2012/03/27
ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(1)法隆寺展の幡&天寿国繍帳
3月14日に学期末の講師会議に出席した帰り道。「春休みなのに、会議というオシゴトをした自分にご褒美」ってな気持ちで、なんだか寄り道したくなって、日本橋の高島屋に行きました。8階の催し物会場で法隆寺展を見るためです。
今年は、聖徳太子が亡くなった622年から1390年の遠忌。
一万円札の代名詞としてショートクタイシ1枚、とか言ったことを覚えている世代ももはや古びてきました。こののち1390年たったらI'mカンsorryも、I'mノダsorryも、だれも顔なんぞ知らないことになっているし、お札の顔には間違ってもなりそうにない。っつうか、1390年後に、日本があるのか。と、思うと、1390年後にも遠忌を記念して展覧会が開かれる聖徳太子は、やはり偉大な人、和をもってトートシなんである。
聖徳太子2歳の像
そんな聖徳太子の何種類もの像をはじめ、法隆寺に伝わる彫刻や絵画、工芸、染織、書跡など、130点余りが8Fに展示されていました。招待券手に入れたときは、それほど見たくもなかったのですが、見ればやはり感銘深かったです。(東博のボストン美術館展の券に応募したのだけれど、これは倍率高くてもらえず)
留学生への「日本の自慢」として、「世界最古の木造建築物」として紹介するのが、聖徳太子が創建した法隆寺です。建築はむろん、仏教美術の面でも重要なお寺。
私は、中学校の歴史だか美術だかの教科書に「法隆寺壁画」や「天寿国繍帳」が載っていたのを見て育ち、高校修学旅行で斑鳩を訪れたときは、大感激でしたが、建物を一回り見る時間しかなくて、教科書に出ていた宝物まで見ることができなかった。そして、この高校修学旅行以来、斑鳩には行っていません。奈良京都には何度か行く機会があったのだけれど。あーそのせいでショートクタイシにあまり縁ができなかったのだね。
聖徳太子については、歴史学の新研究がつぎつぎに新説をもたらし、厩戸皇子は推古天皇の時代に実在したけれど、聖徳太子というのは、後世にさまざまな人物象を継ぎ足して創作された伝説の人、という説が有力らしい。
17条憲法は、漢文で書かれている日本書紀に記されています。しかし、古代中国語の研究からみると、厩戸皇子の自作ではない可能性が大きい。日本書紀あるいは日本書紀の元になっているいくつかの歴史書(日本書紀はいくつかの書を併記している)の筆者が聖徳太子に仮託して執筆したという説が提出されています。文字の使い方や文法研究からすると、厩戸皇子が飛鳥時代にかいたとは考えられないのだそうです。
聖徳太子が伝説の人であるとして、後世の私たちは伝説としての聖徳太子像を知り、伝説は伝説として受け止めればよいのだと思います。
空海・弘法大師伝説が日本中にあるのといっしょで、歴史は歴史、伝説は伝説です。私たちは、偉大な出来事があるとなにもかも「あのお方のおかげ」と仮託してしまう。たとえば、「平仮名は空海が作った」というような伝説。これは、仮名文字成立史と発音史の上で、はっきりと否定されています。でも平仮名成立によって現在までつづく日本語表記ができあがった、ということを、「弘法大師のおかげ」と信じてきた人々の気持ちは、わかる。
厩戸皇子が17条憲法を書いたというのが違うとしても、厩戸皇子を聖徳太子として後世の人があがめたことは、事実です。厩戸皇子が「聖徳太子」として敬われる対象となったのは、厩戸皇子の一族がことごとく滅ぼされてしまったことと関係しているだろうと思います。
1949年の火災によって金堂が焼失し、現在、金堂壁画は模写しか残されていないというのは知っていたけれど、その他の法隆寺宝物のほとんど、1878(明治11)年に法隆寺から皇室へ寄付されていたということ、今まで知りませんでした。東博の法隆寺館には何度も足を運んでいるけれど、どうして法隆寺の宝物が東京にあるのかという経緯について調べたことなかった。
明治時代初期、廃仏毀釈運動のため、お堂の補修もできないようになっていた全国の寺の中で、法隆寺は宝物を皇室に寄贈し、かわりに下賜金1万円を受け取るという方法をとりました。
明治11年の貨幣価値の現在通貨換算、比較するものにより換算指数がことなってくるので、一概に言えないのですが、明治10年代の1円は、現在の価値では米換算でおおよそ1万円にあたると考えることができます。この計算では下賜金一万円は、1億円相当にすぎませんが、宮大工の手間賃に換算すれば数億円に相当し、おかげで堂宇を修理することができたのだそうです。又、多くの寺の宝物が海外流出をしてしまった中、法隆寺は一番安全な皇室を寄贈先に選んだおかげで、宝物の散逸が防がれる結果となりました。
