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青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

生態図鑑:中国(および周辺地域)の蝶(17)

2010-10-02 12:35:30 | チョウ
「 カンパのお願い」 ご協力よろしくお願いします。

【月・水・金】中国の花/中国野生植物図鑑
【火・木・土】中国の蝶/中国蝶類生態図鑑
【月・木】日本列島および近隣地域の野生アジサイ
【水】中国大陸(&台湾・南西諸島)のセミ
【火・金(・日)】ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代
【随時(当面は土曜または日曜を予定)】中国旅行情報
【随時(当分は毎日)】My Sentimental Journey
【一時休載】屋久島はどこにある?(東シナ海周縁紀行)
【一時休載】屋久島はどこにある?(長江流域遡行紀行)

  青山潤三・花岡文子
メールアドレスjaoyama10@yahoo.co.jp

★今日は下記の④シリーズです。
「日本列島および近隣地域の野生アジサイ」及び「中国大陸(&台湾・南西諸島)のセミ」はしばらくお休みします。




生態図鑑:中国(および周辺地域)の蝶(17)
ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(15)
中国旅行情報(10)
My Sentimental Journey(38)


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生態図鑑:中国(および周辺地域)の蝶(17)

No.009四川・雲南省境の山で見た不思議なシータテハNympharis(Polygonia)c-album ssp.
タテハチョウ科Nymphridae/ヒオドシチョウ亜科Nympharinae/ヒオドシチョウ族Nympharini/ヒオドシチョウ属Nympharis
雲南・四川省境Border of Yunnan・Sichuan/標高alt.4600m/2010年9月21日

さて、前回のツバメシジミ同様、種としては旧大陸(ごく近縁な種が北米にも)温帯域に広く分布する種の一つに、シータテハがあります。そして雲南産の“ウスズミツバメシジミ”の場合同様、この雲南・四川省境山地のシータテハも、シータテハでありながら、シータテハらしからぬイメージのチョウなのです。仮に和名を付けるとしたら“ニセコヒオドシ”あるいは“ヒメエルタテハ”。

高山帯(撮影地は標高4500mを超えています、全山石灰岩の山、正確には両省の省境から、10~100mほど雲南省寄り)の瓦礫地に咲くキリンソウの一種の花に多数の個体が吸蜜に訪れるのですが、何度見ても、コヒオドシと錯覚してしまう。翅型や斑紋は間違いなくシータテハなのだけれど、印象はコヒオドシ、あるいはエルタテハなのです。雲南や四川の山(というよりも麓の集落付近)ではコヒオドシが極めて多いので、ここでも本物のコヒオドシも混じっているものと思い、注意してチェックしていたのですが、なぜか一頭も確認することが出来なかった。翌日、標高にして1000mほど下った集落近くの路傍で、やっとコヒオドシを発見、遠くから一回シャッターを押しただけで逃げて行ったのだけれど、一応撮影をしておいたので、本物と偽物を比較して見よう、とその写真を拡大して見たら、なんとこれもシータテハ。それほど(実際に見た時の印象は)コヒオドシによく似ているのです。

何故、こんなにも普通のシータテハとイメージが異なるのか、検証してみました。

①翅型は、全体に四角っぽく、前翅外縁の抉れが少ない。そのため面積が広く感じる。秋型よりも夏型的(ただし季節からして秋型でしょう、年1化の可能性も強いですが)。



②翅表の地色が極めて濃く、コヒオドシ、ヒオドシチョウ、エルタテハなどと同様の、橙朱色に近い(普通のシータテハは明るい黄褐色)。



③前翅表前縁の上部の2つの黒班と、それ以外の黒班の大きさの差が顕著(普通のシータテハは、黒班の大きさが全体に揃っている)。



④前翅表前縁の上部の2つの黒班の間の淡色部が目立つ。



⑤キタテハとシータテハの区別点にも使われる、前翅表内縁寄り(第2室)中央の黒班の上(第3室)に黒班が現れることは無い(キタテハと同じ。普通のシータテハでは、通常ここにも黒班が出現)。



