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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年11月10日魂の再生イニシエーション」

2012-11-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/08
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年20年前の今日、何をしていたか(18)1992年11月08日「飯干景子と魂の再生イニシエーション」

(二九七八)1992年十一月六日 金曜日(曇り)
ニッポニアニッポン事情「飯星景子の手記を読んで、魂の再生イニシエーションを思うこと」

 世紀末こそ宗教の時代と思うし、一般宗教学は仁戸田六三郎先生に教わり、新興宗教については島園進先生の教えを受けて、宗教にはいつも関心を持っている。
 アミニズムから、オカルトまで、すべての神様仏様は私を守るために存在していると思っている。

 私は「わたし教」の教祖兼たった一人の信者なのだ。ひとり一人の心の中に、「人間の限界を超え、人間を包み込む何か」があればそれで宗教成立。その「何か」がイワシの頭であろうと、エホバだろうとシャカであろうと、アインシュタインであろうとオカーサンであろうと、いっこう差しつかえない。
 ナンマンダーとか、アーメンとかアッラーアクバルにあたる「わたし教」のコトバは「オカーサーン」である。味噌汁を連想してしまうところが玉に傷。

 私には飯星親子対○一教会の戦いは、国会の与野党の駆引やら検察の駆引より以上に面白かったのだけど。飯星景子の生出演も飯干晃一生出演も、全部見てしまった!
 テレビのいいところは、渦中にある人の表情からすべてを読み取れることにある。「娘を取り戻した」と語る父親の飯干さんの顔が「○一教会への宣戦布告」の時と全然ちがって、穏やかな安心した表情になっていた。

 カクレ信者から一転マスコミに信仰宣言をしたときの山崎浩子や桜田淳子の表情も、張り詰めたなかにも晴れ晴れしていて、本気で信じているんだなと思えたが、「教会の欺瞞を知った。」と胸を張る飯星景子もとてもよい表情をしていて、これだけ美しい表情で宣言されると、○一教会も山崎桜田で得たイメージアップが一挙に崩れ去ってしまうと、慌てていることだろう。

 宗教に関わる人は、全人格が表情に出ると思うので、テレビに写し出される表情を読み取るのは重要だと思う。
 実にいやな表情だったのは、○一教会の広報担当幹部という人と、「愛の家族」の鈴木代表という人。
 信仰の名のもとに嘘や欺瞞で人をダシにして、教会内部でのし上がり、幹部の地位を得てきた、という感じを与える顔だった。「愛の家族」のために全財産を投げ出したという元銀座のクラブのマダムという女性はとても清々しい表情だったが。

 飯星の手記のうち、私にとって重要に思えたことは、彼女がアメリカへ語学留学を目的として行き、結局目的を果たさずに教会幹部の指示にしたがって、帰国したことだ。

 「魂の再生」のために、重要な契機が二つある。ひとつは見知らぬ土地への移動。もうひとつは病気を含めた心身の衰弱。
 修行者などは自主的にこの二つのことを行なって再生の契機とする。聖地とされる山や地域に入り、心身を極限まで追い込む修行をする。他の宗教でもイスラム教ではメッカへ詣でることがハジと呼ばれる身分へと変化するために重要だし、仏教、キリスト教も似たようなシステムを持っている。
 お遍路さんとか巡礼も見知らぬ聖地を巡ることが魂の再生につながるはずのシステムだった。もちろん、現代のバスツアーによる四国巡りじゃダメだけど。

 ラスコーリニコフは、さいはての地シベリアで病気にかかり、時任謙作は、伯耆大山で病気になった。このように他の土地をさまようことと心身の衰弱が再生の契機になる。
 グリムやペローが採集した民話のお姫様たちだって、白雪姫は、継母に殺されかけ森をさまよい、ついに毒林檎で一度死ぬことによって、新しい人生を手にいれるし、眠り姫は百年の眠り(仮死)を経て再生する。赤ずきんちゃんなんか、狼に食われちまってから再生する。

 人類は、再生のためには一度死ななきゃならない。イニシエーション(通過儀礼、入社儀礼)は、各々の文化の担い手たちが社会のシステムとして作りあげた、赤ん坊から少年へ、少年から青年へ、青年から青年へと成長の過程に設けられた仮死と再生の儀式なのだと文化人類学者や宗教学者はいう。

 イニシエーション儀式は、文化人類学者らの記録によってさまざまな社会の例が知られるようになった。再生前の仮死として、つらい修行訓練を課す社会、他の土地での放浪を課す社会、ひたすら篭ることを課す社会といろいろあるが、次の年令階梯へ移る際に、過去の年令層での死、新しい人生への再生を象徴するシステムは、多くの文化がさまざまな方式で持っている。

 現代の若い日本人にとって最も意識的な通過儀礼の場のひとつは、「子の誕生」であろう。女は子を生むことによって、男はわが子の誕生を廊下でウロウロ待つ、または分娩室で妻の手を握り締めることによって、やっと「誰それの息子、娘」から「赤ん坊の親」に変身する。通過すべきターニングポイントは「親になること」と「自分が死ぬこと」のほか、みつけにくい。
 そして、これらの転回点で魂の再生を経験できる者はそう多くはないだろう。なんとなく通過する転回点だってある。

 日本では、氏神への初宮参りから始まって、髪置やら、袴着やら帯解、元服やら、若衆宿入り娘宿入り、さまざまな通過儀礼が行なわれてきたが、一般的には他の文化地域ほど「聖地巡礼」や「仮死と再生」がはっきりシステムとして存在してこなかった。
 これはまた、日本が他の地域と異なり、同質文化の村社会内部だけで生活してきたからだとかなんだとか、いろいろ理由はあろう。
 通過儀礼にあたって、さまざまなつらい肉体的訓練や他の土地での修行といった内容を課すものは、少なかった。したがって、成長の節目に自己の「魂の再生」をとげるのは特殊な例になる。

 現代の若者たちはそれぞれ心に空洞を抱えながら、せつなの消費的快楽にその日を過ごす。食うに困らず寒からず戦争は遠く、明るく楽しい毎日だ。その空洞を埋めるべく、さまざまな「心のよりどころ」がすりよってくる。

