goo blog サービス終了のお知らせ 

Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#246 優勝請負人

2012年11月28日 | 1981 年 



昨今の球界には「良い子ちゃん」ばかりだ。あの江川でさえイメチェンし、江本も「アホ…」呼ばわりで球界を去り最後に残った個性派が江夏だ。複数球団を渡り歩き「優勝請負人」と呼ばれる江夏は初優勝を成し遂げた日ハムをどう変えたのか?


聞き手…南海以来のパ・リーグはどうでしたか?

江 夏…パの野球は変わったね。昔のイメージは良く言えば豪快、悪く言えば大雑把だったけど今は細かい野球をするようになった。ただDH制のせいなのか案外試合を早く投げてしまうケースが出てくる。打ち込まれてる投手でも代えない。セなら打順が回ってきたら当然代打を送るけど、それがないから続投させて傷口は広がり捨て試合になる。前後期制で日程が詰まっているから出来るだけ投手の無駄使いを避ける傾向がある。そのせいで監督の采配に面白さが無くなっちゃったね。

聞き手…2月のキャンプでの日ハムの印象は?


江 夏…このチームでよく2位になれたなと。とてもプロのチームとは思えんかった。どうしても広島と比べちゃうけど、あらゆる面で幼いというか小粒だと感じたね。正直えらいチームに来てしまったと思った。選手、フロント、設備・・これで本当にプロの球団かと。

聞き手…選手も?


江 夏…捕手の大宮がね「江夏さんがサインに首を振らずに投げてくれるのが嬉しい」と言ってると記者から聞いたけど、奴は分かってないんだ。

聞き手…分かってないとは?


江 夏…奴のサインに首を振らないのは納得しているからではないよ。シーズン前に大沢監督から「大宮を育ててくれ」と頼まれたから、打たれても勉強になればとサイン通りに投げてるだけさ。まだ相手を見てサインを出すレベルまで行ってない。例えば上位打線と八・九番打者を同じ組み立てをする。下位打線はポンポンと早打ちして凡打しても主力打者はジックリと狙い球を絞っている。そりゃ下位と同じ組み立てでは抑えられんよ、でも打たれて覚えるのも勉強だからね。そんな初歩的な事からやらなきゃならなかったから大変だったよ。

聞き手…キビシイですね

江 夏…こういう事は言葉で聞いただけでは分からないからね。俺も南海へ来て野村監督に9回二死満塁・カウント2-3でストライクを投げなくてもいい場合がある、と聞かされた時は「ホンマかいな?」と思ったけど実際にそんな場面がやって来た時にボール球を投げたら空振りを取れたからね。幾つになっても日々勉強だよ。

聞き手…江夏さんもですか?


江 夏…当たり前だよ。プロへやって来る連中は高校や大学で四番であったりエースであった選手ばかり。二軍にいる選手でも何かしら良い所があるはず。俺は何か盗める所はないかと観察しているよ。

聞き手…江夏さんの投球の極意は何ですか?


江 夏…簡単な事ですよ、いかに少ない球数でアウトを取れるか。長いシーズンを考えたら3球かけて三振を取るより1球でアウトにするに越した事はない。好打者に多くの球数を見られたら、それだけ打たれる確率が増える。好打者は失投を見逃してくれない。全て思った所に投げられる訳ではないし、失投を減らすには投球数自体を減らす必要があるからね。

聞き手…コントロールは抜群じゃないですか。どうやって身に付けたのですか?


江 夏…あちこちで聞かれるけど・・・練習しかないわな、当たり前の話だけど。基本は高低よりも内外角のコース。人間の目は横に並んでいるので投げる時に多少頭が動いても目標がズレにくいからコントロールしやすい。それとブルペンでチェンジアップの練習をしてる奴がいるけど、あれは何と馬鹿な事かと思うね。打者がいて初めてタイミングを外せているかどうか分かるのでブルペンで投げても意味ない。バッティング練習で投げるのなら分かるけどな。コントロールをつける秘訣は精神力かな。根性や気合という意味じゃなくて、成果が直ぐには現れない地道な投球練習を続けられる精神力。

聞き手…今後のパ・リーグについては?


江 夏…来年は今年より混戦になる。西武は間違いなく強くなるし南海もあなどれない。問題は近鉄だな。広島と日本一を争ったチームとは思えないほど今季は見る影も無い。西本さんは大好きな監督さんだけど、あんな形でユニフォームを脱ぐ事になったのは本当に残念。西本さんの為にも是非とも復活して欲しいね。それと前後期制は止めて欲しい。プレーオフを勝ち抜くだけでヘトヘトで日本シリーズどころじゃないよ。お偉いさんの英断を期待しますよ、選手の体調を第一と考えるならね。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#245 監督交代 ・ 西武編

2012年11月21日 | 1981 年 


「監督を引き受けてくれんかね?悪いようにはせんから、頼むよ」 「分かりました。一生懸命に頑張ります」プロ野球の監督要請の多くがこうした紳士協定の「約束」で成り立っていた。それはとても一般社会における「契約」とは程遠いものだった。だから優勝すればオーナーから「やぁやぁご苦労さん。まぁひとつ取っておいてくれ」と規定外の御褒美が貰え、成績が悪ければ契約年数が残っていようが問答無用でクビを切られる。何度も繰り返される監督人事を巡るトラブルの原因は曖昧な球界の慣習にあった。そこに今回西武の監督に就任した広岡達朗氏が楔を打ち込んだ。

ヤクルトの監督時代、前年に球団初の優勝を成し遂げた広岡監督だったが松園オーナーとの対立が激化。球団フロントはクビにする方策を練っていたが複数年契約の途中で解雇すると残りの年俸も支払わなければならない。そこで選手からの不満が多いとの理由をつけて森ヘッドと植村投手コーチを二軍へ格下げして退団へ追い込んだ。これに反発した広岡監督が辞表を出して球団の思惑通りの結末となった過去がある。広岡氏の持論はこうだ。「先ず、きちんとした契約を両者が忠実に実行すること。監督を引き受けた者は現状のチーム状況を把握して優勝する為の条件を示し『球団がその条件を満たしてくれたら1年後には●●、3年後には▲▲とする』といった具体的な契約を交わし、もし実現出来なければ『契約不履行』として潔く身を引くくらいの事をしなければダメだ。『3年契約でどう?』『ええ、まぁ…』といった契約だから成績が悪いとすぐに休養を命じられ、反論も出来ずに従わねばならない。もっと契約意識に目覚めるべきだ」

「これまでのプロ野球の監督の契約というものは民間会社の辞令と同程度のものだった」と今回の西武と広岡氏との契約に際して50条から成る契約書と覚え書きを作成した木村久寿弥税理士は言う。「個人的にはまだパーフェクトなものだとは思っていない。法律家が見たら不備な所もあるがプロ野球界にとっては大きな一歩だったと言える」今回の動きに一部マスコミは監督が使うペン1本、チリ紙1枚の費用まで契約書に盛り込まれているなどと面白おかしく伝えているが「そういう低次元な話では無いのです。プロの監督の契約なら当然こういう契約であるべき、という本質が分かっていないから茶化した報道しか出来ない。その程度の人間が取り巻いているのが現在のプロ野球界なんです」と手厳しい。

野球協約では「この協約に参加する倶楽部と選手または必要によりコーチを含む監督との間に締結せられる選手契約の条項は統一様式の契約書により表示せられなければならない」と選手と同じく監督も統一契約書で縛られている。統一契約書には「参加報酬」「傷病減額」「非公式試合の報酬」「倶楽部による契約の解除」など38項目が細かに定められている。ただし「註」として「コーチを含む監督は統一様式選手契約書での契約締結を強制しない」を根拠に監督との契約書に決められた様式は無く、各球団独自の契約が可能となっている。監督やコーチも選手同様に細かな条項がある統一契約書で契約するべきではないのか。そうする事で責任や義務、そして権利意識も生まれるのではないか。

