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ぽかぽか春庭「山本有三記念館前の路傍の石とマララの日記」

2012-11-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/15
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(7)山本有三記念館前の路傍の石とマララの日記

 2012年秋の「東京都文化財ウィーク」
 毎年、特別公開の建物見物を楽しみにして都内を歩きまわっていたのですが、今年は文化財公開パンフレットがなかなか手に入らず、村山家住宅の見学を申し込んだのですが、すでに定員締め切りという往復葉書の返信が届きました。よほど早めに申し込まないとすぐ満員になってしまうみたい。

 個人の邸宅が見たいなあと思って、三鷹市にある山本有三記念館を11月1日の午後、訪問しました。こちらは通年公開で、文化財ウィークにわざわざ行かなくても見ることができる建物ですが。
 三鷹駅から玉川上水に沿って「風の散歩道」という通りを10分ほど歩くと記念館がありました。

 山本有三記念館の建物は、小説家山本有三(1887 - 1974)が、家族とともに1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで住んだ家です。有三はここで代表作「路傍の石」や戯曲「米百俵」を執筆しました。現在は、三鷹市が管理し、有三の顕彰や資料の保管を行っています。

 門の前に、大きな石が据えられています。山本自らが気にいった石を、新築の際に門前に据えたもののようです。私のイメージでは、路傍の石というのは、学校の帰り道に片足で蹴りころがしながら帰る大きさの石だったので、2mもありそうな大きな石は予想外でした。

 建物は、昭和の洋風邸宅の典型的なこしらえで、応接間や家族がくつろぐスペースは洋間で、書斎は和室でした。昭和の小金持ちが作る建物はこういう風であったかというイメージそのままで、私が子どもの頃、「お父さん、どうしてこういう和風の家を建てたの?私、畳に障子や襖の家でなくて、ドアやベッドの洋館に住みたかった」と文句をつけたとき、こんな家を想像していたのでした。なんだか気恥ずかしい洋館でした。

 「路傍の石」の物語。
 主人公の愛川呉一少年は、成績優秀品行方正なのに、中学校の学費が捻出できず、呉服屋のでっちに出されます。父親が政治運動に入れあげているために、母親の内職仕事で喰うや食わずの境遇だからです。物語の中に労働運動に関わりそうな記述がみえたとたん、当局から横やりが入り、1937(昭和12)年、山本有三は執筆継続を断念します。戦後、山本は続編を書き出し、呉一が数々の苦労試練の末、自力で出版社を起こそうか、というところまで書き足しますが、完結することなく、物語は中断しています。

 田中真紀子文科大臣が大騒ぎを引き起こした、大学設置認可問題。
 確かに、現在大学は、大学進学希望者数よりも大学全体の定員のほうが多く、選ばなければ、進学希望者は大学と名のつくところどこかに進学できます。
 どこに進学するかというより、何を学び、どう自分を確立していくのかが問題だとは思うのですが、これから先も進学熱は下がらないでしょう。大学の中には、この先倒産するところも出るなど、淘汰はおこるでしょうが、学びたい人が貧しいゆえ学ぶ機会を奪われる、というようなことだけはもうない世の中にしたいです。

 紛争やまぬアジアの地では。
 イスラム教徒過激派の拠点があるアフガニスタンとの国境地帯のすぐ近く、パキスタン北西部にスワト地区があります。スワト地区に住む14歳の少女、マララ・ユスフザイさんは、大好きな学校に通学バスで通っていました。2012年10月9日、マララは下校途中、突然バスを襲ってきた2人の男に銃撃されました。男達は「マララはどの子だ」と聞き、あきらかにマララを狙っていました。マララは頭を撃たれ、意識不明の重体で、治療のためイギリスに搬送されました。

 パキスタン最大の過激派組織「パキスタン・タリバン運動」が犯行を認める声明を発表しました。マララはイギリスのBBC放送のブログに日記を公開し、タリバン支配下の惨状を世界に告発したのです。タリバンはイスラム法に基づく厳格な統治を行い、女性が学校へ通うことを禁止しました。マララは、「女の子も学校へ行きたい」と日記に書きました。2009年当時11歳だったの女の子がペンネームを使い、ウルドゥ語で書いた日記。

2009年1月3日「私は怖い」
 「学校に行くのが怖い。タリバンが女は学校に行くことを禁止すると命令したからだ。クラスの27人のうち登校したのは11人だけだった」。
2009年1月14日 「もう学校に行けないかもしれない」
 「嫌な気持だった。校長先生はあすから冬休みと言ったけど、学校がいつ再開されるのかは言わなかった。タリバンが登校禁止の命令を実行すれば、二度と学校に来れないことは皆知っていた」
2009年1月14日「銃撃戦の夜」
 「銃撃戦の音がひどくて、夜中に3回も目を覚ました。きょうはタリバンの命令が実行される日の前日だ。友達が来てまるで何事もないかのように宿題の話をしていた」
 2010年
 「圧制や迫害されている人を見たら反対の声をあげましょう。あなたの権利を奪おうとしている者に反対しましょう。怖がってはいけません」

 
 マララの日記はタリバーンによって「西欧かぶれでイスラム教に違反する」とみなされ、ついに命を狙われました。マララはイギリスで治療を続けていますが、いまだに危険な状態から脱することはできません。

 世界には、こんな思いまでして学びたいと懇願する少女もいるということに、衝撃を受けました。貧しさで学ぶことができなくても、呉一のように、なんとか手段を得て新たな世界を切り開くこともできる。しかし、宗教の掟によって学ぶことを禁じられる中、学び続けようとしたばかりに殺されようとしたとは。

 マララさん、助かってほしいです。そして、平和な社会で学び続けることができますように。
 世界中の子どもたちに、学ぶ機会と新しい世界を知る喜びを!

<つづく>
コメント (4)
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