大榮神社からは旧140号を進んだ。押切橋を潜る手前の右手にあった地蔵尊をパチリ!(16:00/13.1km)。
もう少し先まで行ってみよう。暫く走って玉井堰橋を渡り、丸樋橋の手前の小路を右斜めに入って瀬山に向かった。
暫く走って右手の畑の遠くむこうへ龍泉寺が見える辺りの道の左に「石の小さな祠」と右に「馬頭尊」がおわす。
近所の方に伺うと祠は「ドウロクジン」と呼ばれており、ちちぶ道と深谷へ向かう道との分岐であったらしい。
「右ふかや左よりい 道」と刻まれていたらしいが今はかろうじて「道」という字が見えるばかりだった。
ここから古道は旧140号の「オト坂」の手前で秩父線の向こう側へと続いていたと教えて頂いた。
親切丁寧に教えて頂きましてお礼申し上げます。
よりいへの道は祠の先で途切れていたので、一旦ふかやへ進み回り込んで、麦客庵の側を通り旧140号へ向かう。
そういえばカミさんの婆様が「オトウ坂」と言っていたが「オト坂」が正しいのかな?漢字ではどう書くのかしらね。
※以下1~3は後に追加記述した。
1.オトウ坂は幸田露伴の知々夫紀行では「おとう坂」と記載されていた。
2.近所の方に伺ったところ、「おと坂」または「おとう坂」と呼ばれる前は「うたい坂」と呼んでいたらしい。
なんでも昔は追い剥ぎが出そうな、うっそうとした寂しい所で唄いでもしなきゃ通れなかったので、そう呼ばれたらしい。
3.「中山道山あり谷あり二人旅」という旅行記をネットでみつけた。
そこには「唄い坂」と記述されており、「前田利家が鉢形城攻めの際に唄を歌って登ったから」と記載されていた。
明戸駅からは線路沿いの道を進む。駅にいらした方にも伺ったが、これが旧街道で間違いないらしい。
和光食堂の近くで旧140号に合流して、その先が解らなくなってしまった。
畑作業をされてた方に伺うと、旧140号がそのまま古道らしかったので不本意だが旧140号を走る。
「もくせい館」で畠山重忠公と記念撮影(16:57/20.3km)。もくせい館は中学校の跡地だったのですな。
「あんたの馬も凄いけど俺の自転車の方が速いぜ! 嘘だと思うなら抜いてみな!」と捨て台詞を吐いてみた。
武川駅近くの旧140号沿いの「秩父往還跡」の石碑をパチリしたところで雨が大粒に変わった(17:01/20.6km)。
3時間掛けて、たったの20.61km。今日はここまでにしておきませう。
三ヶ尻の「幸安寺」でちょっとだけ雨宿り。
こちらの熊谷草も今年は咲かなかったことを「関東平野の片すみで」というブログを書かれているmasa様から教えて頂いた。
今年はホントに桃や桜の開花が遅れたり、山菜が早くに出たり、梅雨が早く来たり、なにやら変であります。
いっこうに止む気配のない空模様の中、濡れ鼠になりながらも晩酌の肴は購って帰宅なり。
走行距離30.6kmのカメポタでありました。