2012/04/18
ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>bbsコピー(5)幕末から明治へ
幕末から明治へ
rokujyou
大政奉還から明治新政府の船出まで 驚くほどの激動の時代
「内閣モ実ニ驚キ入リ足ルコトニテ 所謂 一日暮シノ貧家ノゴトキ有様」だったようですね。
健気に生きたご先祖様の働きがあったればこそ 清国のように列強に侵略されずに済んだのかなあ なぞと思ったり
そんな時代に生まれて 一日 土手で寝転んで 黒船や陸蒸気に見とれて居たかったなぞとも 思うことあり。
幕末の藤沢辺の農家の文書にこんなのがありました。
そこでは五の付く日が農事休みに決まっていました。
ある年 日照りが続いて田植えが出来ず 4日に雨乞いをしたところ折りよく5日に雨が降りました。
村中総出で田植えを済ませました。大人達は 翌日も仕事だと思っていましたが、若者達は当然 振り替え代休だと主張しました。おまけに若者達は腕を組んで村道を「代休よこせ」と叫んで行進したのです。これ本当に江戸時代の話です。
若者達は若衆宿などで村のしきたりや 権利などを学んでいたのでしょう。別に猥談ばかりしていたわけではありません。
大人たちは頭を抱え 村役人が出張り仲裁をしました。
双方から出された始末書が沢山残っています。以後 この様な騒動を起こして お上を煩わせてはならぬと叱られて終わり。
まあ その後は村内の話し合いで決めろと言う事でしょう。
農村の活き活きした様子が眼に浮かびます
頭から決め付けられた訳ではないのです。
しかしこれも明治に入ると 権利の主張は認められなくなり 若衆宿は解散になりました。明治は何だか重苦しい時代だったようです。
2006-02-17 23:41:43 返信フォームへ 掲示板へ戻る
Re:幕末から明治へ 昭南という名もコーソコーソも
haruniwa
藤沢の「休ませろデモ」は実に痛快、ワケージュの溌剌とした様子が目に浮かびますね。
興味深い歴史の一端を教えてくださってありがとうございます。
色川大吉の『明治精神史』などで、幕末の「草莽の志士」が、明治初期の「草莽の自由民権派」へと広がり、多摩や神奈川の豪農の蔵などに、その土地その土地で編まれた「自分たちの日本憲法草案」が多数残されていることを知りました。
草案の中には、現在の日本憲法以上に民主的平和的に徹底した案があったようですね。
さまざまな可能性を含んでいた幕末から明治初期の民衆エネルギー。
民衆のエネルギーは「ええじゃないか」などの一過性お祭り騒ぎで終わることが多かったでしょうが、だれか有能な統一者がいたら、このエネルギーをまとめて、別の時代を作り上げたかも知れない、と夢想することがあります。
現実には、日本のいっぱんピープルたち、天皇を神と信じ「日本教」の信者として共同体を作り上げることで、かつかつ食っていく方を選んで1945年まですごしてきたんですけどね。
1941年2月には皇紀2600年で万々歳、1942年2月にはシンガポール陥落万々歳。
もっとたらふく食えるようになると思って「シンガポール陥落万々歳」を叫んで提灯行列を行った。
私の師匠のひとりは、シンガポールの占領名、昭南島にちなんで、昭南と名付けられて、「今も自分の名前を名乗るたびに、アジアの人からお前は侵略者だって、白い目を向けられる気がして、気がひける」と言ってましたよ。
敗戦前は拡大路線日本の輝ける名前だったのでしょうね。
2006-02-18 11:37:42 ページのトップへ コメント削除
ワケーシュのエナジーをもう一度
haruniwa
「日本教」の人々、驚異的な「義務教育普及率」で、明治の終わりには、国民一致で「ジンムーセーネーアンネーイトクコウショーコーアンコーレイカイカ」と暗記につとめたんですから、ほんとワガコーソコーソの威力絶大。
よく「125代全部言える」とか、エバる年寄りがいるが、なあに、現代だって、暗記オタクのお子様は、全国駅名暗記とか、円周率100桁暗記くらいはお茶の子さいさいなんだから、そんなにエライもんでもない。
しかるにコーソコーソの呪縛は、現代の「男を産め!」国民一致大合唱になっているのを見ると、そりゃ、「適応障害」になっちまうわな、と思います。
