青山潤三日記 2020.7.7
去年の香港のデモで、当初「催涙ガス防御のためにマスク使用」と言ってたのが、いつの間にか「顔を見られたくないためのマスク」に見事にすり替えられてしまったのと同様、コロナ問題におけるマスクの使用も、「感染を防ぐため」というのは単なる名分になってしまって、もっと曖昧な意味での目的、すなわち、日本人の安定志向・同調志向の行きつくところとしての「皆そろって顔を隠す」というのが、暗黙の了解となっているように思えます。
何度も繰り返して言いますが、いわゆるコロナ問題の象徴的な表象は、「SARS」や「MARS」のような固有の名がついていないこと。結局、本来なら一般名詞であるはずの「コロナ」が、実質固有名詞として置き換えられてしまったわけです。“太陽”の身になれば、実に迷惑な話です(笑)。いや、「笑」で済むことではなく、一般名詞が固有名詞にすり替えられてしまっている(そうせざるを得なかった)ということは、思いのほか大きな意味、問題の本質を表しているのだと思います。
ワクチンが開発されれば解決、という問題ではないのです。それどころか「特効ワクチン」は一時的には救世主になり得ても、長い目で見た場合、人類の未来にとってマイナスなのかも知れない、と僕は思います。それは、今世界のあちこちで起こっている差別・暴動や、自然の災害(地球温暖化や熱中症問題も含む)に対する人類の姿勢に関しても、大きく捉えれば同じことがいえると思っています。
九州での豪雨災害が続く中、不謹慎かも知れませんが、7月豪雨、8月猛暑、9月台風、、、、仕方がないでしょう。それが日本なのです。ウイルスや疫病にしても、今に始まったわけではなく、様々なパターンで昔からずっと存在しています。それが地球です。
最新の技術と英知でもって災害から身を守り、ワクチンを作ってウイルスを退治する。科学とか経済とかの発展繁栄に頼って、誰もが心地よくいられる社会を維持し続ける、それが多くの人々の望みなのでしょう。
でも、変動を拒否し、集団全体が同化安定した「種」は、滅びるのです。それが生物の原則です。人間だけが特例なわけではないはずです。平和(平穏)の維持、外敵の排除、、、短期的には正しい選択なのでしょうが、長期的に見た場合、それこそが諸悪の根源であるようにも思えます。
科学・文明への過信でも、幻想の民主主義でもない、全く別次元に立った、根本的な、大局的な部分から、将来を見据えて人類の世界が構成されて行く必要があるのだと、僕は思っています。
もっとも、その「別次元」というのが何なのかは、僕は知らんです。敢えて一言で言えば「愛」なのかな?ただし、この言葉で表現することは「禁じ手」ですね。
「愛」は、単独では成り立ち得ても、普遍性はない。そこに社会(科学文明政治宗教経済等々)が介入し、個としての愛がその中に放り込まれた瞬間、泡と消え去って、或いは猛毒に化してしまう恐れがあります。
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僕は、自分自分のことが良く見えていない人間であると自覚しています。客観的に見れば、(僕自身や他人が思っている以上に)とんでもなく酷い人間なのかも知れません。
逆に言えば、ほとんどの人(ことに日本人)が属している世界とは別の世界、例えて言えば皆がその中に入っている「シャボン玉」の外側にいるわけです。シャボン玉の中にいる人は、自分(たち)がよもやシャボン玉の中にいて、虚空の中を漂っているなどとは、思ってもいないでしょう。でも、外側にいる僕からは、その状態が手に取るように見えるのですね。中に入って享楽のおこぼれに与れないのは癪ですが。
シャボン玉の中にいる人たちに外の世界を垣間見て貰える手助けをしたいと思って(「青山さんは、昆虫や植物のことを書くより、自分の体験を書き表したほうが面白いと思う」という外野の声に唆されて)、「現代ビジネス」などのメディアで、自分の守備範囲以外のことに取り組んできたわけですが、結局のところ、それは僕の任ではないのかも知れません。
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というわけで、ここしばらくは一心不乱に「中国蝶類図鑑」制作に取り組んでいます。まずは「コンパクト版」を目指しているのですが、それでも1000種1000頁を超えそうです。
全体の二割くらいまでは進んでいると思います。気が遠くなるような作業です。一度立ち止まると、それこそ「心が折れてしまう」ようなことばかりです。ひたすら前を向いて、ゴールを目指すしかありません。
58年前(1962年)、堀江謙一青年とやら(僕の小学校時代の友人のヨット仲間の先輩)が、5月12日(全くの偶然ですが、ジョニー・ティロットソンの「涙ながらに」がビルボードHOT100に初チャートされた日)に、西宮のヨットハーバーを出て、8月11日(「涙ながらに」ラストチャート日、カントリーの方では更に一か月ほどチャートインしていた、ちなみに次の「夢の枕を」の初チャートイン日でもあります)に、サンフランシスコ港に入港(上陸は翌日)するわけですが、今頃はちょうど太平洋の真っただ中で、文字通り「大海の中の木の葉」のごとく漂っていたのです。今の僕も、そんな状態です。
それにしても資料集めが大変です。終日ネットで内外の文献をチェックし、あちこちに散逸(大半は消失)してしまっている自分のデータを根気よく搔き集めて、形にしていく作業を続けています。
主な文献は19世紀後半の欧米人の手によるもの。150年前に、ほとんど全ての情報が集積され、完結しているのですね。純粋にかつ全力で「自然界の実態解明」に取り組んでいる、という“凄み”を感じます。それに比べて、後の日本人研究者や愛好家たちによる報文は(体裁は立派だけれど)下らないのばかりです。いかにも「趣味的」というか、功名心と自己満足だけしか見えてきません。
ただ、現在の欧米人による資料は、あまりにも欧米中心に為されていて、アジアにおける情報が全くと言ってよいほど欠けている。ちょっと腹立たしい思いもします。
ここ数年は、中国の研究者も頑張っていますね。概ね中身は出鱈目ですが、まあいいでしょう(20~30年前に発表した僕の報文のパクリが結構あるようだけれど、それもまあいいです)。
ほとんど国家事業なわけですから、潤沢な材料と資金でもって為される圧倒的なスケールには、太刀打ち出来ません。僕は僕なりに纏めていくことに意義があると信じて、頑張るだけです。