これまでの監督を巡るトラブルはこうした契約書が無い事で起きたと考えられる。「約束したじゃないか」「言った覚えはない」等々は責任の所在を曖昧にした事で起こる問題で契約書に明記しておけば防げる。それは決して監督の権利だけを主張するものではない。例えば統一契約書には選手との契約条項に次のような一項がある。「選手が良き国民として又良きスポーツマンとしての模範的行動を欠き…<中略>…倶楽部の諸規則を遵守する事を欠き、或いは拒否・無視した場合は契約を解除できる」これを監督にも適用しようという事だ。木村税理士によれば今回の契約では広岡氏が「解任」ではなく「辞任」した場合でも契約金は時期の如何を問わず全額が返還されるという。たとえ5年契約の4年11ヶ月目であったとしても全額返還だ。

契約は昭和57年1月1日から発効されるので年内の秋季キャンプ、ドラフトやトレードなどの編成会議に参加する際の費用は全て広岡氏負担という事になる。これまでは監督就任発表時点から監督のスケジュール等は球団が管理するのが球界の慣例となっている。当たり前とされてきた領域にまで今回の契約は踏み込んでいる。木村税理士に言わせれば日本のプロ野球人は社会人として半人前だと。「引退し評論家と名乗りながら自分ではまともな文章ひとつ書けない。大リーグの選手を見て下さい。ユニフォームを脱いでも大学の体育講師や公認会計士のライセンスを持つ者もいる。一定以上の社会常識を持つ人間が知力・体力を振り絞り戦う事で尊敬も得てベースボールはアメリカ国民に愛されるスポーツに成長したのです」日本球界にはそうした社会人としての基礎がないがしろにされ続けて現在に至っていると。ただ残念なのは旧態依然とした体質が蔓延る球界では進歩的と思われる西武でも契約書の全公開を拒否した事だ。西武側の言い分「民法上の規定で契約書は第三者に公開できない」も理解できる。理解できるが両者の合意があれば公開できたはずで、将来の球界発展の為にも西武は公開に同意するべきだった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#244 監督交代 ・ ロッテ編

2012年11月14日 | 1981 年 


「こんなはずじゃなかった…」松井静郎球団社長は思ったに違いない。東京・西新宿のロッテ本社で重光オーナー臨席の下、シーズン報告会が行なわれる事になっていた。プレーオフに敗れ日本シリーズ進出はならなかったが2年連続前期優勝、山内監督の契約もあと1年残っていて報告会は形式的なもので終わるはずだった。プレーオフ敗退後の会見で山内監督は「この悔しさを忘れず来年こそは前後期を制してプレーオフ無しの完全優勝を目指す。その為にもトレードを積極的にやる。特に投手力の充実を図りたい」と意欲を見せていた。それが何故?

報告会当日のスポーツニッポン紙が『山内監督きょうオーナーに辞表提出』と書いた。スポニチは山内が評論家時代に所属しており同紙の社長とは公私に渡って親交があり記事の信憑性は高かった。山内は午前10時に新宿の本社で先ず諸田常務取締役と会い「身を引きたい」と辞意を伝えた。将来のロッテの為になればと何度も待遇や施設の改善案を進言してきたが一向に改善される気配が無かった事に堪忍袋の緒が切れたのだ。午前11時過ぎ本社12階の応接室で重光オーナー、松井球団社長、西垣球団代表、山本取締役と山内が顔を揃えて報告会が始まった。辞意を伝えた事は当然オーナーの耳に入っているはずなのにオーナーはおくびにも出さず来季に向けての構想を語っていた。「オーナーに伝わっていないのか?」山内はこれまでの疑問が解ける思いがした。

山内は過去何度もコーチの待遇や施設の改善要求を球団幹部に直訴していて、その度に「オーナーに伝える」との返事をもらっていた。他球団と比べて安いコーチの年俸、一緒に戦ってきたコーチが他球団へ引き抜かれても「ウチのコーチの給料じゃ気の毒で止める事は出来んよ。プロにとっての評価とはお金だからね」と寂しく語っていた。施設に関しても同じだ。二軍の選手達が口を揃えて「1日でも早く合宿所を出たい」と言うのは一軍に上がりたいと言う意味ではない。プロ野球球団の寮と言うにはあまりにも貧相な建物で6畳一間に2人、身体の大きな野球選手が布団を並べると部屋に余裕は無い。「一向に改善されないのは今までの要求をオーナーに伝えた球団幹部が誰一人いなかったからか?監督とはその程度の存在なのか・・」

当初、球団は山内の意思はそれほど強いものとは考えていなかった。辞意を表明してから1週間は後任探しに動いていない。3年前の監督就任要請の際に世話になった山内の後援者に「翻意するように山内を説得して欲しい」と頼んでいた。その後援者から「翻意は難しい」との返事を得て動き出したが、球界関係者に候補者のリストを依頼すれば4~5人程度はすぐに見つかるとまだ悠長に構えていた。だが現実は厳しかった。ロッテの内情が予想以上に球界に知れ渡ってしまった為に、候補者の誰もが「ロッテじゃねぇ・・」と尻込みしてしまうのだ。事ここに至って初めて球団は慌てた。最後の砦と考えていた張本氏にも断られて有藤の選手兼任監督案まで検討をせざるを得ないほど切羽詰った。

ドラフト会議は刻々と迫って来る。それでなくても毎年のように入団を拒否される事が多い球団にとって更なるイメージダウンは計り知れない。ひいてはパ・リーグ全体のイメージダウンに繋がりかねず、リーグの問題として対処しなければならない局面に追い込まれていた。在野の候補者にことごとく断られた以上、他球団のユニフォームを着ている人物をあてがうしかない。どこかに適任者はいないか?近鉄が名乗り出た。かつて近鉄は長期低迷を続けリーグのお荷物となっていた時期があった。その状況を打破する為に他の5球団に「パ・リーグ全体の問題」として協力を求め、当時阪急の監督だった西本幸雄をオーナー同士の話し合いで譲ってもらい助けられた事があった。今回は自分たちが助ける番だと立ち上がったのだ。

「ロッテの監督になってくれないか」近鉄の山本一義コーチは自軍の山崎代表にライバル球団の監督になるよう要請されたのだから驚いたであろう。山本は西本前監督がその人となりに惚れ込み、三顧の礼を尽くして近鉄に来てもらった程の男だ。本来なら近鉄でその手腕を発揮してもらいたいと考えるのが当然だ。しかし今は自分の所だけ善ければ良いという状況ではない。パ・リーグ6球団が共存共栄する事でリーグ、球界は発展して行くのだ。山本にとってロッテは想定外の球団だったろう。要請を断って広島へ戻ればいずれは広島カープの監督の座に収まる男だ。何も火中の栗をわざわざ拾う必要もない。山本の心を動かしたのは「男には一生に一度、身体全体で賭ける時が必ず来る。今度がその機会ではないのか。頑張ってみろ」という西本の言葉だった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#243 監督交代 ・ 近鉄編

2012年11月07日 | 1981 年 



西本監督を「勇退」という名の退団へと追い込んだ。昨年末、2年連続で日本シリーズに進出するも遂に日本一の夢を断たれた後、西本監督は球団にトレードによる補強を申し入れていたが受け入れられず、ロッテを自由契約となった白仁天外野手を獲得しただけだった。さらにパ・リーグ連覇の立役者のマニエルを契約のこじれからアッサリと放出。ならば代わりの助っ人として「右の大砲を」と注文したが、やって来たのは左打者というお粗末。トレードは無し、助っ人は使い物にならないでは天下の名将といえどもどうにもならない。「俺も長いことやり過ぎたよ、潮時かな」 20年間の監督生活にピリオドを打つ事になったのは自分の構想とまるで違う事をする球団に愛想を尽かしたからではないかとの声がもっぱらだ。