 魂の居場所を求めていた飯星景子も○一教会の網に引っ掛かった。ビデオで洗脳され、教会幹部の指示通り行動するようになった。
 彼女は有名人だから、霊感商法で壷や印鑑を売ったり、珍味や高麗人参茶を売り歩いたり、詐欺まがいの芝居によって老女からなけなしの貯金を取りあげたり、難民を助ける会と称して寄付を集め、財産をすべて教祖に捧げるということは求められなかった。せいぜい、留学生を援助すると称するアジア平和女性連合の司会をしたくらいである。

 そして「死ぬ気で○一教会と戦うつもり」という親の心が景子の内心の葛藤に訴えた。彼女は○一教会の嘘に気づき、魂の転回点を見つけることができた。もし、この後彼女に神が必要になっても、彼女は「人をだましても、嘘を言っても、とにかくお金を集めて、それをすべて教祖に捧げよと命じる宗教」を信じることはないだろう。

 宗教にはまった人が教祖に一身を捧げたくなる気持、私にもわからないではない。
 一九八二年だったか、八一年だったか忘れてしまったが、東京国立博物館で奈良の唐招大寺の秘宝特別展があった。奈良に修学旅行に行ったときは見ることのできなかった鑑真座像が展示されていた。

 鑑真のことは、歴史的な理解で「遠い中国から、日本に教えを広めるために渡海を試み、何度も難破の苦難に会い、ついには失明してまでも日本にやってきた尊いお坊さん」とは知っていたが、他に格別な思い入れを持ったことはなかった。

 しかし、像に近づいた私は本当に不思議な宗教的気分を持った。「ああ、この方は、私のすべてを理解し全てを認めて許してくださる。この方にすべてをゆだね、この方を信じていけば私の生は成就するのだ。」という思いだった。
 鑑真の像は展覧会ののち、また寺の奥深く安置され、私は鑑真の足下にひれ伏しつつ、ついて行くことはできなかった。

 この宗教的感情の発生が、鑑真の偉さによって生れたのか、それとも座像を作った彫刻師の芸術性の高さによるのか、よくはわからないが、ともかく、その時の私の精神のある動きと、一人の宗教者の像がピッタリと呼応したのだ。
 もしこの感情が生身の教祖に出会ったとき起こったのなら、たちまち私は教祖のためならなんでもする信者になったであろう。

 だから、私は「生き神」に取り込まれてしまう人を「あんな宗教にだまされて」と非難する気になれない。他からみたら「インチキ壷」を高く売ったりいかがわしい集団に思え、実際反社会的な行動をする団体もあるのはわかるが、信じている人が本当に純粋に信じているのだろうというのも理解できる気がするのだ。

