゲルが、「Japan as No.1」で称えた日本の成長と繁栄の秘密の多くが、正に、それであろう。
  
   その最たるものが、エズラ・ボーゲルが徹底的に持ち上げた官僚機構である。
   鳩山政権の仕分けチームが、目も当てられないような官僚機構の腐敗・乱脈振りを暴露しており、戦後の復興のために日本をリードして突進したあの輝くような官僚たちの使命感とプライドとモラルの高さはどこに消えてしまったのであろうかと思わせるような凋落ぶりである。
   今、独立行政法人が、槍玉に上がっているが、手本だと言うサッチャー時代のイギリスのエージェンシーは、疲弊し切ったイギリス経済社会を立て直すために、サッチャー首相が、情け容赦のない市場原理主義を貫徹して、官僚機構のリストラを実施したのであって、官僚が権力を握っていた国家社会主義的な日本で生まれた独立行政法人とは、雲泥の差がある。
   極論すれば、使命感もプライドも倫理観さえも失ってしまった官僚には、正に、湯水のように使い放題の別財布の組織が降って湧いたようなものあるから、千載一遇のチャンスとばかり、役得であり当然の余得であって、天下りや税金の無駄使いなどは序の口で、パーキンソンの法則どころか、一蓮托生の族議員に毒された自民党政府のノーコントロールを良いことに、増殖の限りを尽くして来たと言うことであろう。
   (誤解のないように付言すれば、私自身、官僚が総て悪いとは思っていないし、素晴らしい官僚を沢山知っているが、自浄作用が働かずに現状を惹起してしまった以上は、総体として、こう結論せざるを得ないと思っている。)
   少なくとも、民間企業の人間の目からから見れば、そうとしか思えない筈である。

   ところで、サッチャーが大掃除をしたイギリスの官僚組織も、ブレアの労働党政権になってから、政府主導、役人主導など、政治経済社会分野において、公共部門の介入が増大し始めて問題を惹起しつつあることを、L.エリオット&D.アトキンソンが、「市場原理主義の害毒 イギリスからの眺め」で指摘している。
   官僚たたきを進めている民主党だが、支持母体の一つに労働組合がある以上、この労働組合勢力の強い影響力が、鳩山政権にひたひたと及びつつあると言うことのようで、大前研一氏も、民主党の、既にヨーロッパにおいて死滅した筈の修正社会主義路線に警鐘を鳴らしており、注視する必要があるのではないかと思うのだが、この問題については、日を改めて展開してみたいと思っている。
   
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人類文明論を考える(6)~縄文時代の長い日本の歴史

2010年04月15日 | 学問・文化・芸術
   「文明」の発展についての従来の解釈に、青柳正規名誉教授は、疑問を提起する。
   古代文明は、次のような過程で成立すると考えられている。
   「まず、農業の発展によって人口が増加し、余剰農産物が生じるようになると、集落が大規模化し、富の偏在が起こり、社会的な階層化と職業の分化が進み、更に、大規模集落とは性格を異にする都市と言う集住形態が生まれる。都市化の形成とともに、更なる社会的な垂直化が侵攻して社会階級が生まれ、職業の専門化による人々の相互依存と相乗効果の度合いが更に増し、この段階で文明が形成される。
   更に、文明の普及範囲内で、文明の高度化が進行すると同時に、灌漑などによる水資源や水力の統御が可能となり、各種の生産技術が進展し、周辺との交易が開始されるなど、遠方の異なる文明との相互刺激により、更なる文明の発展が促進される。」
   
   しかし、ファラオ時代のエジプトやナイル流域を除いたアフリカ大陸、プレコロンビア時代の南北アメリカなどには、この定義を適用するのは難しいと言うのである。
   アンデスでは、先土器時代、つまり形成期早期の祭祀用建造物が発見されたことによって、余剰農産物の明確な備蓄施設も十分に見当たらず土器すらなかった時代に既に宗教施設が生まれていることが立証されており、従来の唯物的進化のイメージと真っ向から対立する文明展開である。

   さて、このような文明の展開論を敷衍して日本の古代の歴史を考えて見ると、日本独自の歴史的な進展の姿が見えてくるのではないかと言うのが、青柳教授のもう一つの指摘である。
   我々子供の頃には、日本では、縄文時代があまりにも長くて、弥生時代に到達したのが随分経ってからで、何故、文明の発展が頓挫してそんあにも遅れてしまったのか、疑問に思ったのだが、日本の縄文文化を、日本の風土にマッチした歴史的展開だと考えれば、その豊かさに納得が行くのである。
   この考え方は、経済発展の理論にも言えることで、学生時代に、ロストウの経済発展の5段階説に基づいて、如何に、国民経済がテイクオフするかのと言ったことに関心を持って勉強していたが、現実に、インド経済の躍進を考えれば、農業、工業、サービス業と言った順序で経済がテイクオフするのではなく、一挙に最先端のITから経済発展を始動しており、こんなケースは他にも沢山あるのである。

   人類が生み出した技術の中で石器づくりが最古であるが、更に人類の生活を大きく向上させ文明の発展に寄与したのは、土器づくりなのだが、何と、世界最古の土器は、日本の縄文土器で、今から1万2000年前だと言うのである。
   この年代は、文化文明が伝播して来たと思われている西アジアや中国に比べて例外的に早く、朝鮮半島と比較しても数千年も早くて、インドやヨーロッパと比べても6~7千年早いと言うのであり、あの華麗で複雑な芸術的装飾の素晴らしさを考えれば、驚異的だと言わざるを得ない。
   
   土器が必要となるのは、食物を煮炊きするためで、移動しながら獲物を追う狩猟民には無理で、一定の定住生活が安定していることが前提で、定住集落、植物の栽培、動物の家畜化などとともに新石器時代を特徴づける有力な基準だと言う。

   日本では大陸から九州北部に伝わった稲作が主流となった弥生時代の到来は遅かったが、重要なのは、農業の開始時期の早さによって文化の発展の度合いをはかるのではなくて、食糧確保の方法が農耕であれ狩猟採取漁労であれ、人間生活の充実度の観点から食料の長期保証が確保されているかどうかである。
   東日本の縄文文化は、食料資源に恵まれたナラ林地帯にあり、西日本よりはるかに自然の食料に恵まれていたので、稲作に跳びつく必要がなかったのと、寒さの所為で稲作が難しかった等の理由で稲作文化が短期間に北上しなかったのだろう。
   豊かな自然に恵まれて、狩猟採集の対象となる植物や小動物が日本列島に豊富で、農耕と言う生産活動をしなくても食べて行けたので、西アジアや地中海世界と比べて農耕が遅く始まったのは、極東の島国の後進性だとは、必ずしも言えないと言うのが青柳教授の見解である。
   
   この土壌と気候に恵まれ、少し手をかければ比較的容易に農耕が出来る日本であった故に、使役のために牛馬などの動物の力をそれ程必要とせず、奴隷が普及しなかったのも、他文化と違った日本の特色である。
   日本人が世界でも稀なホモジニアス(均質)な民族と言われるが、この日本人の特質も、恵まれた自然環境と安定的かつ小規模な農耕によって育まれたもので、突出した金持ちも居なければ極貧の人も少ない、みんなが程々に食べて行ける、豊かさも貧しさも極端な差がない社会を生み出したのだ言う。
   尤も、この均質性などの日本人の特質が、日本の発展を促進して来た反面、今度は、今日の日本においては、低迷の一因になっているとして、日本教の俄か教祖となった中谷巌氏と、一寸ニュアンスの違った見解を述べているのが面白い。

   ここでのポイントは、文化文明も、そして、経済や社会の発展も、一本調子の紋切り型の発展論などはあり得ないと言うことで、夫々に特色があり、そんな理論に引っ張られて本質を見損なうと、大変な判断間違いを起こすと言うことであろうか。
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人類文明論を考える(5)~エジプトはナイルの賜物

2010年04月03日 | 学問・文化・芸術
   古代エジプトは、地中海にそそぐナイル川の流域に沿って南北800キロに及ぶ細長く形成された王国で、紀元前3200年頃から、変わることなく極めて安定し、3000年の間繁栄を続けて来た。
   何故これ程までに長きに亘って変わることなく安定した文明が維持されて来たのか。
   それを可能にしたのは、ナイル川で、毎年、決まった時期に増水して緩やかな氾濫を起こし、上流から作物の生育にとって理想的な肥えた土・ナイル・シルトを運んで来るので、作物の種を蒔きさえすれば必ず恵みをもたらすと言う機械仕掛けのようなナイルの規則的な律儀さがそうさせたのであって、これこそが、エジプトはナイルの賜物と言われる所以である。