4日前に西本前監督が勇退会見を行なった電鉄本社8階の会見場に佐伯オーナー、上山オーナー代行、山崎球団代表らと共に会見に臨んだ関口新監督。「西本さんが8年間教えてくれ、残してくれた土台を皆で立て直していきたい」就任第一声は西本前監督の遺産を継承する事の宣言だった。新監督が決定するまでには紆余曲折を経た。球団はシーズン半ばには西本監督の辞意を察知し、慰留の道を探る一方で後任探しに着手し始めた。吉田義男氏、野村克也氏などの候補の中から最初に接触したのは広岡達朗氏だった。交渉は進展せず9月に入ると球団内では内部昇格案に落ち着いた。内部からとなると関口打撃コーチと仰木守備コーチの2人が候補となり、仰木コーチは時機尚早ではないかという意見もあり関口コーチが後任監督に決定した。本社・球団をあげて西本野球を継承して猛牛軍団を再建しようという声の表れだった。


しかし西本監督勇退後の人選は既に決まっていた筈だった。誰もが後任は山本一義外野コーチだと思っていた。広島商から法大を経て広島カープ入り、3年目からレギュラーとなりクリーンアップを任される。ベストナイン2回、オールスター戦出場5回、昭和47年には主将、昭和49年に選手兼打撃コーチ就任、広島カープ球団創設初優勝の昭和50年に引退、翌年から一軍打撃コーチに専任するなど幹部候補生として古葉監督の有力後継者と目されていた。その山本を西本監督が直々に広島カープ・松田オーナーに頭を下げて近鉄に来てもらった経緯から見ても西本監督の後任は山本以外は有り得ない筈だったのに、何故山本ではなかったのか?そこにはロッテの監督人事が複雑に絡み合っていたのだ。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#242 監督交代 ・ 阪神編

2012年10月31日 | 1981 年 


「私の与り知らない話が次から次へと飛び交い迷惑している」 小津球団社長が半ば呆れ顔でぼやくのも無理もない。9月初旬に在阪スポーツ紙が中西監督の進退を「辞任」と「留任」の二手に分かれて報道合戦を開始して以来、広岡・野村・西本・吉田・村山・安藤など「次期監督候補」の名前が出るわ出るわ・・肝心の中西監督自身は未だ自らの進退について明言していないのに。確かに中西監督は態度表明してはいないが周辺を取材した記者によると家族には「今年で身を引く」と伝えているらしい。東京・渋谷区に住む家族は去年の段階で退団を薦めていたが本人の希望を尊重して今年も監督をする事を認めた。しかし一連の球団内でのゴタゴタに嫌気がさして今度こそ「帰って来て欲しい」と懇願し本人も了承したとの事。

後任は誰なのか?小津球団社長の本命は広岡氏である。そもそも一連の阪神の監督を巡る騒動の根源は昭和53年オフの広岡氏招聘失敗にあると見ている関係者は多い。この年は広岡氏がヤクルトを率いて日本一になったのだが、選手の食生活改善にまで着手した広岡氏がベンチ内の飲料水をヤクルト製の乳酸飲料から豆乳に変更した事に松園オーナーが激怒し対立した広岡氏は退団を決意していた。その情報をキャッチした小津社長がシーズン中にもかかわらず「阪神を立て直して欲しい」と監督就任要請をしたのだ。広岡氏は「辞める翌年に同じリーグに行くのは・・・」と渋っていたが小津社長の熱意に折れて要請を受諾した。「俺について来たい者は一緒に来い。同一リーグは…と思う者はヤクルトに残って構わない。君らの生活に関る事だから充分に考えて結論を出して欲しい」と広岡氏は当時のヤクルトのコーチ達に告げた。

小津社長は広岡氏の何を評価しているのか。「広岡氏の厳しさと管理野球を阪神に注入して欲しい。彼なら巨人に対抗できるチームを作り上げる事が出来る」それが小津社長の思いだった。選手を叱れない首脳陣の体質が江本ら選手達の造反を引き起こす原因だと考え、戦力補強よりも先ず監督・コーチ陣の改善から始める決断をしたのだった。さっそく広岡氏の意を受けてコーチ陣の組閣を秘密裏に開始したが、この阪神の動きがマスコミに漏れてしまう。ヤクルトが阪急を倒し日本一を達成した翌日のスポーツ紙に『広岡退団、阪神監督就任へ』 とスッパ抜かれてしまった。これで「阪神・広岡監督」構想は泡と消えてしまい球団は急遽、ブレイザー監督に乗り換える事になる。今回の中西監督退団で足掛け4年に渡るラブコールが再燃したのだ。

阪神と広岡氏の交渉は第三者が介在した回数も含めると五度ほど行なわれた。しかし遂に合意には至らなかった。広岡氏が提案した球団改革案は小津社長の想定以上の物で阪神側から交渉打ち切りが告げられた。「広岡君とは縁が無かった」小津社長に残された選択肢は球団OBしか無かった。巷間ウワサになっていた野村氏や西本氏には打診すらしていなかった。「村山か吉田か」しかし阪神電鉄本社筋によると両者とも候補にすら上がらなかったという。「もうスター選手がそのまま監督になる時代じゃない。大リーグでは3Aの選手を育て上げてた監督が彼らを引き連れてメジャーの監督に就くケースが増えている。ウチの二軍にも安藤という適任者がいるではないか」これが本社側の考えだった。安藤二軍監督には村山や吉田のような現役時代の実績は無い。そんな人物に阪神を託して大丈夫か?小津社長は熟慮の末に「安藤はいずれは阪神の監督になる男」であると判断、生え抜き監督の台頭に賭ける事となった。

10月23日午後2時、大阪市梅田のホテル阪神で新監督就任会見が始まった。同席した小津社長は何度も「予定通り」を強調。「阪神電車はいつもダイヤ通りに動いています。阪神の監督人事も今日の会見も予定通りです」と自虐的に話すと報道陣からも苦笑が漏れた。ここ数週間に渡り本命の広岡氏や野村氏・西本氏といったビックネームが世間に氾濫していただけに、地味な安藤二軍監督の会見に集まった報道陣の数は昨年のブレイザー監督を引き継いだ中西監督の就任会見と比べてかなり少なかった。それでも4年ぶりの生え抜き監督、内部昇格となると昭和42年の村山監督以来12年ぶりとなる今回。阪神の本気度は異例の5年契約が物語っている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#241 監督交代 ・ 横浜大洋編

2012年10月24日 | 1981 年 


1981年のオフは5球団の監督が交代する激動の事態に。その中で真っ先に動いたのが大洋でした。


「長嶋さんを是非ともウチに…」長嶋氏が大リーグ視察から帰国した翌日の9月18日、球団の意を受けた人物が長嶋氏と接触した。事実上の監督就任要請である。大洋漁業本社・中部藤次郎社長が最初に長嶋氏に親書を送ったのは3ヶ月前の6月上旬と言われている。その頃の大洋は最下位を独走中で昭和35年の初優勝以来最低の成績(昭和51年、秋山登監督時代の45勝75敗7分)を更新しかねない状態だった。

9月24日、中部社長が正式に長嶋氏招聘を宣言したが驚いたのは寝耳に水の土井監督だ。今シーズンはまだ15試合を残し、しかも当日もヤクルト戦が予定されていた。試合終了後の午後11時過ぎ武田球団社長が「このまま指揮を執らせるのは気の毒」と土井監督の解任を発表、しかし後任は未定。翌日は広島への移動日で、この移動の間に山根コーチに監督代行を要請し了承を得た。いかに中部社長の発言が根回しもなく唐突であったのかが分かるドタバタぶりを露呈してしまった。