 複雑で空虚な現代社会に生きていき、魂の居場所を求めることは、必要なことなのだろう。ただ、求めた先にさまざまな落とし穴もありインチキもある。
 私もまた、魂の居場所をみつけにくくて、うろうろとすごしつつ、騙されない自信などはない。

~~~~~~~~~~~~~~~~

もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/11/08 のつっこみ
 1992年の統一教会さわぎから3年後、1995年にはオーム真理教事件が起こり、宗教団体が起こしたテロ殺人に衝撃を受けました。
 2012年、オーム真理教最後の指名手配犯も逮捕され、事件は表面上は終結したように言われています。また、統一教会は、文鮮明教祖が9月に92歳で亡くなったことで、今後どんな変化を遂げていくのか、ウォッチングは続きます。

 私は、宗教と人の心の問題をずっと考えてきました。現在の私の宗教的感性は、「いずれの宗教にも属さない」という点では無宗教ですが、原始アニミズム的な古神道、仏教、キリスト教などなどの、ごった煮シンクレティズム的な宗教的感覚を持っています。「教祖は私」と言う所以。
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<つづく>
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年11月05日ファーストレディ」

2012-11-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/08
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年20年前の今日、何をしていたか(18)1992年11月05日「ファーストレディ、ヒラリー、ミシェル」

1992年十一月五日 木曜日(晴れ)
「次期ファーストレディをみて、子育て方針を再確認すること」

 アメリカの大統領にクリントン当選。主婦的関心は無論のことファーストレディのヒラリー夫人。ファーストレディで初めてのキャリアウーマン。それも、全米百人の弁護士のひとりとして選ばれたことのある有能な法律家で、年収はアーカンソー州知事であった夫の三倍という。年収の多寡で社会的地位も決まってくるアメリカにおいては、夫より年収の高かった妻が大統領夫人になるなんて、フェミニズム史に一ページを加えるべき出来事じゃなかろうか。

 ヒラリーは中絶法論争についても「女性が個人の選択で決めるべきこと」と言っているそうで、これからの女性のあり方に積極的な役割を果たすのではないかと期待される。

 日本ではちょうど、「共働き家庭が、全世帯の五割を越えた」という統計調査結果が発表されたところ。女性がどのような生き方を選択しても、個人の意志を曲げることなく生きていける社会に早くなって欲しいが、今のところ共働き家庭といっても、女性が家事育児すべて引き受けた上で、パートで不安定な収入を得る、というかたちがもっとも多いのではないだろうか。

 女性と男性が同じ意識と感覚を持ち、仕事でも家事育児でも、よきパートナーとして助けあえるというような家庭は、トレンディなファミリー雑誌の特集の中にしか現われない。

 わが家といえば、無収入の妻が「いつか私があなたを養ってやるわよ」といばり、妻の言葉を信じない夫が「ハイハイ楽しみにしてますからね。」といいつつ「スミマセンが、ズボンがほころびたので縫ってくれますか」と頼む。
 私は、息子を料理裁縫掃除万能の夫に、娘を有能なキャリアウーマンに仕立ててみせるゾ!
 夫「ハイハイ、楽しみなことです」

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/11/08 のつっこみ
 ヒラリーは、2008年の大統領指名大会でオバマにかなわなかったけれど、その後、国務長官として世界中を飛び回っている。合衆国最初の女性大統領が誕生するとしたら、やはりこの人だろうという下馬評は今も強い。
 私は、夫のセックススキャンダルを見事に納めた手腕を含め、夫より有能な人だろうと思って来たけれど、最近のヒラリーは「強すぎる女」ということを隠そうとしない点が、アメリカ女性からの共感が薄れている原因かしらと感じます。私は強い女、好きだけど。サッチャーとか。

 2012/11/07に投票が行われたアメリカ大統領選挙。近年になく接戦で激しい中傷合戦選挙戦だったとか。
 オバマの父親のふるさとケニアで行われた闘牛では、オバマ牛とロムニー牛が一騎打ち、激しい戦いの末、オバマ牛が買ったんだそうですが。さて。

 アメリカ市民が低所得層などに配慮したオバマの「格差是正」「国民みんなの健康保険制度」などを支持するのか、ロムニーの「オバマのやり方では、ちゃんと働いて一定の収入を得ている層や富裕層の負担が大きくなるばかりだ。国民の生活はこの4年の間にちっともよくならなかったではないか」と訴えるのを支持するのか、私も注目していました。アメリカの方針が変われば、日本政府ももたちまち追随する。

 大金持ち一家のアン・ロムニー夫人は5人の息子を育て上げたことが自慢なのですが、「私は働きながら息子を育て、夫に尽くしてきた」というアン夫人の主張に対して、マスコミはさっそく「5人の息子に対して、ひとりに二人ずつ、10人のナニー(子育て係、子守りねえや)を雇って子の世話をさせていた」と暴露。

 次期ファーストレディ、ミシェル夫人に決まりました。あと4年の内助の功、これまでの4年間にもまして厳しい状況にいるオバマ大統領を支えるのはたいへんだろうと思います。おつとめをまっとうなさいますように。
 
 そうそう、「私は、息子を料理裁縫掃除万能の夫に、娘を有能なキャリアウーマンに仕立ててみせるゾ!」という意気込みは20年後には、見事に失敗。娘は外に働きにでることはきらいで、家の中で料理や手芸をしているほうが好き。息子は包丁を持たせれば手を切ってしまう超不器用(夫からの遺伝)で、できることは、「野菜細切り器」でキュウリの細切りを作ることだけ。
 親の思い通りにはならぬ、ということをかみしめております。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「コメントへのおわび」

2012-11-07 20:41:05 | エッセイ、コラム
予約掲載の日付ミスにつき、まっき~さんコメントは、12月02日春庭コラムにコピーさせていただきます。
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年11月4日シンデレラになれなかったシンドローム」

2012-11-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20122/11/07
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年20年前の今日、何をしていたか(17)1992年11月04日「シンデレラになれなかったシンドローム」

(二九八〇)1992年十一月四日 水曜日(晴れ)
日常茶飯事典「ダンスサークルのランチおしゃべり会にでて、シンデレラになれなかった主婦のアイディンティティについて思うこと」