⑥後翅表の黒班はさらに小さめで、橙朱色部分が広く目立つ。



⑦後翅裏面の白銀色の“C”字は、小型で不明瞭。



これらの特徴を総合すると、この雲南・四川省境個体群は、むしろシータテハよりも、N.(P.)commaをはじめとした、アメリカ産の近縁各種に似ているのです。シータテハはヒオドシチョウ属を細分した場合、シータテハ属(または亜属)に含められるのですが、北米産は10数種の多数の種に分けられているのに対し、旧大陸産は、広域分布のシータテハと、地中海沿岸~中央アジア産(中国西北部にも分布?)のミナミシータテハN.(P.)egena、中国西南部に稀産する、オオエルタテハ(オオシータテハ、クロキタテハ)N.(P.)giganthea(「中国のチョウ」に詳しい解説あり)、及び東アジア各地に繁栄するキタテハN.(P.)c-aureumの4種となっています。

このうち、キタテハは外観はシータテハに似るのですが、♂外部生殖器の構造をはじめ、基本構造に他のシータテハ類と顕著な相違があるため、僕は別グループに移すべきと考えています。もしこの種をキタテハ属に含めるのなら、色彩斑紋が著しく異なるも、基本形態が共通するルリタテハN.(Kaniska)canaceも、シータテハ属(亜属)に含めるべきでしょう。

僕が、「中国のチョウ~海の向こうの兄弟たち」を執筆した際、中国のシータテハに対する扱いをどうするかで、随分悩んだのです。シータテハを定義する重要な特徴は、♂外部生殖器の幾つかの部分の特化にあります。実は、中国産のシータテハの中には、それらの部位の特殊化が見られない個体(おおむね北米産の数種と共通)が混じっている。充分な資料が無かったため、追試が必要と思い、「中国産は複数種から成る可能性が強い」と示唆するに留めて置きましたが、一種ではなさそうなことは、確かなようなのです。

杭州の市街地や、成都の都心部(共に緯度は種子島~屋久島に相当)の様な平坦な低標高地にも見られる一方、この四川・雲南省境山地の様な、標高5000m近い地にも出現します。それ自体、かなり不思議なことだと思います。

“ウスズミツバメシジミ”の例もあるように、例え外観の印象は著しく違っていても、外部生殖器の構造は寸分同じ、従って種としては同一種に含めるべき、ということになる可能性もあるでしょう。それとも、未知の複数種のうちの一つなのか。同様の印象を持つ集団が、どの程度の範囲まで分布しているのか、の検証をはじめ、課題は沢山残されています。











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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(14)の追加・(15)

2010-10-02 11:29:44 | アメリカン・ポップスearly60’s
ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(14)の追加記事

“狭間のシンガー”24人衆の紹介 ⑦ 『ブライアン・ハイランドとジョニー・ティロットソン』(追加)


●Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka-Dot Bikini(ビキニスタイルのお嬢さん)【60年Pop 1位、R&B 10位】
○Poetry in Motion(ポエトリー)【60年Pop 2位、R&B 24位】

