つい先日、いろいろ事情があって引っ越しをした。それほど荷物は多くない踏んでいたが、押し入れから出すと「こんなにあるのか」というぐらい多い。
本も同じだ。本箱におとなしく収まっているうちはいいが、これを広げてみると半端ではない。
売れそうな本は、ブックオフでかなりの量売っておいたが、それでもまだかなりの量を減らしたい。減らさないと新しい本が入らないという事情もある。
そこで本の整理にかかるのだが、これがなかなか難しい。
前にも少し触れたが、読んだ本は懐かしい。これを捨てるのは自分の生きてきた歴史を捨てるような気がする。アイデンティティなどというが、その同一性は、自分の内部ではなく、自分が作ってきたもの、関わってきたものが自分の周りにあるから保たれているのではないか。そんな気がする。老人になると家をかえてはいけないというが、これもアイデンティティの同一性に不安が生じるからだろう。
しかし、読んでいない本を捨てるのはもっと忍びない。一度買った本は、その本を読もう。つまりその方面への自分の可能性を夢見たからである。が、その本を捨てることは、その夢を自分で断ち切るようなものである。
だから、本を捨てるというのは、相当な決断がいる。時間もかかる。だから、引っ越しするのは大変なのだ。
これでブックオフであれなんであれ、本を引き受けてくれるところがあれば、多少は罪悪感は軽減される。「人に役立てる」という言い訳が成り立つからだ。
そうして、引っ越し。
本棚を組み直してみる。人間がかわるように、本棚も様変わりだ。20年前だったら、本棚の半分は占めたであろう教育関係の図書は十分の一以下に激減している。かなりの量を占めていた心理学関係の本も相当に縮小。川喜多二郎のKJ法など創造力や知的生産、マネージメント関係の図書もない。あれほどあった小説類は、数冊を残すのみだ。
かわりに大幅に増えたのは、俳句・詩歌関係の図書である。歳時記だけでも10冊以上はある。
こうやって自分の生きる方向が定まっていくのだろう。
もっとも私の場合は、生きる方向というか死ぬ方向というべきか,楽観的に見積もっても人生の五分の四は既に過ぎてしまっているわけだが・・・・・ 子どもの俳句、俳句教育、自分自身の俳句にもっとかかかわっていくであろうという自分の姿が本棚からよく見えてきた。
これは、引っ越しの効用というものであろう。