 午前中ダンス。ドリームズカムトゥルーの「晴れたらいいね」の曲に合わせて、私は先生の動きの通りに真似したつもりだったけど、ユミさんに「ちょっとぉ、お元気オバサンの体操してんじゃないんだからさ、もうちょっと、こう、柔らかさっていうか、色気をだしてよ、ダンスなんだから。」との御注意を承る。
 「ひらり」のイメージで元気よくパッパッと動いたんだけど、以後、柔らかめに動く。ドスコイ!

 家の新築の間ダンスを休んでいた沢さんが、新しい家の片付けがやっと済んだので、Aダンスの会員たちをランチ・パーティに呼ぶという。ちょっと迷ったけどおつきあい。
 二十数坪の借地いっぱいにロフトつきの二階建の家が建っている。皆で「いいわねえ」といいながら部屋のなかを見せてもらう。一階のリビングキッチンで、沢さんの用意した炊き込み御飯や、お土産の海苔巻、ケーキなどを食べながら、三時まで主婦のおしゃべり会に参加。

 Aダンスの主婦たちも、姑とのイザコザとか夫への不満とか、子供の進学がうまくいかなかったとか、後向きのグチに終始することも多いが、ダンスの話も合間にはさまれるので「これからこうしていきたい」という前向きの話題がある。
 ダンスを健康法+自己解放+自己表現として生活に取り入れ、ミワコ先生が大好きな人たちという共通項があることで、私もこのグループのおしゃべりに対して違和感なく加わることができる。

 グチのほか、おしゃべりの中心話題はなんといっても欠席裁判である。サークルのメンバーのうち、その場にいない人が標的になる。「そりゃ、あの人はいい人よ、それは私もわかっているけど、こういうのはあんまりじゃないの。」と口火が切られて、欠席者は裁かれる。

 わたしなど、おしゃべり会に欠席することが多いので、いないときはあれこれ言われているのだろうが、気にしない、気にしない。
 私は新参メンバーで、私が発言することは求められていないので、聞き役に徹していて不自然ではない。他人の悪口は笑って聞いている。さんざん悪口をいった後で「それでもあの人にはこういう良いところがあるわね。根はいい人なのよ」と必ずフォローが出る。この、フォロー出現の賢さで、このサークルが十年間続いてきたのだと思う。

 本日の欠席者のうち、標的はユミさん。ユミさんはディナーショウだかのリハーサルがあるとかで欠席した。ユミさんは、専業主婦から一念発起、歌手として仕事を始めた人。専業主婦やパート主婦が主流のこのサークルの中では目立つ存在だ。
 ユミさんは、サークルの創立メンバーのひとり。「私がいるからこの会はもっているのよ。私が出演しなかったら、このサークルの発表会なんか誰も見にきやしない」と宣言しつつ、会の運営方針もあくまでも自分の意向で決めていこうとするので、モメごとはいつもここらへんから起こる。

 練習のあとのミーティングタイムに、ユミさんが発言を求めた。「十一月一日に(先生の教え子が出演する)文化祭ダンス発表を見にいったが、出演者に贈る花束代を見にいった人たちで割勘にした。サークルの仲間が出演しているから、忙しい中時間をやりくりして電車賃をつかって、見にいってやるのだから、花束代など個人負担すべきでなく、会費からだしたらどうか」という趣旨だった。

 文化祭公演にミワコ先生の主宰する「ミワコダンスグループ」の人たちが出演し、サークルメンバーも『アメリカアメリカ』の曲で踊った。サークルの会員たちは、毎年連れだって見に行く。私は、蜜柑の文化祭があったので行かなかったのだが、ユミさんはめずらしくいっしょに行ったのだ。

 これに対して、花束をもらった側の主婦たちは怒り心頭「花束代と電車賃が惜しいのならアタシ現金かえすわよ。お花ちょうだいなんて言ってないわ。」といきまく。
 花束をもらった側のなかで久さんは、サークルのなかで一番年上で、孫が四人もいる人だが、いつもひかえめでおとなしい。一方きりこさんは「ユミさんから花束もらったとき『いつもは私が受け取る側なのに、今日は逆だわね』っていわれて、久さんだっていやな気がしたのよね」と、久さんにも同意を求める。

 ユミさんは子育てが一段落してから趣味のシャンソンを生かし、何度かリサイタルを開いて、今ではプロの歌手として活動するようになっている。十年間いっしょにダンスサークルを続けてきた主婦たちは、まだシロウトだったユミさんのリサイタルにつきあい、拍手をおくり花束を贈ってきたのだ。
 「今までユミさんに何度花束贈ったって、花代が惜しいなんて言ったことないわよ」と、きりこさんは怒る。

 ユミさんには「私はいまやプロの歌手であり、他の主婦たちとは違うのだ」という誇りがあり、「このサークルは私が中心になっているから十年間つづいているのだ」という気持がある。
 他の主婦たちにすれば、「私たちが一生懸命応援してプロへの道も開けたのだし、いくら歌の世界ではプロといっても、サークルの中では他のメンバーと平等の一会員にすぎない。ユミさんが会の運営を自分の気持しだいでやっていこうとするのは、がまんできない」と思っている。

 先日の文化センター祭でのダンスでも、ユミさんがその日の気分であれこれ指図し決めていこうとするので、他の会員は不平タラタラだった。
 そのほか、「ユミさんにこう言われて頭にきた」とか「ユミさんが私にこのように言ったのはいくら冗談としてもひどい。」とか、悪口大会。私は謹んで拝聴。

 私は面白がって聞いていたが、私自身はユミさんの強烈な個性もいやではない。芸の道を志し、自分の芸を売って生きていこうとする人の個性は面白くて好きだ。だれより自分が一番と思い、自分を通そうとしなければ、芸能の世界にしろうとの一主婦が入り込めはしない。

 ユミさんの冗談は、笑いの中にぐさりと人を刺すことがある。
 皆がフラメンコの衣裳をつけてセビジャーナスの練習をしていたとき、私はフラメンコのスカートなどもっていないから、ありあわせの長いスカートをはいて踊っていた。ユミさんはすかさず「ちょっとアナタ、それはシンデレラが床掃除するときのスカートだわよ。そういうスカートはいていると、踊るよりモップでも持って掃除したくなってくるでしょ。」と、のたもうた。
 たしかにヒラヒラとレースがいっぱいついているフラメンコのスカートにくらべれば「お掃除用スカート」に見えるのかと、おかしくなって私もハハハと笑った。

 しかし、シンデレラになりたかった人が、12時をすぎて「白馬の王子を待ち続けても、かぼちゃの馬車もダンスパーティもなく、ガラスの靴を履くこともなかった自分」に気づいてしまった後だとしたら、そして「つつましやかに家事をこなし子供を育てて一生を終わる主婦ではあきたらない自分」と思っていたら、笑っただけでは終わらない。
 「踊るよりモップ持ってお掃除しているほうが似合う」と言われて、ハハハと笑ったあとに苦い思いが広がったかもしれない。
 私は人間ができていないから、笑ったあと「モップで床掃除のほうが似合う女ですみませんね。でも私は自分一人でもステップふんで踊るんだ」と、思う。

 シンデレラ症候群。いつかやってくる王子様が、今の自分の境涯を変えてくれるだろうと、待ち望む。「いつか誰かが、今よりもましな人生を与えてくれる」ことを待ち続ける人のシンドローム。
 でも、シンデレラ希望者の多くは、一生、華やかなダンスパーティで王子様とステップを踏むこともなくすごすことになる。

 子育てが一段落したジャズダンスサークルの主婦たちは、それぞれ、元銀行員の経歴を生かして信用金庫のパート事務をするとか、病院の看護助手をするとか、保険とかパートの仕事を始めている。しかし何といっても、歌手として再出発したユミさんほど華やかなスポットを浴びている人はいない。
