漕げばロードの日和あり^^

ひねもすポタリポタリかな。
自転車活動や食べた呑んだ等あれこれを行雲流水のように書き綴っています。

秩父往還を辿るポタ2(武川~三沢①)

2011-06-06 06:07:08 | 秩父往還 野次馬道中記

『知々夫紀行(幸田露伴)』と『秩父往還いまむかし(飯野頼治)』を参考に、今回のポタに出掛けた。

前回のポタリングの終点であった武川までは往還に拘らずに走って、その後も適当に見物も織り交ぜる趣向であります。

  

◆武川へ向かう

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籠原駅近くにある道路標識に従って先ずは秩父方面へ走り、太平洋セメント熊谷工場の手前に来た。

こちらの標識では川越・秩父の文字がなくなってしまうのだが、今やGPSナビ全盛の時代だから不都合ないのかしらね。

御稜威ヶ原方面に進めば秩父往還の『おとう坂』に出るのであります。

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御稜威ヶ原付近の路傍の何箇所かにある『随縁』と刻まれた標。仏用語が源だろうか、敷地境界線かしら。

気が変わって、秩父鉄道三ヶ尻線に沿って走ってみることにした。

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道中、目にとまる祠や地蔵などをパチリしつつ、前回終点とした武川の『秩父往還跡と刻まれた石板』に着(7:43/8.9km)。

さて秩父往還熊谷通りのポタリングに参りませう。

◆武川から旧140号と脇道をぐにゃぐにゃキョロキョロと走り小前田に向かう

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旧140号を走って200メートルも進まないうちに『武川村道路原票』をみつけてパチリ!

こういうのは歩きか自転車じゃないとなかなか見つけられないですね。

  

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69号との合流手前にある『旅舎島田屋』の跡。

露伴は汽車で熊谷まで来て熊谷通りを歩き、こちらに泊って荒川の鮎で一杯呑んで、いい気分になっているのです。

  

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深谷市田中歩道橋の手前を右斜めに登る側道に入る。こちらの方が旧道だと以前から聞いていた。

ちょっと走ると右手に「聖?皇太子」「馬頭尊」「二十二夜塔」「大黒天」「奉納御神燈」と彫られた石群があった(7:54/9.2km)。

以前は石郡の側に沼地があり魚釣りが出来たはずだが、今は空き地状態になっておりました。

  

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毎度のことだが、はやくもパチリ頻発であります。側道は直ぐに旧140号に合流するので、また旧140号を走る。

  

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日本高圧コンクリートの工場を越えた先の左手の見目墓地内にある「見目堂」(8:04/9.9km)。

草木が繁茂して荒れた墓地であったのを昭和53年に改修したものと説明があった。

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見目堂の隣には「宗念堂」があり脇に享保九年と読める「青面金剛像」と「猿田彦大神」がおわした。

享保といえば暴れん坊将軍の時代で287年前ですわ・・・浪漫を感じるなぁ。

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重忠橋(北)交差点を越えて進む。

永田駅入り口のT字路の手前右手に「岩に彫られた馬頭尊」と「大黒天」が見えた(8:15/10.7km)。

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小路を覗くと馬頭尊の裏に「庚申塔」があり、そこから旧140号と並行して通る小路を走った。

近所の方に伺うと、この小道が「馬入り」と一般に呼ばれる古道であると昔から言われていたと教えて頂いた。

有難うございました。

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小路は直ぐに永田駅の前に出る。

駅と旧140号の間を流れる蟹沢排水路に架かる橋の袂に「かにさわはし」と刻まれた石が転がっていた。

カミさんが子供の頃は蟹がいたらしいが、今もいるのかしらね?でも降りてみる気はしませんでした。

小路を更に小前田方面へ進む。

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140号の黒田交差点手前を潜りぬけて進むと旧140号の上を関越自動車道が通るところに出ました。

ここから旧140号を走ります。

  

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荒川交差点を越えて、アオイ化学工業の工場が見えたあたりの左手に小山があり祠が見えた(8:54/15.7km)。

「富士山」と呼ばれており、富士山の北口を信仰していたのだと、先の地震で崩れた箇所を修復している方に教わった。

有難うございました。

また旧140号が通る前は、ここのちょっと手前を右斜めに入り花園小学校の方へ向かう道が旧道だったと伺った。

その道を行くかどうか迷ったが、先ずは「長善寺」に寄ることにした。

  

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「長善寺」に着(9:03/16.4km)。

露伴が『路のほとりにやや大なる寺ありて、如何にやしけむ鐘楼はなく、山門に鐘を懸けたれば二人相見ておぼえず笑う』と書いた寺はこちらであります。

鐘楼が山門と一体化した鍾門というものを露伴は知らなかったのかしら。

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道標となった「四国西国供養塔」を見つけたのだが、哀しいかな、なんと書かれているのか解らない。

本堂を掃除されてた御婦人にお願いして教えて頂いた。この御婦人、博識でただものじゃなかったであります。

「右 小川川越ちちぶ   左久まがや」と読んで頂いた。

本来は他の場所にあったものが、いつのころからかこちらに移されてきたらしい。また、露伴が観た鍾門の跡も教えて頂いた。

お忙しいところ、本当に有難うございました。

  

ご近所の方に、荒川沿いを「鎌倉街道」が通っており、「オチャチャの井戸」なるものがあると伺った。

ちと予定を変更して荒川に向かってみませう

  

つづく

  

◆小前田から中小前田交差点までの石塔など

実はこの日は「お茶々が井戸」を観てから140号で中小前田交差点に行ってしまい途中の観察をしなかった。

なので翌日、その空白区間を走った結果を示します。

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小前田から寄居に向かって旧140号を走ると、いずれも右手に三箇所の石仏郡があった。

二つ目までは、風化が進んでいつの時代のものか解らなかった。

三つ目の中小前田交差点手前にある「石仏(文化六年)・大黒天(文久四年)・弁財天(文化六年?)・庚申塔」が作られた年代が解った。

約150年から200年前のものでありますね。

また、この石郡が「テンノウサマ」と呼ばれていることを土地の持ち主の方から教えて頂いた。

有難うございました。