漕げばロードの日和あり^^

ひねもすポタリポタリかな。
自転車活動や食べた呑んだ等あれこれを行雲流水のように書き綴っています。

民話に出てくる場所を探す

2016-02-08 22:39:14 | 中山道 野次馬道中記
以前、郷土資料を漁っていた時に、こんな民話を読んだ。
その昔、現深谷市東方辺りに半次郎という飛脚がいた。
半次郎は、とてつもない速さで走るので、韋駄天半次郎と呼ばれていた。

おぉ!地元の話じゃないの。韋駄天の異名を取る程の剛脚、あやかりたい^^
でも、拙が惹かれたのは、ここではないのです。


半次郎が中山道を深谷宿と熊谷宿の間にある橋を通り掛かった時のこと。
橋の袂で倒れていた河童を助けた。

この辺りに昔は河童がいた・・・隠れ河童フェチだった拙はクラクラきました。
でも何故、河童どんは倒れていたのだろうか?
訊くと川面から橋を見上げていたら魅力的な尻子玉を持った馬が通ったのだという。
ついふらふらと手を出したら、怒った馬に股間?を蹴られてしまった。

要は、悶絶しているうちに頭の皿の水をこぼしてシマッタ訳ですな。
細部は微妙に違うかもしれないが、大枠はこんな内容だったと記憶している。
さて、問題はここからなのです。
河童が棲む程だから、大きな川に架かる橋だと想像するが、そんな所あったっけ?
そんな訳で、旧中山道を熊谷宿から深谷宿に向かって自転車走らせ調べて参りました。


河童どんが悶絶していた場所は、たぶんここ筋交橋であるな。

丁度、熊谷宿と深谷宿の中間くらい。
旧中山道が、R17号線と久保島歩道橋近くで交差した先にある筋交橋。
バス停の名に気付かなければ、橋だと気付かないくらいの小さな溝に架かる橋だった。
当然ながら、呼んでも答える河童はおりませんでした。
ほんとうに、こんな小さな溝のような川に河童どんが棲んでいたのだろうか?
帰宅後に調べると、昔は、満水時には往来を人足が担いで渡す中山道の難所だったようだ。
そんな場所なら河童が棲んでいたとしても不思議ないと思うのだが、どうだろうか?


ところで半次郎、河童を助けたお礼に、いくら呑んでも尽きない徳利をもらったという。
こいつは酒飲みには、たまらないアイテムでありますな。
この徳利は後に割ってしまったか効力が切れただかで酒が出なくなったと書かれていた。
でも、ひょっとしたら今は復活しているかも。なんたって河童どんの神通力のこもった徳利ですからね。
その徳利があれば毎日酒が呑めるぞ^^
さて、韋駄天半次郎さんの家はどこじゃ?


ここが半次郎さんのお宅だった場所かしら?

籠原駅近くの旧中山道にある、明治天皇御小休所跡。
昔ここに、志がらきという名の茶屋があったようだ。
東方からちょっと外れているけれど、その茶屋の主人の名が半次郎さん。
この日、辺りを探しても徳利は見つからなかった。やはりここではないのだろうか?
次は機会をみて深谷宿方面に向かって探索してみたいと思う。


話は変わるが、志がらきの名物はゴボウ料理だったとのこと。
いったいどんな料理だったのだろう?気になるな^^


遅すぎた

2013-04-07 06:53:54 | 中山道 野次馬道中記

 

旧中山道の五料から横川にかけて梅などが咲いて風情ある路がある。

前回、訪れた時は花芽も出てない状態だったので、おっとりがたなで出掛けてみれば、なんと終わってました。

 

残念無念。こっちは寒いから大丈夫だろうと思っていたが、ちと遅すぎたようであるな。

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百合若大臣の足痕石など見物しつつ横川へ向かった。

 

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釜飯を喰って戻ってマイリました。

 

また、来年の愉しみが増えた・・・と、日記には書いておこう^^

 


安中をチョイフラ

2013-04-04 07:13:11 | 中山道 野次馬道中記

新島襄先生の旧宅にある桜の樹が、果たして八重の桜であるのか気になって仕方がなかったのだ^^ 

小雨のぱらつく日曜日。車で中山道を走った。

 

桜もほぼ満開。さて、品種はどうかな?

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どうやら八重さんではなく、吉野さんのようであります。ちょっと残念なり^^

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むむっ?!草履の素材は藁ではなくて合成樹脂系の紐のようであります。

藁が貴重品になりつつあると聞いてはいたが、これもその影響なのかしら^^

 

さて、なにか土産を買っていこう。

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醤油の有田屋さんは、日曜日も店を開けるようになったようです。

土産に団子(丸大豆あっさりなみたらし、再仕込みこくありなみたらし、焼き団子)を購いました^^

 

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襄先生や、八重さんにあやかった商品が色々ありますな。

 

ひょっとして、鮨屋でも襄鮨とかあったりして^^


南畝の見た芭蕉塚はどこかいな

2013-02-27 06:57:36 | 中山道 野次馬道中記

紀行文を読むのが好き。それも古いやつが良い。

そこに出てくる場所が今はどうなっているのか、あれこれ想像するのが楽しいのです。

そして自転車で行ける範囲であれば、それを目的にルートを決めたりしている。

埼北地域を題材にした紀行文では、幸田露伴の知々父紀行や田山花袋の秩父の山裾等が有名だろう。

熊谷から寄居、長瀞、秩父。または小川町辺りの昔(明治、大正)の雰囲気が味わえるので面白いと思う。

 