 主婦たちがユミさんを非難するときの熱気の中に、平凡な主婦たちの満たされなかった人生への思いがこもっているように感じる。「自分もお城へ行きたかったのに、ガラスの靴を履けなかった」という「シンデレラになれなかった症候群」。
 でも、ユミさんは王子様を待っていたのではない。歌手への道を自分で切り開いたのだ。

 私は、シンデレラシンドロームとは無縁に生きてきた。最初から「王子様は私のところにはやってこない」とサメていた。やりたいことがあれば、王子様に助けてもらわずとも、自分の力を試してみようとした。今まで試した力のすべてが失敗であったのは「残念でしたね」というしかないけど。
 地方公務員一年半で退職。臨床検査士一年半で退職。英文タイピスト五か月。中学校の国語科教員三年。劇団の役者三か月。フリーライター一年。日本語教師一年半。私の失敗の記録。でも、この転職の記録が私の人生だ。

 臨床検査士も日本語教師も、ちゃんと正式な資格試験に合格して就職したのだというと、親戚中から「せっかく一生ものの資格を得ても、まっとうしなければ何にもならない」と非難ごうごうだ。定年退職まで一つの職を全うすることを人生と思っている人たちが多数派の親戚たち。やっとひとつの職に慣れたころ次の転職資格をとる、という生き方は、「人生敗残記録」としか見てもらえない。
 シンデレラ姫にも白雪姫にもならなかったけど、せめてトラバーユの女王と自己規定しよう。「女王様とお呼び!」

 私がユミさんに反発を感じずに、プロとしてがんばってほしいと思えるのは、私もいつか、したいことを仕事にして、プロになりたいという夢だけは持ちつづけようと思うからだ。夢はいつかはかなう。ドリームズカムトゥルー。

 悪口大会を終えて、主婦たちは「ああ、言いたいこといってスッキリした。」といいつつ帰宅した。主婦たちのお手軽なカタルシス。明日は、晴れたらいいね!


1992年の私(左)と歌手のゆみさん(右)

1992年、マイケルジャクソンの「The Way You Make Me Feel」を踊る春庭。40代は今よりずっと細かった。なんとかむずかしい振り付けを踊りきろうとする必至の形相が笑えます。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/11/07のツッコミ
 Aダンスィングのメンバーの練習後ランチ会、1992年から20年がたっても、相変わらずユミさんへの悪口はランチ会おしゃべりのメインテーマです。

 この夏休みに練習とランチ会に参加したときは、毎夏恒例になっているユミさんのプリンスホテルディナーショウが悪口のタネでした。チケット収入減少のため、ビュッフェの質が落ちて、ろくな食べ物がなかった、という話題に終始しました。「誰よりも歌はうまいのに、衣裳や食べ物をケチると、ショウがみすぼらしく思える」というのが、ディナーショウを毎年見に行っている人の感想。私は4月に行われた「歌手生活25周年記念リサイタル」を聞きに行っただけで、ディナーショウは高いから過去に一度行っただけ。

 でも、素人主婦たちのジャズダンスサークル、Aダンスィングが30年も続いているのは、悪口を言ってもそれが決して冷たくはなく、笑いと本質的な思いやりがあるからだと思います。ディナーショウの感想でも、「ユミさん、このところ太ったので、衣裳がパッツンパッツンだった」という悪口は言っても、「さすがに歌はうまい」と、フォローがある。

 ユミさんがいないときはユミさんをこきおろし、私がいないときは私の貧乏ぶりや服装のセンスのなさを笑いのタネにしておしゃべりをしていることで、介護に疲れたり夫との不和の生活のガスぬきをして、元気の素を作り出しているのが、Aダンスィングのランチ会。ミサイルママがいないときは「若い時に美人だった人ほど、皺が増えたりして容色衰えるとつらいわよね」と言われていた。いない人は必ずサカナにされる。

 わたしは、どれだけ悪口を言われても、笑いものにされても、このサークルのメンバーを嫌いになることはなかった。だから、水曜昼の練習には参加できなくなった今も、春休み夏休みには練習にゲスト参加して、ランチ会にも一度はつきあう。30代だった主婦たちが、全員60代になっても、元気に踊っている姿を見ているだけでも、こちらも元気になってきます。

 私は相変わらず「e-Naちゃんの踊っている姿、子豚がころがっているみたいで、かわいいわよ」なんて言われても気にせずころがっています。

 あ~1992年に「いつか、したいことを仕事にしてプロになりたい」と願った仕事は、まだ遠い先の夢です。(目標は吉野せいさんです)

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年11月01日定時制文化祭」

2012-11-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/06
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年20年前の今日、何をしていたか(16)1992年11月01日「定時制高校文化祭」

(二九八三)1992年十一月一日 日曜日(晴れときどき突風)
日常茶飯事典「定時制文化祭にいって蜜柑のピアノを聞いたこと」

 みんないっしょにうちに集まり、高校定時制の文化祭に行った。
 蜜柑が定時制に入学して半年、クラスメートや先生とは相変わらずケンカしたり、授業を妨害したりサボッたり、いつ退学になるかとハラハラしているのは変わらないが、今回の文化祭では「体育館のステージでピアノを弾くのだ」といって、ここ二週間ほどは毎日練習を続けていたという。
 この数年の間、蜜柑がなにかに一生懸命取り組んだなどというのはなかったことなのだから、聴衆三十名の定時制体育館のステージだろうと、「拍手、拍手」だ。

 実際、軽音楽部の発表のうち、顧問の先生が歌った尾崎豊は、ただシャウトシャウトだし、ギターの男の子はチューニングを間違えるし、蜜柑のピアノが一番まともだった。
 ただし、ステージ衣裳はまともじゃなくて、ヤンキーつっぱり族の制服、すなわち、ぞろりと足元まで長いセーラー服に、背中に竜の刺繍がしてあるこれまたぞろりと長い上着、といういでたち。
 本人たちは「仮装です」といっているが、私たちは「仮装には見えない。ぴったりだもの。昔の姿で出ています、じゃないの」といって笑った。
 「不良学生の仮装」姿で「ママ、ママ」と呼ぶので、姉は「そのかっこうで『ママ』なんて呼ばないでよね。」と言う。まったく、外見の不良と中味の幼児性とがミスマッチの姿。

 外の模擬店では、蜜柑たちの有志グループは、おむすび屋を開店。シーチキンむすびを頼んだら梅干しが入っているし、サケを頼んだら昆布が入っているし、作った蜜柑たちにも、どれがどの中味やらわからなくなってしまったというイイカゲンさだが、「完売した1」と喜んでいた。
 途中で突風が吹いて、ビニールシートのテント屋根が飛ばされたり雨が降ったり、お天気がさんざんだった割には、どの店もけっこう売れていたようだ。

 他の模擬店はクラスで経営しているが、蜜柑のグループだけ、ハズレ者が寄り集まった有志の店。元ヤンキー族の女子生徒四人とゲイの男の子一人。男の子が女装しているので仮装かと思ったら、本当に「男の恋人」を持つゲイだという。
