ここのところ、日本橋方面へ向かって走ることが続いていた。
そこで土曜日は、倉賀野へ向かって以前見逃したところ等を訪ねつつ行ってみることにしたのです。
◆本庄宿までパチリしつつ走る
「深谷宿の常夜燈」や「深谷市道路原標」、「呑龍院の子守地蔵」などを眺めつつノンビリと走る。
「田所町の常夜燈(天保11)」は、高さ4mで中山道筋で最大級の大きさらしい。
深谷宿は客引き(宿引きと呼ばれた)がもの凄く、一時は隣の熊谷宿や本庄宿まで出向いて問題を起こしていたらしい。
それで、客引きの境界を岡部から東方までとしたお触れ書きが出たと何かの本で読んだことがある。
今は当時の面影はなく静かなものでありました。
この先の17号線沿いの岡部辺りで幕末の砲術家である「高島秋帆が幽囚された史跡」があるらしいが、今回はパスした。
滝岡橋を渡って暫く走ると藤田という所だろうか、右手に「子育て地蔵尊と庚申塔群」があった。
日の出町で17号を交差すると坂左手に「庚申塔と石仏」が見える(8:12/16.7km左)。
既に出発してから1時間近く過ぎてしまった。
本庄宿を通過して金讃神社を過ぎて千代田三丁目交差点を右折する(8:28/20.1km)。
ここから高尾歩道橋手前を左折するまでが、この辺の中山道で赤城山が唯一左手に見えた場所らしいが、今はさっぱりでありますねぇ。
◆新町宿までパチリしつつ走る
右手にある八幡神社のちょっと先に「史跡 金窪館阯入口」の石標があったので脇道を入ってみる(8:52/24.5km右)。
この道は、ものの本によると伊香保街道とも三国街道とも呼ばれた道で、江戸時代前は、中山道はこの道だったらしい。
しかし、この後、道沿いで会った方々に尋ねてみたが一人として古中山道のことを知る人はおらず、只の農道だとの答え。
灯台もと暗しとはこのことか・・・
幼稚園だか保育園だかの側に「館阯入と刻まれた石標」があった(8:57/24.9km左)。
少し先へ進んで左手に木が茂った場所(ゲートボール場があった)があり、そこの側が「金窪城跡」だった(9:03/25.3km左)。
寛正年間から斉藤家が居城したが、天正十年に滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦で焼失したと説明にあった。
ここも戦場だったのだなぁ・・・
中山道に戻って進み「陽雲寺」に寄り道(9:10/26.3km左)。
こちらに「いかほ道道しるべ地蔵」が移設されているとの情報を得たので観たかったのだ。
おそらく背の高い地蔵様がそれなのだろうが、文字は風化して判読できなかった。
「正四位 畑時能公首塚」と刻まれた石碑があった(9:17/26.7km)。
長瀞の生まれであり、合戦で犬を使った最初の武将で、愛犬の名は犬獅子だったらしいと帰ってから調べて判った。
福井県で戦死した時能の首級を携えて長瀞へ向かう途中の家臣がこの地で病死、主従を弔った塚らしい。
勅使河原の17号と合流する手前に「庚申塔や石仏群」と「一里塚跡と刻まれた碑のある祠」があった(9:27/27.4km右)。
そういえば石原の「欅の一里塚」からここまで一里塚見てないことに気付いたが見逃しだろうか。
17号に合流して一つ目の信号を左折し、高崎線を潜ると「大光寺」がある(9:37/28.1km)。
こちらには、昔は神流川の渡し場にあり、英泉の描いた旅人が座っている常夜燈があるのだ。
「見透灯籠」と呼ばれるこれがその常夜燈。良く見ると側面に「詩佛老」と彫られているが、「大窪詩佛」のこと?
つい、灯籠から覗いてしまうが・・・あれ?何か置いてありますね。誰がここに置いたのかしら?
本堂の裏の方に廻り、創建者である勅使河原有直と息子の直重を祀った「石憧」と「不背碑(親子地蔵)」を観た。
左の石が「石憧」、後ろから見ると地蔵様の後姿?が良く判るのであります。
こっそりとカッパが出てきそうな池に何故か惹かれたのであります。変な趣味かしらね?
つづく