「あの時に入団をOKしていたら球団の、選手自身の今はどうなっていたのか?」と思われるケースが多々ある。昭和40年代の西鉄では入団拒否は珍しい事ではなかったが昭和40年は酷かった。指名した16人中13人が入団を拒否する事態に。その中の1人が江本孟紀(高知商)である。江本以上の大物も逃している。昭和42年には山田久志(富士鉄釜石)を11位で指名したが拒否された。彼らが入団し活躍していたら九州からライオンズが去る事態は避けられたかもしれない。
その山田が阪急に1位指名された翌43年は加藤秀司(松下電器)を2位、福本豊(松下電器)を7位で指名した当たり年だった。加藤はPL学園卒業時の昭和41年に東映、42年には南海にも指名されている。もしも東映に入団していれば張本や大杉と、南海なら門田とクリーンアップを組んでいたに違いない。その門田も昭和43年に山田や福本に続き阪急に12位で指名されていた。門田が阪急に入団していたら西本幸雄氏は「悲運の闘将」と呼ばれる事は無かったかもしれない。
昭和52年に中日入りした藤沢公也(日鉱佐賀関)は八幡浜高卒業時の昭和44年にロッテが3位、46年にヤクルトが11位、48年に近鉄が4位、51年には日ハムが2位で指名していたが拒否し続けていた。ヤクルトとロッテが特にビックネームを獲り損ねているが、一方で両球団の選手を見る目は確かだとも言える。
入団拒否した主な選手