 蜜柑を含め、世間からははじきだされ、行きどころもない子たちが寄り集まってグループを作っているのだろう。

 先生方はこのグループ、特に蜜柑には手を焼いているらしい。本当に先生も蜜柑のような生徒を指導していくのは容易ではないだろう。
 しかし、ちょっと校則違反すればすぐに放校退学となる今の高校社会の中で、どんな落ちこぼれもハズレ者も受け入れて、なんとか卒業に漕ぎつけるように、先生方が一丸となって生徒を見守ってくれる暖かさを感じた定時制文化祭だった。
 はっきりいって、先生方もかなり世間からズレているのが寄り集まっているのではないかと思ったが、一般常識的文部省推薦的教師にはとても勤まらない。サバイバル・バトル激突格闘技的先生でなければやってられない。

 蜜柑が「とてもいい先生」という軽音楽部顧問の尾崎豊シャウト先生は、普段の授業でも五分授業をやると「黒板に五行も文字を書いてしまうと疲れるなあ」といって歌い始めるというし、蜜柑に掃除バケツの水を頭からぶちまけられたという担任の先生は「テメエ、ブッコロサレルゾ」と蜜柑たちに言われても「ボク、そう言われるの慣れてますから」と平然としたものだそうだ。エライ!
 今後、蜜柑がまともに授業を受けるかどうかはわからないし、いつまたドロップアウトしてしまうかもわからないのだが、今回、ピアノの練習に一生懸命取り組んだというだけでも、意義のある文化祭だった。

 蜜柑の妹は、蜜柑が小学生のときのピアノの発表会で『貴婦人の乗馬』を弾き、それが見事に『貴婦人の落馬』になるほど、なんどもつっかえたことを思い出して、「蜜柑ちゃん今日も『落馬』するんじゃないの。」なんてひやかしていたけど、何度つっかえたって、落馬しかけたって、もう一度駆け出せばいいのだ。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2004年11月02日
1992年から12年がたち、いまでは蜜柑は4人の子を抱えるシングルマザー。頼みのママも死んでしまってからは、女手ひとつで10歳9歳7歳6歳の4人を育てている。がんばれ蜜柑!

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/11/07のつっこみ
 1992年から10年後、蜜柑の母・私の姉は亡くなってしまい、離婚後の蜜柑はたった一人で4人の子どもをそだててきました。2012年、蜜柑の子豚たちは、18歳17歳15歳14歳になりました。それぞれ生意気盛りです。
 蜜柑は保険の外交をやったり化粧品を売ったりして四人の子を育ててきて、今は、介護施設の職員。毎日「疲れた~」を連発しながら夜勤もこなしています。

 亡くなった姉以上のゴッドママぶりで、長女は、高校3年生の今、入試を受けたといいます。今頃の入試ということは、AO入試か推薦入試なのだろうと思いますが、15歳の次女の高校入試も控えていて、蜜柑ママは叱咤激励をとばしている毎日。「次女の偏差値があがった!」なんてmixに書き込んでいるのを見ると、「偏差値がナンボのもんじゃい」と言っていたころの蜜柑を思い出して、笑えます。

もともと心やさしい子だったのに、両親の離婚でぐれかかり、一時わたしの家に同居しながら定時制高校に通っていました。蜜柑の青春をハラハラしながら見ていた姉は、今天国から蜜柑の肝っ玉おっ母ぶりを、どんなふうに見ていることでしょう。「私の娘だから、ちゃんとやっていけると思った」と安心しているのか、「孫達が一人前になるまで安心していられない」と思っているのか。姉が亡くなって早くも10年がたちます。蜜柑にとっても疾風怒濤の10年だったろうと思いますが、よくがんばってきた、と姉に代わって誉めてあげたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ハンデキャップを持つ人々について思うこと、ユニバーサルデザインのことなど」

2012-11-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/04
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(15)20年前の今日、何をしていたか1992年10月31日ハンデキャップを持つ人について思うこと

(二九八四)1992年十月三一日 土曜日(晴れ)
ニッポニアニッポン事情「光を見て、ハンデキャップを持つ人々について思うこと」

 昨日の『ニュース21』をビデオにとっておいた。大江健三郎の息子、大江光が特集されていたからだ。
 小説の中では「ジン」であったり「イーヨー」であったりして、『個人的な体験』以来私たちもこの子の成長と共に生きてきたつもりになっていて、大江の語る「障害を持つ息子」に対して、小説のモデルというより遥かに多くの共感を抱いてきた。そのモデル「大江光」の姿を見るのは初めてだ。
 光は今年(1992)二九歳。私のイメージにある「ジン」や「森」に比べ、すっかり大人になっているので、驚いた。

 石子さんは大江の息子のことに話題が及ぶと「ああいう人は、障害者の中のエリートなのよ。たいへんなのは障害者の中でも、二重障害とか、重度障害児とかを抱えた家族なのよ。」といっていたが、たしかに、光は「恵まれた障害者」なのかもしれない。母方の祖父と伯父は高名な映画監督、父は世界的な作家。妹や弟も、周りの人々も彼を理解し、サポートしてくれる環境にいる。

 反射的に思い出すのは、梅が丘の病院を訪ねたときのこと。
 発達遅滞児病棟の看護婦さんをしている友人から、病院で生まれたときから入院していて、家族からも見捨てられてしまっている、もう子供とはいえない発達遅滞児たちの話をきいた。
 こんな子供を生んだことは忘れてしまいたいといって、お正月に家へ連れて帰ることすら拒む親もいて、彼らはお正月も夏休みも、寂しく病院の中に閉じ篭っているという。

 そのような障害者に比べれば、一歩一歩の歩みはゆっくりしていたろうが、自分の音楽への感性を育み、作曲によって表現できるようになった大江光は、確かに恵まれているといえよう。
 障害者の仕事が決して半人前ではなく、すぐれたものでありうることをホーキング博士の存在によってやっと世間が理解したように、光の作曲活動によって、世の人々が障害者の可能性について理解するようになれば、彼の活躍の意味もより大きいといえる。
 ひとり光の可能性を伸ばす、という以上に多くの障害者が理解を得るステップになるだろう。

 ホーキング博士や大江光は障害者のエリートかも知れないが、まずここから世間の偏見と無理解を解きほぐす突破口をみいだしていかなければならない。
 光の作った曲のCD発売に合わせて、開催されたコンサートがリポートされていた。ピアノとフルートによる演奏の終わりに、光は聴衆に何度ていねいにおじぎをしていた。
 ステージに立ってあいさつする息子を見つめる大江や、光を支えてきた周囲の人々の思いはどれほどだっただろう。

 小説のモデルというだけしか彼を知らない私の胸も、さまざまな思いでいっぱいになった。大江は光の曲を「無垢の魂が生んだ曲」と表現しているというが、無垢ならぬ垢だらけの私の心を文字通り洗うがごとき、清らかな爽やかなメロディだった。

 木曜日姉の家へいったとき、K駅のホームに車椅子の人がいた。脳性マヒの人だった。不自由な発音で「大宮行きに乗り換えたいので、駅員を呼んでほしい」という。

