へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

「多数」と言う名の「数の暴力」

2007年09月16日 23時08分55秒 | Weblog
何事も、数が多いか少ないかで決まる世の中。
本当にこれで良いのだろうか?。
一体、数が多いか少ないかは、何を基準に考えているのだろうか?。
選挙のたびに「一票の格差」が問題になる。
大都会の一票と、地方の一票が同じに扱われている。
これで良いのだろうか?。
大都会がどれほど地方(過疎地)の恩恵に浴しているか考えて欲しい。
私が住んでいる地域は、中間的な場所にある。
大都会でもないが地方でもない。
大都会に住む人たちは、食料や水・電力等、生活必需品の多くを地方(過疎地)に依存している。
しかし、大都会に住む人たちは、地方の為に何をしたであろうか?。
水源地の保全、農・林業の維持、・・・・。
いずれの問題にも、「知らぬ顔の半兵衛」である。
これが出来るのも、大都会に住む人間の数。
数に物を言わせて、自分達の主張を押し通す。
タイトルに書いた「数の暴力」である。
今の政治のやり方で行くと、「地方には住むな!」と言うのと同じである。
農・林・漁業の後継者がどんどん減ってきている。
このまま減り続ければ、やがては農・林・漁業をする人がいなくなってしまうのでは?。
「そうなったら、外国から輸入すればいい」と言う人もいるだろう。
一時的であれば、輸入でしのぐ事も出来るだろうが、輸入する為のお金はどうするのだろう?。
現在は安く手に入るものが多いが、これからは「そおは問屋が卸さない」と言いたい。
すでに、バイオ燃料の影響が出始めている。
そして、かつては穀物の輸出国だった中国が、今では輸入国になっているのである。
同じ様な国が、これからも出てくるだろう。
原油もまた然り。
簡単に輸入できない時代が来るだろう。
それよりも「水」はどうなるのだろう?。
水源地を守る人たちがいなくなった時、・・・・・・。
それが現実の問題になる頃には、私はこの世にいないであろう。
私が何をどうこうと言って見ても、大都会に住む人間の数の前では無力である。
この問題を取り上げる人は、極僅かである。
そして、仮に取り上げたとしても、大都会に住む人の数に押しつぶされ、何処かに消えてしまうのだ。
数の持つ力は、正しく使えば問題ないのだが、使い方を間違えると「数の暴力」になってしまう。
現代社会では、多くの場合「数の暴力」になっているように感じる。
確か、「民主主義の基本は、相手の話を聞く」ではなかっただろうか?。
「自己主張だけして、相手の話しを聞かない」と言う社会は、「民主主義国家」とは言えないのではでは?。
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