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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 609 胸番号ユニフォーム

2019年11月13日 | 1976 年 



まさに前代未聞というべき珍しいユニフォームが登場した。なにしろチーム名がどこにも書いていないのだから珍奇というかニューモードというか、太平洋クラブライオンズのユニフォームがそれ。消えたニックネームでさまざまな噂が巻き起こったのだが・・

ライオンズはライオンズだろうな?
「なんな、あのユニフォームは?」福岡の繁華街で寿司店を経営するAさんは長崎に転勤して久しぶりに地元に帰って来た友人と平和台球場を訪れた際に聞かれ「どう答えてよいのか分からんとですよ」と苦笑いした。地元の新聞に今季からライオンズのユニフォームが変更されると報じられたが「西鉄が球団経営から撤退したニュースと比べたら大した事じゃない(Aさん)」とAさん同様に気にするファンは多くなかった。だが実際のユニフォームを目にしたファンは度肝を抜かれた。友人は「なんかまた身売りされたみたいじゃ。ライオンズはライオンズのままだろうな?」と呟いた。つい親会社がまた変わったと錯覚するくらい意表を突いたユニフォームなのだ。

ユニフォーム変更を発表した会見で中村長芳オーナーは「アメリカンフットボールからヒントを得た」「常に新しいものを追い求めるのがニューライオンズの基本姿勢。カープの赤ヘルだって最初はマスコミの皆さんはやれチンドン屋だとか少年野球だと言っていたじゃないですか。それがどうですか今では赤ヘル、赤ヘルと連呼している。ウチはその上を行っているんです」と胸を張った。しかし世間ではこの奇抜なユニフォームが登場して以来、まことしやかに身売り話が再燃している。ユニフォームに企業名が無いからいつどこに身売りしても支障はない。そんな話が週刊誌を賑わせたのも一度や二度ではない。

そんな噂を球団は一笑する。「TAIHEIYO CLUB LIONS なんて長文字を胸に付けていたら投手は重くてしょうがないでしょう(笑)」は冗談だろうが「今はテレビ全盛の時代。後楽園球場の人工芝だってテレビの見栄えを考えている筈。グラウンドは舞台です。その舞台に立つ選手を目立たす為に今回のデザインを採用しました(球団職員)」は正論である。思えば太平洋クラブになって以降、球団は世間をアッと言わせる策を打ってきた。ビュフォード選手と金田監督(ロッテ)が殴り合うシーンを印刷したポスターを電車内や街中に貼って博多っ子を煽ったりした。また生きた猛獣のライオンをマスコットに採用にしたり、あの手この手の話題作りを行なった。今回のユニフォームもファンサービスの一環だと球団は言う。

それにしてもどう考えてもチーム名のないユニフォームは異常だ。野球協約第322条(制式の表職)には
『ホームゲームに用うるユニフォームの胸章には当該倶楽部のニックネーム又はチームを表象する図形を取り付け、ロードゲームに用うるユニフォームにはそのチームが属する倶楽部の経営本拠地としてこの協約に承認せられる都市の名称を取り付けることを制式とする』と記されている。胸の大きな数字は拡大解釈すれば図形と言えなくもないが各選手の番号は異なるから統一された図形とは異なり協約に反しているとの意見もある。球団側は「もしも協約に違反していたら連盟が許可するわけがないじゃないですか」と言うが、ビジター用のユニフォームにはFUKUOKAと記されており話はややこしくなる。

ウチは球団を経営しているんじゃない
東京にある太平洋クラブの本社内では「ウチは球団を経営しているわけではない」と公然と語られている。あくまでも名前を貸しているだけだと。昭和47年9月21日のオーナー会議は重苦しい空気が漂っていた。西鉄が球団を手放す意向を表明したのだ。球界あげて引き受け手を探したが、折悪く当時はいわゆる黒い霧事件で揺れていた時期で球団を持ちたいという企業はなかなか現れなかった。ペプシ、パイオニア…密かに折衝が試みられたが断られ続けた。追い詰められた球界首脳は当時ゴルフ界で注目され始めた太平洋クラブに「この危機を救って欲しい。スポンサーになってくれ、頼む」と頭を下げた。