   ここで想起されるのは、先日、取り上げたシュメール文明との対比で、同じ大河の恵みを受けた文明でありながら、ティグリス・ユーフラテス川の洪水では耕作地は壊滅的な打撃を受け、水が引くと、再び耕作地に戻すためには過酷な労働を必要としたのだが、エジプトのナイルは、氾濫と言うよりは増水程度で、肥沃なナイル・シルトを残して穏やかに水位を下げて行き豊作を結果すると言った状態であるから、この自然の恵みの対照が、夫々の文明に、大きな差をもたらしたのである。
   例えば、その差の典型が、エジプトのピラミッドの存在で、十分な余剰農産物があったから、農閑期に巨大な建造物を建設するために多くの人々を動員することが出来たのであって、ピラミッドこそは、ナイルの恵みが生んだ余剰農産物の象徴なのである。

   ところが、この途方もない無駄が出来るだけの富がある一方で、その富をより有益なことに利用するだけの外界からの刺激がなかったために、むしろ、その安定した豊かさの保証が、変革や進歩を阻害する要因となり、自分たちで何か新しいものを生み出そうとか、イノベーションを起こそうとかと言った必要性を削いでしまった。
   そのために、エジプトの場合には、何時までも変わることなく、、3000年の間、同じことをひたすら繰り返すと言う、いわば、一種の思考停止の文明であり、その歴史であった。

   古代エジプトの歴史は思考停止の3000年だと言う視点に立つと、ピラミッドに代表されるエジプトの建造物などは、高度な建築技術とは無縁で、単純なものを愚鈍なまでに集積して造られたもので、いわば、大いなるマンパワーの産物に過ぎないと言う青柳正規名誉教授の指摘が面白い。
   エジプト文明は、それ程たいしたものではなく、豊かさゆえに存続を続けたのだと言うことになると、エジプトへの思いが大分変わって来る。

   メソポタミアの数学や天文学には及びも付かないが、エジプトが歴史に残した例外的な唯一の遺産は、太陽暦の発明だと言う。
   エジプトでは、ナイル川が増水する時には、決まって明け方の東の空に明るいシリウス星が輝くのだが、次の増水時期でシリウスが輝く日を正確に計算して1年を365日とする太陽暦を生んだと言うのだが、これもナイルの恵みと言うべきであろうか。

   ところで、アントニウスとクレオパトラの連合軍を破って地中海の覇者となったアウグストゥスが、エジプトの豊かさを目の当たりにして、政敵がエジプトを制したら大変なことになると考えて、元老院議員のエジプト入国を禁止したと言うから、ナイルの恵みを受けたエジプトの豊かさは、群を抜いていたのであろう。
   しかし、エジプトは、軍事面では極めて弱体で、殆ど軍の体を成して居らず、豊かさゆえに他国への進出の必要性はなく、逆に、侵攻の標的になっていたので、富を奪われないための防衛的な軍事行動が主体であったと言うことである。

   さて、豊かさゆえに、進歩と変革が殆ど止まった思考停止状態で推移した古代エジプト文明だが、偉大な歴史的、芸術的な数多くの遺産を後世に残している。
   やはり、この古代エジプトの歴史も、古代においても現代においても、文化文明が高度に発展して遺産を残すためにも、あるいは、その文明が長く存続しして行くためにも、農産物の余剰、富や資本の余剰を生み出すことが、必須であったことを教唆していて、非常に興味深い。
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人類文明論を考える(4)~シュメール文明の凋落は農業

2010年04月02日 | 学問・文化・芸術
   現在の北シリアからザグロス山脈の南麓北イラクにかけての北メソポタミアの「肥沃な三日月地帯」は、最も古い文明の発祥地である。
   しかし、人口の増加や天候不順などで食料難に陥り飢餓に苦しんだ人々は、南下して、極めて自然条件の厳しい典型的な夏季乾燥型の砂漠気候のチグリス・ユーフラテスに囲まれた南メソポタミアに定住して、困難かつ長期的な計画を必要とする灌漑施設を構築して、農耕と言う当時最大かつ最新の生産活動を可能にし、従前の雨水頼みの耕作地帯が生み出す量をはるかに凌駕する生産性を確保した。
   これは、その困難な条件を克服する工夫によって適格地以上の生産性を可能にしたのであり、その意味では後進性ゆえの先進性と看做すことが出来ると指摘するのは、青柳正規名誉教授である。

   このような高度で精緻な灌漑施設を常に維持しなければ農耕を続けることが出来なかったので、当初から集団を指揮する有能な人物が不可欠であり、その指導者に従う集団と言う上下関係にもとづく組織が生まれ、食料の集中分配システムが確立され、最古の都市文明が生まれた。
   これが、近代ヨーロッパにおける産業革命以降のモデルとなり、天文学や60進法などの科学的発達を遂げたシュメール文明である。

   ところが、この高度に発展したシュメール文明が、紀元前2000年頃には、凋落して衰退して行くのだが、その文明が滅びた要因は、塩害による農業生産力の低下によると言うのである。
   乾燥と高温による水分の蒸散の結果地中の水分の塩類濃度が上昇すると同時に、灌漑施設が塩類濃度上昇に拍車をかけ、塩分に弱い小麦の収穫量が減り、大麦まで影響を受け、最後には、ナツメヤシしか収穫できなくなったのである。
   
   さて、この高度な世界最古のシュメール文明を作り出した活力は一体何であったのか。
   それは、本来農耕に適さなかった土地を灌漑して農地化するだけのソフトとハードの創意工夫があったからで、それが、都市建設や軍隊の指揮にも有効に働き、それがシュメールの更なる発展を促したのだと言うのが青柳説だが、正に、これこそは、四大文明の発祥についてアーノルド・トインビーが展開した挑戦と応戦の理論である。
   
   その創意工夫が、逆にマイナス要因となったのは、灌漑施設を前庭とした農耕ゆえに各都市の領域が運河や水路などの水体系ごとに区切られ、その範囲内で余剰農産物生み出す豊かさを手に入れ、この都市国家の居心地の良い自己完結性から抜け出せず、それ以上の発展を阻害し、大規模な領域国家になれなかったと言うのである。

   シュメール文明の衰退が、農業不振と都市国家の自己完結性の限界によると言うことだが、多くの文明の歴史がそうであったように、かってその文明を大いに隆盛に導いた要因こそが、同時に衰退滅亡を招く要因であると言う厳粛なる法則をなぞっていて面白い。
   このことは、文明のみならず会社経営についても言えることで、隆昌の要因によって衰退すると言う真実は、人間活動の総てに起こり得ることで、逆に言えば、どんなに成功して隆盛を極めた文明であっても、必ず衰退して滅びると言うことを意味している。

   ここで、もう一つ考えなければならないのは、シュメール文明の衰退が、農業が齎した環境破壊にあると言う現実で、このことは、現在の農業そのものが、自然環境に過度の負荷を強いて、環境破壊に繋がっていないかと言うことである。
   先に、マイケル・ポーランの「雑食動物のジレンマ」で、窒素化学肥料の発明によって如何に農業生産が歪められて地球環境を破壊してきたかについて論じたことがある。
   ニュアンスは大分違うが、今後、人口がこのまま異常な伸びを示して増大して行けば、更なる農業の集約化が進んで行き、自然環境に負担をかけすぎて、最終的に地球上の多くの土地を農耕不可能にしてしまう心配は皆無とは言えなくなる。
   シュメールの時代は、一文明の衰亡だけで済んだが、今度は、地球全体が駄目になり、人類の将来そのものが危機に陥り、人類文明論の議論どころではなくなってしまうのである。
   
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人類文明論を考える(3)~草食動物型文明へ

2010年04月01日 | 学問・文化・芸術
    最近、若い男性が、草食系になって女の子を、猛獣のように積極的にアタックしなくなったと言われている。
    私が、若かった頃はどうだったかと言うことだが、やはり、お互いの気持ちが痛いほど分かっていても、好きな女性に、話すことさえままならず好きだと言えずに涙を呑んだと言うのが殆どではなかったかと思うと、何が草食系で、何が動物系なのか、判断は難しい。

   さて、このタイトルの「草食動物型文明」へ向かうべきだと提唱するのは、青柳正規東大名誉教授で、「植物型文明」とも言い換えているが、このままでは、地球が破滅してしまうので、もっと穏やかに、地球になるべく負担をかけないようにやって行こうと言うのである。
   動物型から植物方に転換するのは、どうすれば良いのか。それは、「心地よい停滞」を受け入れることだと言う。

   日本のバブルが崩壊した1990年代以降、経済学者たちは、一様に「日本は停滞期に入った」と言うのだが、成長は鈍化したが、依然世界第二位(?)の経済大国であり、あまり変化を好まず平穏に暮らしたい人にとっては、この状態は決して悪いことではなく、「停滞期」と言うからこのままではいけないと力み返るのことになるのであって、「安定期」と言えば良いのであると説く。
   (この議論は、現在の境遇に満足していて、このままの生活が続いても良いと思っている定職もあり財産もある比較的恵まれた境遇にある人の考え方で、今日のような疲弊して苦境に立った経済社会情勢では、経済的弱者が、最も経済社会の軋みをモロに受けて、その皺寄せに呻吟するなど経済社会現象の捩れをを知らない独り善がりの議論でもあるのだが、ここでは深入りしない。)
   現代人は成長の呪縛から中々逃れられず、経済分野は結果や予測が数値化されやすく、説得力も持つのだが、数値化されないところに、重要なものが隠れており、気分で左右されない、本当の満足度を追及することが必要である。
   このまま、進歩、成長、拡大、イノベーションと言った、いわば肉食動物型文明の原理をあたりまえのものとして継続して行けば、その先に待っているものは破滅であり、気分を変えるためにも、穏やかな植物型文明にシフトして、「心地よい停滞」を抵抗なく受け入れるようになった時には、新しい繁栄の形が見えてくるような気がする。と仰るのである。