「私は昨年の12月頃には大洋の監督には長嶋氏をおいて他にはいないと考えていた。長嶋氏が来てくれるならコーチはもとよりスカウトまで全て長嶋氏にお任せする用意は出来ている。もし二浪するというのならばその間を別の人物に指揮してもらい、例えシーズン中での監督交代となっても構わない」これが中部社長のコメントである。思えば今年1月1日のスポーツ紙に『大洋、長嶋獲得へ』の見出しが躍り、土井監督はその日から「長嶋監督」の影武者にならざるを得なかった。

「大洋さんと接触した事実はありません」 一方の長嶋氏は全面否定だ。それは無理からぬ事で、仮に監督就任となりコーチ陣を組閣するとなると現コーチたちのクビを切らなくてはならない。その手の汚れ役は本来なら球団がすべき事だが、ここまで表沙汰になった以上はコーチやスカウトの解雇は長嶋氏の意向という事になってしまうからだ。球界のしきたりを無視した中部社長の勇み足発言により、長嶋監督実現の可能性はほぼ無くなり大洋の監督探しは振り出しに戻る事となった。

新監督探しは難航し1ヶ月が経ち秋季キャンプが始まっても決まらない。東京・大手町の本社内には混乱を早く収める為に球団OBの秋山登、近藤和彦氏らを推す声もあったが中部新次郎オーナー(本社副社長)は「OBではこれまでと変わらない。野球を良く知り、クリーンな人」と旧来の人事を良しとしなかった。11月になっても決まらず難破寸前だった大洋丸を救ったのが関根順三氏だった。所属先のニッポン放送が大洋球団の株主(30%所有)という関係もあって関根氏に火中の栗を拾ってもらい、11月6日にようやく新監督就任会見の運びとなった。

会見での質問は専ら長嶋氏に関する事に集中した。「長嶋君が来るならいつでも監督の座を明け渡す」と新監督は明言した。「昭和50年長嶋巨人の1年目、ヘッドコーチとして招聘されながら期待に応えられず長嶋君には不義理をしてしまった」「長嶋君にバトンタッチするのが私の仕事だと思っている」等々、「関根監督&長嶋総監督」の様相を呈した会見となった。長嶋監督に少しでも良いチームにして禅譲する為にするべき事として、➊投手陣の底上げ ➋ドラフトでは即戦力投手を指名 ➌ラコック、ピータースの両助っ人は解雇し右の大砲の獲得 を今後の目標としてあげた。大洋は本気で長嶋監督実現を目指している。本気度を示す球団人事も同時に発表された。武田五郎球団社長、別当薫球団代表、芹野真也総務部長を解任し新たな人材登用で旧来の球団色を払拭。加えて取締役管理広報部長職を新設して新生・関根大洋丸は出航した。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#240 監督交代・プロローグ

2012年10月17日 | 1981 年 


毎年この時期は日本シリーズの取材で在野の解説者たちが一同に顔を揃える為、ストーブリーグが本格的に始まる事になる。第3戦の開始前、阪神を退団したばかりの中西太氏が義父にあたる日ハム・三原代表と共に正面ゲートをくぐった。ヤクルト・大洋・西武などが監督や打撃コーチにと声をかけていると報じられている為、グラウンドに姿を見せるやいなや報道陣に囲まれると早々にベンチ裏へ避難した。そこで出くわした鈴木セ・リーグ会長に「お前みたいな有能なヤツは遊んでちゃダメだぞ。少しでも球界に恩返ししないとな」とハッパをかけられてタジタジ。さらにその場にテレビ朝日の解説で来ていた西本幸雄氏に「もう進路は決まっているんだろ、俺にだけ教えろ」と詰め寄られると、ほうほうの体で逃げ出した。

中西氏に負けないくらい「時の人」だったのが前ロッテの張本勲氏だ。山内監督の突然の辞意発言で一躍、後任監督として急浮上してきた。山内監督が重光オーナーや球団社長の慰留を振り切って退団するようなら次期監督の第一候補と噂されている。もしも山内監督が辞意を翻意したとしても助監督ないし打撃コーチでの入閣が確実視されている。監督人事ばかりではない。「日本シリーズで各球団の代表が集まりますからトレードの話もしますよ」と言っていた南海・塩見代表は中日・鈴木代表を見つけるとすかさず「藤波を金銭で譲ってもらえませんか?大島を放出する用意があるようですが、どのクラスの見返りなら…」と早速にヒソヒソ話。一方、話を持ちかけられた中日・鈴木代表が近鉄・山崎代表に「羽田か栗橋のどちらかを何とか貰えませんか?できれば村田も。ウチは左腕不足なもんで・・」 と今度は逆に申し込む側に。交換要員には大島や三沢が用意されているそうで、一気に大型トレードに発展か!?と報道陣は色めき立った。

長嶋監督までの繋ぎで大洋の監督に就任するのではと言われている青田昇氏は「出て行くとマスコミがうるさい」と解説が無い日は巨人のOBルームに籠もりテレビで観戦。野村克也氏も一時は大洋やロッテの後任候補として名前があがったが、本人は執筆や講演会で既に来年のスケジュールはびっしり埋っていて「この1年ネット裏から野球を見る事で勉強になった。解説者の仕事は私の性分に合っているようだし、もう暫くこの生活を続けたい」と現場復帰を否定した。今一番の注目が大洋OBの秋山登氏だ。長嶋監督までの短命内閣だけに常識的には引き受けないだろういう見方が大勢だが秋山氏と中部社長との仲を知る人は「全く無い話ではない」と見ている。秋山氏本人も「藤次郎社長とは現役時代によく銀座で飲み歩いた間柄だったし頼まれたら無碍には断れないだろうな。いちOBとしても大洋の事は気になるしねぇ…」と全面否定はしていない。

現実的には可能性が低いと言われている「大洋・長嶋監督」に大洋漁業本社・中部藤次郎社長が今なお諦めずに動いていられるのも最後は秋山氏に泣きつけば何とかなるという保険があるからだと言われている。巨人打線が爆発して大勝した第4戦のテレビ中継が終わりチャンネルを変えると「いわゆるですね…」とカン高い独特の声がテレビから聴こえてきた。声の主は大リーグのワールドシリーズ中継の解説をする長嶋氏だった。ストーブリーグの超目玉は日本の喧騒をよそにヤンキースとドジャースの熱戦にノリノリだった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#239 完封勝利 ②

2012年10月10日 | 1981 年 


前回の「完封勝利 ①」で記事になっていた佐藤政夫のインタビューです


聞き手…投手陣が崩壊している大洋で孤軍奮闘中ですけど、何が変わった?

佐 藤…正直言って、ここ2~3年は手を抜いていました。でも去年中日をクビになってさすがに危機感が増しました。

聞き手…今さら?


佐 藤…エへへ、遅まきながら。「結果が出ないのは使ってもらえなかったから」と他人のせいにしてフテくされていました。僕は走るのが苦手でいつも後ろの方でチンタラ走っていたけど大洋の選手はよく走るんですよ、投手も野手も。それにつられて今年のキャンプでは過去11年分以上を走りましたね。金田さんが投手は走らにゃアカンと言ってますけど、あれは本当ですね。明らかに球のキレが違います。気がつくのが遅すぎましたけど(笑)。

聞き手…変わったのはキレだけで球種は増えてないの?