◎デビュー曲「ローズマリー」が不発も、次のキャッチーなコピーの“ノベルティーソング”が大当りして一気にメジャーの世界に躍り出たわけですが、素直に喜んでいいのか、、、Braianの心境は、いかなるものだったのでしょう。日本では続く「ベビー・フェイス」も大ヒットを記録しますが、本国では「ビキニ~」と同傾向の曲を何曲か続けてリリースするも、いずれも不発、あっという間にチャート上から姿を消してしまいます。うかうかしていると“ノヴェルティソングの一発屋”で終わりかねません。でも彼は実力者です。1年後には、「ビキニ~」とは正反対のイメージの、限りなく暗くスローな「Let Me Belong to You」でチャート上位にカムバック、2年後には、「Ginny Come Lately」「涙のくちづけ」といったビッグヒットを連発し、正当派歌手であることの証明が成されます。しかし、その前に行っておかねばならぬことが。「ビキニスタイルのお嬢さん」は、実は“ノヴェルティ・ソング”などではありません。素晴らしいメロディーの、素晴らしい歌詞の名曲です。じっくりと聴いて貰えれば分かるはず、これほど美しい曲は、そうそうありません。作詞者ポール・ヴァンスの、2歳か3歳のお嬢さんがモデルなのだそうです(作曲は、リー・ポックリス)。僕は、「アララギ派」の短歌(島木赤彦、斎藤茂吉etc.)が好きなのですが、正岡子規の流れをくむ“写生派”、情念を強く前面に押し出した、与謝野晶子・鉄幹率いる「明星」一派とは対照的に、主観的表現を極力押さえて、より客観的な視点から対象の本質を探ろうとしているのです。ある意味、ビートルズやディラン以降の“主観”が前面に強く押し出された“新時代の音楽”と、それ以前の“オールデイズ”の違いは、その辺りにあるのかも知れません。この曲のラスト1フレーズの美しさは、もう涙が出るほど。彼女の動きと周囲の光景が、目に見えてくるようです。ちなみに“Itsy”以下の4語は“とても小さい”こと示す英俗語を並べたもの、“Yellow Polka-Dot”は“黄色い水玉模様”由。
◎「ポエトリー・イン・モーション」は、「ビキニスタイルのお嬢さん」最後のチャート週に初登場(ちょうど50年前の10月10日です)、ジョニーとして7曲目のヒット、それまでの6曲はいずれもミドルヒットだったのですが、この曲で一気に大ブレイクすることになります。チャート的には、廻り合わせが悪く(1位には、エルヴィスの「今宵は一人かい?」と、レイ・チャールスの「わが心のジョージア」が居座っていた)2位止まりですが、永く上位にい続けたことから、11月の月間1位を獲得しています。こちらも写生に徹した歌です。「幼女版・ビキニ~」の「少女版」というところでしょうか。ジョニーの曲の傾向は、2年後の「涙ながらに」からC&Wに傾斜して行く、ということになっていますが、実は、この「ポエトリー~」、録音スタジオもナッシュビルだし、ピアノのフロイド・クレーマー、サックスのブーツ・ランドルフ以下、ナッシュビルのセッションミュージシャンが、オールスターでバックアップしているのですね。ある意味、“C&W界が作出した純粋のPops”ということが出来るのかも知れません(ちなみに、フロイド・クレイマーは、相前後して自身の「ラスト・デート」でも2位を獲得していて、もしかすると1位エルヴィスの曲にも参加しているかも知れないので、となれば、ベスト3独占ということになります)。それにしても完璧な出来です。ポール・カウフマンとマーク・アンソニーによる曲と詩、ジョニーの声、バックのコーラス(アニタ・カー?ジョーダーネース?)、アーチ・ブレイアーの企画と編曲、、、、全てが見事にマッチした、奇跡の作品。オールデイズの全てを、この一曲で語ることが出来る、名曲中の名曲でしょう。



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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(15)




“狭間のシンガー”24人衆の紹介 ⑧『デル・シャンノンとジーン・ピットニー』



Del Shannon 308位 
1934.12.30 Michigan出身
悲しき街角/太陽を探せ




Gene Pitney 153位 
1941.2.17 Connecticut出身
リバティーバランスを撃った男/愛の痛手に



【アメリカ進出前の、ビートルズとストーンズの楽曲を、いち早く紹介】

デル・シャノンが、自ら命を絶ってから、20年が経ちます。僕は、リアルタイムでは、その情報を知らなかったのです。

という書き出しで、僕のPops音楽遍歴から始めて、オールデイズを聴くということはどういうことなのか、アーティスト達にとっての“時間”と、リスナーにとっての“時間”の交わり。時間は、どれほどまでに均等なのか、といったようなことを書き進めていたら、収集が付かなくなってしまいました。風邪は直らないどころか、ますますひどくなり、こちらの薬局で購入した薬を適当に服用したら、今度は猛烈に気分が悪くなってきた。目眩がして、混沌とする中で、先にボビー・ヴィントン&トミー・ローを書いたのですけれど、一体何を書いたのかもさえ覚えてない始末です。

改めてデル&ジーンに取り掛かります。書きたかった話は、またの機会に、ということにして、スパッと全部削除。でも、何も載せないわけにはいかないので、適当に、どうでもいいことを書き連ねて行くことにします。