今回は、もっと古い時代に中山道を旅した大田南畝(なんぽ)の壬戊(じんぼ)紀行を読む機会があった。

特に、馴染みの本庄から熊谷辺りの記述を興味深く読んだのだが、ぱっと頭に浮かばない場所もあった。

牧西⇒小山川⇒榛澤郡総社島護大明神⇒岡部忠澄の墓⇒普済寺⇒宿根村⇒深谷の驛。ここまでは判った。

次に、左に観音堂⇒左右に松杉檜⇒左に芭蕉塚⇒東方村⇒かご原村⇒にゐほり村⇒のきぐゐ村⇒新島村とある。

はて?観音堂と芭蕉塚、のきぐゐ村って何処だろう?

もっとも享和二年(1802年)の話なので、その場所が無くなっていても不思議はないのだが、見に行ってみたのです。

 

今回は観音堂と芭蕉塚を探しに、深谷駅方向から、深谷の常盤町から国済寺辺りの中山道を走った。

観音堂は全く判らないまま、R17号を交差した。

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見返りの松から幡羅中学校の辺りは、昔は松の並木が見事だったと地元の方に聞いていた。

今も松の木が何本か生えており、南畝が記した「左右に松杉檜」は、この辺りじゃないかしら。

「塚」というと、土が盛り上がった地形を思い浮かべてしまうが、「芭蕉塚」は芭蕉の句碑も含まれるらしい。

左手にそれらしき場所を探しながら、ゆっくり走っていたら、愛宕神社に芭蕉の句碑がありました。

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「冬枯や 世は一色の風のおと」

ようやく芭蕉塚を見つけたぞ・・・と思ったのですが、この句碑は昭和12年建立と刻まれていた。

少なくともこの句碑は南畝が見たはずがないものでありました。

南畝が歩いた時代に、ここに別の句碑があったのか、それとも全く違う場所なのか謎は深まるばかりなり。

 

次は十返舎一九の続膝栗毛を真似て、本庄から熊谷辺りを、特殊なボトルを持ってポタってみようかな^^

 


板鼻から五料まで 3

2013-02-22 06:36:28 | 中山道 野次馬道中記

五料の茶屋本陣見学の続きからです。

 

本陣の中は貴重な民俗資料がいっぱい^^

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なんと!!青面金剛の掛け軸であります。実物をこの目で拝める日がこようとは。

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感無量であります^^ その他エースが指差す例の御神体など展示物は必見でありますよ。

 

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妙義山が見える縁側に坐して、軒から氷柱を伝わり滴り落ちる雪解け水を独り静かに眺めるエース。

その胸に去来する想いは何か?

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ひょっとして、さっき見た人相覚の顔(拙の高杉晋作のイメージと違った)を思い出して、思い出し笑いかな?

そういう訳ではなくて、ヘルメットに装着する氷柱が落ちてくるのを待っていたのでありますね。

 

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拙に所縁があるのは左上の宿。エースに所縁があるのは右上の宿。隣り合った宿でも結構、雰囲気が違ったのね。

 

 

茶屋本陣を出て、「夜泣き地蔵」と「茶釜石」を見物に行った。

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榎踏切を渡って右上に上っていく道が旧中山道。

青面金剛などの文字塔を横目に見ながら短い坂を上ると、頂上付近にそれはあった。

 

 

五両では あんまり高い茶釜石 値打ちを聞いて 通る旅人   蜀山人(太田 南畝)

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エースが叩いているのが「茶釜石」。

叩くと空の茶釜のような音がするようで、五料七不思議の一つなんですって。
その他の不思議が何なのか気になったが、先ずは拙も叩いてたのであります。その結果は・・・

空の茶釜を叩いたことないから、判らないや^^

 

そして茶釜石の後ろ立つ地蔵尊で一番背が高いのが「夜泣き地蔵」みたい。

この地蔵様、ある日通り掛かった馬方に、荷物のバランス取に首を取られた挙句、深谷宿に捨てられてしまう。

その首が、夜な夜な『五料恋しや』と首が泣くので、深谷の人が戻してあげたんですと。

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ん?・・・地蔵さまの足元に首(キン肉マンのマスクみたい^^)が一つ転がっているではないですか。

胴体二つに首三つ。一体、どの首が深谷宿から戻ってきたものなんだろうか?不思議は募るばかりなり。

さて、この日はここで引き返すことにしました。

梅や桜の咲く頃、この旧中山道界隈は見事な景色を見せてくれそうです。坂本宿を目指すのはその頃ですな。

 

昼メシ代わりに松井田宿内の、のんきやで、おでんを喰った。

 

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熱いお茶を出してもらったり、おむすびを御馳走してくれてありがとう。御馳走様でした^^

 

 

戻りは下り基調の追い風で楽ちんでありました。

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郷原の常夜燈と国道を挟んだ辺りにある「逢坂の神明」を見物。

