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ぽかぽか春庭「船虫口説・イクちゃんの芝居」

2012-11-14 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/11/14
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(6)「船虫口説」イクちゃんの芝居
 
 10月28日、知人の出演している芝居を見てきました。強い咳が出ている最中の芝居見物になってしまい、息を殺して咳を我慢していたので、苦しかった。
 あくたーず工房プロデュース公演「船虫口説~オチョロ船まぼろし画帖」という劇で、猪野建介作、雁坂彰演出。10日28日の楽日公演。中野テアトルBONBONにて。
 オチョロとは、瀬戸内の港町遊郭での方言で「お女郎」のことです。

 明治の廃娼令のあと、各地で「自由廃業」をしてお女郎の身から抜け出そうとした女性たちがいました。女郎の廃業を助けようとしていた男と、苦界に泣くオチョロたちの物語。
 浮花というオチョロは、自由廃業をしようとして果たせず、今その身を置く浦富楼よりさらに格下の淫売宿に売られていきます。労咳持ちの浮花。劣悪な淫売宿のその先には、咳をしながら喀血しながらの死が待つばかり。(浮花の儚げな咳に比べて、時折強く咳き込んでしまう私、恐縮でした)

 慕っていた姉が、家計のために売られていった経験を持つ宗介。お椀の行商人です。宗介は、お椀を売り歩く陰で、キリスト教救世軍の兵士としてオチョロ(お女郎)たちに自由廃業をすすめます。しかし、彼女たちは耳を貸しません。廃業したその先には、さらなる地獄があるだけだということを知っているからです。

 人身売買にあたる女郎の売り買いは、不平等条約改正を狙う政府にとっての痛点でした。「日本は人身売買を行う野蛮国」と言われないため、時の政府は、「娼婦は自由にその仕事をやめてよい」と廃娼令を公布しました。廃娼令を全国最初に決議したのは、1882(明治15)年の群馬県議会とか。
 しかし、女郎をやめたところで女たちにはほかに仕事もなく、飢えずに生きるためには娼婦を続けるしか生きようがなかった。

 ジャズダンス仲間だったイクちゃんは、銀波という名のオチョロの役。銀波は、自由廃業に批判的で、抜け出そうとするオチョロをいじめる側です。イクちゃんの演技は、メリハリがきいていて、自分が置かれた「風待ち港のお女郎」という境涯のなかで、気強く生きようとする女性像を作り上げていたと思います。

 ひとつ気になったのは、女郎たちの身の上を話すとき、役者が「苦界」を「くかい」と発音していたこと。「くかい」は「苦海」であって、苦界は「くがい」です。ひごろ有声音無声音の発音区別が苦手な留学生に「柿と鍵はちがうっ。自信と指針はちがう!」と、清音濁音区別を厳しく言っている商売柄、「くかい」と「くがい」は、意味が異なっていることに役者が気づいていない、ってところが気になりました。(たぶん、演出家も見逃していた)

 今の世では、女郎達の「苦界」といっても、その世界がわかる人はごくわずか。私の世代から下の世代では、すでに赤線も廃されたあとですから、苦界のイメージは「ソープ界隈」ってなものになっているでしょうが、ソープ街と苦界は別の世界。
 苦界は、人の世の蟻地獄。一度落ちたらその身を食い尽くされるまで、抜け出すことはできません。あっけらかんと「大学生ソープ嬢、学生バイト4年間で働いて貯めた2000万を元手に店を始める」なんていう昨今のフーゾクと、親や夫にその身を売られ,一生を性奴隷として働かされた上、無残に死んでいく女たちのむごい運命とでは、同じ身を売るにも天地の差。

 苦界の悲劇を知る人もいなくなった現代だからこそ、廃娼令の前もあとも、お女郎たちが悲惨な運命の中、必死に生きた心を伝える小説も芝居も大切です。つらい境遇のなかで泣き叫び、それでも、生き抜いていったであろうひとりひとりの心を。

<つづく>
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3 コメント

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黒門 (すみとも)
2012-11-14 20:33:52
こちら、昔の遊廓の大門(黒門) が再建されていますよ。

その黒門の所に ごく最近まで築120年の遊郭の建物が残っていましたが、火事で焼失しました。
お寺さんには 遊女の供養塔もあります・・・

女郎達の「苦界」はもう、知る人もいなくなりましたね。。

それでも、他所からみると 独特の雰囲気は残っているらしく 不倫に寛大な土地柄等とボヤク人もおります(笑)
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あら・・・ (すみとも)
2012-11-14 20:53:49
築150年以上・・・かも 平成に成ってすでに 25年に なんなんと・・・ですものね~~

この頃は芸子さんの置屋さんも 無くなってしまいました。

妾宅の御子と本宅の御子が 机を並べて・・・なんて 土地柄でしたよ。  あは!古っ!!!
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すみともさん (春庭)
2012-11-15 22:18:21
旧浜町の黒門復元。観光地の目玉として再建されたのだろうと思います。
築150年の「阿や免楼」焼失は惜しいことでした、遊郭の「独特の雰囲気」を伝えるものであったろうと思います。

東京のはとバス観光では、かって「おいらんショー」という夜間観光のイベントがありました。1960年から1998年まで、吉原「松葉屋」で行なわれてきたもので、江戸の吉原全盛時代のおいらんの作法などをショーとして構成したものです。を「江戸文化の華」を味わう、というコンセプトの観光イベントで、松葉楼の解体にともない、おいらんショーも終了しました。
 このショウは、「おいらん」という存在を身近に知りたいという観光客むけのものであり、女性も楽しめるものに仕立てられていましたが、本来、男性向けの「遊郭という失われたパラダイスへの興味を満足させる」というコンセプトがあったのだろうと思います。

ここで思い起こすべきは、ある人々にとってパラダイスであった場所は、そこで消費される女たちにとっては地獄であったこと。

遊郭の「風情」を惜しみ、文化のひとつのあらわれとして「遊郭文化」を掘り起こす努力は、必要なものと思います。
遊郭を蔑視する風潮は、明治以来のキリスト教文化からの視線を受けた結果であることを視野にいれることも必要です。
おいらんの中でも太夫と呼ばれるほどの女性が、この時代のどの階層の女性と比べても、高い教養と知性を持っていたことも確かなこと、しかし、その教養や知性を誇る太夫にしても、売り物買い物の商品であったことを忘れてはならないことだと思います。
太夫が大店の主人に身請けされ、御内儀におさまったという郭話もあったように、江戸の人々は遊郭の女を特別名存在とは思っても一般女性と比較して蔑視していたわけではありませんでした。

永井荷風が通った向島の赤線地帯には、長く娼家風の家が残っていましたが、スカイツリーの開業で、さすがにもうあの街並はないだろうと思います。なくなる前にあのあたりを散歩して、少しでもその雰囲気を見て置いてよかったです。

香取街道を通ることがあったら、黒門も見学したいです。
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