へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

民意に翻弄される政治

2010年08月22日 04時04分47秒 | Weblog
民主党の党首選びで、小沢一郎が立候補するかどうかが話題になっているようだが、何故菅さんではいけないのであろうか。
先の選挙の直前に消費税引き上げ問題を話題に取り上げ、結果として「選挙に大敗」したことが大きな要因になっているのだろうが、こんな事が原因で党首の首を挿げ替える事が「真の政治のあるべき姿」と言えるのだろうか。
民主党は昨年の選挙のマニフェストで「4年間は消費税を引き上げない」とは言っていたものの、「永久に引き上げない」とは言っておらず、いずれは引き上げなくてはならなくなることを示唆しており、そのためには「それ相応の準備期間が必要」だと言う事を理解しなくてはいけないのだが、選挙で票を失うことを恐れる「政治屋」たちは、「有権者の理解を得る努力」と言うものを全くしようとはしない。
これは私の個人的な考え方ではあるが、政治家とは「一般国民を正しい方向に導く指導者」であらねばいけないと思っているのだが、現実には、指導者ではなく「有権者の顔色を伺う風見鶏」に成り下がっている。
現実の話として「落選すれば職を失う」のであるから、「有権者の顔色を伺う」と言うことが最も重要なことになってしまうのは仕方ない?事で、結果として「長期の展望に立った政策」など立てることは不可能で、「目先の風(民意)で向きを変える風見鶏」にしかなれないのである。
この事を言い換えるなら「政治屋は有権者の操り人形」と言う事にもなり、操り方が悪いととんでもない事になるのは仕方ない事で、小泉以後、安部、福田、麻生、鳩山、菅・・・・と、短い間に次々と総理大臣の首を挿げ替えては見たものの、「どれも気に入らない」と思っている国民が殆んどだろうが、現実の話、現在の世界情勢を考えれば「誰が総理になっても結果は大同小異」でしかないだろう。
「民意を政治に反映させる」と言うと一見素晴らしい事のように感じるのだが、このように考えると、現実は、殆んどの民意は「我田引水型」でしかなく、自分の田により多くの水を引き入れてくれる政治家(屋)が「良い政治家」になってしまうのである。
かつて存在した「コメ議員」などがその典型的な例で、企業献金も「広い意味の民意」と考えるべきで、「見返りを求めない献金」など存在しないと思うべきで、広い意味で考えれば「有権者の票も献金の一種」と考えなくてはいけないだろう。
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