広重が、ここからの眺めを「木曾街道六十九次 松井田」に描いたところらしいが、往年を偲ぶのは難しいな。

最後は板鼻方面に戻り、寒念仏橋供養塔(寒熱橋じゃないのね)を探して無事見つけ、今回の目的達成^^

 

ZERO様 寒い中、お付き合いありがとうございました。

 

 

 

 

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板鼻から五料まで 2

2013-02-20 06:46:08 | 中山道 野次馬道中記

群馬県道216号(長久保 郷原線)を走って松井田へ向かった。

 

国道18号線と合流した場所にある、文化五年(1808)に建立された「郷原の妙義道常夜燈」。

台座に「是より妙義道」と刻まれてあって妙義神社への参詣者の道標を兼ねていたようだ。

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常夜燈脇の小路を川へ向かって下れば、あの新島襄先生の祖先の墓があるらしいが、寒いからパス。

旧中山道を国道を交差するような形で松井田宿へ向かう。ここまで来ると妙義山がとても近くに見えるのです。

 

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松井田宿道路元標のある交差点に立つ歴史感ある家や松井田城跡の看板など眺めつつ宿を走った。

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安中警察署松井田分庁舎の手前を左に分岐した道が旧中山道。

この先、右手に溜池がある場所の左手が一里塚跡だったようだが気付かなかった。

旧中山道は、溜池の先にある線路を越えて碓井川の近くを通って五料へと向かっていたらしい。

しかし今は、河川浸食や農地化で消失しているようだで、線路伝いに行くのが無難なようだ。

そして、再び国道と交差して上信越自動車道を潜り、五料へと入る。

 

ところどころ雪の残る風景を愉しみながら走った・・・と言いたいが、実際は寒くて仕方なかったのデス^^

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五料の茶屋本陣を見物。見学料金210円なり(個人的趣味からは十分に元が取れたと感じた次第です)。 

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季節がら雛飾りが展示されておりました。

歴史ある静かな薄暗い部屋に飾られた沢山の雛人形達。綺麗だけど、ちょっと独特の雰囲気を感じるのであります。

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HNG48のチームHの皆さんです。             そして、こちらがチームN。皆さん綺麗ですねえ。

 

『くすっ^^』 『お聞きなされ。あの御仁、怖さを誤魔化す為に独り言をつぶやいてますぞ。』 

『あれ 情けなや。』 『震えておるわいなあ。』

ひそひそ声や、しのび笑いが聴こえたような、どこかから見つめられているような。そんな不思議な感覚。

 

つづく

 

 


板鼻から五料まで 1

2013-02-19 07:18:48 | 中山道 野次馬道中記

寒い寒い日曜日。チームAのエースを誘って、中山道を板鼻から五料までポタってきたのです。

今回は、「寒熱橋供養塔」、「弁慶が書いた額」、「ちゃんころりん石」、「夜泣き地蔵」、「茶釜石」を見物するのが目的です。

 

先ずは板鼻宿の、ちょっと手前(高崎側)にある八幡八幡宮に立ち寄った。

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参道入り口の鳥居に掛けられた弁慶が書いたとされる額や、境内の唐銅燈籠を見物した。

 

 

板鼻宿へ向かう県道に入ってすぐ。板鼻堰用水路脇にある双体道祖神を観察。

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台座に刻まれているという各地への距離を読み取ろうとしたが、この碑(日)もお手上げでありました^^

 

安中宿へ向かい、大泉寺で伝説の「ちゃんころりん石」を見物。

300年近く前の話じゃ。

夜な夜な丑満時に宿内を「チャンコロリン」と奇怪な鳴声を立て転がり廻る石があったそうな。

その面妖さに宿の人々は、早くから雨戸を閉ざし、恐ろしさに震えあがっていたそうな。

腕に覚えのある若侍達が刀や槍、鉄砲をもって立ち向かったが、とんと効果がなかったんじゃ。

そこで困り果てた人々は相談の末、大泉寺の獅絃(しげん)和尚の法力にすがることにしたそうな。

そして、さしもの妖石も和尚の唱える念仏に調伏され、寺の台座の上に封じ込まれたんじゃと。

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エースが撫でさすっているのが件の「ちゃんころりん石」であります。

『夜な夜な繁華街を暴れまわっていたなんて、親近感を覚えるな。』と言ったとか言わなかったとか^^

お寺の庭は、チャリンコロン状態になる程に雪が残っておりました。

こちらには井伊直政の正室のお墓もあるようなので、暖かくなったら再訪したいものであります。

 

 

安中宿を出て原市へと走った。

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昔は700本以上あったといわれる杉並木も、すっかり減っておりました。でも当時の面影を感じることが出来た^^

原市の高札場跡と明治天皇御小休所。火災にあったとニュースで知っていたが、修復はされるのかしら。

 

 

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左に八本木旧立場茶屋、右に延命地蔵尊の御堂を眺め、坂を下って松井田宿へ向かったのです。

 

つづく

 

 


安中宿まで(3)

2013-02-15 06:46:47 | 中山道 野次馬道中記

Fujiyaというお菓子屋さんで「遠足ポテト」というお菓子をリーダーに買ってもらった^^

それを非常食としてポッケに入れて、今流行の新島襄先生関連の史跡を見物に向かった。

 

