茂木健一郎の言う「クオリアの言語化」は、俳句作りによって訓練し、高めることが出来る。
「俳句脳」が、それである。
俳句づくりは、ゼロから作品を創り出す行為だ。
これは、二つの部分に分かれている。
一つは、物事を発見する目である。
「十分間俳句」で言えば、「俳句の種」の部分に当たる。
外界のすべての現象の中から、あるものに「ひらめく」。ぴーんとくる。これが俳句の種だ。
「見たこと日記」のアイデアは、俳句の種を導き出すヒントにならないかということでもある。
「見る目」を育てるということは、外界を見て「ひらめく」ということであり、これがなければ、「質の良い」俳句の種は産み出すことが出来ない。
もう一つは言葉だ。
俳句の種を「俳句」にするためには、もう一段飛躍がいる。
「川に風が吹くといわし雲みたいだった」
これは、ある五年生の俳句の種である。
川面に風が吹くといわし雲のように水紋が広がるという意味であろう。
よく見ていると感心するし、よい気付きだなあと思う。
「いわし雲」という季語、そのまま俳句になりそうな雰囲気である。
しかし、ここから「俳句」までの距離は長い。
これを埋めるのは「言葉のひらめき」である。
・語彙を豊富にする
・助詞の使い方や語順を変えてみるなどのテクニック
・良い俳句を数多く見る
・友だちの俳句を見せて、ひらめく手伝いをする
・数多くチャレンジし、表現の仕方に慣れる
こう書いてみると、どれもありきたりのアイデアである。
新しいものは何もない。
「ひらめき」のヒント等というものは存在せず、地道な努力をするしかないだろうか。
しかし、アイデアはありきたりでも、これを実践するのはありきたりでは出来ないのだろう。