で、明治のシステムを知れば知るほど、江戸市民が近代よりもずっと自由な一生を生きたのではないか、という気がしてきます。
女の離婚率をみても、明治民法でがんじがらめにされる前の江戸時代のほうがはるかに自由度が高い。
江戸の娘宿、若衆宿の教育機能が、民主主義へと向かうエネルギーを持っていたからこそ、明治政府は、娘宿若衆宿の解散を命じ、「国定教科書」による「全国統一教育」を強力に押し進めたのでしょうね。
ろくじょうさんたちの「古文書」の会、これからもいろんな興味深い文書を発掘していくことでしょうね。
これまでの正史には出てこなかったような、うもれていた民衆の記録がどんどん見つかると、歴史に新たな光りがさしてきて、おもしろいだろうなあと思います。
2006-02-18 11:38:38 ページのトップへ コメント削除
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2012/03/18
大学事務のアルバイトは、春休み中休業になるため、息子は、この春休み、とある郷土博物館で学芸員アルバイトをしました。学芸員の資格をとっていたおかげで、他の学生アルバイトと同じ仕事をしていても、バイト料は割高になるのだとか。
仕事は、古文書の仕分け。昭和の郷土資料館職員達がテキトーに仕分けしてしまったために、時代別がぐちゃぐちゃになっている資料の山を、きちんと分類整理するのが仕事だそうです。
授業で古文書読解に励んできた息子、いいバイトに巡り会ったなあと思います。
息子たちが仕分けた古文書の展示会が博物館で行われるというので、それじゃ見に行きたいと言うと、「絶対に来るな、来たらハハは、これ、うちの息子達が整理したんですとか、周りの人に自慢するだろうから、ぜったいにダメ」という。
いいじゃないの、ちょっとくらい覗いて見たって。
人付き合いが苦手で働く場があるのかどうか心配だった子が、コンピュータや古文書相手なら働くことができそうだとわかっただけで、ハハは一安心しているんだから。黙ってみてるから、見せてくんなまし。おお、息子よ、いい仕事したねって、心の中でほめるだけにするから。
古文書よ、家の息子の飯のタネになってくださいまし。
<つづく>
ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>bbsコピー(5)幕末から明治へ
幕末から明治へ
rokujyou
大政奉還から明治新政府の船出まで 驚くほどの激動の時代
「内閣モ実ニ驚キ入リ足ルコトニテ 所謂 一日暮シノ貧家ノゴトキ有様」だったようですね。
健気に生きたご先祖様の働きがあったればこそ 清国のように列強に侵略されずに済んだのかなあ なぞと思ったり
そんな時代に生まれて 一日 土手で寝転んで 黒船や陸蒸気に見とれて居たかったなぞとも 思うことあり。
幕末の藤沢辺の農家の文書にこんなのがありました。
そこでは五の付く日が農事休みに決まっていました。
ある年 日照りが続いて田植えが出来ず 4日に雨乞いをしたところ折りよく5日に雨が降りました。
村中総出で田植えを済ませました。大人達は 翌日も仕事だと思っていましたが、若者達は当然 振り替え代休だと主張しました。おまけに若者達は腕を組んで村道を「代休よこせ」と叫んで行進したのです。これ本当に江戸時代の話です。
若者達は若衆宿などで村のしきたりや 権利などを学んでいたのでしょう。別に猥談ばかりしていたわけではありません。
大人たちは頭を抱え 村役人が出張り仲裁をしました。
双方から出された始末書が沢山残っています。以後 この様な騒動を起こして お上を煩わせてはならぬと叱られて終わり。
まあ その後は村内の話し合いで決めろと言う事でしょう。
農村の活き活きした様子が眼に浮かびます
頭から決め付けられた訳ではないのです。
しかしこれも明治に入ると 権利の主張は認められなくなり 若衆宿は解散になりました。明治は何だか重苦しい時代だったようです。
2006-02-17 23:41:43 返信フォームへ 掲示板へ戻る
Re:幕末から明治へ 昭南という名もコーソコーソも
haruniwa
藤沢の「休ませろデモ」は実に痛快、ワケージュの溌剌とした様子が目に浮かびますね。
興味深い歴史の一端を教えてくださってありがとうございます。
