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日本は本当に素晴らしい国だった。(許國雄さん)

2012年06月23日 01時57分01秒 | 無題

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

戦前の日本の教育がいかに素晴らしかったかが解ります。それを失った日本は、国民がどんどん利己主義的になって、愛国心すら曖昧になっていますが、この記事の許國雄(きょこくゆう)さんや、先日の記事の崔三然(さい・さんぜん)氏、さらには、パラオのイナボさんのように、今も日本を慕ってくれる人々は、もう一度日本が誇り高い国となることを心から望んでくれています。

おそらく、彼らの心の中には、心の祖国として の日本が、今もしっかりとあるのでしょう。かつては日本人として生れ、戦前までは日本人としての誇りを持って生きて、今も愛する日本として大切に思っていらっしゃるから、日本の現状が一層歯がゆくなるのでしょう。

そんな元日本人の方々に、私たちは日本人として、しっかりと生きる義務を負っているような気がするのです。終戦後に、祖国でなくなった日本を、8月15日を境に急に他国だと思えというのは、きっと人間の心はそんなに器用には出来ないものだったでしょう。そして、今も尚日本のことを思い続けて下さる方々に、私たちが日本という祖国を自虐史観で貶めていることは、元日本人たちの心を傷つけていたのではないでしょうか。彼らが元日本人であることを誇りに思えるような、そんな日本人としての真っ当な自覚をもって、日本の伝統文化を継承していきたいものです。

 

 

                      台湾に寄贈されたさざれ石
 
許國雄(きょこくゆう)さんは大正11年に台湾海峡中の澎湖諸島に生まれました。
その後、高雄市に移り、小学、中学を卒業し日本の九州歯科医学専門学校、九州高等医学専門学校に学びました。このため、國雄さんはご自身を「九州男児」だと言っていました。
九州にいるときに大東亜戦争が起こり、そして終戦。
國雄さんは大日本帝国臣民から中華民国の国民となりますが、「自分は日本人である」とのおもいはなかなか断ち切れませんでした。そして、台湾に帰った國雄さんは現実を見ます。
1947年、台湾で2・28事件が起きて父が殺されたのです。
 
1961年、台湾は戒厳令下で罪のない台湾人が投獄されたり銃殺されたりしていました。
そういう中、蒋介石の息子である蒋経国から2・28事件の話を聞きたいと言われ、
「台湾人の本当の気持ちを伝えることができれば殺されても本望だ」と思い、2・28事件の体験をすべて話しました。
「今の政治は、改革されねばなりません」。
それに対して蒋経国はこう言いました。
「あなたの話はよく分かりました。あなたの力を借りたい。あなたも国民党に入って私と一緒に党を改革しようじゃありませんか」
國雄さんは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」で、敵である国民党に入党して内部から改革していこうと決めました。さらに蒋経国の後をついで国民党総統となる李登輝氏を始め、多くの台湾人が改革の志を抱いて国民党に入党しました。
國雄さんは高雄医学院の医学部や歯学部で教鞭をとるうちに、教育への情熱がかき立てられ、自分で学校をやってみたいと思うようになります。
1963年、看護婦・助産婦を育成する育英高級護理助産職業学校を設立。
1966年には東方工芸専科学校を創設しました。
 
國雄さんの創設した学校では毎日朝礼を行い国旗「青天白日旗」を掲揚して台湾への忠誠心を養うと同時に「大和魂」の教育を目指しました。台湾で最初の日本語学科も新設しました。
 
当初は高級官僚や政治家の息子もいました。悪いことをした生徒には容赦なく殴りました。
「君は本来よい学生だけど、今のはよくない」と言って3回殴りました。
1回目は国に代わって殴り、2回目は父親に代わって殴り、3回目は母親に代わって殴る。
不思議なことに殴られた学生ほど、卒業してから立派になり國雄さんに報告に来ました。
 
校舎の一部には日本間があり、そこには神棚と教育勅語が額に入れて掛けてあります。
國雄さんは言います。
「日本は昭和23年の国会で教育勅語が取り止めになったのは残念です。教育勅語で日本の教育が成長したんです。父母に孝に兄弟に友に、夫婦相和し朋友相信じ…。 もういっぺん日本は教育勅語をやり直すべきです。戦後の日本には教育勅語がないから「夫婦相和」さず離婚率が高いのです。「朋友相信ジ」ないから、「いじ め」が絶えないのです。「博愛衆ニ及ボ」さないから電車で老人に席を譲らないし、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」る精神が失われたから、利己的な人間が増 え国全体の名誉が蔑ろにされてしまうのです」
 
