へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

群盲象をなでる  その2

2007年09月30日 04時27分31秒 | Weblog
昨日は爆笑問題と、慶応大学の教授について書いたのだが・・・。
こんな事は、今の世の中では至る所で、「極あたり前」に行われている。
政治の世界だけでなく、一般市民でさえも気が付いていない。
各人(党)各様に、言いたい事を言っている。
どの意見、主張にもそれぞれ根拠があり、その問題だけを考えれば「間違えではない」かも知れない。
しかし、現実の世界で、物事がそんなに単純に運ぶのであろうか?。
様々な事が「複雑に絡み合っている」はずである。
個別に考えれば間違っていない問題も、総合的に考えた時には「間違い」と言う事だってある。
日本の行政でよく言われる「縦割り行政」。
横のつながりナシに行われる為、何か問題が起きたときには「責任のなすりあい」と言う事になる。
「長期的視野」に基ずいた考えが無いので、政権が変わるたびに政策もコロコロと変わってしまう。
「政府が悪いのだ」と言うのは、「天に唾する」事と同じである。
「明るい日本」も、看板を下ろしてしまった。
新しい政権だけではなく、それ以外の党も、「口にする政策」は、気まぐれな有権者の気を引こうとするものばかり。
政治だけが悪いのではない、「目先の私利私欲」にしか目が行かない有権者にも「責任の一端」があるのだ。
何人もの人と話しをしてみたが、全て自分に都合の良い要求をするばかり。
そして、「当の本人」は何もしないのである。
「都合の良い要求」だけをして、その要求が実現しなければ「文句」を言う。
国民がこれだから、日本と言う国が悪くなるのは「当然の事」と言うべきだろう。
「美しい日本」など出来るわけが無い。
「物があふれる豊かな国?」になった代わりに、「心が貧しく」なってしまったのだ。
「物質社会」を手に入れるために、心を売り払ってしまったようなものである。
「日本人は頭が良い」等と言われたのは。一体何時の事であったろう?。
「幻影」であったのかもしれない。
「私も後何年生きられるであろうか?」。
「生き延びられるだろうか」といった方が良いかもしれない。
少しでも長く「平穏な社会」が続いて欲しいものである。
出来る事なら、私の予側が外れてくれればよいのだが。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 群盲象をなでる | トップ | 「群盲」は差別用語だったん... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事