 私は駅員に連絡し、まもなく、四人の駅員が来た。そばにいた男の人にも応援を頼んで、五人掛かりで持ちあげたが、まだ力が足りない。私も加わってやっと階段の途中の踊り場まであげた。私は腰を痛めているので「腰痛がでそうだからこれ以上持てない」といってしまった。
 そこへもう一人駅員が来たので駅員にまかせて、私は抜けてしまった。「腰痛が出そう」なんて言ってしまって、この方にいやな気持を持たせてしまったのではないかと恥かしくなり、逃げるように足早に改札口へ向かった。

 あとで考えたら、この方に「お役にたてなくて、ごめんなさいね。」とでも、一言声をかけて立ち去ればいやな感じを与えなかったのではないかと反省した。
 その場では、不用意な発言によって、障害者の外出に否定的な印象を与えたのではないかと気になって、急いで立ち去ってしまったのだ。

 本当は、ハンディキャップを持つ人が外出するとき、他の人に頼まなければ満足に動き回ることさえできないような設備の不足こそが問題なのだが。K駅だけでなく、新宿駅さえ車椅子用のエレベーターやリフトの設備がないという。
 ハンディがある人にとって、福祉や設備の不足と並んで、足らないものは、一般の人との交流だという。私たちがもっと障害を持つ人々と心を通い合わせること、不自由な設備をなくして生きやすい設備を整えること、課題は多い。

 光の曲は、人の心に安らぎと希望を運んでくれるような音楽だった。願わくは、光の音楽によって、金権にうごめく政治家たちの心が洗われ、税金が第一番に福祉や教育につかわれますように。
 あまりにも汚れ切っている日本の政治家の心は洗いようもないけど
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もんじゃ(文蛇)の足跡(2004年12月01日のツッコミ)
 12年前と比べると、公共施設のバリアフリー化はずいぶん進んできたと思う。JRや地下鉄の主要駅にはエレベーター設置されてきている。
 しかし、視覚障害をもつ友人の話では、「設備以上に必要なのは、障害を持つ人への理解と共感」だそう。

 駅周辺に点字ブロックが設置されても、ブロックの上には自転車や店の看板が置かれ、危険。白い杖でブロックを辿りながら歩いていると、後ろから走って来た人に突き飛ばされそうになり、「遅刻しちゃう、じゃまなんだよ!」と罵声を浴びせられる。「いつも、皆さんの迷惑にならないように、じゃましないようにと小さくなって歩いている」というのだ。友人は突き飛ばされて怪我をしたこともある。

 能率と効率だけを求めて突っ走り、成果が大きいことを高く評価する社会では、ゆっくり歩むこと、じっくり考える人たちは、マイナスに受け止められるのかもしれない。

 でも、価値観はさまざまであっていいよね。大急ぎで走り抜けて、すばしこく儲けて、生き馬の目を抜きながら生きる人もいるだろうし、ゆっくり少しずつ歩きたい人もいる。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/31のつっこみ

 友人の青い鳥さん、facebookに日々のつぶやきを残しておられます。
 2008年に脳性マヒ運動機能改善の手術を受けた後、突然、首から下がまったく動かなくなるという事態になってしまいました。一時は首から上、目も口も動かせないという重篤な状態になりましたが、驚異的な意志の力で、やがて足の指が動き、手の指が動き、今では、指でパソコンのキーボードが打てるところまで回復しました。厳しいリハビリを毎日少しずつ続け、「神経の赤ちゃん」を育ててきたのです。

 最近の青い鳥さんのニュースで、「クリーニング屋の針がねハンガーを曲げて、キーボードを立てておく台を作った。こうすると、指でキーを押したとき、他のキーを押してしまうのが防げる。でも、まだぐらぐらするので、きちんと固定させたいのだが」という内容の文が書かれていました。

 デスクトップのキーボードが別になっているものでは少しは高さを変えられますが、ほぼ平らに置かれるキーボードだと、青い鳥さんが指でキーボードを押すと、ほかのキーに手がぶつかってしまう。そのために、キーボードを縦に立てる工夫をなさった、というのです。
 これを読んで、青い鳥さんの並々ならぬ意欲工夫を感じて、心うたれました。

 ユニバーサルデザイン(ハンデキャップのある人にも使いやすい工夫がなされた道具)の開発が謳われる世になりましたが、私にはキーボードを縦に立てるという発想がなかった。そうか、縦にしたほうが確実に打てる、という場合もあるのだ。でも、日常茶飯事にかまけている身には、そういう発想がなく、青い鳥さんが「指が動かせて、キーボードが打てるようになった」という文を読んだとき、ああよかった、と思って、その不自由には思い至らなかったのです。
 これは、パソコンのハードをデザインしている人も同じではないかと思います。これからは、ハードを作る人に、あらゆる人にとって使いやすいデザインのパソコンを作れるよう、ユニバーサルデザインを実施してほしいです。
 
 パソコンは、便利な道具です。特に外出がままならないお年寄りやハンデのある人にとって、重要な道具です。だれにとっても使いやすいパソコンになればいいと思います。私はこれまで、「使いやすい」というのは、画面が見やすい、とか、音声入力ができるとか、そのくらいしか思いつきませんでした。音声入力はかなり工夫されてきていて、視覚障害の友人アコさんにとっては、点字と同じくらい便利な道具になっています。

 パソコンに関わる人に、より多くの人がこの21世紀の道具を使いこなすために、「足の指でキーを打ちやすいパソコン」とか、「口にくわえた棒でキーを押す人にとって使いやすいパソコン」などもどんどん開発してほしいです。

 液晶モニターに映る文字は、どのパソコンから発せられたものでも同じに出てきますが、青い鳥さんの一字一字に渾身の努力がこめられていることを感じながら読ませていただきます。

 青い鳥さんへの「3日に一枚、一ヶ月に10枚の絵はがきを送る」という春庭プロジェクト、2011年4月にスタートして、11月末で200号になりました。絵はがきストックは、次のうさぎ年の分まで貯まっています。これからもどんどんはがきを「勝手に送付」し続けます。
 段ボール箱にいっぱいの絵はがきストックを見ていると、このハガキを全部だすころにはきっと青い鳥さんの手や足がもっともっと動かせるようになる、という希望がわくのです。

 ゆっくり行きましょう。

<おしらせ>
goo「青い鳥 心のままに」にある、11月1日の青い鳥さんの書き込み。
「今日から11月、寒くなりましたねぇ~!
風邪などひかれていませんか?
カレンダー、100部の印刷をしました。
前半と後半に分けて50部ずつで作りました。
前半の50部は、すべての工程が終わっています。
...
私のプリンターはカラーインク10色で、とてもきれいです。
だけどスピードがすっごく遅いんです。
50部印刷するのに3日間かかりました。
ねっ、遅いでしょう!
さて、どうやってカレンダーをお届けしましょう?
近くに居られる方には、なるべく直接お渡し出来たら良いなぁ~!
遠くても送り先が分かれば郵送致します。
ご連絡いただければ、ありがたいです。
沢山の方にお届けしたいで~す。
宜しくお願い致します。」
~~~~~~~~~~~~~