佐 藤…よく聞かれるんですが同じですよ。ただ思いっきり腕を振るようになるとボール球でも打者が振ってくれるんです。中日戦に勝って「恩返し」となった時も田尾にシュートを投げたら「ん?」って顔をするんです。去年までは左用のワンポイントで外へのカーブを多投していたから打者、特に左打者にはインコース攻めのイメージが無いんでしょうね。それが今はカーブを見せ球にしてインコース勝負が多いですから戸惑っているんだと思います。

聞き手…巨人にいたのは1年だけだったけど同期は誰?


佐 藤…ドラフトの指名順で言うと1位が小坂(引退)、2位が阿野(巨人コーチ)、3位が萩原(広島)、4位が大竹(引退)、5位が僕で6位が河埜(巨人)です。でも二軍暮らしでしたから高田さん達一軍選手に会う機会は殆んど無かったですね。一軍の多摩川でのバント練習に投げたくらいですかね。

聞き手…じゃ巨人の思い出は無いか


佐 藤…それが大ありなんです。合宿所の厳しさですよ。色んな球団にお世話になりましたが巨人が断トツで厳しかったです。

聞き手…武宮さんだったからね。それも元気一杯の頃だから・・・


佐 藤…いきなり故郷の両親へ手紙を書かせるんです。社会人として恥ずかしくない言葉使いや文章を書けるようにって。でも書いた手紙を複写して壁に張り出すのには参りましたよ、中には小学生みたいな下手クソな字もあって皆で大笑いしてました。

聞き手…すぐロッテに移籍したんだ


佐 藤…当時はウェーバー会議というのがあって各チームが放出しても構わない選手リストを持ち寄って、欲しい選手がいたら獲得できたんです。まぁ早い話がクビですよ。

聞き手…ロッテにも1年いただけでアメリカの1Aに行くことに


佐 藤…行く前は「1Aなんだから20勝してこい」と植村コーチに言われたんですけど、1Aと言ってもパワーは凄いしガッツ溢れるプレーが多かったですね。さっき投げていた投手が降板後にクビになるなんて普通でした。日本みたいに1年契約じゃないですから選手の入れ替えが激しいんです。

聞き手…ロッテに戻った翌年に今度は中日へ移籍。初勝利はまだ?


佐 藤…まだです。初勝利は昭和51年ですけど惜しい場面もあったんですよ。昭和50年5月のヤクルト戦で先発して6回まで無失点、2-0とリードして抑えのタカマサ(鈴木孝政)に代わったんです。当時のタカマサは向かうところ敵なし状態だったから「初勝利だ」と喜んでいたら、あっ気なく打たれて同点に・・。

聞き手…運が無いねぇ


佐 藤…それだけに巨人相手に初セーブをあげたは嬉しかった。やっぱりリリーフ向きと判断されたのか以後はリリーフばかりで、先発はローテーションの谷間の時くらいでしたね。

聞き手…リリーフの印象が強くなったのはその頃からだよね


佐 藤…昭和51年が50試合、翌年が52試合に登板しました。ちょうど王さんの700号本塁打で世間が盛り上がっていた時で、投手陣には「絶対に打たせるな」と首脳陣からハッパを懸けられてましたね。そんな時に限って先発のお鉢が回ってくるんですよ。打たれるわけにはいかないから全部歩かせましたよ(笑)。

聞き手…去年クビになった中日にも「恩返し」が出来て一息つけるね


佐 藤…僕はまだまだの選手だと思っています。クビになった男が古巣に勝ったとか転々と球団を渡り歩いた投手が12年目に芽を出したとかスポーツ紙は持ち上げてくれてますけど、この程度の投手は掃いて捨てるほどいます。現状に安閑としていてはダメなんです。最低限いまの状態をシーズン終了まで維持出来なければ、来年はまた1からやり直しだと思っています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#238 完封勝利 ①

2012年10月03日 | 1981 年 


去年から飛ぶボールに代えて低反発の統一球を採用した事により投手優位となり得点が入らない投手戦が増えて野球がつまらなくなったとの意見もあるようですが、投手にとっては完封は勲章。投手戦も野球の醍醐味の1つと考える人も少なからずいます。30年前には既に完封試合を見たくてもなかなか見られない時代になっていました。狭い球場に圧縮バット全盛の打高投低時代では仕方の無い事でしたが。


途方もない年間記録がある。昭和17年の野口二郎(大洋)と昭和18年の藤本英雄(巨人)の19完封である。確かに今とは打撃レベルは格段に違っていた。昭和17年のリーグ全体の打率は1割9分7厘、本塁打は420試合で108本(1試合平均 0.26 本)と4試合に1本の割合でしかない。首位打者の呉波(巨人)の打率は2割8分6厘、本塁打王は古川清蔵(中日)で8本だった。

野口は48試合に先発し41完投・19完封、藤本は46試合に先発し39完投・19完封。さらに藤本は延長12回引き分けが2試合あるので、実質は21完封だった。2人とも先発したらほぼ完投し、その半分は完封していたのである。2人に続くのは

       完封数   
        16  スタルヒン (巨人・昭和17年)
        13  小山正明 (阪神・昭和37年)
        12  林 安夫 (朝日・昭和17年)
              〃    (朝日・昭和18年)
            川崎徳次 (巨人・昭和23年)
            権藤  博 (中日・昭和36年)
        11  森弘太郎 (阪急・昭和11年)
            金田正一 (国鉄・昭和33年)
            米田哲也 (阪急・昭和33年)
            村山  実 (阪神・昭和40年)   

                      いずれも球史に名を残す投手たちである。


通算では1位・スタルヒンの83試合、2位・金田正一の82試合、3位・小山正明(阪神~ロッテ)の74試合、4位・別所毅彦(南海~巨人)の72試合。現役では鈴木啓示(近鉄)が68試合で5位にようやく顔を出す。鈴木に次ぐのは江夏(阪神~南海~広島~日ハム)の45試合だが今では先発で投げる事はない。最近では4試合連続を含む6完封の江川が傑出している。前半戦は2完封で、これは定岡(巨人)も4月中に2完封しており騒ぐ程の数ではない。だがオールスター戦直前の大洋戦を3安打、後半戦スタートの阪神戦を5安打、以降は阪神戦・8安打、ヤクルト戦・3安打と抑えて4試合連続完封を成し遂げた。

その江川でも年間10完封には届かない。2リーグ分裂後10完封に達したのは、村山と伊藤芳明(巨人)の昭和40年を最後に現れておらず昭和44年の成田文男(ロッテ)の9完封が最高である。現役投手は300人近いが、そのうち完封の経験者は97人だけ。西武の松沼兄は入団早々16勝するなど今年まで75試合に先発し27完投しているが完封はゼロ。今年の5月27日のロッテ戦では8回二死まで2安打無四球と好投していたが落合に一発を見舞われ初完封を逃した。

なかなか難しい完封勝利を今年になって初めて達成した投手達がいる。久保(近鉄)は5月9日の阪急戦で5年目、岡部(日ハム)も7月19日の西武戦で同じく5年目の初完封。谷(近鉄)は4月18日のロッテ戦で7年目で、工藤(阪神)も大洋戦で同じ7年目で達成した。彼ら以上に年月を要したのが佐藤政夫(大洋)で、完封勝利まで11年かかった。佐藤は昭和45年2月に巨人に入団。翌46年には早くもロッテへ移籍、さらに翌47年にカリフォルニア独立リーグのローダイへ派遣された。29試合に登板し3勝2敗の成績で帰国すると今度は昭和48年のシーズン途中に中日へ移籍、昨オフに中日を自由契約となり大洋に拾われた。プリ入り後はリリーフが多く、201試合登板・投球回数が247回 2/3 の投手が大洋で先発する事になる。

