「発見・感動・創造の俳句教育」をテーマとした研究発表会が終わった。
天気もよく暖かかった。
茂木健一郎さんを迎えて、体育館がいっぱいになるほどの参加者を迎えた。
講師の高柳克弘さんの話は、理路整然とし、極めてレベルの高いものだった。
茂木さんの話は、的を射たしかも楽しく私たちを勇気づけてくれた。
十分間句会は、若手の教師が大活躍し、なかなかに面白かった。
授業もそれぞれの教室で子ども達が生き生きしていた。
PTAを中心に運営もうまく進んだ。
全体として目的を達した研究発表会だった。
しかし、やっている方は独りよがりでわからない部分もある。
参加された方、ぜひ感想を寄せてほしい。
高柳さんの許可を得て、今日の話をここに紹介する。
私は先年より八名川小学校の俳句授業に、俳人そして俳句の研究者の立場からアドバイザーとして参加させていただいております。その上で、この学校の取り組みの意義について述べたいと思います。
八名川小学校では、「感動」を重点においた俳句教育を行っています。これまでの俳句教育では、いかに「いい句」を作るのかということに力が傾けられてきました。もちろん、「いい句」を作ることが目的であることは間違いありませんが、その「いい句」という基準は、大人が決めた基準であり、もっと言ってしまえば、俳人の決めた基準であるわけです。子供向けの俳句入門書は多く執筆されていますが、それは俳人の書いたものがほとんどです。
たとえば俳人の夏井いつき氏は「日本俳句教育研究会」を立ち上げ、精力的に小学校の俳句教育につとめています。夏井氏の方法の基本には、俳句の伝統的な手法である取り合わせがあります。題として季語を決め、そこにあわせる残り十二音のフレーズを考えさせる――この方法は非常に効率的で、かつ、大人から見てもハイレベルの作品が短時間のうちに作ることができます。要するに、「いい句」を作るのに効果的な方法なのです。
この夏井氏の方法と比較し、八名川小学校の俳句教育は、取り合わせといった技法的な面よりも、むしろ「感動・発見」に重きを置いているところに特色があります。大胆な発想や、飛躍のあるフレーズよりも、あくまで日常生活から得た感動を大切にし、そこから生まれる言葉をこそ奨励しています。
その、最たるものが「十分間俳句」であることは、異論のないところかと思います。では、この試みの意義は、どこにあるのでしょうか。毎日の何気ない行動を書き留めていくという方法は、さきほど紹介した夏井氏の方法よりも、効率の上では悪いかもしれません。しかし、そのように、習慣として日常を言葉にしていく、その言葉をもとに俳句を作っていくことは、俳句ではとても大切になります。
ここで少し話を現代俳句のほうに向けたいと思います。昭和の女性俳句の歴史に名を残した、飯島晴子という俳人がいました。岩波書店「文学」の昭和五十一年一月号に発表された、「言葉の生まれ出るとき」という評論があります。この評論はきわめて画期的で、それ以降の俳句批評に大きな存在感を示すわけですが、その中でこういうことを述べています。
「ある具象物を視ると同時に現われる言葉を大切に遺して句を作り上げる」
「視てから言葉になるまでは無時間である」
これだけではわかりにくいので、少し説明したいと思います。私たちは「感動」のあとに「言葉」が来ると、ふつう思っています。「感動」したことを書き留めるのだと。しかし晴子は、むしろ俳句という形式にあてはまることで、「言葉」のあとに「感動」がくるのだ、といっているのです。これはとても意外なことのように思えますが、私たちも日ごろうすうすと感じていることではないでしょうか。つまり、朝起きて、ごはんを食べて、出勤する。その過程であったことは、ほとんど意識の上にひっかかりを残さない。ですが、あるところでそれを、言葉にかえてみるとします。何でもいいのです。そういえば、朝食べた目玉焼きは、変なかたちをしていたなあ、とか、玄関で靴に足を入れたとき、はっとするくらい冷えていたなあ、とか。それは、確かに体験していたにもかかわらず、言葉にしない限りは、意識の上には浮かび上がってこない事実です。ですが、「言葉」にしたとたん、急にそれらのなんでもない事実が、かがやいて思えてくる。私たちは、言葉にすることで、感動を覚える。晴子がいっているのは、この逆説です。