デルの自決の2年前、ジョニー・ティロットソンとレスリー・ゴーアと3人で、日本公演がありました。今なら、何を置いても駆け付けるところですが、当時はその情報さえ知らなかった。でもYou-tubeで幾つかの画像を見ることが出来ます。デルは凄いなぁ~!現役バリバリですよ。2人より(ビルボード20世紀)ランクは下なのだけれど、実際の力量は遥かに上。5才下のジョニー、12才下のレスリーが、どこかのしょぼくれたオッチャンとオバチャンにしか見えない。「おめでとう!抽選に当たりましたので、一緒にステージで唄って下さい」、と観客席から上がってきたファンみたいです。天下のジョニー・ティロットソンとレスリー・ゴーアを、唯のオッチャンオバチャンにしてしまうほど、デル・シャノンは、溌剌としていて、存在感に溢れています。

ここで、一言弁護の機会を下さい。あるブログに、この公演のジョニーに対して、“まるでチープな結婚詐欺師、レコードとステージの格差があり過ぎる”といった要旨の酷評がありました。その通り、と頷きもしたいのですが、それを言っちゃあいかんです、とういう気持ちもあります。ジョニーの魅力は、また別のところにあるのです。評価の基準の角度を変えて見れば、それなりの魅力を発見出来るはず(年を取ってからのジョニーには、ポップス~オールデイズは唄えない、C&W路線で行くしかないのです)。もとより、デル・シャノンという存在が、他の“元ティーン・アイドル”とは違うのですね。

没後明らかにされた本当の生誕日は、御大エルヴィスより、一週間前。ジョニーやブライアンやピットニーといった、5~10歳下の“ティーン・アイドル”たちと競って行かねばならないジレンマ。年を取ってしまえば、5歳や10歳の差はあってないようなものですが、若い頃は、周囲との1才の差でも相当に大きく感じてしまいます。僕自身、(不登校による)落第や様々な回り道を繰り返し、いつも周囲の人々より年上、という立場だったものですから、そのプレッシャー、焦りたるや、いかに大変であるかということは、身を持って分かります。今思うとおかしなほど重くのしかかっていたのです。

それはともかく、(僕の目には)デル・シャノンは、とても真面目な、物事に真剣に取り組む、かつデリケートな精神を持つ人のように見えます。何度か例に挙げている、80年代中期の12人の「元祖ティーン・アイドル(の今)」のオムニバス・ビデオでは、デルはトミー・ローに続いて2人目に登場、途中自らのギター独奏を交え、「ハンディー・マン」を真剣に唄います。4人目に登場し「涙のくちづけ」を熱唱するブライアン・ハイランドと、どこか共通点を感じるのです。一言で表すと“影”の共有。2人が組んで「ジプシー・ウーマン」を製作したのも、むべなるかな、という気がします。

デルは、ビートルズがアメリカに進出し、初ヒットの「抱きしめたい」を放つ数ヶ月前に、すでに本国イギリスでヒットしていた「フロム・ミー・トゥー・ユー」をカヴァーし、Hot100チャートに送り込みます(11月にPop77位、ビートルズ盤はパブリシング・アンダーにランクされるもHot100圏内には届かず)。これが、アメリカでのビートルズ関連(レノン-マッカトニー作品)の初ヒットとなるわけで、ビートルズの面々もデルに感謝の気持ちを持ち、アメリカ初上陸に際して、いの一番にデルを敬意訪問したと言われています。彼らはその後も、デルには一目を置いていたようで、デル自決直前の、(ロイ・オービソン急悴による後釜としての)「Traveling Wilburys」メンバー招聘の打診にも繋がっているわけです。

デル・シャノンがビートルズならば、ジーン・ピットニーはR・ストーンズ。64年初頭、ストーンズの米初ヒットに先駆けて、ジャガー-リチャード作品の「ザ・ガール・ビロングス・イエスタディ」をHot100チャートにランクイン(2月に49位)。その後もストーンズとは交流を持ち続け、互いに作品を提供しあったり、セッションに参加しあったりします。そのことは、後年のピットニーのイギリスでの人気や、活動にも結びついているはずです。