   「心地よい停滞」を是とするには、経済成長がゼロないしマイナスでもどうにかやって行ける社会的な仕組みを作り直さなければならない。
   経済が縮小傾向に入っても、質の向上と満足度の増大を、数値化できない時には、言葉で、様々なメディアを通して訴え、多くの人々の合意を形成することが大切である。と主張する。
   現在の経済学では、特に、良くても悪くても何でもかんでも、マネタリータームで取引されれば国民所得統計に計上されて、経済成長や経済水準を図る指標として使われているGDPが、次善ではあるが幾分欺瞞的な概念であることは、何度も問題となり俎上に上がって論議されてきたことで、このブログでも、人間の幸福や満足の視点から、経済学のあり方などについて論じてきており、本題ではないので今回は端折る。

   しかし、この経済成長をゼロないしマイナス状態で、国民生活の質の向上と満足度を上げるべく社会的な仕組みを作り直すなどと言うのは、言うは易しで、実現するなど至難の業なのである。
   早い話、政府の無為無策状態で経済成長が止まれば、如何に国民生活の質が悪化するのかは、深刻な所得格差や壊滅状態に追い込まれて疲弊している地方経済の惨状を見れば、一目瞭然であろう。
   もっと深刻なのは、日本の財政赤字の問題で、経済成長がゼロないしマイナス成長で推移すれば、たちまち国家の債務が1000兆円をオーバーして悪化の一途を辿って行き、早晩日本経済が破綻するのは、火を見るより明らかである。

   従って、課題は、このブログでも何度も論じて来たが、経済成長を進めながら、現存する社会のマイナスを縮小しつつ、如何に、国民生活の質を向上させて人々の満足度を向上させて行くかと言うことである。
   青柳教授が糾弾する進歩、成長、拡大、イノベーションが悪いのではなく、これこそが、現在社会においても切り札であって、その質を、危機に瀕した地球船宇宙号と人類の幸せのために、似つかわしい姿に変えて機動力として活用することである。
   例えば、イノベーションによって太陽光発電を安く簡便に利用する仕組みを確立させ、日本中の家庭の総てに太陽光発電パネルを設置出来れば、経済成長を図りつつ、環境に優しい社会へ一歩近づく。
   人間が原始の生活に戻るのが一番良いのかも知れないが、同じものを作っても、それ以前のものより省エネかつ省資源で、地球環境をどんどん浄化して行くようなエコ・プロダクツを生み出すのは、人間の英知を結集したイノベーション以外に救世主はないと思っている。       
   私は、国民生活の質の向上のためにも、経済社会の構造改革のためにも、新しい幸福指標を満足させるような経済成長が必須だと思っているので、今こそ、どのような経済成長を目指すべきなのか、真剣に考えるべきだと思っている。
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人類文明論を考える(2)~ベーリング海峡を越えて南北アメリカを縦断したインディオ

2010年03月21日 | 学問・文化・芸術
   応地利明京大名誉教授の「人類にとって海は何であったか」と言う章は、ホム・サピエンスを、ホモ・モビリタス(移動する人)と言う視点から捉えて、特に、海を介しての人類の「移動と定住」を舞台に人類文明の興亡を論じていて、非常に面白い。
   人類の歴史には無数の移動と定住があるが、人類史的な意味を持つ地球規模でのものは、現生人類の「出アフリカ」、モンゴロイドの拡散、ヨーロッパ人の拡散、だと言う。
   東アフリカを南北に縦断する大地溝帯の故地を後にしてアフリカを脱出して、死海のあるヨルダン川地溝帯に到達し、そこからユーラシア内部に拡散して行く。
   東洋に拡散したのが東ユーラシア(モンゴロイド)、西洋と中洋に拡散したのが西ユーラシア(コーカソイド)である。

   わが日本人が属するモンゴロイドは、約6万年前に東南アジア大陸部に到達し、更に海と陸とに分かれて進出し、東南アジア大陸部から北上ルートを取った一派は、ベーリング海峡を越えて、南アメリカ最南端のフェゴ島まだ達した。
   ユーラシアの南縁ぞいに東西移動した他民族と比べて、寒暖の変化の激しい極めて困難な適応を要する南北移動を、最終氷期の最盛期に北上を開始し、困難な自然条件のなかで、後退と寒冷適応を繰り返しつつ、氷河時代最終期の1万数千年前に、北極海沿岸部に到達したと言うのだから、驚異と言うほかはない。
   日本では、縄文時代が始まった頃のようだが、極寒の自然環境に適応したモンゴロイドの南北アメリカの縦断は一気呵成で、ベーリング海峡から南米の最南端フェゴ島までの1万4千キロを1000年で踏破したと言うのである。

   私が、何故、この英語圏ではインディアン、ラテン語圏ではインディオと称される南北アメリカの原住民に興味を持つのかと言うことだが、実際に、アメリカ留学の2年間、サンパウロ駐在4年間、そして、何度かの海外出張などで、これらの人々の文化や生活などに直接触れる機会があり、特に、中学時代から興味のあったマヤ、アズテック、インカなどの遺跡や文化財を実地検分して学びながら、人類の文化文明とは、一体何なのかを考え続けて来たからである。
   マヤの壮大な宮殿や都市が、絶頂期のまま放置されて廃墟となりジャングルに覆いつくされて消えたのは、鋤鍬を持っていなかった為だと言う文化文明の余りにも極端な落差や、マヤ・アズテックのピラミッドが、隣の大陸であるエジプト文明の影響だとか、兎に角、子供の頃にインディオ文化の不思議さに引き込まれていたのである。
   
   私が、最初に、インディアン、ないし、インディオの文化や生活に接したのは、もう30年以上も前のアメリカ留学時代で、メキシコ旅行でのアズテック遺跡訪問やインディオの生活を実見したのが皮切りである。そして、翌年の夏期休暇に、セントルイスから車でロッキー越えして、メサヴェルデ国立公園でインディアン遺跡を見たり、モニュメントバレーなどインディアンの居留地を横断してグランドキャニオンまで走ったのだが、その間の、殺伐とした文明社会とは隔絶されたような不毛で虐げられたインディアン特別居留地での実生活を垣間見て暗澹とした思いになったこと覚えている。
   確か、子供の頃には、アメリカ映画と言えば、西部劇だったが、学生時代以降、気が付いたら、映画館から殆ど西部劇は消えていたのだが、アメリカ文化の崇高なる魂のように言われているフロンティア・スピリットも、所詮、インディアンを蹴散らして未開地を開発しながら西部へ突っ走っていた貧しい頃の産物。ヴェトナムでも、イラクでも、アフガニスタンでも、いまだに、同じ悪夢から覚められないアメリカの呪縛は厳しい。

   ところで、中南米のインディオだが、マヤ、アズテック、インカのような非常に文化分明度の高い文化を生み出したインディオもあれば、ブラジルのアマゾンのジャングル地帯には、いまだに、原始時代そのままの生活を送っている人々もいる。
   アマゾンには出かけたが、インディオには会う機会はなかったが、パラグアイのアスンションの川の中州にインディオ居住地があって、そこを訪れて、そのさわりを見たことがある。尤も、観光スポットなので、勧告客が訪れると、待機していたインディオが裸になって生活を見せると言う寸法だが、街のショップの店員嬢が、子供を抱えてヌード姿で現れた時には、目のやり場に困った。

   中南米に渡って来たスペインとポルトガルのラテン系移民は、アメリカのアングロサクソン移民と違って、セックスに対する考え方が大らかであったので、混血が進んで、純粋な原住民インディオは、殆どいないし、私の居たブラジルなど、これに、黒人や雑多な異民族の血が複雑に混交していて、ブラジル人とはどんな人なのかと言われても、説明が出来ないのではないかと思う。
   尤も、ラテンアメリカと言っても国によって違っており、アルゼンチンなど、純粋な白人の比率が高いように思うし、ボリビアなどは、純粋なインディオだけの集落が結構多くある。