当初は大洋でもワンポイント専門だったが先発投手陣の崩壊で急遽5月3日の中日戦に初先発すると3回まで無失点だったが4回に打たれて降板した。5月8日の巨人戦にも先発して負け投手になったものの6回2失点だった。5月22日の中日戦では7回1失点で勝利投手となった。そして7度目の先発となる8月3日のヤクルト戦で初完投&初完封を達成した。「終わった瞬間にドッと疲れが出た。夢にも思っていなかった完投・完封でしたが気分は良いけどシンドイわ~」今年不振の大洋投手陣で唯一の完封勝利投手の佐藤は、今やしっかりローテーション入りしている。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#237 視聴率 20%超が当たり前だった時代

2012年09月26日 | 1981 年 


この頃から巨人戦以外の数字は現在に至るまで殆んど変化は無く、高視聴率を根拠にしての「プロ野球は人気がある」は誤りで「巨人戦は人気がある」が正しかったようです。その巨人人気が激減した現在のプロ野球界の方がよっぽど健全であると言えますね。

今年の巨人戦テレビ中継の視聴率は絶好調で昨年は約100試合が放送されて30%を超えたのは2試合だけだったが今シーズンは序盤の段階でフジが1試合、NHKが2試合と既に昨年を上回る好調ぶりだ。現在、テレビ各局が獲得に血眼になっているのが高視聴率が確実なオールスター戦の放映権だ。

今年のオールスター戦は7月25,26,28日に甲子園・横浜・神宮で開催される。この3球場は「後楽園の日本テレビ」「西宮の関西テレビ」といった系列がハッキリしていない。各球場での中継実績は、甲子園はNHK・朝日放送・よみうりテレビ・毎日放送・サンテレビ、横浜はフジテレビ・TBS・テレビ朝日、神宮はフジテレビ・テレビ朝日と各局にあり放映権獲得の決め手にはならない。高視聴率が望めるだけにどのテレビ局も簡単に引き下がる気配はない。

コミッショナー事務局は「実はこうなる事を恐れていました。テレビ局同士で穏便に話し合って決めてほしい」と自ら解決に乗り出すつもりはないらしい。テレビ局にとって1試合5千万円と言われている金額は屁でもないようで、もしかしたら3試合ともダブル中継、トリプル中継なんて事になるかもしれない。



この記事通り甲子園での第1戦は朝日放送とよみうりテレビの2局で中継されました。3試合とも30%前後の視聴率と今では考えられない数字を記録しました。ちなみに2012年のオールスター戦の視聴率は

      ・第1戦 10.8 %   ・第2戦 10.8 %   ・第3戦 9.6 %



野球天国ニッポンではテレビで何時間野球を観る事が出来るのか?実験をしてみた・・・8月15日(土曜日)

① 午前8時~10時まで高校野球 (NHK教育)
② 午前10時~11時45分まで高校野球 (NHK総合)
③ 午前11時45分~午後1時50分まで高校野球 (NHK教育)
④ 午後1時50分~7時まで高校野球 (NHK総合)

高校野球の合間に

⑤ 午後2時30分~4時までロッテ-阪急戦 (TBS)
⑥ 午後6時15分~7時まで大洋-阪神戦 (テレビ神奈川)
⑦ 午後7時~8時54分までヤクルト-巨人戦 (フジテレビ)
⑧ 午後8時54分~9時55分まで大洋-阪神戦の続き (テレビ神奈川)

生中継はこれだけだが午後11時を過ぎると「熱闘甲子園」「プロ野球ニュース」や各局のスポーツニュースをハシゴして合計15時間20分の野球三昧だった。



8月15日と言えば日本人には特別な日であるはず・・他に見るべき番組も放送していたと思いますがね。野球ファンが我が世の春を満喫していた時代も今は昔の事。プロ野球界最大のイベントである日本シリーズの視聴率も30年後の今では悲惨な数字しか出せません。


  【2011年・日本シリーズ ソフトバンク vs 中日 の全国ネット視聴率】
  第1戦
 9.2%  第2戦 9.1%  第3戦 11.4%  第4戦 12.2%
  第5戦 9.7%  第6戦 14.1% 第7戦 18.9%
  ※赤字はデーゲーム


  【1981年・日本シリーズ 日ハム vs 巨人 の全国ネット視聴率】
  第1戦 26.0%  第2戦 32.2%  第3戦 16.6%  第4戦 11.7%
  第5戦 18.7%  第6戦 41.2%
  ※全試合デーゲーム


勝てない、話題もないでは、さすがに関西メディアから阪神にブーイング起きている。振り向けば、最下位の横浜DeNAとは3.5ゲーム差。14日からは直接対決の3連戦(長野、横浜)を迎える。神戸の独立局、サンテレビジョンで1969年の開局当初から続く、阪神戦中継番組「サンテレビボックス席」。試合開始から終了まで完全中継がうたい文句で、その平均視聴率は関西の虎党の支持度を計るバロメーターともいえる。開幕からの平均視聴率は7~8%あったが、3日の広島戦(マツダ)では4・6%、5日の同カードでは2・6%と今季の最低を更新したという。 (2012.8.14 夕刊フジ)
2000年を過ぎたあたりから巨人戦の視聴率が低下し始めた時も「関西の阪神戦は大丈夫」と言われていましたが10年遅れで追随する事に。関西の阪神ファンは在阪の準キー局よりもプレーボールからゲームセットまで中継するサンテレビを御贔屓にしてる為、サンテレビの視聴率が阪神人気の目安だったのは確かです。仙台地区の楽天戦視聴率の御祝儀バブルは早くもはじけて残るは北部九州と札幌地区ですが、そう遠くない将来には揃って同じ道を辿るようになるんでしょうね。今年はとうとう関東地区では8月のナイター中継がゼロに。昔なら考えられないですから、夏休み中に中継しないなんて。でも抗議の電話がテレビ局に殺到!なんて事態にはなっていないようで、プロ野球人気も落ちる所まで行き着いた感じですかね。


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#236 珍プレーと言えば

2012年09月19日 | 1981 年 


球史に残る迷言の代表が「ベンチがアホ・・」なら、珍プレーの代名詞は中日・宇野選手の「ヘディング」です


8月27日後楽園球場での巨人-中日戦の7回裏二死二塁、6回まで巨人打線を0点に抑えてきた星野投手は代打の山本功を内野フライに「打ち取った」はずだった。これであと2イニングを抑えれば昨シーズン中から続いている巨人の連続得点試合記録を止める事が出来ると思いながらベンチに向かい歩きかけた時に、それは起きた。


聞き手…何が起きたの?

宇野選手…あれね、グラブに入ったと思ったんですよ。ちゃんと落ちてくるボールも見えてたし
       あと2~3㍍という時に横風が吹いて落下するボールの軌道が少しズレたんです。

聞き手…普通のエラーならグラブに当てて落球するもんだけど?

宇野選手…エヘへッ、それが自分でも不思議で。気がついたらオデコに当たってました。

聞き手…あれだけ跳ねたんだから相当痛かったんじゃないの?

宇野選手…星野さんが好投していたし巨人の記録もかかっていて絶対エラー出来ない場面でしたから
       あの瞬間は頭の中が真っ白で痛みを感じる余裕は無かったです。

聞き手…ボールはレフトのフェンス際まで転々・・・

宇野選手…1点は仕方ないけど同点の打者走者まで生還したら星野さんに何をされるか・・
       本当なら中継プレーをしに行かなければならないけど、呆然と立ち尽くしてました。

聞き手…そう言えば中継プレーは二塁手の正岡選手でしたね

宇野選手…本当に良かったです。正岡さんには足を向けて寝られないです。

聞き手…皆には冷やかされた?