大正12年、昭和天皇が皇太子の時に台湾に行啓されました。
南の高雄、さらには隣の屏東(へいとう)まで行かれる予定でしたが、その地には伝染病が蔓延していたために、行啓反対の声が強く出ました。
しかし皇太子殿下は「そこも我が国であり、我が民がいる」と言われました。それを聞いた屏東の人々は大変感激して、嘉義の山から蓬莱竹を9本苅ってきて天幕を作り、家々に日の丸を掲げて盛大にお迎えしました。
竹は枯れて淡黄褐色に変色し、芽が出ないように逆さまに地面に差してありましたが、不思議な事に皇太子殿下行啓の時には小さな新芽が出ていました。植物学者である皇太子殿下はこの新芽に目をとめられ、優しく撫でられました。
 
皇太子殿下が帰られてから、この新芽が成長し続けました。地元の人は「不思議な事よ」と、地面に植え直すと大きな竹林に成長し「これは瑞祥だ」として瑞竹 と呼ぶようになりました。
しかしこの瑞竹は国民党政府の反日政策によって苅られると思い、國雄さんはその一部を密かに自分の東方工芸専科学校の正門前に移植しました。これは戒厳令下の国民党政府に知られると親日的と見られ、危険な行為でした。
 
1972年7月、國雄さんは教育会の理事長に任命されました。
12月には教育会の推薦で国民大会代表(国会議員)に立候補するとトップ当選となりました。
その後、教育会理事長と国民大会代表とも14年間勤め上げます。
國雄さんは教育事業、教育改革を自らの使命として取り組みますが、常に念頭にあったのは日本時代に培った「大和魂」でした。
 
ある時、教科書会社が國雄さんに「自分の会社の教科書を使って欲しい」と賄賂を持ってきたことがありました。日本統治時代の台湾ではこうした賄賂はありませんでしたが、
戦後は支那大陸の賄賂文化が持ち込まれて台湾中で起きていました。
「私は日本教育で、それも九州の久留米で勉強した九州男児だ。こんなものを受け取れるか」
と言って、國雄さんは賄賂を突き返しました。
國雄さんの世代の台湾人にとって日本の教育を受けたというのは一つの自慢です。
お金は無くとも、清く正しく生きていくこと。
それは日本統治時代に受けた「日本教育のお陰だ」と國雄さんは言います。
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1988年1月、蒋経国 国民党総統が突然逝去します。副総統だった李登輝氏が党内選挙に勝って初の台湾人総統となります。李登輝氏は京都大学出身、自ら「二十二歳まで日本人だった」と言います。國雄さんは同じ元日本人として応援します。
1996年、台湾で最初の総統選挙が行われ、再選を狙う李登輝氏は主張します。
「台湾と中国とは別の独立国家だ」
その再選を阻もうと中国政府は台湾近海にミサイルを撃ち威嚇します。しかし、これは逆効果でした。李登輝氏は約1千万の有権者のうち、6百万票を獲得し圧勝しました。
 
「今の台湾を支えているのは日本の教育を受けた人たちです。日本の年配者と同じく若い頃に大東亜戦争を体験し、防空壕を掘ったりして鍛えられた人が今の台湾のリーダーになっています。あれほどの中共のミサイル威嚇にも、誰一人として逃げようとはしませんでした。全く落ち着いています。逃げないのみならず、中立の浮動票はみんな李登輝氏の方に流れてしまいました。ミサイルが一発でも命中すれば多くの台湾人が死にます。恐ろしくないわけがありません。しかし台湾人は『忍』の心で徳川家康のように黙って独立の機会を待つ李登輝氏に投票しました」
 
國雄さんは日本の教育から学んだ大和魂を大切に生きてきました。このような夢も語っていました。
東方法商学院大学という学校を創り、2トンもあるさざれ石を置いた「大和公園」、日本の書籍の蔵書では台湾一を誇る「大和文庫」をつくりたい。
しかし國雄さんは2002年にご逝去されました。
 
許國雄さんは亡くなる前にこのようなことを話していたそうです。
「「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉」ずる精神が失われたから「陸軍記念日」も祝われず、国会で謝罪決議さえ行うのです。台湾には大和魂があるから選挙の時に中共から台湾沖にミサイルを三発撃ち込まれても、ビクともしませんでした。
能登半島沖に北朝鮮からノドン一号が打ち込まれましたが、日本の反応はいかがでしたか」
 
 
 
 
 
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