 青い鳥さん製作のカレンダーは、青い鳥さんが書きためた詩を12月に配し、ボランティア画家さんのかわいいイラストとともに印刷されています。上半分に詩と絵、下半分が月日になっています。一部1500円での販売開始。
↓のページからメッセージを送ることができますので、注文してください。100部印刷とのことですが、増刷もできると思いますので、ゆっくりご注文を。
goo青い鳥
http://blog.goo.ne.jp/aoitori277


<つづく>
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月30日「人生の習慣&光」

2012-11-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/03
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(14)20年前の今日、何をしていたか1992年10月30日人生の習慣

1992年十月三十日 金曜日「人生の習慣」
「イヤなことは後回しにする、私の習慣を反省しつつ『人生の習慣』を読んだこと」

 ピーナツの最初の一粒を食べ始めたらあと一つ後一つだけと言いながら一袋全部食べてしまう私なのに、御褒美のエサを目のまえにつるしてオベンキョウしようとは、あさはかな考えであった。

 本たちはコシマキめくって、「ちょっと1ページだけのぞいて御覧なさいよ」「ネェ、裾開くだけならサービスよ」なんて、誘惑してくるのだ。この誘惑にどうして立ち向かえるだろうか。「ちょっと1ページだけ」が、たちまち「第一章だけ」となり、「ほんの裾だけ、あとがきだけ」が「裾から手を入れ、帯まで届き」になり、ああ、今日も修士論文見向きもせず。

 裾だけチョコッといいつつ『言葉の海へ』の大岡信の解説、『舞踏に死す』の吉武輝子のあとがきを読む。
 本居春庭を描いた『やちまた』とか、言語に関わった人々の話は全部読んでおきたい。 『諸橋轍次博士の生涯』も大修館からでたので、読みたいし。そして、演劇、舞踊に関わった人々の話も。

 『人生の習慣』は、もうちょっとだけ、といいながら「信仰を持たない者の祈り」「癒し、恢復と文学」「人生の習慣」の三つの章を読んだ。

 「人生の習慣」の中で、大江は『私たち障害者の家族は、息子なら息子が知恵遅れであることが社会にとって積極的な貢献をなしうるとはなかなか主張しにくいのです。』と述べているが、これは謙遜であって、大江という優れた文学者の家に「光」というたいへんすぐれた感性の持ち主である障害者が誕生し育ってきたことは、大江家の家族だけでなくいわば、衰微しつつある人類の存在すべてにとっての福音であり、その名の光は、文字通り、人類再生を照らす光りに成りうると、私は思っているし、光に照らされたことのある人は皆思っていることだろう。

本日の家訓「光の次はのぞみ(新幹線のネーミングなり」

~~~~~~~~~~~~~

もんじゃ(文蛇)の足跡:2012年11月03日のつっこみ
 必要な仕事をあとまわしにして、新聞読みちらし雑誌に目をとばし本を読む、という習性は、一生なおらないのでしょう。
 毎週末、「来週の授業につかうパワーポイントスライドを全部つくってしまおう」と思うのですが、週末は遊ぶ方が優先ですから、仕事は毎回泥縄方式。今週もまた。東京国立博物館、近代美術館などを回ってきます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2012年10月目次」

2012-11-01 00:00:01 | エッセイ、コラム



2012年10月 目次

10/03 ぽかぽか春庭ブックスタンド>2012年7月~9月の読書(1)読書メモ
10/04 2012年7月~9月読書(2)新しい左翼入門&司馬遼太郎・読書感想ひとくちメモ
10/06 2012年7月~9月読書(3)黄泉の犬・読書感想ひとくちメモ
10/07 2012年7月~9月読書(4)劉抗「チョプスイ-シンガポールの日本兵たち」

10/09 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012秋(1)秋のアリアコンサート
10/10 十二単日記2012秋(2)みんなの絆コンサート
10/11 十二単日記2012秋(3)ふくろ祭りよさこいコンテスト
10/13 十二単日記2012秋(4)9年前の今日、何をしていたか

10/14 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(1)20年前の今日、何をしていたか10月14日「金枝篇」
10/16 録画再生日記(2)1992年10月15日「太地喜和子とカラヴァッジョの果物篭」
10/17 録画再生日記(3)1992年10月17日「千葉敦子」
10/18 録画再生日記(4)1992年10月18日「身体論」
10/20 録画再生日記(5)1992年10月19日「宇宙飛行士比較論」
10/21 録画再生日記(6)1992年10月20日「坂口弘の歌」
10/23 録画再生日記(7)1992年10月23日「五百色の色えんぴつ」
10/24 録画再生日記(8)1992年10月24日「新聞コラム欲望論を読む」
10/25 録画再生日記(9)1992年10月24日「新聞コラム万華鏡を読む」
10/27 録画再生日記(10)1992年10月25日「かっぱ橋」
10/28 録画再生日記(11)1992年10月27日「貴花田宮沢りえ婚約」
10/30 録画再生日記(12)1992年10月28日「料理のほめ方」
10/31 録画再生日記(13)1992年10月29日「結婚の理由」
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