宇野選手…言われっ放しです。僕は見てないのですけど、星野さんがグラブを地面に叩きつけて
       悔しがっていたから大変だぞと皆に脅かされて・・でも大丈夫でした。星野さんからは
       グラウンドのミスはグラウンドで取り返せと言われました。



星野投手のアドバイス通り、翌日の試合で本塁打を放ちミスを挽回した宇野選手から目が離せない。


実は宇野選手の珍プレーを遡ること4ヶ月、開幕直後の後楽園球場で広島・山本浩選手が同じ様に飛球を捕ろうとしてオデコにぶつけるエラーをしでかしていました。後ろの観衆の多くが笑っています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#235 ベンチがアホやから … ③

2012年09月12日 | 1981 年 


昭和11年、東のジャイアンツに対抗する形で同時に西にタイガースが誕生。しかし優勝回数は巨人の30回に対し阪神は6回と大きく差をつけられている。その差は単に戦力の違いという以上に球団の体質が関係していると思われる。今回の江本投手の舌禍事件も突き詰めれば阪神という球団体質が起因している。余波は若菜捕手の退団騒動や中西監督の管理能力が問われるなど収まる気配はない。

現在のプロ野球界の形態にも大きな影響を与えた2リーグ分裂にも阪神が深く関っている。昭和24年8月、毎日新聞社が日本野球連盟に加盟を非公式ながら申し入れた。これをきっかけに近鉄、西日本新聞社、大洋漁業…などが次々と加盟に名乗りをあげた。当時は8球団中賛成は阪神・南海・阪急・大映・東急、反対は巨人・中日・大陽と5対3で賛成派が多かった。ところが何故か阪神が反対派に転じて賛成・反対が同数となり、これを契機に日本野球連盟は分裂し2リーグ体制へと展開して行く事になる。

なぜ阪神は転向したのか?『ベースボール・ニュース(昭和24年11月15日号)』はこう伝えている。「毎日新聞社加入賛成派に阪神が同調すると宿命のライバル阪急は勿論、やがては難波に球場を持つ南海とも手を握り合わなければならない運命となる。もしも反対派に属せば関西における試合は甲子園で独占できると考えるのは計算高い大阪商人としては当然の策ではないか。…<中略>…人気のある巨人と同じリーグにあって巨人戦を甲子園で独占し得ることは、将来の大阪スタジアムでの天下分け目の南海対毎日戦が実現するまで関西での人気をさらう事が必至と読んだのだろう」と。

この読みはピタリと当たり阪神-巨人戦は現在でも球界きっての人気カードとなっている。ただし巨人と手を組んだ阪神から6人もの選手が新球団の毎日へ去ってしまったのは一枚岩とは言い難い阪神らしい。毎日入りしたのは監督兼投手・若林忠志(15勝14敗)、正捕手・土井垣武(3割2分8厘 16本塁打)、正外野手・別当薫(3割2分2厘 39本塁打)、本堂保次(3割0分2厘 4本塁打)、大館勲(2割1分3厘 0本塁打)、呉昌征(2割2分3厘 0本塁打)。主力が抜けて骨抜きになった阪神はチーム打率が1分3厘下がり新リーグ8チーム中で4位だったが既成の古参球団の中では最下位であった。

日本のプロ野球史上、試合を途中で放棄して没収試合と宣告されたケースが4例あるが、うち2つが阪神である。昭和29年7月25日、大阪球場での阪神-中日戦の10回裏、阪神・真田のカウント2-2からの次球は前には飛ばず捕手のミットへ。直接捕球したから三振だと主張する中日に対し、一度落としているからファールだと言う阪神。三振とコールした主審に松木監督と藤村助監督が体当たりして退場処分に。試合が再開されると退場したはずの藤村が打席に立とうとした事で再び紛糾し、長い抗議にシビレを切らした観衆がグラウンドへ流れ込むなどして大混乱に。審判団は主催球団阪神の秩序維持不能という事で没収試合を宣告した。

二度目は昭和42年9月23日、甲子園での大洋戦の1回表大洋は3点を先取した後、二死満塁で森中がショートバウンドを空振りした。これを阪神・和田捕手が森中にタッチせずに球をマウンド方向へ転がしベンチへ引き揚げた。森中は一塁へ走り三塁走者はホームイン。和田捕手は「主審はストライクアウトと言った」と主張したが主審は「スリーストライクとは言ったがアウトとは言っていない」と阪神の抗議を認めなかった。ルール上は振り逃げ&得点で正しい。しかし阪神・藤本監督は「審判よりも選手を信じる」として試合開始早々に試合放棄をしてしまった。

他の3つの放棄試合はいずれも試合の終盤であったのに対し、序盤それも1回表で試合放棄したのは異例と言える。入場料を返却すれば済むという話ではない。ナイター観戦の予定を立てて選手を見るのを楽しみに球場まで足を運んでくれたファンの事を考えれば簡単に試合放棄など出来るはずがない。それをしてしまう阪神という球団としての考え方の甘さを窺い知ることが出来る。これが監督人事ともなると、さらに淡々と決断して監督のクビを球団創設1年目のシーズン途中でもアッサリと切ってしまう。初代監督の森茂雄は…


                       ~以下、略~



監督交代劇に関しては 2011年11月の『毎度お馴染み・阪神お家騒動 ② 』 を参照して下さい


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#234 ベンチがアホやから … ②

2012年09月05日 | 1981 年 
江本の不満・・それが正しい・正しくないは別にして、毎年オフになるとトレード候補として取り沙汰され騒がしくなった。実際に昨年は在京パ球団と合意寸前までいったが最後に破談。その話が潰れると間髪おかず在阪パ球団と交渉するなど、「球団は俺を放出したがっている」と江本が考えるのも無理はない。だが江本本人が「野球選手にトレードは付き物。俺も南海へ移籍して良かったと思っているし、トレード云々に不満があるわけではない」と言っているようにフロントに対してではなく現場での使われ方に腹が立っているようだ。

今シーズンは池内投手と共にリリーフ役に回る事になっていたが、江本にその事が監督・コーチから伝えられたのは開幕直前の事だった。「先発とリリーフでは当然調整法も違ってくる。マラソンを走るつもりでいたら突然100㍍走に出ろと言われたようなもん。上手くいくわけがない」実際にリリーフを数度失敗した結果、早々にお役御免。シーズン途中で先発に戻ったのは周知の事実で、不満の矛先は藤江投手コーチに向けられたものと思われたが実は中西監督に対するものだった。この2人は2月のテンピキャンプで既に衝突していたのだ。

中西監督は「何もないよ」と大人の対応をとっているが江本は「ガックリくる発言を喰らった」と公言している。阪神に限らず全ての球団が首脳陣批判に対して最大の罰則を設けている事は誰だって知っている。勿論、江本もだ。そこに躊躇する事なくズカズカと踏み込んだ江本に対してある選手は「ウチの監督なら誰だって一度は江本さんみたいな心境になりますよ」と同情的だ。いずれにせよ江本は8月27日で阪神を去った。形の上では江本の意志が通っての退団のようだが、一部では江本を放出したかった球団にとって渡りに舟だったのではという声もある。任意引退→他球団からのトレード申し込み→現役復帰して移籍という筋書きが出来上がっているという情報もあり、現に他球団からは退団を惜しむ声が既に出ている。