 

これがかの有名な「新島襄先生の旧宅駐車場」か。現地でこの目で見れて感無量であります。

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う~ん・・・さすが敷石の砕石もいいもののようだ。きっと名のある石に違いない^^

 

 

「これが有名な八重の桜か」  

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新島襄先生の旧宅入り口の桜の樹を眺め、おもむろにリーダー仰ったのだ^^

 

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この後は本陣跡である安中郵便局など見物したり、有田屋のレンガ造りの煙突など鑑賞して板鼻宿へ戻った。

 

 

板鼻宿内で中仙道沿いの家の裏を流れる板鼻堰用水。用水沿いに往年の雰囲気を感じながら自転車を漕いだ。

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昼メシは板鼻宿内の「板鼻館」の「カラシタルタルカツ丼(ロース)」。

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カツ丼が出来上るまでの間、小さなすり鉢に入った茹で卵をマヨネーズとカラシで和えて自分でソースを作るのです^^

タルタルソースをつけながら食べるカツの味はオツなものでありました。

 

帰りは追い風に乗って一気に高崎宿まで戻った。やっぱり人生、追い風に乗るに限るな^^

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高崎で土産に「オリタ」の焼きまんじゅうを購った。

餡子入りの焼きまんじゅうがあることを初めて知りました。

この驚きを誰かに伝えたくて、その頃勤労に励んでいるであろうチームAのエースにメールを入れたのであります。

やーい!やーい!羨ましいダロ^^と心のうちで囁きながら発信するメールは蜜の味でありました。

 

その後も順調に本庄宿まで戻って、リーダーとお別れ。愉しい中山道ポタでありました。

tomochan様、ありがとうございました。次回は松井田宿から坂本宿。そしてその次は碓井峠の熊野神社ですね^^

 

走行距離:110.2km

 


安中宿まで(2)

2013-02-14 07:00:52 | 中山道 野次馬道中記

板鼻宿にあると聞いた「かねつ橋供養塔」を見損ねたことに帰ってから気付いた。

かねつは寒熱であるとの伝説があるらしい。

由来は、強盗が出るほどの寂しい道で旅人は自然と早足になり、寒い中でも熱い汗をかいたからですって。

 

裏に寛政四年の文字が刻まれた双体道祖神の前でリーダーが立ち止まり、なにやら考え込んでいる様子。

台座に刻まれているという色々な場所への距離を見ているのかしら。でもすぐに違うことが判った^^

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道祖神の後ろに回りしゃがみ込んだと思ったら「こうすると手の生えたダルマに見えないかい?」ですって^^

 

板鼻二丁目交差点にある「やはたみち」と刻まれた板鼻榛名道の道標を眺めた。

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側面に「はるな くさつ 河原湯 かねこ 沢たり 志ぶ川 みち」と刻まれているらしいが、拙は判読出来なかった。

板鼻宿の本陣跡は、安中市板鼻公民館となっておりました。

 

板鼻宿に行ったら、是非見たかったのが、この「てうちん屋」という土蔵造りの建物。

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屋根の部分が家から浮いており、火災時の飛び火を防ぐ工夫がされているのだ。

 

旧本陣書院(幕末に皇女和宮が十四代将軍家茂に輿入に江戸へ向かう途中、泊まった)などを見て宿内をうろうろした。

途中、チェーン切れが発生したが、宿内の三沢輪店で工具をお借りして事なきを得た。どうもありがとうございました。

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鷹巣神社へ続いていたであろう石橋(神社は正面崖上に鳥居と石宮があった)を右手に眺め、安中宿へ向かった。

板鼻付近は、義経伝説が多いのだけど、今回はスルーでありました。また日が長くなった頃に再訪であります。

 

今回の折り返し地点である安中宿に到着。ここまでの距離:55.9km。

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旧碓井郡役所や武家屋敷を眺めながら宿内をうろうろ。

 

 

安中市役所の駐車場脇の「安政遠足」と刻まれた記念碑を見物しにいった。

安政二年、藩士の体力を競わせる為に、藩邸から碓氷峠の熊野神社まで武具を装備して走らせたらしい。

その距離、22km強・・・う~ん、遠足って厳しいものだったのだなあ。

 

リーダーの覗きのポーズは、堂々として年季が感じられるのだ^^

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記念碑の脇にある石に開けられた穴を覗くと、碓氷峠が見えるらしい。

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う~ん・・・よく解らない^^

 

 

つづく


安中宿まで(1)

2013-02-13 06:43:21 | 中山道 野次馬道中記

いつの日か、ジッテンシャ一九と名乗って中山道を自転車で辿る物語を語ってみたい。

物語の題名は、中山道中膝剃り毛^^

なんて夢がある訳ではないが、中山道近くに住む拙にとって中山道を辿るのはサイクリングに適当な路なのです。

昨年は倉賀野まで辿っていたので、今回は高崎、板鼻、安中を目的地とした。

 

 

旅は道連れ。今回は、チームVリーダーのtomochan様にご一緒頂いたのであります。

これで道案内と故障時の対応はバッチリだ^^

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本庄宿の金鑚神社に8:30待ち合わせ。指先が凍えそうな寒さの中を出発であります。

