一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

思想の森林浴

2006-01-29 | 乱読日記

久しぶりに本の紹介。
この前「贈与なんです、学術性の本質は」で紹介した内田樹さんと、同遼の神戸女学院大学教授の難波江和英氏と共著の「現代思想のパフォーマンス」

ソシュール、ロラン・バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードについて「案内編」「解説編」「実践編」に分け思想の解説だけでなくその思想を「ツールとしてどのように使うか」の実例(パフォーマンス)を示した本。
内燃機関の原理が分からなくても運転の仕方がわかれば自動車が動かせるように、現代思想について「それを使うと何ができるのか」をわかりやすく解説してくれています。

私がいちいち解説するよりは内田先生の「あとがき」から引用すると

 すぐれた学術的方法は、それぞれが創始者の「夢」の刻印をとどめている。だから、私たちは素直にこう問えばいいのである。
「ねえ、これ何する道具なの?」
 それが学知に対する、いちばん礼儀正しい向き合い方だと私は思う。

本書執筆にあたって心した二つめの点は、「世界の成り立ち方、人間の在り方について、賢い人はだいたい誰も同じような事を言っている」という揺るがぬ確信を貫いたことである。
 バルトとレヴィ=ストロースとラカンが「だいたい同じこと」を言っているというと驚く方がおられるかもしれないが、これは本当である。『アンナ・カレーニナ』の有名な一節を借りて言えば、「愚かしさの態様には限りがないが、賢さはどれも似ている」のである。
 本書に取り上げた思想家たちはいずれも希代の賢者たちである。彼らが「人間とは何か」と問うとき、その答えが似てくるのは当たり前であると私は思う(ひとりずつ違っていては私たち凡人の立つ瀬がない)。

ちょうど僕が学生の頃「ニューアカ」ブームなどがあり、僕もご多聞に漏れず構造主義だポスト構造主義だのという本のツマミ食いをしたところ、もともとちゃらんぽらんで飽きっぽくて天邪鬼な性格に「意味は関係性から生じる」というようなところがフィットし、一時期ちょっと凝ったことがありました。

ただ、それが「学知」として定着することはなく、その後もちゃらんぽらんな人生を送ってきたわけですが、この本を読んで自分の考え方にも昔のツマミ食いの残滓が残っているなぁ、と懐かしく思うとともに、フーコーやロラン・バルトの思想をかいつまんで説明できることが重要なのではなく、それを使ってどういうものの考え方ができるのかが大事、と言ってもらったことでちょっとは勇気付けられる感じがしました。

昔、長嶋監督の指導について選手の誰かが「こう構えてバァーンッっと打つんだ」と身振り手振りで教えてもらうと、そのときはすごく分かった気になるんだけど、翌日になると思い出せなくなってしまう、という話をテレビで見た記憶があります。
それと同じで、難しい思想書も読んだ直後はすごくわかったつもりになっても、あとで何を言っていたかかいつまんで説明しろといわれても全然できなかったりするのですが、その中で考え方のエッセンスを頭の片隅に取り込めればいい、と考えればいいんですね。
長嶋監督の指導も、潜在意識への刷込みとして効果を上げているんじゃないでしょうか。

思想を理解するのにはそもそもキャパシティの少ない自分の頭で全体像理解しようとするのでなく、森林浴のように自分の思考回路にエキスを取り込むくらいの気持ちでいいんだ、などと自分勝手に納得してしまいました。
 







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