2006年の春、ピットニーの急悴は、リアルタイムで情報を得ました。ちょうど日本に滞在時、You-tubeでイギリス公演の大量のビデオを見た後で、彼がオールデイズ仲間のうちでは一番元気に溌剌と活動していると、感心していたものですから、ショックも大きかったのです。雲南・ミャンマー国境付近をうろついている時で、しばらくは彼の唄ばかり偲んで聴いていました。訃報は、飛びぬけて充実しているボビー・ヴィーのH.P.のニュースコラムで、ほとんどリアルタイムで知ったのです(ピットニーは、ヴィーの大ヒット曲「ラバーボール」の作者でもあります)。

改めて、ジョニー・ティロットソンのH.Pも見てみましたが、(ボビー・ヴィーのH.P.に比べれば情報量がずっと少ない)彼のH.P.には、一言も触れられていません。でも良く見ると、さりげなく新しい写真が一枚(訃報には触れることなく)加わっていました。ジーンを中央に、左右にジョニーとブライアン・ハイランド。写真のキャプション(今は別のキャプションに変わっている)は、うろ覚えなのですが、“Yang-mans, Good looking & talented”。ハンサムで才能のある若者たち、、、、。“才能”、、、彼ジーン・ピットニーにピッタリの言葉ではないでしょうか。

白い背広をピシッと着込んだジョニー、ギターを抱えたカジュアルな服装のブライアン、彼らはある意味両極端のステレオタイプで分かり易いのですが、二人に肩越しに手をまわしたジーンのいでたちは、表現が難しい、、、、。今で言う、ちょい悪のイタリアン、とでも言えば良いのでしょうか、一言では現わし難い、多様な才能の萌芽が滲み出ているのです。

2000年刊行のビルボード1955~1999年総合ランキング(ここでは仮に「20世紀ランキング」と呼んでいます)では、ジョニー148位、ジーン153位。ジーンがジョニーより下、というのは、どう考えてもおかしいのです。客観的に考えれば、ジーンのほうがずっと上位のはず(得点の集計上、中位のヒット曲が多くある歌手に有利?)。実績的に2人が近い位置にあることは確かなのですが。

アメリカのヒットチャートで事実上の撤退(と言っても他の多くの“狭間の歌手”たちよりは後まで頑張ったのですが)した後も、イギリスでの人気は長く続きます。そのことに於いてもジョニーは遠く敵いません。もっとも、ジョニーの場合は日本でのヒットが多数あったわけで、それを加味することが出来れば、互角ということも出来るのでしょうけれども。

ソング・ライティングの実力は、飛びぬけて凄いですね。もっともっと評価されるべきだと思います。クリスタルズの「ヒーズ・ア・レヴェル」、リッキー・ネルソンの「ハロー・メリールー」、、、、。歴史に残るヒット曲を、多数作っているのです。キャパシティーの広い、マルチな才能は、ポール・アンカやニール・セダカを上回るのではないでしょうか?

才能、そして魅力的、という形容が、まことにふさわしい、ジーン・ピットニーなのです。


Del Shannon
61.03.06(Billboard Hot100初登場日付け)-66.05.14(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:16曲
同Top40ランク曲数: 08曲
同Best10ランク曲数: 03曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:18曲
4チャートのBest10ランク曲総数:03曲


Gene Pitney
61.01.30(Billboard Hot100初登場日付け)-67.01.28(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:21曲
同Top40ランク曲数:15曲
同Best10ランク曲数:04曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:28曲
4チャートのBest10ランク曲総数:08曲




【デル・シャノン/マイ・ベスト10】

●Runaway(悲しき街角)
1961年Pop 1位。説明の必要はないでしょう。67年Pop 112位のニュー・(スロー)ヴァージョンも、オリジナルに劣らないほど素敵です。以下の多くの曲と共に、彼の自作。

●Hats Off to Larry(花咲く街角)
1961年Pop 5位。原題は、街角とは全く関係なし。この後、「So Long Baby」(61年28位)、「Hey! Little Girl」(61年38位)とヒットが続く(日本盤のタイトルには「街角」が付いているはず)も、やがてHot 100ランクから姿を消してしまいます。