   話が、横道に反れてしまったが、私が興味を持っているのは、同じ、素晴らしいDNAを持って、他の人種には到底真似の出来ないような過酷な大自然の挑戦を克服して、アリューシャン海峡を渡って南北アメリカ大陸の背骨を縦断したインディオの一部が、何故、アマゾンのジャングルなどで、原始そのままの生活状態に留まっているのかと言うその不思議である。
   世界文化文明を制覇したと豪語するヨーロッパ人たちが、冷たい海・大西洋を渡りきれずに、やっと、大航海時代に突入したのは、15世紀になってからだと言うことから考えても尚更である。  
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人類文明論を考える(1)~エコロジカル・フットプリント

2010年03月19日 | 学問・文化・芸術
   今回、手術入院中に読もうと思って病院に持ち込んだ本の内の二冊は、講談社の「興亡の世界史」シリーズの、初巻00「人類文明の黎明と暮れ方」と最終巻20「人類はどこへ行くのか」であった。
   01から19までの巻は、世界史を彩った国や地域、あるいは、文化文明に焦点をあてた個別の世界史を扱っているのだが、この初巻と最終巻の二冊は、総論的に、人類の文化文明とは一体何なのか、その本質と課題などを真正面から取り上げた非常に興味深い本であり、改めて勉強して見ようと思ったのである。

   学説や論点などについては、必ずしも同意出来るものばかりではなかったが、グローバリゼーション時代の人類の未来を考える場合に、非常に役に立つと言うか、私にとってかなりインパクトの強かった印象的な論点がいくつかあったので、感想を残しておきたいと思った。

   まず、20巻の大塚柳太郎東大名誉教授の『「100億人時代」をどう迎えるか』で指摘されているエコロジカル・フットプリント問題だが、これは、地球温暖化・環境問題でも広く議論されており常識問題だが、人口論学者から正面切ってその危機的な状況を指摘されると非常にインパクトが強くなる。
   「人口ゼロ成長」の社会を目指すべきだと言うのが著者の見解だが、先進国のエコロジカル・フットプリントの観点から地球を見れば、もう、既に、地球は限界に達していると言うことである。

   そのエコロジカル・フットプリント(生態系負荷度)とは、一体何かと言うことだが、早く言えば、世界中のすべての人々が、特定の国の(例えば日本)人と同じ水準の生活を送ろうとすれば、地球が何個必要かと言うことである。
   これは、化石燃料の消費から排出される二酸化炭素の吸収に必要な森林面積、道路や建物に使用される土地面積、食糧生産に必要な土地面積、紙や木材などの生産に必要な土地面積など生物的生産量を合計したもので、必要とされる地球の数に換算されて表示されるのである。

   欧州環境機構の2002年数値によると、日本は2.44、アメリカは5.55、イギリスは3.18で、あの中国でさえ0.91と言うことである。
   結論から言うと、既に、先進国だけで、地球の負荷能力を大きく上回っており、自然を食い尽くし地球環境を破壊してしまっていると言うことなのである。
   すなわち、中国やインドなどの新興国が、アメリカ並みの生活水準に達すれば、地球環境の破壊は必定だと言った議論がなされているのだが、それどころか、現実には、もう既に、アメリカは勿論、日本もイギリスもフランスもドイツも、先進国のすべてが、発展成長を良いことに、中国やインドは勿論のこと、発展途上国など遅れた国の人々の分まで、地球を食い尽くして破壊しつくしているのである。
   
   私は、以前にこのブログの地球温暖化・環境問題の項で、問題の解決には、日本など先進国の生活水準を大幅に切り下げなければならないと書いたことがある。
   宇宙船地球号がただ一つしかないとするなら、極論すれば、現在の日本人の生活水準を2.44分の1に切り下げなければ、地球環境をサステイナブルに維持できないと言うことなのである。(年間500万円で生活している人は、その水準を200万円に下げろと言うことである。)
   このことは、日本の成長発展による現在の生活水準の確保が、勝ち得と考えるのか、遅れた国を犠牲にした既得利権と考えるのかは別にして、兎に角、新興国や発展途上国に対して、地球温暖化や環境基準において、先進国の論理を押し付けることは、先進国の傲慢であり、やり過ぎれば、深刻な新南北問題を惹起し、文明の衝突を引き起こすのは必定である。

   さて、地球環境が維持可能な元に戻れないチッピングポイントである帰らざる川を越えて破壊に突き進むまで頬被りをするにしても、環境への負荷(I)は、ポール・エーリックの次の等式で考えざるを得ない。
   I=P×A×T
   Pは、人口(population)
   Aは、一人当たりの資源・エネルギーの消費量(affluence)
   Tは、消費財を生産・消費する際の消費単位当たりの資源・エネルギーの消費量の技術改善による削減の程度(technology)
   宇宙船地球号を維持するために、環境負荷(I)を下げることが必須である。
   人口が100億を目指して増加の一途を辿っている以上、残された道は、AとTの低下以外に方法はない。
   グローバルベースでのドラスティックな、エコ効率をアップするための生産システム・ライフスタイルへの大転換やイノベーションを果敢に遂行する以外に、人類の将来はないと言うことなのである。

   鳩山首相の25%削減案を叩き潰そうと経済界は必死だが、そんな悠長なことを言っていると自らの墓穴を掘ることになる。
   生き残りを賭けるためにも、必死になって世界最先端を行くエコ商品やエコサービスの開発は勿論、地球全体のエコシステムをサステイナブルにするためのシステム開発に邁進することにビジネスチャンスを見つけない限り、日本企業の未来はないことを認識すべきであろう。
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料理は食について文化が累積した知恵の体現

2009年12月25日 | 学問・文化・芸術
   このタイトルは、マイケル・ポーランの「雑食動物のジレンマ」で紹介されたロジンの言葉だが、人間が火を使うようになって調理を覚え、動物の肉と植物を消化し易くして、初期の人類が摂取するエネルギーの量を格段に拡大し、190万年前の原人の脳を劇的に大きくしたと言われ、文化を生むようになった。
   このことは、雑食性である人間ゆえに起こり得たことで、草を食べる牛やユーカリを食べるコアラなどの単食動物は、ひたすらに何も考えずに、良い食べ物と悪い食べ物とを区別するだけで良かったのだが、何でも食べられる人間には、何を食べれば良いのか、想像も付かないようなストレスと不安が伴ってきた。
   人間は、大体の区別は最小は感覚が手伝ってくれるが、それを記録して保つためには文化に頼らなければならない。
   タブー、儀礼、マナー、料理の伝統などの複雑な構造によって、正しい食のルールを体系化する必要があり、このことが文化の創造に直結したのである。

   この料理と言う食のルールが、例えば、生の魚はわさびと一緒に食べるとか、すぐに腐る肉料理には抗菌性のある強いスパイスを使うなどと言った知恵が加わり、正に、料理とは、食についての文化が累積した知恵を体現したものとなったのである。
   従って、ある文化がほかの文化の食を取り入れた時には、それに関連した料理法と知恵を一緒に取りいれなければ、病気などの原因になる。
   この洗練された人間の味覚ゆえに、地域社会独特の食の嗜好や調理・処理法が、食卓に人を呼び集めるだけではなく、地域の集団として社会を纏める役目を果たすので、国の食文化は、極めて安定していると言うことである。

   ところが、今、世界中で日本食が異常なブームとなっているが、初期には、コスモポリタン性のある鉄板焼き、今日では、寿司などと言った洗練されてはいるだろうが比較的ヘルシーで料理度が低い日本食が主体のようで、このことが、グローバル市場での外国人のアクセスを容易にしているのであろうか。
   私は、長い海外生活で、日本からのお客さんなどの接客で経験しているが、逆に、日本人の大半は、素晴らしいフランス料理があるなどと言って薦めても現地の食には馴染めず、日本食に拘る傾向が強かった。
   尤も、新しい食べ物を料理する時には、よく使うスパイスやソースを使うなどしてよく知っている調理法によって、新しい食材も馴染みやすくなり、摂取の緊張を和らげられるので、海外旅行には、必ず、小さな携帯醤油瓶を持ち歩いている人がいたが、正解であろう。

   ポーランの指摘で面白いのは、アメリカには、しっかりとした食文化が存在したことがないので、この人間と食との関係を管理する食文化の力が弱いので、いろいろな苦しみをもたらしていると言うことである。
   移民たちがそれぞれの国の調理法をアメリカの食卓に持ち込んで来たけれど、どれもアメリカの食文化を纏めるほど強くはならなかったために、いかにも雑食動物の不安を招き、悪徳企業やエセ医者に付け入る隙を与えるなど、奇想天外かつ奇天烈な食品神話が生まれるなどして、アメリカ人の食生活に混乱を来たしてきたと言うのである。
   
   科学的研究や新しい政府指針、あるいは医学の学位を持ったたった一人の変人が、全米の食生活を一夜にして変えてしまうとか、天地をひっくり返すような栄養学的流行がアメリカ全土で猛威をふるうとか、とにかく、このような食についての不安を煽り立てて人々を翻弄する傾向が強いと言うことである。
   そして、正にこの状況が、食品業界には好都合で、マーケティングにこれ努めて、既に栄養を十分に取っている人に更に食品を売れないので、高度に加工した新商品を導入するなど市場シェア合戦に明け暮れて、不安定な食によって繁栄し、それを悪化させ続けているのだと言う。