問題は、そのきっかけです。日記をつけていれば別ですが、私たちはいつもの自分の日常をわざわざ言葉にしたりはしません。ですから、「感動」と「言葉」とは、乖離した状態にあります。つまり、よほどの「感動」しか、「言葉」にしないということです。要するに、「言葉」にする価値がある「感動」しか、「言葉」にしない。事実、私たちは、スポーツでだれそれが勝ったとか、政治がこういうふうに動いとか、大きな「感動」のみを言葉にしています。そうした大きな「感動」は言葉にし、誰かに話しますが、今朝の目玉焼きのことやつめたかった靴のことなどは、「言葉」にしない。私たちの日常には、感動が少なくなるのです。
では、「感動」と「言葉」との距離を限りなくちぢめると、どうなるのか。どんな些細なことでも「言葉」にしてみる、すると即、それは「感動」になります。「言葉」を発するのと同時に「感動」する。それは何を意味しているのか。つまり、私たちの日常に、一気に「感動」が増えるということです。大切なのは、そのためのきっかけです。「言葉」にするというきっかけを与えない限り、「感動」は生まれてきません。そのきっかけのために、俳句という短くて手軽な形式は、ぴったりだといえるでしょう。
俳句は、「感動」と「言葉」、このふたつの間の距離をちぢめる形式といいかえてよいのだと思います。俳句が何でもないものを素材にして、作り手と読み手がともに感動できるのは、そうした理由からです。もちろん、最初はなかなか「言葉」が出てきません。「感動」と「言葉」の間の距離を徐々に縮めていく。習慣化することの重要性は、そこにあります。なんでもいいから「言葉」にしてみる、その訓練が、「感動」を増やします。すると、「感動」のある俳句ができる。
とにかく日常にあったことを「言葉」にする、「感動」はあとからついてくるというこの逆説を、子どもたちは無意識のうちに、「十分間俳句」で実感していることと思います。とつぜん、俳句を作れといわれても、この逆説は飲み込むことはできません。なぜなら、その状態でまだ子どもたちは、「感動」を「言葉」にするのだという常識にとらわれているからです。「十分間俳句」は、子どもたちからその常識を取り払います。
最初は子どもたちも戸惑い、苦労するはずです。ですが、その営みを繰り返していくうちに、子どもたちは、必ずしも「感動」を「言葉」にする必要がないのだと気づくのです。まずは「言葉」にすることで、道端の小さな花や、飛び回っている虫のことなどを思い出し、それら一つ一つの些事をかがやかせることができる。そのような気づきをもたらすのが「十分間俳句」というシステムなのです。
お手元の「八名川歳時記」をご覧になってください。そこにある俳句は「感動」にあふれています。はっと人を驚かせるような言葉遣いや、大胆な飛躍がもたらす斬新なイメージの世界はありませんが、日常の生活に根ざし、それぞれの作り手の表情の見えてくる、あたたかみのある句です。むろん、学年を重ねていく過程で、伝統的な技法を身につけることは大切です。ですが、技法は、あとからでも身につけることができます。八名川小学校の方法とは、確かにこれは自分が感じたことで、確かに自分がこの句を作ったんだと、子どもたちが実感できるような俳句教育です。人生においては、言葉を使って自分の気持ちを表現したり、人を動かしたりしなければいけない機会がたくさん訪れます。そんなとき、この八名川小学校の俳句授業で学んだこと、すなわち、言いたいことを言葉にする方法、それが生かされてくるにちがいありません。八名川小学校の俳句教育は、単なる俳句教育ではなく、日本語教育にもつながっているのです。
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