江戸時代には秩父へ入る道として「熊ヶ谷通り」、「河越通り」などがあり「秩父往還」と総称されていた。
また秩父は忍藩の所領であり、熊谷道りは忍藩と秩父を結ぶ重要な街道であった。
後に熊谷から秩父を経て雁坂峠を越え甲州街道へ通ずる熊谷通りのみを秩父往還と呼ぶようになった。
以前、石原のかめに道でみた「ちちぶ道」の石標は中山道との分岐を示す「秩父往還」の起点のようなものらしい。
なんとなく古道跡を辿ることに浪漫を感じているので行ってみることに決めた日曜日のこと。
国道17号線の石原一丁目の交差点から広瀬へ向かって直ぐ左手のかめの道沿いに石標がある。
蛇足ではあるが、ちなみに秩父祭り会館の看板は現代の標といったところか。
「ちちぶ道」、「秩父観音巡礼道」、「宝登山道」の三基の石標をパチリ(14:28/距離記録忘れなり)。
大通りを広瀬へ向かって進み、新幹線の高架に沿って裏通りを山王宮の方へ進む。
左手に「広瀬郷の不動様」のお堂があった。こちらは明治12年に成田山の分院として建立されたものらしい。
しかし、このお堂の前の道が秩父往還に間違いないらしいことを伺うことが出来た(14:40/7.4km)。
新幹線高架と国道17号バイパスの山王宮交差点との間の畑のなかに宮塚古墳がある(14:58/9.4km)。
墳形は上円下方墳で、ほぼ完全な形で残されている貴重なものらしい。登ってみると小さな祠が置かれてた。
宮塚古墳は「山王塚」とも「お供え塚」とも呼ばれていたらしい。
宮塚古墳の向かいにある塚のような神社? 安産守護神と刻まれた昭和29年の石碑があったが神社の名前は解らなかった。
畔を通って140号バイパスへ抜ける。
山王宮から旧140号へ入らずに、少しバイパスに沿って進むと左手に「庚申地蔵尊」がおわす(15:13/9.9km)。
かつては南秩父往還南十八メートルにありき、との説明が書かれていた。ここから旧140号に向かって小路を進む。
旧140号へ出る手前にお堂があった(15:19/10.1km)。
お堂の両脇に石が吊るされている。いわれやお堂の名称を近所の方に伺ったが判らないとのことだった。
一般的に穴のあいた石を供えるのは眼に関することだとは思うのだが・・・はて知る術なしであります。
旧140号沿いの「赤城神社」の境内に「左ちちぶ道と彫られた庚申塔」がある(15:26/10.3km)。
大麻生の中郷で大里幹線用水路に沿って大麻生駅の方へ向かって小路へ入った。
右手に「旧駒形神社跡」があり、そこに地蔵尊がおわした(15:35/11.5km)。
かつて「大麻生洞木」と称す空洞化した巨大な欅があり伝承では日本武尊が駒を繋いだ等の説明が記されていた。
左へ曲がれば大麻生駅となる橋のたもとに二基の石標らしきものがあった。
一つは何が刻まれていたかは解らないが、もう一つは「左よりい道」と読める。
よりい道イコールちちぶ道? まあこの小路が古道には違いなさそうなのでこのまま進みませう。
六地蔵尊等眺めながら進むと旧140号沿いの「大榮神社」の前に出ました(15:53/12.5km)。
社の裏手に見える御神木の欅が見事でありました。
それにしてもちっとも距離が伸びないのであります。雨もポチポチ降り始めて参りました。
つづく