新町宿で燃料補給。「とみや」でたいこ焼き(小豆、クリーム、うぐいす餡がある)を喰った^^

 

順調に倉賀野宿を過ぎて、ちょっと佐野道に寄り道。

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常世神社(世阿弥の謡曲「鉢の木」の舞台となったところで、『いざ鎌倉』という言葉の発祥地らしい)を見学した。

高崎方面に走ると「船橋歌碑」があった。船橋って船を繋いで渡した橋のことだったのね。

かみつけの佐野の船はしとりはなし 親はさくれどわはさかるがへ

烏川を挟んでいがみ合う、朝日の長者の息子と夕日の長者の娘が恋仲となり、親に反対されて・・・

こちらには、悲しい伝説があったのですな。

 

新町、連雀町、田町。江戸時代から残る町名を辿って高崎宿を抜けた。 

高崎の街中も色々見所ありそうで、後日再訪して自転車でぶらぶらしたい場所でありました。

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君が代橋を渡って、R406号に入り、暫く走って安中方面に分岐する道を進む。

分岐には「右 はるなみち くさつみち」と刻まれた道標があった。

 

 

高崎といえばダルマ^^ 通り沿いの松本商店さんでダルマの色付けを暫し見学させて頂いた。

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上豊岡の茶屋本陣で、ちょっと休憩。

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19世紀初頭に建てられた別棟の縁側に腰掛け、お茶を飲むリーダー。気分は殿様だったのかしら^^

 

旧中山道はR18号に合流。

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左手に藤塚の一里塚(日本橋から28里目の塚)を眺めながら、暫くR18号を走った。

八幡宮(鳥居に掛けられた額の文字は弁慶の書らしい^^)を見学するの忘れてシマッタ。

やがて右手に見える県道137号に入れば板鼻宿はすぐであります。

 

つづく

 


中山道 野次馬道中記 (倉賀野へ参る 2/2)

2011-07-02 00:35:54 | 中山道 野次馬道中記

柳瀬橋を渡って、岩鼻町のT字路を左折する。

最初は間違って直進して群馬の森も越えて行った末に戻ってきました(11:30/39.6km)。

  

◆倉賀野宿へようやく着いた

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中山道と日光例幣使街道の追分に着(11:40/41.5km右)。

「閻魔堂」があり、「常夜燈」と「道標」が立てられている。

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常夜燈には『右中山道 左日光道』、道標には『右江戸道 左日光道』と刻まれている。中山道=江戸道なのでしょうな。

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閻魔堂を覗き、『その節は宜しくお願い致します』と言っておいた。

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先へ進むと、中山道倉賀野宿の碑と双体道祖神がおわしたがレプリカかしら(11:54/42.1km左)。

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「人馬継立跡(左)」や「脇本陣跡(右)」等を眺めつつ進む。

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「高札場跡(右)」を過ぎて、ちょっと先の左手奥まったところに「倉賀野神社」があった(12:08/42.6km)。

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神社の先に「鳥啄池跡(トリバミイケアト)」と書かれた看板が見えたので観て行く。

江戸末期には深さ八尺あったとあるが、今は涸れております。

倉賀野神社の起源として祀られた御神体である「亀石」がこれかしらね。

  

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神社には、飯盛女や旅籠屋が寄進した「玉垣」や「常夜燈」がありました。

「玉垣」は、飯盛女達の貯金で(強制的に)造られた中山道に架けられていた太鼓橋の積み石が使用されていると本で読んだ。

また、こちらには「飯玉縁起」の伝説(兄弟の争いで大蛇に変化した末子が・・・吾が名は飯玉と宣託した)があった。

飯玉といえば、日の出町から本庄宿の間に飯玉と呼ばれた土地があったが、関係あるのかしらね。

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中山道に戻って進むと「安楽寺」がある(12:24/43.0km右)。

実は、こちらの本堂前にシートを敷いて寝転んだ熱々の若いカップルがいてパチリ!し難い。

お願いだからオジサンに見せつけるのは止めてくれないか。

本堂前にある、拙者の背より高い「庚申供養塔(安永三)」をパチリ!

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「異形板碑」。板碑は、石板を使用した卒塔婆の一種で、こちらのは将棋の駒型で厚みがある砂岩製で珍しいらしい。

鎌倉時代末から南北朝時代のものと説明にあった。

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馬に蹴られても困るので、あわててあちこちパチリして早々に退散であります。

 

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先程の高札場跡まで戻って、向かいの細い路地が「牛街道」と呼ばれた道で「倉賀野河岸」へ続いている。

河岸は永禄四年(1561)に船による運搬営業が始められ、明治十七年に鉄道が開通するまで運搬の大動脈だったらしい。

牛街道は、その船荷を河岸から中山道まで牛で運ぶ道だったのでしょうね。

河岸の跡も今はなんの変哲もない只のフェンスで遮られた河原となり説明板があるだけだった(12:40/43.9km)。

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河岸近くの「八幡宮」境内で「庚申塔群」で昼寝するニャンコをパチリ!