●The Swiss Maid(スイスの娘)
1962年Pop 64位、AC 19位。一年ぶりのチャートイン。(後年の“シー・オブ・ラブ”を別とすれば)唯一ACチャートイン曲でもあります。後のC&Wスター歌手、ロジャー・ミラーの作品(co-write)。軽快でコミカルな楽しい曲。ジョニーの大傑作You-tube「ジュディ・ガーランド編:Judy, Judy, Judy」とセットで見ることが出来ます(こちらも素敵です)。

●Little Town Flirt
1962年Pop 12位。この曲で、完全カンバック。日本盤タイトルには、やはり「街角」が付いていたはず。落ち着いたミディアムテンポの、しかし迫力満点の、風格に満ちた曲です。

●From Me to You
1963年Pop 77位。本文参照。

●Handy Man
1964年Pop 22位。黒人Popsシンガー、ジミー・ジョーンズの、2大ヒットの一つ(59年Pop 3位、もう一曲は同年Pop 2位の「素敵なタイミング」)のカヴァー。

●Do You Want To Dance(踊どろよベイビー)
1964年 Pop 43位。翌65年初頭、ビーチ・ボーイズ(珍しくデニス・ウイルソンのリード・ヴォーカル、、、デルとデニスは、どことなくキャラクターがカブルように思うのですが)で再ヒット(Pop 12位)。オリジナルは、後に「スイム」や「カモン・アンド・スイム」のヒットを持つ、黒人ロックシンガー、ボビー・フリーマン(59年Pop 5位)で、彼の自作曲。

●Keep Searchin'(太陽を探せ)
1964年 Pop 9位。「悲しき街角」をリアル・タイムで聴いてはいない僕個人的には、デル・シャノンと言えば「太陽を探せ」。日本でも「悲しき街角」に負けず劣らず、大ヒットしました。デルの自作。

●Move It On Over
1965年Pop 129位。「太陽を探せ」に引き続いて65年初頭「Stranger in Town」をPop 30位に送り込みますが、その後は65年と66年に90位台の小ヒットを各一曲放っただけで、Hot 100から姿を消してしまいます。しかし、作品のグレードはむしろ高まっていて、この年には、ハンク・ウイリアムス作品を集めた、C&Wアルバムも発表、ハンクの魂が乗り移ったような熱唱を見せる、デルの本質がよく表れた意欲作です。アルバムとは別個に、上記の曲がシングルとして発売されています。

●Under My Thumb
1966年 128位。R・ストーンズ・ナンバーのカヴァー。前曲を含め、69年までに計5曲のバブリシング・アンダー・ヒットがあります。

《おまけ》●In My Arms Again
1985年C&W 56位。81年に「Sea of Love」(Pop 33位AC 34位)の一発ヒットを放ったあと、最後にC&Wチャートにも登場します。


【ジーン・ピットニー/マイ・ベスト10】

○Louisiana Mama(ルイジアナ・ママ)
デビューは1959年、Jamie & Jane (Ginny Arnell)とのデュエット。名でのデュエット。その後ソロとなり、7曲目の自作曲「(I Wanna) Love My Life Away」が初ヒット(61年Pop 39位)。次のヒット「Every Breath I Take」(フィル・スぺクターのプロデュース、Pop 42位)との間に、不発曲が一曲あり、それが日本限定の特大ヒットとなった、おなじみのこの曲(ピットニーの自作)です。

○(The Man Who Shot) Liberty Valance(リバティ・バランスを撃った男)
1962年Pop 4位。61年暮になって「Town Without Pity」(Pop 13位)で本国でも大ブレイク。そしてこの曲に続きます(映画とは無関係である由)。

○If I Didn't Have a Dime (To Play the Jukebox)(恋のジュークボックス)
1962年Pop 58位。ピットニー最大のヒット曲「Only Love Can Break a Heart(愛の痛手)」(62年Pop 2位、AC 1位、バート・バカラック&ハル・デビット作)のB面で、ピットニー唯一の両面ヒット曲。僕は、この曲が、彼の最高傑作だと思っています(自作)。