太平洋クラブは国民に健全なレジャーをという旗印を掲げ、岸元総理大臣らが発起人となり発足した総合レジャー企業。当時は賞金総額1億円の「第1回太平洋マスターズゴルフ」が話題となっていた日の出の勢いそのものの企業で、事業計画は日本全国に700ホールズのゴルフ場を造り、他にもスキー場・乗馬場・マリーナ・テニスコート・キャンピング場などを国内にとどまらず東南アジアへの進出も視野に入れた壮大なものだった。当時の内情を知る人物によると「太平洋クラブが球団を経営するのではない。経営は中村オーナー。経費は太平洋クラブから出るがユニフォームに名前を出す広告料で、あくまでもスポンサーであるという合意があった」と。

西鉄ライオンズ最後の年の観客動員数は僅か32万人。それが太平洋クラブライオンズの初年度は倍以上の87万人を動員した。前述した車内ポスターや本物のライオンを使った話題作りが功を奏したのだ。だが球界関係者によると太平洋クラブとの契約期間は3年が一応の目安で、その3年が終わる最後の話題作りが大リーグドジャースの監督を務めたドローチャー氏の監督招聘だった。名物監督で年間予約席を売ろうとする目論見はドローチャー氏の病で崩れてしまった。太平洋クラブとの契約が切れスポンサーがいなくなる。この際だからひとつ人目を引く策で世間をアッと言わせてやろうと考えたのが今回の奇抜なユニフォームだったのではないか。


江藤前監督に一番拍手が多かった
実はドローチャー氏の監督招聘の余波で前年にトレードで獲得した江藤選手(兼プレーイングマネジャー)を僅か1年で放出してしまった事に博多っ子は反発した。ロッテ移籍後に平和台球場で出場した時は誰よりも多く博多っ子の声援を浴びた。確かなのは太平洋クラブライオンズが地元福岡市民の心から離れつつあるという事だ。この3年間、大向こうの喝采を狙う余り地元意識が薄くなった。名古屋や広島のように " おらがチーム " 意識が必要なのに太平洋クラブはその逆のチーム作りを進めた。ファンは敏感である。「今の球団が何とか面白くしようと努力しているのは分かる。でも話題は作るがチームや選手に親しみが湧かない。その辺に気がついてもらわんと」と昔からライオンズを応援してきた博多のファンは言う。

中村オーナーや青木一三球団代表は共に機を見るに敏な人物であるだけに球団が正念場に立たされていると分かっている。「これからの時代はチーム名が書かれていなくてもユニフォームを見ただけでチームが分かるようになるのが理想。それが時代の欲求なんです」と話す青木代表の言葉は取りようによっては意味深だ。地元九州の財界は今のライオンズを相手にしてくれない。かつては九州電力の社長が先頭に立って後援会会長を買って出たり、会員には大手企業役員や九州大学学長らも名を連ねていた。市民みんなでライオンズを盛り上げようという有形無形の力となっていたが、それが今では有名無実化してしまっている。

銀行筋によると現在のゴルフ場経営は厳しい時期にあり、事業は慎重に進められているという。その大事な時期に球団に対して資金提供をしているのならわざわざチーム名をユニフォームから消してPR効果を無くす行為をスポンサーがする訳がない。とすると今回のユニフォーム変更は球団が太平洋クラブ側から距離を置き、独自の歩みを始めた第一歩なのではないかという考えを多くの球界関係者が持っている。ライオンズはどの球団よりも激しい歴史を歩んで来た。今また新たな噂話の嵐の中で真面目で地味な鬼頭監督の舵取りの下で苦難のスタートを切った。例え前例のない珍奇なユニフォームを纏っていようが良い試合、素晴らしいプレーを続ければファンは付いてきてくれるに違いない。

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