  

◆行きはよいよい 帰りは・・・

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雲ゆきが怪しくなってきたので自分なりに一生懸命漕いだのだが、新町宿の手前でどしゃ降りとなり雨宿りなり。

すっかり濡れ鼠状態で、昼飯を店で喰うのを諦め、隙っ腹を抱えて惨めな気分でペダルを漕いだ。

  

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次の日は赤城山に行くことが決まっており、まず間違いなく焼きとうもろこしを喰うはずでありました。

この前も帰宅してから「旨かった」発言が家人達の物議を醸したので、この日は「道の駅おかべ」に立ち寄った。

「未来」と今年流行りの「ゴールドラッシュ」を3本づつ購ったのだが、リュックが肩に食い込む重さでありました。

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その重さのせいではないのですが、タイヤのサイドウォールが途中かなりヤバイ状態になった。

ついでに深谷のコンドーサイクルでタイヤ等を購入して帰宅なり(15:20/78.9km)。

この後は25Cから23Cへ換装、タイヤの重量を減らして明日に備えたのでありました。


中山道 野次馬道中記 (倉賀野へ参る 1.5/2)

2011-07-01 06:30:42 | 中山道 野次馬道中記

◆新町から倉賀野へ

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神流川を渡って、直ぐ右に見える「神流川古戦場碑」(10:00/29.2km)。

ものぐさして、17号の反対側から観たのだが、小さな石仏が「明和観音像」と呼ばれるものだろう。

明和元年に起きた伝馬騒動と関係あるのかしらね?

  

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ハラダ本店で、ココアラスクとグーテデロアを購う。これを明日の赤城行きを円満に進める決め手とするのだ。

 

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大窪詩佛の筆跡による冰香と刻まれた水鉢がある「於菊稲荷」に寄り道(10:13/30.5km右奥)。

先程観た見透灯籠の文字と比べてみたが・・・筆跡鑑定家じゃないし判りませんです。

  

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ようやく先の中山道ポタで来た「弁天橋」に着。

先へ進む前に、川沿い右手に見える「虚空蔵橋」の袂の祠に寄り道(10:21/31.8km)。

浮世絵師の歌川広重が、新町宿の橋の風景に描いたのが、弁天橋か虚空蔵橋かの二説があるらしいが・・・

どちらなんでしょうね?考えていても解らないから中山道に引き返すことにしませう。

下手な考えで充分に休みましたです。

  

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弁天橋を渡ってすぐに、右斜めに入る道を進んで行くと「伊勢島神社」があった(10:33/32.8km右)。

鳥居の脇に「不動明王」(たぶん)がおわした。

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白壁の御屋敷や、古い石塔群など眺めつつ進んでいく。

  

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川沿いの自転車道に入ると、前方右下に塚のようなものが見えたので行ってみた。

「お伊勢の森」と呼ばれる場所であった(10:52/33.9km右)。

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広重の浮世絵は、この辺りの風景を描いたものだと説明板があった。

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本当は、一旦自転車道から逸れて下の大通りを走り、中島バス亭近くの川原酒店の所で再び自転車道に戻るのが正しいみたい。

この日は自転車道で、そのまま柳瀬橋まで行ってしまった(11:04/36.7km)。

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柳瀬橋から下流を眺めると、川の中に橋脚の杭が見える。

これは「柳瀬の渡し」に、明治時代に架けられた橋の跡なんだそうな。

その昔、烏川は関東防衛の為に架橋が許可されず、渡河は徒歩渡りだけだったとか。

大水の時は大変だったでしょうね。

  

つづく

 


中山道 野次馬道中記 (倉賀野へ参る 1/2)

2011-06-30 06:16:39 | 中山道 野次馬道中記

ここのところ、日本橋方面へ向かって走ることが続いていた。

そこで土曜日は、倉賀野へ向かって以前見逃したところ等を訪ねつつ行ってみることにしたのです。

◆本庄宿までパチリしつつ走る

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「深谷宿の常夜燈」や「深谷市道路原標」、「呑龍院の子守地蔵」などを眺めつつノンビリと走る。

「田所町の常夜燈(天保11)」は、高さ4mで中山道筋で最大級の大きさらしい。

深谷宿は客引き(宿引きと呼ばれた)がもの凄く、一時は隣の熊谷宿や本庄宿まで出向いて問題を起こしていたらしい。

それで、客引きの境界を岡部から東方までとしたお触れ書きが出たと何かの本で読んだことがある。

今は当時の面影はなく静かなものでありました。

この先の17号線沿いの岡部辺りで幕末の砲術家である「高島秋帆が幽囚された史跡」があるらしいが、今回はパスした。

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滝岡橋を渡って暫く走ると藤田という所だろうか、右手に「子育て地蔵尊と庚申塔群」があった。

日の出町で17号を交差すると坂左手に「庚申塔と石仏」が見える(8:12/16.7km左)。

既に出発してから1時間近く過ぎてしまった。

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本庄宿を通過して金讃神社を過ぎて千代田三丁目交差点を右折する(8:28/20.1km)。

ここから高尾歩道橋手前を左折するまでが、この辺の中山道で赤城山が唯一左手に見えた場所らしいが、今はさっぱりでありますねぇ。

  

◆新町宿までパチリしつつ走る

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右手にある八幡神社のちょっと先に「史跡 金窪館阯入口」の石標があったので脇道を入ってみる(8:52/24.5km右)。