   アメリカの通説では、ある特定の美味しい食べ物は毒だと決め付ける(今は炭水化物、昔は脂肪)。しかし、食事をどのように取るのか、あるいは、食に対してどう考えるのかが、実は食べ物そのものと同じくらい大切だと言うことが分かっていないと言う。
   アメリカ人は、何世代にも亘って殆ど変わらない食生活を続け、味や伝統と言う古めかしい基準に頼って食べ物を選ぶ文化があり、栄養学やマーケティングより習慣や喜びを重んじて食事する文化があり、この方が、はるかに、食生活が健全であり、文化度が高いことを認識すべきだと言うのである。
   ポーランは、ワインをがぶ飲みしチーズをむさぼる国民が、心臓病も肥満の率も自分たちより何故低いのか、フレンチ・パラドックスとして、フランスの食文化を語っていて面白い。

   この料理は、食文化の知恵の集積だと言う考え方は、随分以前だが、ヨーロッパ在住中に、ミシュランの赤本を片手に、片っ端から、星のあるレストランを回ったので、その凄さを肝に銘じている。
   アメリカのファスト・フードに対する、ヨーロッパの歴史と伝統を体現したスロー・フードの途轍もない食文化の値打ちをである。
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ミケランジェロと公麻呂の彫像・・・田中英道名誉教授

2009年11月17日 | 学問・文化・芸術
   「ダンテフォーラム」で、東北大田中英道名誉教授が、世界遺産モデル・フィレンツェに学ぶを、美術の視点から、ミケランジェロや天平のミケランジェロと称する公麻呂の彫像を題材にして語った。
   ミケランジェロのダビデ像の頭部をクローズアップした写真(口絵)を示しながら、戦いに臨もうとする瞬間の不安の表情や、メディチ家礼拝堂にあるロレンツオ像のメランコリーやロレンツオの胆汁質な表情が、当時の暗くて陰鬱なフィレンツェの芸術が何だったのかを語っていると説き始めた。

   ダビデ像は、全裸像であり、これは人間が罪のある存在であり原罪を背負っていることを意味しており、岩に埋れた荒削りの人間像「囚われ人」に象徴されるように、同じ裸体でも、多神教で裸体を賛美したギリシャやローマ時代の裸像とは全く違ったルネサンスの芸術であると言う。

   興味深かったのは、殆どが老人である聴衆を相手に、若かった筈のダ・ヴィンチが、自画像を老人のように描き、ミケランジェロのダビデ始め多くの彫像が老人のように彫られているのは、ルネサンス期には老人を大切にする風潮があって、ケチで何時死ぬか分からない老人こそが、想像力を持っていると考えられていたのだと言って笑わせていた。
   権力者であったロレンツオ像のメランコリーに加えてしょぼしょぼした表情が良く、まして貯金箱を後生大事に左手で押さえ込んでいるケチぶりも英雄の象徴で、このミケランジェロの個性的な表現こそ正に芸術で、見る人々を感動させるのだと言う。

   このダビデ像の不安の表情は、東大寺の戒壇院にある公麻呂の広目天の苦悶に満ちた怒りの表情と相通じるところがあり、人間とは何なのかを真っ正面から直視して具象化したこの微妙な表現そのものが芸術であり、人々を感動させる。
   昔から、日本では、仏像は拝む対象だと考えられていて、美の対象であることが無視されてきたが、宗教と芸術とは対立するものではなく、仏像は、美しく人間的に美を創り出しているからこそ、人を感動させるのであると言う。

   田中教授は、ストラスブール大学で美術史などを学び、奈良にある公麻呂の彫刻の美しさに感動して日本回帰した美術史家であり、この公麻呂を、天平のミケランジェロと称して、日本の美術界にインパクトを与えた。
   この日、田中教授は、公麻呂の他の東大寺の増長天、日光菩薩、月光菩薩、新薬師寺のキメラ像や、将軍万福の興福寺の阿修羅像と須菩提像、運慶の興福寺の無著像のスライドを示して、日本の仏像芸術の美を追求した匠たちの力量を語った。
   誰も芸術家としての国中公麻呂を語らないが、公麻呂は、従四位下の貴族に列せられた仏師であり、東大寺大仏殿建立の指揮を取る等、高く評価されていた。

   田中教授の話を聞いていて、学生時代に京大で、何かの拍子に、偉大な仏文学者桑原武夫の講演を聞き、ヨーロッパの視点から見ると日本の良さが浮かび上がると言ったような話を聞いたことを思い出した。
   フェノロサやあのピーター・ドラッカーが、日本の美術に入れ込んだのも、その片鱗であろうが、その辺の事情は、アメリカで学び、ヨーロッパで仕事をして来た私自身が十分に経験していることで、学生時代に奈良や京都で古社寺散策三昧に明け暮れていた頃よりも、遥かに、日本の芸術に対する思いが強く深くなっている。

   余談だが、別に宗教心がない訳ではないが、不思議にも、私自身は、お寺であろうと教会であろうと、随分あっちこっちを周ったが、そこで見る仏像や彫像を信仰の対象として見たことはなく、美しくて、私自身が感動するかどうかと言った視点からでしか見ていない。
   尤も、事前でも事後でも、その彫像や壁画、インテリアなどについては、芸術作品としてのみならず宗教や歴史的背景などについては、出来るだけ勉強することには努力し続けてきたつもりではある。

   何故、フィレンツエが、芸術都市として頂点を極めたのか、田中教授は、ドナテルロの言葉を例に挙げて説明した。
   パドヴァで高く評価されていたドナテルロが、かの地に永住することを強く勧められたのだが、お山の大将で居られた名誉を捨てて、「フィレンツェには、批評してくれる目がある」と言って、ワン・オブ・ゼムに過ぎないフィレンツェに帰って行ったと言う話である。
   このブログでも、イノベーション論で、しばしば、引用したメディチ・イフェクト、メディチ・インパクトに相通じる現象だが、美を美として認識できる厳しい審美眼を持った民衆が居て、偉大な芸術家たちが鎬を削って切磋琢磨する素晴らしい環境があったからこそである。

   芸術文化都市を生み出すためには、良いものを良い、美しいものを美しいと認める、この一般民衆の厳しくも卓越した審美眼を持った高い批評する目を、養うことが最も肝要なことだが、かっての奈良や京都にはそれがあったと言う。
   日本には、日本人が歴史と伝統を重んじて営々と築いてきた素晴らしい芸術や文化があり、もっと、自信を持って、芸術都市を作り上げるべきだと説く。

   東京を始め、どんどん国籍不明の現代都市景観が広がって行く半面、伝統的な地方の都市景観が疲弊して消えて行きつつある。
   民主党の「仕分け人」が、切った張ったで、ムダと言う天下の御旗を振りかざして、予算をぶった切ることしか念頭になく、この派手な立ち回りだけが脚光を浴びている感じなのだが、果たして、この民主党に、日本人が心血を注いで築き上げてきた歴史と伝統、文化芸術遺産を守り抜こうとする高邁な英知と識見があるのであろうか。
   
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ダンテからルネサンスへ・・・樺山紘一印刷博物館長

2009年11月15日 | 学問・文化・芸術
   ダンテの生涯と生きた時代から説き起こして、イタリアの時間と空間の水平線の延長拡大によって、フィレンツェに花開いたルネサンスへの軌跡を、樺山紘一氏が、「ダンテフォーラム2009」で、熱っぽく語った。
   フィレンツェに生まれ、アルノ川の橋の上で、永遠の女性ベアトリーチェに会って、芸術魂を開花されたダンテだが、追放の憂き目にあって、望郷の念を秘めながらも帰ることが叶わなかった故郷で、自身が蒔いた種が開花して、文化の頂点を極めたルネサンスが誕生したのである。
   余談ながら、誰にも永遠の女性はあるのだと、樺山先生は、ダンテのベアトリーチェとの出会いを語っていたが、さもあらん、ダンテは、偉大な「神曲」を生んだ。

   ダンテが生きたのは、1265年から1321年、イタリアを渡り歩き、異郷の地ラヴェンナで亡くなった。
   当時のイタリアは、ドイツにある神聖ローマ帝国下にあり、ローマ法王庁の影響下にもあった聖俗二重国家的な小さな都市国家の割拠であり、国家の体をなしていなかった。
   しかし、ダンテは、教会の価値とは違った、イタリアの世俗国家の価値を強調し、ラテン語を尊重しながらも、イタリア各地の方言を比較し、共通のイタリア語を追い求めるなど、イタリア・ナショナリズム的な考え方を推し進めて行った。

   また、どの都市国家も、その古さと豊かさを強調する中で、ダンテは、詩人ウエルギリウスをイタリアのシンボルと崇め、古代イタリアの栄光を追い求めた。
   古代ローマを、全イタリア人の共通価値として称揚し、同時代のイタリア人を正真正銘のローマ人の子孫と考えたので、最後のローマ人と言われている。
   時間の地平線上にローマと言う像をくっきりと浮かび上がらせて、中世から古代を展望し、時間の水平線を延長したのである。

