「秩父往還熊谷通り」を辿っている。
寄居の子持瀬を渡って釜伏、三沢を通る「山通り道」をポタリングで走っている途中である。
この道の他に波久礼から金尾へ渡り金尾峠を越える「平通り道」や「川通り道」もあったとの記録を読んだ。
おそらく以前に「tomochan」様が紹介した「殿倉の渡し跡」が平通り道なのだろうな。
金尾峠付近には道標も二つばかり現存していると「秩父往還いまむかし」に記載されていた。
そこで道標を観に行ってみることにした6月5日のことだった。
◆殿倉の渡し跡とその付近をぷらぷら
彩甲斐街道(140号)を通って寄居橋までやって来た(10:47/23.6km)。
はて、殿倉の渡し跡は橋を渡った右左のどちらと書かれてたっけ?
分からなければ手っ取り早くは知る人に聞けの鉄則に従って、橋の袂の町田屋さんに伺った。
ついでに古道のことも御存じか聞いておこう。
店の前にダンボールが積まれた先に今の寄居橋が出来る前の橋があり、渡し跡は寄居橋の下辺りにあったこと、
もう少し下流にも渡しがあったこと等を伺った。
古い道標等についてはご存じないとのことだった。こりゃキツい一日になりそうだ・・・
店先に自転車を置かせて頂き、歩いて渡し跡観にいく。
水が引いた日には渡し場の石組等が今も見えるそうだが、この日の水位では見えるはずないですね。
一旦戻って自転車に乗り、更に下流の渡し場跡が観れるかどうか行ってみたが辿りつくことが出来なかった。
近所の古老の話では、殿倉は針金を川の両岸に渡してそれに沿って進む船場であったらしく、
鉢形の殿さまの蔵屋敷があったので殿倉となったらしい。
下流の渡しもあったが、跡としては整備されていないことを伺った。
確か御歳九十以上と聞いたと記憶しているが、色々教えて下さって有難うございました。
寄居橋まで戻って「白髭神社」に立ち寄った。境内の隅に「水速女命 獅子舞の名泉」の標示を見つけた。
「みずはや おんないのち?」・・・近寄ってみると「みずはやめのみこと」とかながふられてました。
獅子は「しじん」と読むのですね。
ところで名泉はどこにあるのかしら。標示の前は草ぼうぼうの断崖みたいです。矢印の示し方が難解なり。
結局、それらしき崖に沿った道を歩いてみたが泉の場所は判りませんでした。tomochan様なら知っているかしら。
◆道標を探して迷走す
「秩父往還いまむかし」によると、
『金尾には「左ちちぶ道」と刻まれた古い道標や、・・・峠の頂きにも「右大ミヤ道」の道標がある』らしい。
先ずは麓から長瀞に向かって脇道含めて探していくのであります。
「藤井戸」に着(11:17/26.4km)。
その場でゴクゴク飲んだし、ボトルに詰めて以降の水分としました。旨い水でありました。
帰ってから、あの御方のブログを再読したら、な、なんと上流には人家もあるし生はちょっと・・・と書かれてあった。
えっ?そういえば民家がありましたね・・・病は気からと申します。念の為、御酒で体内消毒と記憶削除を実行した。
結局この道と次のお墓の脇も道を登っても道標は見つからず、ここまで何人かの地元の方に伺っても知らないとのこと。
これは困ったことになったぞ・・・と思いつつ通りに戻るとカーブミラーの後ろの方になにやら石標が目に留った。
ようやく見つけた「左 ちちぶ道(文政五年)」の道標でありました。感無量なり(11:25/27.0km)。
地元の方も知らないとのことで、まさかこんな大通りにはないだろうとの先入観が発見を邪魔したようだ。
さて道標に従って進むのであります・・・えっ?道細っ!それに激坂ぽくなりそうな雰囲気じゃないですか。
暫し考えた後、ほら道標って道路拡張の都合で場所をずらしたりする場合があるじゃないですか。
きっとこの道標ももう一つ長瀞側にあったに違いない・・・と根拠のない推論に従い一つ上の道を昇ったのであります。
つづく