この道は、ものの本によると伊香保街道とも三国街道とも呼ばれた道で、江戸時代前は、中山道はこの道だったらしい。

しかし、この後、道沿いで会った方々に尋ねてみたが一人として古中山道のことを知る人はおらず、只の農道だとの答え。

灯台もと暗しとはこのことか・・・

幼稚園だか保育園だかの側に「館阯入と刻まれた石標」があった(8:57/24.9km左)。

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少し先へ進んで左手に木が茂った場所(ゲートボール場があった)があり、そこの側が「金窪城跡」だった(9:03/25.3km左)。

寛正年間から斉藤家が居城したが、天正十年に滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦で焼失したと説明にあった。

ここも戦場だったのだなぁ・・・

  

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中山道に戻って進み「陽雲寺」に寄り道(9:10/26.3km左)。

こちらに「いかほ道道しるべ地蔵」が移設されているとの情報を得たので観たかったのだ。

おそらく背の高い地蔵様がそれなのだろうが、文字は風化して判読できなかった。

  

「正四位 畑時能公首塚」と刻まれた石碑があった(9:17/26.7km)。

長瀞の生まれであり、合戦で犬を使った最初の武将で、愛犬の名は犬獅子だったらしいと帰ってから調べて判った。

福井県で戦死した時能の首級を携えて長瀞へ向かう途中の家臣がこの地で病死、主従を弔った塚らしい。

  

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勅使河原の17号と合流する手前に「庚申塔や石仏群」と「一里塚跡と刻まれた碑のある祠」があった(9:27/27.4km右)。

そういえば石原の「欅の一里塚」からここまで一里塚見てないことに気付いたが見逃しだろうか。

  

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17号に合流して一つ目の信号を左折し、高崎線を潜ると「大光寺」がある(9:37/28.1km)。

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こちらには、昔は神流川の渡し場にあり、英泉の描いた旅人が座っている常夜燈があるのだ。

「見透灯籠」と呼ばれるこれがその常夜燈。良く見ると側面に「詩佛老」と彫られているが、「大窪詩佛」のこと?

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つい、灯籠から覗いてしまうが・・・あれ?何か置いてありますね。誰がここに置いたのかしら?

  

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本堂の裏の方に廻り、創建者である勅使河原有直と息子の直重を祀った「石憧」と「不背碑(親子地蔵)」を観た。

左の石が「石憧」、後ろから見ると地蔵様の後姿?が良く判るのであります。

 

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こっそりとカッパが出てきそうな池に何故か惹かれたのであります。変な趣味かしらね?

  

つづく

 

  


鍾馗さまと紅花を観に行く (北本 桶川 上尾宿) 3

2011-06-24 06:37:59 | 中山道 野次馬道中記

◆上尾宿の鍾馗様に会いに行く  

上尾宿には飯盛り女が大勢いて、それを目当てに川越から若侍が毎晩のように通ってきたのだとか。

今は無き常夜燈の傍では、若侍と遊女が名残を惜しみ「さよなら横町」と異名がついていたらしい。

私も遥々熊谷からやって来た訳だが、あくまでも目当ては飯盛り女ではなく鍾馗様に逢うことだ。

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「上尾宿の案内板」(12:55/38.2km左)。上に鍾馗様がいらっしゃった。鍾馗様も良いが左後ろのメイドさんも捨てがたい。

時間もだいぶ過ぎた。早くメイドさんじゃなくて、鍾馗様に逢いに行かねば・・・

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街角の「青面金剛像」(13:00/38.6km左)。延享二(1745)のもの。

ずっとここで通りを眺め色々見て来たのだろうな。小林一茶もこの像を見たかしらね。

この辺から滅茶苦茶に道路が混んでいる。こういう時に自転車って便利、だけど巻き込まれ注意ですな。

「氷川鍬神社」(13:07/39.2km右)に着。中山道をはさんで反対側が本陣があった場所のはずだが・・

開発が進んで面影はどこにもなかったのであります。

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「おしゃれ工房新井屋さんの鍾馗様」(13:23/40.8km右)。看板の下でポーズを取ってました。

何故鍾馗様がいるのか?

鬼瓦は魔を払うものだが、追い払われた魔は向かいの家に行って災いを起こすと信じられていたらしい。

鬼瓦の鬼に対抗するものが鍾馗様だと考えられた。それが風習化し、上尾宿には昔は多く見られたと読んだことがある。

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辺りを探してみたが、他に見つけたのは線路沿いにある民家の一体のみだった。

風習も廃れたのですな、寒い時代でありますね。

  

◆再び桶川  紅花を観に行く

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中山道を桶川宿まで戻る。ようやく「境橋の石柱」を見つけた。もっと大きいのを想像してたので見つからなかった訳ですね。

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中山道から12号で菖蒲方面へ向かい「べに花ふるさと館」 に行った(13:56/47.8km)。

桶川は昔から紅花栽培が盛んで潤っていたのだと聞いた。出羽最上のものより武州ものの方が質は上だったとか。

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腹が減っていたので、紅花観賞より先に何か喰うことにした。

