一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

久しぶりに裁判員制度の報道

2008-03-17 | 裁判員制度

市民とプロになお隔たり 模擬評議で浮き彫り
(2008年3月16日(日)22:29 朝日新聞)

模擬裁判員をやって以降関心を持っている問題です(私の感想のまとめはこちら参照)。

上のリンクの先のasahi.comの記事には2つエピソードが載っています。

市民裁判員役の20代の女性は、被告の母親が「この子が出所したら、家族として迎え入れて普通に暮らしたい」と述べたことに強く反発。「他人の家族を壊しておいて、『普通に暮らす』とは虫がよすぎるんじゃないか」との理由だった。  

この様子を別室のモニターで見ていた検察官や弁護士は驚いた。「身元引受人がいるのは被告にとってプラスの情状のはずなのに」「僕らのこれまでの常識が通用しない。裁判官より裁判員の方が犯罪に厳しい」

これは「身元引受人がいるのは被告にとってプラスの情状」というのは法律には書いてないわけですが、にもかかわらずそういう相場が出来上がったのには合理的な理由があるはずで、被告人に有利な情状なら弁護士が、不利な情状なら検察官がそれを説明する必要があると思います。
そのために一般国民を裁判員にしたわけですし、国民感覚と慣行がずれていないかどうかを検証するためにも必要だと思います。
私の体験では 「予備的反省」というのがどうもしっくりきませんでした(参照)。

検察側の求刑は懲役10年。それぞれが量刑を投票した結果、判決は「懲役7年」となった。だがその後、裁判官が過去の同じような事件の判決を紹介。再び投票したところ、量刑は「懲役8年」に。裁判長は「できるだけ市民の意思を尊重した」としながらも、「どこかで過去のデータを示さないと、同種事件で裁判所ごとに判決が変わってしまう」と指摘する。

量刑については正直言って素人には難しいと思いました(参照)。
国民の感覚を反映といっても、人生で1回しか行わない量刑を、法定刑の幅の中で決めろと言われても、一般の相場がないと自分の価値観との比較にしかならなくなります。
特に日本の法定刑は幅が広いので、そもそも殺人に懲役5年相当のものと死刑相当のものがある、ということ自体「市民感覚」(少なくとも私の感覚)からはずれていると思います。
アメリカのように構成要件を細かく分けて、それぞれに範囲の狭い法定刑を定めるような方式でないと混乱しそうな感じがします。


最近マスコミ報道でもあまり話題にならないのですが、このままいきなり「裁判員に選ばれました」と言われるようなことにはならないことを願います。

 


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