色川大吉の『明治精神史』などで、幕末の「草莽の志士」が、明治初期の「草莽の自由民権派」へと広がり、多摩や神奈川の豪農の蔵などに、その土地その土地で編まれた「自分たちの日本憲法草案」が多数残されていることを知りました。
草案の中には、現在の日本憲法以上に民主的平和的に徹底した案があったようですね。
さまざまな可能性を含んでいた幕末から明治初期の民衆エネルギー。
民衆のエネルギーは「ええじゃないか」などの一過性お祭り騒ぎで終わることが多かったでしょうが、だれか有能な統一者がいたら、このエネルギーをまとめて、別の時代を作り上げたかも知れない、と夢想することがあります。
現実には、日本のいっぱんピープルたち、天皇を神と信じ「日本教」の信者として共同体を作り上げることで、かつかつ食っていく方を選んで1945年まですごしてきたんですけどね。
1941年2月には皇紀2600年で万々歳、1942年2月にはシンガポール陥落万々歳。
もっとたらふく食えるようになると思って「シンガポール陥落万々歳」を叫んで提灯行列を行った。
私の師匠のひとりは、シンガポールの占領名、昭南島にちなんで、昭南と名付けられて、「今も自分の名前を名乗るたびに、アジアの人からお前は侵略者だって、白い目を向けられる気がして、気がひける」と言ってましたよ。
敗戦前は拡大路線日本の輝ける名前だったのでしょうね。
2006-02-18 11:37:42 ページのトップへ コメント削除
ワケーシュのエナジーをもう一度
haruniwa
「日本教」の人々、驚異的な「義務教育普及率」で、明治の終わりには、国民一致で「ジンムーセーネーアンネーイトクコウショーコーアンコーレイカイカ」と暗記につとめたんですから、ほんとワガコーソコーソの威力絶大。
よく「125代全部言える」とか、エバる年寄りがいるが、なあに、現代だって、暗記オタクのお子様は、全国駅名暗記とか、円周率100桁暗記くらいはお茶の子さいさいなんだから、そんなにエライもんでもない。
しかるにコーソコーソの呪縛は、現代の「男を産め!」国民一致大合唱になっているのを見ると、そりゃ、「適応障害」になっちまうわな、と思います。
で、明治のシステムを知れば知るほど、江戸市民が近代よりもずっと自由な一生を生きたのではないか、という気がしてきます。
女の離婚率をみても、明治民法でがんじがらめにされる前の江戸時代のほうがはるかに自由度が高い。
江戸の娘宿、若衆宿の教育機能が、民主主義へと向かうエネルギーを持っていたからこそ、明治政府は、娘宿若衆宿の解散を命じ、「国定教科書」による「全国統一教育」を強力に押し進めたのでしょうね。
ろくじょうさんたちの「古文書」の会、これからもいろんな興味深い文書を発掘していくことでしょうね。
これまでの正史には出てこなかったような、うもれていた民衆の記録がどんどん見つかると、歴史に新たな光りがさしてきて、おもしろいだろうなあと思います。
2006-02-18 11:38:38 ページのトップへ コメント削除
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2012/03/18
大学事務のアルバイトは、春休み中休業になるため、息子は、この春休み、とある郷土博物館で学芸員アルバイトをしました。学芸員の資格をとっていたおかげで、他の学生アルバイトと同じ仕事をしていても、バイト料は割高になるのだとか。
仕事は、古文書の仕分け。昭和の郷土資料館職員達がテキトーに仕分けしてしまったために、時代別がぐちゃぐちゃになっている資料の山を、きちんと分類整理するのが仕事だそうです。
授業で古文書読解に励んできた息子、いいバイトに巡り会ったなあと思います。
息子たちが仕分けた古文書の展示会が博物館で行われるというので、それじゃ見に行きたいと言うと、「絶対に来るな、来たらハハは、これ、うちの息子達が整理したんですとか、周りの人に自慢するだろうから、ぜったいにダメ」という。
いいじゃないの、ちょっとくらい覗いて見たって。
人付き合いが苦手で働く場があるのかどうか心配だった子が、コンピュータや古文書相手なら働くことができそうだとわかっただけで、ハハは一安心しているんだから。黙ってみてるから、見せてくんなまし。おお、息子よ、いい仕事したねって、心の中でほめるだけにするから。
古文書よ、家の息子の飯のタネになってくださいまし。
<つづく>