   一方、航海技術の大発展で、東から西へ、そして大西洋へと、空間の地平線が広がり、地中海が始めてヨーロッパ人が参画する海の舞台となり、諸民族の交流と交錯が現実となって行った。

   ここで、樺山先生が、紹介したのは、スペインの古文献学者アシン・バラシオスが、ダンテを研究し、「神曲」は、イスラムから霊感を得たと解釈していると言う学説である。永遠の女性と人間の聖化、地獄と煉獄の宇宙など、イスラムと共通だと言うのである。
   当時のイタリアの学問体系が、イスラムに極めて近かったことは、ギリシャあたりの学者たちが、最先端を行くイスラム科学や文学等学問や芸術の翻訳文献を持ち込むなどして、大きく影響を受けていることは、良く知られている。
   ついでながら、同席していた田中英道名誉教授は、ここぞとばかり、ダ・ヴィンチの母親はイスラム人で、ダ・ヴィンチの指紋はイスラム人のものであることが分かったと付け加えた。
   
   ダンテの後を、ペトラルカやボッカチオなどが引き継ぎ、14世紀に起こったペストや動乱がが終息した時、ルネサンスが開花することとなったのだが、これは、正に、ダンテが先鞭を付け、イタリアをめぐる時間と空間の延長によって開放されたお陰だと、樺山先生は、強調する。

   新しい時間と空間を投影するフィレンツェに、多様な芸術を支える精神が住み着き、ルネサンスの精神の故郷として、壮大な芸術都市が誕生したのである。
   ルネサンス誕生には、色々な説があるが、ダンテによって触発されたイタリア精神が、時間の水平線:中世から古代眺望、そして、空間の地平線:地中海という母郷の限りなき延長と拡大があってこそであり、謂わば、世界と歴史を投影するフィレンツェには何処よりも芸術を支える精神が満ち満ちており、ダンテを化身したルネサンスが花開いたのだと言うことである。

   このフォーラムで、イタリアやスペインでのキリスト教とイスラム教とユダヤ教の文化の融合や混在などについても議論されていたが、今、アメリカ人が見下しているイスラム文化が、かっては、遥かに、ヨーロッパ文化を凌駕し、より進んでいた事実については無視されることが多い。
   現代は、キリスト教を主体とした欧米文化が主流であり、須く、この欧米文化の視点から総ての物事を見たり判断したりしているが、ようやく、文明の振り子が東に向いて来たので、21世紀は、思想の大転換の世紀になる可能性が出てきた。
   以前に、フランスへ仏教思想が入りかけて圧殺された経緯があるようだが、このダンテが始動したルネサンス精神が、アジアで開花するかもしれないのである。
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静寂に映えるロダンの「地獄の門」の迫力

2009年10月31日 | 学問・文化・芸術
   昨夜、東京文化会館でのプラハ国立歌劇場の「アイーダ」の開演前に時間があったので、外に出ると、向かい側の国立西洋美術館の庭にあるロダンの「地獄の門」が電光に映えて美しく浮かび上がっているのに気づいた。
   丁度、美術館が、その日は夜間延長日で、夜の8時まで開門していたので、これ幸いと中庭に入って、あっちこっちにあるロダンの作品を鑑賞させて貰おうと思った。
   日頃は、日中の中庭のロダンしか見ていないのだが、夜の静寂にスポットライトに映える彫刻の美しさは格別で、それも、ロダン最後の未完の大作である「地獄の門」であるから、その素晴らしさは、正に、感動ものである。

   何十年も前に、このロダンの「地獄の門」は、世界に3つしかなく(実際には7つと言う話もある)、東京の上野とパリとフィラデルフィアにあるのだと知って、是非、見たいと思っていたので、まず、留学でフィラデルフィアに行き、フィラデルフィア美術館の手前にあるロダン美術館に、真っ先に出かけて見た思い出がある。
   その後、パリに行って、同じ地獄の門を見て感激したのは、勿論である。

   この「地獄の門」は、パリのく国立美術館のモニュメントとして製作を依頼された作品だが、ロダンは、ダンテの「神曲」地獄篇の「地獄の門」をテーマに選んだ。
   「この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ」の銘文のある、あの地獄門である。

   この「地獄の門」には、丁度、システィナ礼拝堂に描かれているミケランジェロの「最後の審判」のように、嘆き苦しむ多くの人間群像が、凄いエネルギーと迫力で描写・浮き彫りされていて、息を呑むような感動を呼ぶ。
   門扉の頂上に座って地獄門を見下ろしている「考える人」はあまりにも有名だが、この「考える人」もそうだが、群像の一つ一つの人物像が、単独のロダンの作品として残っており、ロダン作品の集大成と言った趣のある作品で、昔、世界の色々な美術館や博物館でロダンの作品を見ながら、この像は、門のあそこにある人物だと探すのが楽しみであった時期があった。

   とりわけ、「考える人」などは、大小取り混ぜてあっちこっちにあり、この上野の西洋美術館の庭の反対側に大きな像が鎮座ましましている。
   この「考える人」は、ダンテともロダン自身とも言われているが、私は、カミユ・クローデルとの恋に悩み続けていたロダンだろうと思っている。
   男にとっては、失った恋の苦しみほど深いものはないと言う。

   この口絵写真の左側手前のかすかに光っている像は、弟子のブールデルの「弓を引く人」だが、こちらの方は、もう少し荒削りではるかに迫力があるが、地獄の門の右側に立つ小さなロダンの「イブ」像の肉感的艶かしさとは対極にあって面白い。
   
   この庭には、入り口から入って反対側の手前に巨大な「カレーの市民」群像が立っている。
   首に縄を付けられて引き立てられてゆく市長以下数人のカレー市民の群像だが、毅然とした面構えの威厳に満ちた素晴らしい人間像である。
   白く光りすぎた石の台座と対照的に、鈍色に浮かび上がる黒っぽい彫像の姿が闇にフェーズアウトして行く。

   随分、あっちこっちでロダンの彫刻を見てきたが、やはり、私は、小さな作品だが、「接吻」を始め、若い男女の愛の営みを描写した作品が美しいと思っている。
   ミケランジェロを師と仰いで独学独習で偉大な彫刻家として名をなしたロダンだが、殆ど、人影のない美術館の庭で、微かな電光に映えた作品を眺めていると、一挙に、ミケランジェロを通り越して、ギリシャ・ローマの素晴らしい彫刻などが走馬灯のように頭を駆け巡って来るのが不思議である。
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環境・社会・人間における「安心・安全」を探る・・・四大学連合文化講演会

2009年10月10日 | 学問・文化・芸術
   東京医科歯科大、東京外大、東京工大、一橋大と言う在京トップ単科大学付置研究機関から講師が出て、専門的な見地から講演を行う興味深い講演会も、既に4回目で、今回は「安心・安全」をテーマに実施された。
   聴講者は、大体、OBと思しき人や学識経験者と言った感じの年配者が大半である。
   話の内容だが、夫々、思い思いに専門的な見地から自分の研究テーマを中心に語るのであるから、統一性がある訳でもなく、私のような文科系の人間には、医学や工学関係の話は、いくら易しく語られても、正直なところ、殆ど理解が難しい別世界の話である。

   この口絵写真は、玉村啓和教授の「ペプチドとくすり」の時のスライドの一枚である。
   艶かしいメスのネズミが描かれているが、抗利尿作用のあるバソプレッシンと言うペプチドは、浮気抑制剤としても利くと言う話で、メスと見れば何でもアタックする助兵衛の乱婚性のアメリカハタネズミに、これを注射するとメスを追っかけなくなるとかで、
   一夫一婦制のプレーリーハタネズミには、前脳腹側領域に多数のバソプレッシン受容体があると言うのが分かったと言う。
   このペプチドを、20組かの夫婦に服用してもらって実験したら、飲んだ夫婦は口げんかしなかったということらしいが、とにかく、アミノ酸とたんぱく質の間のペプチドは、そのままでも、あるいは製薬にしても役立つらしい。
   元素記号の羅列やHやCやOHなどが延々と繋がった難しい話などは異次元の世界で、私に分かるのは、この程度の話なのである。

   「ハードウェアに基づく安全と安心(圧縮性流体の計測制御)」をテーマに、香川利春教授は、新幹線700系の先端は何故長いのか、上海のリニアモーターカーとの比較から話を始めたが、列車の水洗便所などの仕組みや聴診器の成り立ちなどから易しく原理を紐解きながら、空気圧分野の発明発見、新製品の開発など面白い話が続いた。
   しかし、とにかく、私には、全く別世界のことだと言う感じで、学問研究と言うのは専門化すれば途轍もない世界に入り込み、専門が違うと殆ど理解できない世界に踏み込むのだなあと言うのが良く分かった思いである。