○Half Heaven - Half Heartache(恋の1/2)
1962年Pop 12位、AC 5位。イスラムorヒスパニック的イメージの、バカラック&デビット作品を数多く取り上げヒットさせているピットニーですが、「恋のジュークボック」や「恋の1/2」のような、素直な曲調の作品も、交互に取り上げてヒットさせています。僕の好みから言えば、こちらのスタイルのほうに、より魅力を感じます。

○Mecca(メッカ)
1963年Pop 12位、AC 5位。イスラム的イメージの一風変わった曲。日本でも前作「恋の1/2」と共に、結構ヒットしていたように思います。

○Twenty Four Hours from Tulsa(タルサからの24時間)
1963年Pop17位、AC 5位。「True Love Never Runs Smooth」(Pop 21位、AC 6位)、この曲と、メランコリックな曲調のヒットが続きます。タルサはアメリカ南部の都市。僕の大好きな曲の一つです。

○That Girl Belongs to Yesterday
1964年Pop 49位。ブリティッシュ勢来襲直前のリリース。本文でも述べた、ローリング・ストーンズ、ジャガー&リチャードの、登場作品、ピットニーとの相性はピッタシです。他の多くの“狭間のシンガー”は、この時期の発表曲にチャート高ポジションを記録するも、その後は没落傾向に向かうのですが、ピットニーはちょっと傾向が異なり、ここで中弛みになった(次の「Yesterday's Hero」はPop 64位)後、再び盛り返します。

○It Hurts to Be In Love
1964年Pop 7位。
○I'm Gonna Be Strong(淋しさを忘れよう)
1964年Pop 9位。ビートルズ襲来直前の64年の初頭には“狭間の歌手”たちの大ヒット曲が集中しますが、春以降は急激に減って、主導権が入れ替わってしまいます。その中で、ロイ・オービソンの2曲、デル・シャノンの「太陽を探せ」、それにジーン・ピットニーのこの2曲が、トップ10入りと健闘。

○Princess In Rags(僕のプリンセス)
1965年Pop 37位。65~66年にかけ、「I Must Be Seeing Things」(Pop 31位)、「Last Chance to Turn Around」(Pop 13位)、「Looking Through the Eyes of Love」(Pop 26位)、「Backstage」(Pop 25位)、と、Top 40ヒットが続きます。中でも好きなのが、イギリスでは2位を記録したこの曲。イギリスにおける人気が、この頃から一段と高くなっていきます。

○She Lets Her Hair Down(朝焼けの中で)
1969年Pop 89位。68年に「She's a Heartbreaker」(Pop 16位)の大ヒットを放ったあと、米ラストヒットは、化粧品メイカーとのタイアップ曲。けれんみのない素直な歌声の、とても好感の持てる曲です。

《おまけ》○Mocking-bird Hill
1965年以降、カントリー界のスター歌手、メルバ・モンゴメリーやジョージ・ジョーンズとのデユエットによる、C&Wチャートでのヒット曲が、5曲加わります。シングル・カットはされていないのですが、僕が大好きなのが、You-tubeで聴くことの出来るGeorge&Geneのこの曲。2人の息がぴったりで、楽しさがストレートに伝わって来ます。


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中国旅行情報(10)

2010-10-02 11:22:00 | 自然、中国、花、蝶、
翁水村&貢千山(四川・雲南省境付近)③

①峠への登りにかかる辺りから道は未舗装になって、砂煙りを上げつつ進みます。



②~⑩それにしても、不思議極まりない地形の山です。殊に⑦⑧の森林中ににょっきりと突き出した、鋸の歯の様な稜線?は異様です。






















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My Sentimental Journey(39)

2010-10-02 11:17:59 |  東拉紀行 塔公
東拉紀行 2010.8.9 ⑫

部屋に持ち帰ってヒグラシと2ショット。



帰る前にもう一回カラスアゲハの谷に出掛けます。



サファイアフチベニシジミ(Heliophorus sapir)がいた!



渓谷入口に到着。






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