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# 478 外人・ガイジン・害人…

2017年05月10日 | 1985 年 



昭和26年に巨人入りしたウォーリー与那嶺を第1号に、戦後来日した外人選手は総計276人。そのうち投手は52人と打者が圧倒的に多い。パ・リーグの本塁打王は昭和51年から5年連続で外人選手が独占した事が証明するように、こと打者に関しては各球団ともに外人は不可欠な存在となっている。与那嶺選手の成功に触発されて各球団の目は一斉に米国に向けられたが、当初はハワイあるいは西海岸球団の日系選手を物色していた。昭和28年に毎日入りした元大リーガーのレオ・カイリーもその一人である。ただしカイリーはわざわざ来日したのではなく駐留軍兵士として勤務する傍らアルバイトとして夏休みの間だけプレーしていた。そんな片手間状態でも日本の選手は太刀打ち出来なかった。

カイリーは1951年(昭和26年)にレッドソックスで7勝7敗の実績を残した元大リーガーだけに毎日のユニフォームを着た8月8日から30日迄の3週間に6試合に登板して6連勝。また打者としても19打数10安打・打率.526 と打ちまくった。カイリーの活躍を目の当たりにした西鉄が同じく兵役中のフィル・ペインを獲得した。ペインも1951年にブレーブスでプレーし2勝(0敗)した元大リーガー。9試合に登板して勝ち星こそ打線の援護がなく4勝(3敗)と今一つだったが防御率は 1.73 と日本の打者を寄せつけなかった。しかし、こうしたアルバイト選手は問題化し当時の福井コミッショナーは昭和29年2月に全球団に対して米軍に兵役中の選手の採用を自粛するよう通達した為に元大リーガーの来日は昭和36年に南海入りしたピーターソンまで待つ事となる。

昭和37年には中日がラリー・ドビーとドン・ニューカムの2人を獲得した。ドビーは通算1533試合出場・打率.283 ・253本塁打、ニューカムは通算149勝90敗とバリバリの元大リーガーだったが、いかんせんドビーは引退して2年、ニューカムは1年と2人ともブランクがあった為に往年の雄姿は望めなかった。ニューカムに至ってはシーズン終盤に余興として1試合だけ登板した以外は外野手として出場していた。ちなみに2人とも1年で退団した。翌38年には南海に大リーグ歴1530試合というジョニー・ローガンが入団した。ローガンは前年も81試合に出場しており 、" 元 " ではなく限りなく現役に近かったので、とんでもない記録を残すのでは、と期待されたが96試合出場で打率.189 しか打てず僅か1年で帰国した。

もう大リーガーの肩書きだけでは通用しなくなる程に日本のプロ野球も進化しつつあった。それを如実に証明したのが昭和48年のシーズン途中にヤクルト入りしたジョー・ペピトーン。大リーグ通算219本塁打を放ち来日する直前までアトランタ・ブレーブスでプレーし、34試合で3本塁打していた正真正銘の現役大リーガーだった。狭い球場が多い日本でどれくらい打つのか話題となったが故障して帰国したまま再来日せず僅か14試合の出場にとどまり、打率.163 ・1本塁打に終わり加えて素行不良も要因となってその年限りでクビになった。最近では昭和58年に阪急入りしたバンプ・ウイルス。通算586盗塁のモーリー・ウイルスを父に持ち、息子のバンプも831試合出場・打率.266 ・196盗塁を記録していた。

来日前年もシカゴ・カブスで128試合出場・打率.272 だったが阪急では2年間で打率.259 ・22盗塁と期待を裏切った。一方でバンプと同時に入団したブーマーは大リーグ歴は47試合出場・打率.228 、長打は二塁打と三塁打だけと非力だったが阪急入団2年目に打率.355 ・37本塁打・130打点で三冠王に輝いた。この点を昨秋に来日したボルチモア・オリオールズのラルフ・ロー打撃コーチは「アメリカにいた頃のブーマーをよく知っている。日本では体重を前に突っ込む打法は嫌われているが大リーグの投手を打つにはそうしないと難しい。ブーマーは日本式の体重を後ろに残す打法だったのでアメリカでは通用しなかった。日米どちらの打法が良いかという話ではなくブーマーは日本向きだったという事さ」と語る。

ブーマーのような例はいくらでもある。昭和54・55年とパ・リーグで本塁打王になったマニエル(ヤクルト⇒近鉄)の大リーグ歴は通算242試合出場・打率.198 ・4本塁打。そのマニエルが日本では6年間で189本塁打と猛打をふるった。日本での出場数トップはバルボン(阪急)の1353試合、2位は与那嶺の1219試合。それに次ぐのは現役のマルカーノ(阪急⇒ヤクルト)で1218試合。そのマルカーノの大リーグ歴はゼロである。レオン(ロッテ⇒大洋)も大リーグ歴はない。来日した前年(1977年)は1Aリーグでは14試合で打率.220 、2Aリーグでは107試合で打率.286・6本塁打と目立つ存在ではなかったが兄であるレロン・リー(ロッテ)の伝手を頼ってロッテ入りするや打率.316・19本塁打と活躍した。

いわば無印良品が数多い外人選手だが名門巨人は、こと打者に関しては大リーグのスター選手に固執している。昭和50年に獲得したジョンソンは巨人退団後の大リーグ復帰後も含めて通算1435試合、同55年のホワイトは1881試合、56年のトマソンは901試合、58年のスミスは1987試合、昨年のクロマティは1038試合といずれも押しも押されぬ大リーガーだった。大枚叩いて獲得した巨人の歴代の外人打者で打率3割をマークしたのは大洋から移籍したシピンだけ。昭和50年のジョンソン以降、打者8人の通算成績は4670打数1168安打・258本塁打・打率.250 で本塁打、打率とも12球団で最下位と惨憺たる状況である。ちなみに同期間で打率トップは打者5人で6944打数2109安打・打率.304 だったロッテである。

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