面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

チキン野郎

2007年06月07日 | 野球
ニッカンの記事より。

昨日の楽天戦。
相手先発は高卒ルーキーのマー君こと田中。
4回表のタイガースの攻撃。
無死1、2塁として鳥谷、桧山を迎えた場面。
このピンチに、怯むどころか勇猛果敢な姿を見せたと記者が書く。

並の高卒ルーキーなら、ビビってしまって腕が縮こまり、恐る恐るボールを投げてしまうもの。
ところが田中は、ピンチだからこそ腕を思いきり振り、生きた球をグイグイ投げ込んだ。
結果、打者有利なはずの左打者二人を三振に切ってとり、自軍の悪い流れを断ち切った。
(引用ここまで)

田中は、甲子園で修羅場をくぐり抜けてきた経験だけで得られるものではない、心の強さを持っているのだろう。
一方、タイガースの若手投手陣。
ピンチになるほど腕が縮み、戦々恐々ビビりまくって投げている。
中村泰、渡辺、太陽、桟原、筒井。
見るべきものは何も無い、弱腰フヌケな投球ばかり。皆、確実に田中より、歳もプロの飯も食っている。
しかし投球内容は田中の足元にも及ばない。

特に、久しぶりに平日のナイター中継で見た筒井はヒドかった。
大量リードをくらっての登板てにも関わらず、何をビビっているのだろう。
全員クビ!とは言わなまともにストライクが入らず、連続四球で走者をためてタイムリーをくらう。
素人目にもわかる、何の意味もテーマも無いピッチング。
言い方ら悪いが、もうタイガース辞めたら?とさえ思う。

なぜこうもチキンな野郎ばかりなのか。
こればかりは誰に教わるものでもない。
戦う気持ちの無いものは、グラウンドを去れ!

「しゃべれどもしゃべれども」 by 紫亭京太郎

2007年06月07日 | 映画
いつも不機嫌な顔をして口汚い話し方しかできないクリーニング屋の娘・十河五月(香里奈)。
勝ち気で陽気な性格だが関西弁が受け入れられずにクラスで孤立している大阪から転校してきた小学生・村林(森永悠希)。
元プロ野球選手で、あまりに口下手なためにメディアでの解説で不評を買っている湯河原(松重豊)。
そんな3人が、ひょんなことから二つ目の若手噺家・今昔亭三つ葉のもとに集まり、落語を教えてもらうことに。
三つ葉自身、「しゃべること」を職業としていながら、素直な気持ちを伝えることができずにいる。

他者とのコミュニケーションに悩む登場人物達が、落語教室を通して他者とのコミュニケーションの取り方に、ゆっくりと目覚めていく。
原作が書かれたのは、もう10年も前のことであるが、コミュニケーション不全はますます蔓延し、今、まさにタイムリーなテーマ。

コミュニケーションとは、相手との間で意見や思いを交換することで成り立つもの。
コミュニケーション不全に陥っている3人が“話すことのプロ”である噺家のもとへ集まる。
中でも、相手に気持ちを伝えられないことに悩む五月は、“話すことのプロ”から話す技術を学ぶことで、コミュニケーション不全を直そうと考えていた。
しかし講師である三つ葉は、“話すことのプロ”でありながら、好意を寄せる相手に真意を伝えられないまま去られてしまう。

三つ葉の落語は、実は師匠のモノマネの域を超えていない。
しかし五月と喧嘩になり、やけ酒をあおって二日酔いで臨んだ一門会で、更に師匠から酒を飲まされ、おそらくは半分意識が飛んだような状態で演じた「火焔太鼓」は、三つ葉の「火焔太鼓」となる。
そしておそらくは、三つ葉にとって初めて、落語というものが観客との会話によらないコミュニケーションであることを体感したのではないだろうか(私見)。

落語を演じるに際して、その噺に対する思い入れがあり、“自分の口”で語られるものでなければ、その高座は上滑りする。
ただ一生懸命覚えた噺を間違えないように語ろう!とするだけでは、観客とのコミュニケーションは生まれない。
それは、観客の“呼吸”に気付けないからである。
“自分の口”から発せられた言葉に観客が反応し、笑いが起き、その笑いが引くタイミングをはかるときの至福の時間といったらない。
その“呼吸”を体感したとき、落語の世界から抜けられなくなるものなのだ。

日常のコミュニケーションも同じこと。
“しゃべり方”を誰かに教わって、話す技術が高まったとしても、そこに本人の思いがなければ“自分の口”から出た言葉ではないため、相手の心には届かない。
漫才でいうところのボケとツッコミは、このコミュニケーションの最も顕著な例と言えよう。
そして、日常会話としてその“呼吸”を会得する機会の多い大阪人は、確かにコミュニケーションスキルが高くなりやすいのかもしれない。

しかし昨今では、そのような“呼吸”を体感するシーンや場面が減っているようだ。
日本中の“東京化”は、人間として具えておくべき重要な能力までも消し去ろうとしているのではないだろうか。
更には、グローバリゼーションという名の“世界アメリカ化”は、全人類を一部の支配層が操りやすくするための、“人間アホ化”であるといえば過言だろうか。


しゃべれどもしゃべれども
2007年/日本  監督:平山秀幸
出演:国分太一、香里奈、森永悠希、松重豊、八千草薫、伊東四朗

そら、あかんやろ

2007年06月07日 | ニュースから
【こぼれ話】モンブランの頂上を赤く塗ろうとした芸術家を逮捕=フランス(時事通信) - goo ニュース


このゲイジツ家、かつてグリーンランドの氷山を赤く塗った前歴がある。
今回と同じく、環境保護に対する意識を高めるためだとのこと。

いや、その行為自体が環境破壊やろ。
自然な環境では存在しない色がそこに存在する時点で、既に“不自然”なのであり、立派な環境破壊である。
たとえ色を染める染料が生物分解性のものであっても、やってることは本末転倒である。