   一方、外大床呂郁哉准教授の「グローバルな不安の時代の『安心・安全」:伝統と生活文化からの視点」や、一橋大青木玲子教授の「安全・安心の経済学」は、私の専門でもあり、非常に興味深く聴講させて貰った。

   床呂准教授の話は、ボルネオやミンダナオなどでのフィールドワークを通じて蓄積したそこに住む人々の民族文化や生活が、如何に時代の潮流によって安全・安心が危機的な状態に陥っているか、そして、それに抗して自分たちの伝統文化や生活を如何にして守ろうとしているのかを示しながら、現在社会の抱えている深刻な問題を語った。

   アマゾンなど地球上に僅かに残っている熱帯雨林とそこに生息する生物の多様性で抜きん出ているボルネオだが、グローバル経済の発展に巻き込まれて、ジャングルは焼き払われてアブラヤシのプランテーションに変わり果て、商業的漁業の進展によって海洋資源が乱獲されるなど自然環境が大きく破壊されている。
   ボルネオでは、伝統的に、森林や河川・海などの資源を守るために「タガル制度」を実施して、タガルに指定された場所では、個人による勝手な生物の捕獲や採取が禁止されて、村全体で生物資源の維持管理がなされていると言うのだが、焼け石に水であろうか。

   フィリピンの南部・ミンダナオには、少数民族のイスラム教徒が住んでいるのだが、政府の弾圧と殺戮による圧政に苦しみ、100万人以上の難民が住んでいて、イラクよりもアフガニスタンよりもはるかに深刻だと言う。
   政府そのものが暴走して国家安全保証の逆説を実施するなど信じられないが、圧倒的な力を持つキリスト教を代表するフィリピン政府の民族浄化政策(?)の一端なのであろうか。
   フィリピンでのイスラム過激派の動きが、治安悪化の元凶として、日本では一方的に報じられる情報が多いような気がするが、考え方改めなければならない。
   床呂准教授は、自助のために活躍するイスラム系NGOの社会福祉・難民支援活動についても語っていた。

   青木教授は、電子レンジの安心品と心配品を例にして、「安全・安心の経済学」を語った。
   安全・安心社会を実現するためには、生産者、消費者が合理的に判断できる環境を作り上げて、結果として心配品が排除されることが大切で、その為には、信頼できる情報の提供が必須だと言う。
   罰を使って社会的に望ましい行動の動機付けをすることが重要だが、そのルールに有効なインセンティブ効果があることが重要だと説く。
   ビールに税金をかければ発泡酒が生まれ、発泡酒に税金をかければ第三のビールが生まれるなどと言うのは、意図しない結果を生むインセンティブなしの拙い政策なので、正しい効果的なインセンティブがあるかないかが、ポイントだと締めくくった。
     
   とにかく、3時間くらいの講演会だが、バリエーションに富んだ意図しないような新鮮な話題の飛び出す話ばかりで非常に有意義な時間を過ごさせて頂いたと思っている。
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民主党勝利はバブル、されど期待したい・・・竹中平蔵教授

2009年09月02日 | 学問・文化・芸術
   Security Solution 2009で、竹中教授が、総選挙後、時事問題について初めて講演を行ったので期待して出かけた。
   遅れたので立ち見だったが、例の歯切れの良い切り口で、政治と経済について滔々と語っていて面白かった。

   冒頭、
今回の民主党勝利は、小泉勝利が小泉旋風だったのに対して、麻生総理が吹かせた逆風のお陰であって、自ら起こした風によったものではない。
   また、バブルとは、実力と評価の乖離が大き過ぎることで起こるのだが、正に、今回の選挙は、民主党バブルと言うべきであろう。
   不安とリスクの高い民主党に、多くの国民が日本の将来を託したのであるから、日本人は、リスクテイカーである。
   とにかく、日本国民は、民主党に変革を期待したのであり、実力をアップして成功することを期待したいと、語った。

   小泉バブルも剥げてしまったが、熱狂とバブルが崩壊すると、過去の歴史では、独裁者が躍り出るか戦争が勃発するかであったが、今はそんなことは考えられないが、民主党が失敗してパニックになると、東国原総理と言った類のオオバケ現象が起こるかも知れないとも言う。
   私は、前に、自民党が担ぎ上げた東国原問題は、正に、ノック青島現象の典型だとコメントしたが、ポピュリズムの最たる異常現象が起こっても不思議ではないかも知れないと思っている。

   竹中教授が、力を込めて論評するのは、当然、痛めつけられて苦労し徹頭徹尾抵抗勢力であった官僚体制への民主党の脱官僚宣言。
   官僚は、自分たちの組織防衛と利権擁護しか関心がなく、国民の運命を背負う等と言った高邁な精神に立った政治的決断など出来ないので、大いにやるべきだが、成功するためには、脱族議員が必須である。ところが、民主党、特に、参議院議員には組合バックなど、多くの族議員がいて、非常に難しい。
   竹中教授は、民主党の脱官僚は、官僚主導、官僚依存の脱官僚になってしまう危険があると予言する。
   
   ところで、民主党の初仕事で、最も重要な任務は、来年度予算の編成で、そのためには、財務省の役人の協力を得ることが必須で、この結果、財務省依存が強まり、一部官僚に権力バブルが発生するかもしれないと心配する。
   しかし、最初の100日が民主党の命運を決めてしまうので、とにかく、アーリィ・サクセスが絶対必要条件であり、予算を年末までに決定できるかどうかが、キイポイントだと強調する。

   アメリカの場合には、最初の100日と言っても、大統領が選ばれて政権交代までに3ヶ月もあり、十分準備出来る助走期間があるのだが、民主党の場合には、待ったなしのぶっつけ本番で準備も何もあったものではないし、抵抗勢力が回りに充満している。
   果たして、ランドスライド的勝利で、国民が期待し過ぎている環境の中で、成功できるのかどうか、大いに心配でもある。

   今回の選挙は、自民党も含めて、重税国家への道が開かれた選挙であったと言う。 
   政府の赤字が、1500兆円オーバーするのは、時間の問題で、国民の貯蓄を食いつぶして更に悪化する、と語ったが、この重要なコメントや竹中教授の経済に関する話については、項を改めたい。
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シルクロード至芸の玉手箱・・・東大寺大仏殿野外劇場(2)

2009年08月10日 | 学問・文化・芸術
   中国には、恋愛小説がないのだと何かの本で読んだことがあるので、私の頭にはずっとその印象が強く残っていた。
   東大寺の大仏殿野外劇場での最後の素晴らしい昆劇「牡丹亭」は、悲しくも美しく激しい恋の物語で、夢に見た科挙を目指す青年に恋をした太守のお姫様が恋焦がれながら絵姿を残して亡くなるのだが、その絵姿を見た夢で逢った青年が、蘇った姫と、再び、現の世界で恋をするという夢と現実を往還する幻想的な恋の物語である。
   
   玉三郎が、中国に渡って全身全霊を傾けて学び演じて喝采を浴び、京都公演やシネマ歌舞伎でも話題を集めたこの同じ昆劇の「牡丹亭」だが、私自身、京劇に対する根強い偏見があった上に、昆劇と京劇の区別もつかず、残念ながら見過ごしてしまった。
   それに、あれほど、何度も訪日している本格的な京劇の舞台にも、敬遠し続けて、まだ、接していない。
   香港や北京などで、観光客として接した一寸見の京劇の舞台を織り交ぜたショーの印象があまりにも強烈で、激しいアクロバティックなパーフォーマンスや銅鑼ががなりたてる舞台に辟易していたことや、やはり、白髪三千丈の国の演劇であるから大仰で取っ付き難いと言う先入観が強かったのである。

   ところが、この東大寺の舞台で、電光に輝く静かな舞台から流麗に流れる昆劇楽団の素晴らしい序曲を聞いた瞬間、その美しさに感動してしまった。
   昔、オーマンディが、中国旅で持ち帰りフィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックで演奏した中国のピアノ協奏曲「黄河」の、あの情感豊かな美しいフィラデルフィア管弦楽団の定期公演で聴いて以来の中国の音楽に対する強烈な感動の再現であった。
   音楽は良く分からないのだが、民族楽器は、琴と胡弓、琵琶程度で、後は洋楽器のアンサンブルであったので、音楽は、中国的と言うよりは洋楽の印象であった。
   
   この戯曲「牡丹亭」は、シェイクスピアと同時代の明の劇作家「湯顕祖」の作で、実際に演じれば何日もかかると言う大作だが、今回は、主人公杜麗娘を3人の女優が演じると言う非常に凝縮された舞台である。
   杜麗娘の恋に目覚めて乱舞する青年柳夢梅との青春、一人でしみじみと歌う中年、晩年の3シーンだが、私の抱いていた中国古典劇の印象とは全く違った素晴らしい舞台であった。
   最初のシーンは、綺麗に着飾った美しい男女が、華麗な楽に乗って歌い舞うと言う素晴らしい舞台だが、その後の、ソリストのしみじみと歌う歌声など、正に、オペラのアリアを聴いているような感じで、私は、何故か、フィガロの結婚の伯爵夫人ロジーナを歌うキリ・テ・カナワや、ばらの騎士の公爵夫人のフェリシティ・ロットの舞台を思い出しながら聴いていた。