皇室所蔵となったおもな宝物は、帝室博物館所蔵品から移行し、現在では300余件が国立博物館の所蔵になっています。たとえば、伎楽面。東京国立博物館の法隆寺宝物館では本物を見ることができます。しかし、高島屋の法隆寺展出品は、江戸期の模造でした。そのほかの展示物も、模写模造が多かったです。
聖徳太子唐本御影・聖徳太子摂政像・同胎内仏・中宮寺天寿国繍帳・玉虫厨子・夢違観音などレプリカが展示されていました。
模写、模造でも見ることができてよかったものが多い。たとえば天寿国繍帳のレプリカ。現状模造なので、刺繍糸のすり切れたところなどもそのまま模倣されていて、橘大郎女が太子をしのんで天国におわす面影を糸に表現したという言い伝えが、伝説であろうと、真説であろうと、刺繍の糸目に女性たちがこめてきた思いというのが伝わるように思いました。
天寿国繍帳現状模造
仏を荘厳した幡という布地、すり切れていた物もありましたが、これらは本物でした。飛鳥奈良時代に織られた「綾幡残欠」のうち、紺地のものは、欠損も少なく、綾の菱形の織り模様がはっきりとわかり、当時の機織技術に見入りました。
模写は、鎌倉室町時代に行われたものや、江戸時代のものなど。
焼けてしまった金堂壁画を戦前に模写した画家達が、模写の合間に合同で作った画帳などの展示もありました。1949年の不審火による火災で大半の金堂壁画が焼失したものの、1940年から模写をしていたおかげで、どのような壁画だったか、知ることはできます。それにしても、国の宝をもっと手厚く保護する方法がとられていたらなあと残念に思います。法隆寺火災以後、文化財保護法ができました。
玉虫厨子もレプリカですが、現状模写なので、きらびやかな玉虫の羽の飾りははげているレプリカ。東京国立博物館のレプリカ展では、現状模造のほか、制作当時の復元模造もあり、玉虫の羽がぴかぴか光ってきれいだったのを思い出しました。私、光もんが好き。螺鈿とか、ぴかぴかもんが美術館にあるとつい見入ってしまい、これ、売り物じゃなくて、博物館で見ることができてよかった、と思います。売り物だったら、どこかの金持ちが買って帰り、私はもう二度と見ることができなくなってしまう。
「法隆寺展」、デパート催事場の企画展だから、客寄せついでの展示だろうと思って入場したのですが、思いがけず充実した時間をすごすことができました。
聖徳太子(旧)にも福沢諭吉(現)にも縁の無い生活ですが、日本橋でグリーンジャンボ買いました。聖徳太子の7歳像にも2歳像にもお参りした御利益があるに違いない、と信じたのですが、、、、御利益は、、、、。あらま、慶応大学へ行って福沢諭吉像にお参りしたほうがよかったのかも。
<つづく>
デパートのも馬鹿に出来ないというの、分かります。写真家リーホビッツの展示企画も、えらく充実していました。
二千円紙幣、どうなっていくの? というテーマ、この前の『怒り新党』でやってました。(伊藤みどりの記述から察するに、春さんも観てるかな)
この際、具志堅さんで紙幣を・・・という有吉ちゃんの意見に激しく同意したり。切手の世界がだいぶゆるくなってきているので、紙幣硬貨も、もう少し遊び心があってもいいのかも。でも今度変わるときは、黒澤が候補に上がってもいいのでは。
昔は、少し見慣れるとソウリ顔に見えて来たものですが・・・この頃はソーリー顔に成って、自信喪失目も泳ぎ~~ですね。
写真展、どこのデパートでやっていたのかしら、ぜんぜん気づきませんでした。
次のお札の顔は坂本龍馬というのが下馬評では有力ですが、具志堅さん、爆発だ!と叫んでいる岡本太郎、いっそ犬のお父さんとか。
ソーリー顔、ほんとうに軽っぽくなりました。
パソコンの写真、表示できるようになりましたか。どういうふうにするばよいのか説明できなくて申し訳ない。
大昔のことだし、歴史は怪しいのでしょうね。
なんだか、釈迦像にも見えますね。
天上天下唯我独尊。
これまた、くちこの好きな言葉で!
そんな意味が「おぎゃー」という産声に含まれているのだと思えば、赤ちゃんのおぎゃーは、尊い声です。
かずこさんは、そんな「唯我独尊」の産声をたくさん聞いてこられたから、ひとりひとりの尊さは人にも増して心の中にあるのですね。
私も唯我独尊。
そして、One for all, All for one.のことば、All for meが好き。すべてのことは私のためにある。