ところ天を喰うのも久しぶり。9.11に向けてダイエットしてみますかね。でもアイスキャンデー喰っちゃった。

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ちょっと離れた紅花畑で、紅花観賞なり。花摘みの娘さん達の姿はありませんでした。残念であります。

ここでも花の咲き具合が今年は遅いらしい。

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近くで見るとなにやら面白い花の付き方でありますな。この花が米の倍以上の価格で取引されたのだ。

再びふるさと館に戻って、紅花の花束を購い土産にする。

その昔は、紅花を摘んで臼で搗き、餅のように成形乾燥して「紅餅」として中山道で京都に運ばれたのだ。

紅花商人気分で紅餅ではないが、花を散らさないよう苦心して持ち帰ったのだが、家人達にはウケなかった(喰えないから?)。

  

紅花を購入の後は、桶川宿へ戻り中山道を熊谷方面へ引き返した。

帰り際にちょっと寄りたい場所があったので久下橋から箕田へ向かう。

  

◆番外編 箕田の保安寺へ紫陽花観賞に向かう  そして熊谷へ

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久下橋から大里へ入ったはよいが、肝心な保安寺近くへの道筋がさっぱりで迷走なり。

途中気になる看板を見つけてこっそり覗いてみたくなったが、時間も圧しているので泣く泣くパスした。

ようやく「保安寺」に着(16:07/75.8km)。

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境内に散在する石仏と紫陽花の組み合わせが趣あって佳いものであります。

  

  

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帰り際に「とうかん山古墳」を見つけて寄り道(16:31/76.2km)。

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墳頂に稲荷社があることから、とうかん塚と呼ばれたらしい。

狐のことを、オトカとかオトウカとか呼ぶので、とうかん塚は狐の塚という意味かしら。

昔は狐達が巣食っていたのだろうか。登ってみると今は白狐がちょこんと祠の前に座していた。

 

 

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その後は、うちわ祭りの準備が進む熊谷の雰囲気を星川沿いに眺めつつ帰宅なり(17:23/91.6km)。


鍾馗さまと紅花を観に行く (北本 桶川 上尾宿) 2

2011-06-23 06:07:59 | 中山道 野次馬道中記

◆北本から桶川へ

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北本の「東間浅間神社」(11:00/26.4km右)。6/30から2日間行われる大祭の準備中のようであった。

邪魔になりそうなので道路からパチリだけして退散。

「多聞寺」(11:12/27.4km)。「天然記念物の無患子の大木」が見事なものだった。

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隣の「本宿天神社」からお囃子の音が流れていた。

北本宿囃子連の獅子舞は有名らしい。機会があれば一度観てみたいものであります。

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「観音堂」(11:30/28.1km右)を通り過ぎ、暫く走ればいよいよ「桶川宿」の始まり(11:43/31.3km)。

◆桶川宿を行ったり来たり

桶川で観たいものは主に二つあった。一つは桶川臙脂と呼ばれた紅の原料となる「紅花」。

そしてもう一つは「女郎買い地蔵」である。この地蔵さまは「大雲寺」におわすらしい。

それ以外にも色々あるので順番に観て行きませう。

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先ずは桶川北小学校にある「松山道 道標(天保七)」(11:53/31.5km右)。

「松山 いなり道 (まる印に魚) 本小田原町」と刻まれている。本小田原町は日本橋の魚市場があった所。

この市場の人が、東松山の箭弓稲荷神社参りの講を組織して標としたのがこれとの説明があった。

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「大雲寺」 (11:58/32.0km右)。さて、地蔵さまはいずこにおわす?

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いたいた。三体の地蔵のうち、とんでもない地蔵さまが一体おわすのであります。

伝説では、夜な夜な宿内の女郎を買いに出掛けるので、住職がその背中にかすがいを打ち込み鎖で縛ったのだとか。

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真ん中の地蔵さまが怪しいと踏んだが、調べると濡れ衣でありました。

裏に回って背中を見ると犯人女郎買い地蔵は右端の地蔵でありました。

鎖は無かったので、今度夜遊びする時は後学の為に誘ってくださいねとお願いしておいた。

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中山道に戻って「上の木戸跡」(12:04/32.3km左)、「本陣遺構」(12:14/32.8km左)を眺めつつ進む。

途中に一里塚跡があるはずなのだが・・・結局この後3回往復したが、とんと判らなかった。

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趣のある建物を眺めながら進むと「桶川町道路元標」(12:18/33.0km)があった。

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歴史を感じるなぁ・・・

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「下の木戸跡」(12:23/33.3km左)に来てしまった。観光案内では他にも見所あるはずなのに・・・

もう一度、戻って観光案内板を見ると、境橋の石柱や棟瓦の鍾馗様、庚申様などがあり是非パチリしたい。

鍾馗様は上尾宿だとばかり思っていたが桶川宿にもおわすのですな。

下の木戸跡の手前を左にちょっと入ったところで「庚申様」(12:36/35.1km)を見つけた。

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鍾馗様が見つからずに中山道を行ったり来たりする。

あっ!民家の屋根にちんまりと乗ったあの影は・・・ようやく「鍾馗様」にお会いできました(12:44/35.6km)。

残るは、境橋の石柱だが・・・先に上尾宿まで行った帰りに探すことに致しませう。

つづく