   最後の杜麗娘を演じたのは昆劇院の名誉院長の張継青で、後で知ったのだが、玉三郎を指導した偉大な俳優。
   青いシナ服に短いスカートと言う女校長と言った姿で登場したのだが、歌い始めると、その歌声と陰影を帯びた温かくて優しい素晴らしい歌唱に、度肝を抜かれるほど感動してしまった。
   やや、音程に不安定なところがあったが、あれ程情感豊かに女を歌い演じる俳優・ソリストを見たことも聴いたこともなかったと思えるほど、強烈な印象で、その感動は長く余韻を引いて消えなかった。

   最初の杜麗娘を演じた沈豊英は、実に美しい中国美人で、舞の優雅さ、頭の天辺から抜けるような甲高いが柔らかな歌声は絶品。
   その相手役の青年柳夢梅の兪玖林は、同じ役で玉三郎と共演した男優で、沈豊英との、正に、幸せの絶頂を、舞い歌いながら謳歌する素晴らしいシーンは、絵画を見ているように美しく感動的であった。
   中年の杜麗娘を歌った王芳は、多くの賞に輝く中国屈指の、海外でも活躍している女優だと言うことだが、あの歌声を聴いていると、限りなくセイブして切り詰めた演技にも拘わらず、ため息さえ聞こえてくるような繊細さを感じた。
   中国の役者は、シェイクスピア役者と同じように、歌って踊って演技して、総ての分野で秀でた万能選手でなければならないのであろうが、その芸術の深さを、しみじみ思い知った一夜であった。

   大仏殿は、ライトアップされているので、夜空に浮かび上がっている。
   それに、堂内のライトも点灯されていて明るいので、正面の欄間から、大仏の姿や光背が見えて幻想的である。
   日頃夜中に大仏殿の正面まで入ることが出来るのかどうかは知らないが、いつも見ているのとは違った大仏殿の雰囲気を感じた貴重な体験を味わいながら会場を離れた。

   最近では、日本でも、古社寺を舞台にして、ライトアップされた野外演奏会や演劇などが演じられるようになって来た。
   しかし、元々、神社仏閣そのものが、宗教の場であると同時に、宗教的なパーフォーマンスの場、すなわち、パーフォーマンス・アートの原点であった筈で、大いに好ましいことだと思う。

   私が、青天井の野外コンサートを最初に経験したのは、もう、40年近くも前になるが、フィラデルフィアのロビンフッドデルの野外劇場でのフィラデルフィア管弦楽団演奏会であった。
   その後、主にヨーロッパだが、あっちこっちの古城や宮殿、公園など色々なところで楽しむ機会を持つことが出来たが、欧米人は、短い夏の夜を楽しむためには、野外であろうと博物館であろうと、歴史的建造物であろうと、どこででも、アミューズメントと社交の場を設営して人生を謳歌するのである。

   思い出深いのは、やはり、ヴェローナのローマ時代の野外劇場アリーナでのオペラや、ロンドン郊外のケンウッドの野外劇場でのロイヤル・オペラ、ロンドン塔でのイングリッシュ・ナショナル・オペラと言ったオペラ公演が多い。
   他にも、ハンプトンコート宮殿でのホセ・カレーラスのコンサートや、セントポール寺院でのベートーヴェンの「合唱」など色々あったが、それなりの文化遺産として風格のある舞台設定でのパーフォーマンス・アートの鑑賞の楽しみは、本来の劇場やコンサート・ホールとは違った面白さがあって楽しい。

   
      
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シルクロード至芸の玉手箱・・・東大寺大仏殿野外劇場(1)

2009年08月09日 | 学問・文化・芸術
   真夏の夜の夢と言うべきか、奈良東大寺の大仏殿前の庭園で、東大寺の御僧侶方にによる声明に始まり、世界の無形文化遺産(世界遺産)の代表として、日本の能楽「三番叟」、アゼルバイジャンの「ムガーム」、そして、中国の昆劇「牡丹亭」が、国宝級の偉大な芸術家たちによって素晴らしい舞台が演じられた。
   遷都1300年を来年に控えた古都奈良の芸術のイベントとしては、最高の贈り物で、恐らく、当時の平城京奈良の都も、シルクロードの終点・異国情緒に満ちた国際都市として、中国や朝鮮からの芸人たちで賑わい、遥か西アジアから訪れた美しい胡姫たちが舞い、文化の華を咲かせていたのであろう。

   少し夜空が暗くなり電光が映え始めた舞台に、楽が奏され、人間国宝野村万作他の荘重な「三番叟」で舞台の幕が開いた。
   派手で多少コミカルタッチの文楽の三番叟の舞台に慣れているので、この能楽の荘重優雅で威儀を正した舞台は、私にとっては非常に新鮮かつ強烈で、野村万作の眼光鋭く魂を込めた真剣勝負の激しい表情を見ながら、感激しきりであった。
   前半の素面での厳粛な感じの「揉之段」から、千歳との問答の後の、鈴を持って翁の黒式尉面をつけて激しく舞う躍動感溢れる「鈴之段」などを見ていると、野村万作の芸の大きさに圧倒されるのか、舞台に引き込まれて、東大寺の大きな野外劇場が小さく見えてくるのが不思議である。

   この能楽「三番叟」は、狂言方の担当のようだが、難しい所為(?)もあって、これまで、私自身、能楽は敬遠気味で舞台鑑賞の機会も限られており、比較的好きな狂言の舞台でも、野村万作の舞台も、ほんの数回しか経験していない。
   しかし、もう20年ほども前に、ロンドンで、イギリス人と一緒に「法螺侍」を見た時には、その絶妙かつ素晴らしい演技に感嘆した。
   「法螺侍」は、言わずと知れたシェイクスピアの「ウインザーの陽気な女房たち」、オペラで言えばヴェルディの「ファルスタッフ」の狂言版であるが、この狂言の舞台での、女房たちに騙されて大きな洗濯籠に入れられて転げ回りながら運ばれて行く野村万作ファルスタッフの演技など、私には、人間業とは思えないほど素晴らしかった。

   次の舞台は、アゼルバイジャンの「ムガーム」と言う、高いレベルの即興によって奏される伝統的音楽である。
   ヨーヨーマとのシルクロード・アンサンブルで共演している世界的な名手アリム・カシモフとその愛娘ファルガナ・カシモバが、ダッフ(団扇太鼓のようなタンバリン状の楽器)を奏しながら歌い、右手に、弦楽器タール(柄の長い大小の碁盤入れを二つ並べて胴にしたような11弦のリュート)と、左手に、弦楽器カマンチャ(4弦のバイオリン状の楽器で胡弓のように弾く)が伴奏する。
   アラブのアカームと同根の音楽であり、中国のウイグル自治区から中近東、トルコにひろがり、更に、ハンガリーのデュオにも影響を与えていると言うからイスラムとともに伝播した民族音楽である。

   伝統的な結婚披露宴や、マジョレスと言う玄人集団の間や宗教関係で歌われていたりしたようだが、ギリシャ哲学あたりからも影響を受けたと言うから、庶民的と言うよりも高度な民俗音楽のようである。
   何を歌っているのか意味が分からないのだが、あのコーランのお祈りにも相通じる浪々と吟遊詩人が歌っているような音楽で、ファルガナさんが、真剣な眼差しで歌っている表情を見ていると、昔、ポルトガル・リスボンのクラブで聞いた愛の歌・ファドの悲しい旋律を思い出した。
   甲高いギターの音のようなビートとタンバリンの鈍いリズム、尾を引きながら咽ぶような憂いを帯びた弦の調べにのって、時には耳を押さえ、時には、天を仰ぎながら、二人の胡人(?)歌手が、人生の喜怒哀楽を魂の叫びのように切々と歌い続ける。

   綺麗に刈り込まれた高麗芝の気持ちの良い感触を全身で味わいながら、ふっと振り返っては、背後の薄明かりに照らされた壮麗な大仏殿の庇の巨大さに驚き、星の光が見え隠れする夜空を仰ぎながら、天山崑崙を遥かに超えたシルクロードの果てカスピ海のほとりからやって来た楽人の奏する実にエキゾティックな美しい調べに耳を傾ける。
   この日は、久しぶりに奈良は好天気で、日中は暑かったが、奈良公園の緑も光り輝いていて、若草山の緑の美しさは格別であり、華やかに咲き乱れる色とりどりの百日紅が、更に、美しさに華を添えて自然を荘厳していた。
   ところが、夜が深まるにつれて、その暑さが和らぎ、今や、爽やかな涼風が頬を撫で始めて至福の時間を演出してくれている。
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