◆巨人・藤田監督「選手の立場では言い過ぎだけど引退というのはどうかなぁ。力のある投手だから、どこかのチームが声を掛けるでしょう」

◆日ハム・大沢監督「阪神も思い切った事をするね。まだ充分使えるというのに・・」

◆近鉄・西本監督「まだまだ働ける投手だ。ヤンチャな選手だけど、この世界にはあんな男がいても良いと思うけどね」

◆村田兆治選手会会長「江本と阪神との話し合いに選手会が口を挟む事は出来ないが、江本が復帰したいと相談しに来たら力を貸したい」


これまで首脳陣と選手の対立があるたびに監督の首を切ったりスター選手を放出したりと、その場しのぎの中途半端なやり方で表向きを糊塗してきた球団運営の甘さが、またしても球史に残る珍事件を引き起こしてしまった。江本ショックが冷めやらぬ29日、今度は若菜捕手が「阪神という球団はつくづく疲れる。俺も退団したい気持ちは前々から持っていた」と発言し一連の騒動に火に油を注いだ。しかし球団はこの発言に対して若菜を事情聴取をする事なく放置したままだ。ひたすら嵐が過ぎ去るのを待つ作戦らしいが、お家騒動は当分収まりそうにない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#233 ベンチがアホやから … ①

2012年08月29日 | 1981 年 



「ベンチがアホで野球ができん」…球史に残る名(迷)言が飛び出しました


8月26日、甲子園での対ヤクルト19回戦。先発した江本は8回に3点を取られ降板後、すぐにダグアウトを出た江本はロッカーに向かう途中の通路で「ベンチがアホやから野球ができん」と吐き捨てた。囲みのトラ番記者たちは「いつもの事」として大して気にはせず江本に真意を尋ねる事はなかった。そんな雰囲気を察してか今度は大声で「あいつらはアホや」と叫んだ。「あいつら」とは中西監督であり藤江投手コーチである事は明白だった。私服に着替えた江本を球場出口で記者たちが取り囲んで取材すると再び首脳陣をアホ呼ばわりして溜まった不満をぶちまけた。

「どうせ代えるならもっと早い回に代えるべきやろ。いつもは信じられんほど早く交代させるくせに今日に限って続投や。何を考えているのかサッパリ分からんわ」「今日の俺の球は7回には浮ついていたんや、投手の状態を見極めるのが監督・コーチの仕事やろ」どうやら江本には長い間の首脳陣への鬱憤が積もり積もっていたようだった。7月の北海道遠征では勝利投手の権利を得る寸前に降板させられたりと首脳陣への不満はいつ爆発してもおかしくない状態であった。

江本は翌27日正午過ぎに大阪市北区の球団事務所に呼び出されて事情聴取を受ける事となった。球団は「1週間から10日間の謹慎処分」を科し幕引きを計ったが江本の方が役者が1枚上だった。「発言の責任をとって退団させてもらいたい」この発言に球団は大慌て。午後0時半から始まった事情聴取は延々3時間半ものロングランで球団事務所に詰めていた記者たちは処分に江本がゴネていると思っていたが、あにはからんや実際は江本の退団要求に岡崎球団代表が退団を思い留まるよう説得していたのだ。いつの間にか江本と球団の立場が逆転していたのだ。

結論は岡崎代表が会見で明らかにした。「昨日の試合後の江本君の発言に関して事実関係や本人の気持ちなどを聞き話し合った結果、細かい経緯は略しますが江本君の"発言の責任を取りたい" "この際、阪神を退団したい" との申し出があり球団は受理しました。本日付けをもって任意引退の手続きをとりました」と衝撃発言すると会見場は蜂の巣をつついた状態に。

岡崎代表が会見を終え会場を後にすると江本が記者会見に臨んだ。「言った事は事実だし、責任は取らなイカンという気持ちが強かった。覚悟はしていた」「昨日の発言は1つのきっかけ。今までの事の積み重ねであって突然の思いつきではない」「球団からの慰留?強い引き留めは無かったね」と淡々と会見に応じた。記者からは「3時間半」は謹慎処分の話にしては長いが退団について話し合うにしては短い、日を改めて会談しない理由は何か、会談の中身は何だったのか、何か他に隠されている事があるのではないかと質問が相次いだが江本はノーコメントだった。

そもそも江本孟紀とはどんな男だろうか。昭和22年7月22日生まれ、高知商時代は浜村(西鉄→巨人→太平洋)と共に速球投手として注目された。昭和40年のセンバツ大会に選ばれたが他生徒の不祥事で開会式直前に出場停止処分となる悲劇を味わった。卒業時のドラフト会議で西鉄から指名されるも拒否し特待生で法政大へ進学した。当時は先輩の田淵や山本浩よりも上と評価されていたがエース・山中の陰に隠れ目立たず、さらに4年生の秋のシーズンに松永監督と衝突して合宿所を飛び出し実家に帰ってしまうなど実力を発揮できずにいた。

昭和44年に熊谷組へ入社、2年後ドラフト外で東映入り。東映では結果を出せずにいたが南海・野村監督に見出され移籍し16勝をあげる活躍をし、やがてエースにまで上り詰めた。南海入団3年目のオフに野村監督の「長髪禁止令」を無視してパーマをかけてテレビ出演した事で球団からペナルティを受けるが契約更改で髪を切る事を条件に提示額より50万円アップを勝ち取り話題となった。昭和51年の江夏とのトレードで阪神入りして15勝。以後南海時代から通じて昭和54年まで8年連続2桁勝利をあげた。阪神に入ってからも度々トラブルを起こした。昭和52年9月、巨人戦で降板しベンチに退いた際にグローブを蹴り上げ「投手の立場を軽視する阪神の体質に抗議してやった」と発言、2年後の最終戦で4回KOされると今度はグローブをスタンドへ投げ入れて再び球団批判をし、とうとう今度の大騒動に。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#232 1981年 ドラフト候補 ②

2012年08月22日 | 1981 年 
野手の方では「右の金村・左の加藤」との事。加藤(都城商)につては「リストの強さはズバ抜けている(巨人・沢村スカウト)」「あのバッティングセンスは天性のもの(日ハム・三沢スカウト)」と高評価。ただし野手に関してはこの2人以外の評価は厳しい。「捕手というポジションは時間がかかるが今のうちに教え込めば将来は面白い存在になりそうなのが山本(名電高)と片平(横浜)かな(ロッテ・三宅スカウト)」程度の評価。野手も甲子園不出場組に注目選手がいる。福島双葉の西山は昨年夏の甲子園で豪快な一発を放って「大杉2世」と呼ばれ、甲子園出場組より早い指名が予想されている。

「最近の高校生はかつての様な大型野手は減って小柄でまとまっている選手が多い(南海・堀井スカウト)」と寂しいのが現状。そこで野手は大学や社会人に目を向けるスカウトが多い。即戦力では平田(明大)・尾上(中大)・山内(大商大)が3羽ガラスだ。ヤクルトは青木、釘谷らの成長で外野陣は固まりつつあり、一・二番を打てる俊足の内野手が補強ポイント。日ハムは捕手と内野手を求めていて「守り」の平田か「攻撃」の尾上かで球団内でも意見は分かれている。

「今年の新人を見ても中田(阪神)や杉本(西武)で分かる通り社会人出は戦力になっている」と過去3年連続で高校生投手を1位指名してきた大洋の湊スカウトは改めてチーム浮上には即戦力が必要だと痛感している。そこで各球団とも社会人ルートの開拓に懸命だ。「社会人ビック3」の藤高(新日鉄広畑)・田中(電々関東)・津田(協和醗酵)らの単独入札を狙っている球団も多い。大学・社会人選手に人気が集まるのは即戦力だからという理由だけではない。最近の高校生はプロ志望が強くなく大学や社会人で実力を試してからプロでやれるかどうかを見極める安全志向型が多くなり、プロ入りを拒否するケースも珍しくないからだ。






高校生野手に関しては事前の予想通り、さらに大学・社会人でもレギュラーを獲得できた選手は殆んどいない不作の年でした。選手一覧を見ても吉村(PL学園)くらいですかね、ただ吉村も怪我で不完全燃焼でしたけど。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする