美しい国からの転載です。伊勢神宮の式年遷宮は、20年ごとに内宮、外宮のお社を建て替える行事です。これは1300年も前から行われているお祭りです。心を込めて、一つ一つの作業が行われ、柱となる木材を運ぶ「御木曳(おきひき)」と呼ばれる行事など、多くの人々が民族の神聖な祭りに参加する喜びでわきかえります。日本の、神道の清浄感、明朗さ、その極みを感じるようなお祭りです。記事の文章や、動画から、日本民族の感性のかたちが伝わってくるような気がします。
新たに造り替えられ、白く輝く内宮の御正殿(平成五年の第六十一回式年遷宮で)
来る平成二十五年には第六十二回目の御遷宮が行われます。
神宮式年遷宮 は二十年ごとの日本民族の再生を意味します。
神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)とは、悠久(ゆうきゅう)二千年の時を超えて、今もなお清々(すがすが)しい神気漂う伊勢の神宮最大のお祭りです。
式年遷宮の制度は、今から約千三百年前に第四十代天武(てんむ)天皇の御発意により、次の第四十一代持統(じとう)天皇の御代四年に皇大神宮の第一回目の 御遷宮が行われました。以来、長い歴史の間には(室町・戦国時代)に一時の中断はありましたが、二十年に一度繰り返され今日に至っています。
遷宮とは、上記の画像のように、新しいお宮を造って大御神(おおみかみ)にお遷(うつ)りを願うことです。
式年とは定められた年を意味し、神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、二十年に一度同じ形の御社殿を交互に新しく造り替えます。また神さまの御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)も新しく調製されます。
「式年(しきねん)」とは前にも述べましたが、「定められた年」という意味です。二十年に一度というのは、人生の一区切りと考えられ、一世代を意味します。
技術や思想を伝承するためにも合理的な年数とされ、御社殿の建築に携わる宮大工をはじめ、御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)をつくる職人たちが技法を学び、技術を高め、その技術を若い弟子に伝えるためには年月が必要とします。
二十代で弟子入りして、技術を習得し、四十代で熟練工として活躍し、そして六十代で指導者になるという営みを繰り返してきました。平均寿命の短かった昔にも同じことが言えるでしょう。
式年遷宮が行われた第四十一代持統天皇の御代(みよ、約千三百年前)には、世界最古の木造建築として今なお現存する法隆寺は、すでに建造されていました。
当時の技術を持ってすれば、半永久的な御社殿を造ることが出来たはずです。しかし神宮では、二十年に一度、御社殿を造り替え続けていく式年遷宮の制度を守り伝えることで、日本の文化を絶やすことなく次の世代に伝え、「悠久」を目指しつづけてきたのです。ここに日本民族の先人の叡智(えいち)が窺わます。
先に述べましたが、式年遷宮(しきねんせんぐう)は国を挙げての最大のお祭りで す。しかし、戦後は神道指令により、政府と神宮の関係が断たれましたので、国民の真心込めた浄財によって御奉賛申し上げる事になりました。今回の第六十二 回式年遷宮には約五百五十億円の費用がかかり、そのうちの三分の一程度を募財しています。
神宮大宮司を総裁とする「神宮式年造営庁」が神宮司庁内におかれ有識者からなる大宮司の諮問機関「遷宮委員会」が設置され、さらに「(財)伊勢神宮式年遷 宮奉賛会」が結成され、各都道府県においてもの地区本部が組織化されます。この記事をご覧の皆様の地元の神社の神職・総代が、奉賛をご依頼の際には、ご協 力をお願い致します。
式年遷宮において新しくなる建物は、皇大神宮、豊受大神宮の御正殿と、東宝殿・西宝殿・御饌殿(みけでん)・外幣殿(げへいでん)・四丈殿・宿衛屋などの殿舎に、これらを取り囲む四重の御垣と御門、そして十四の別宮。
遷宮に必要な御用材の檜は約一万平方メートル、一万本あまり、なかには直径一メートル余り、樹齢四百年以上の巨木も用いられます。屋根に葺く萱(かや)は 二万三千束、神宮の萱山で十年がかりで集められます。昔は神宮備林が木曽の山にあったそうですが、今は国有林となり、次第に良い材料調達するのも困難に なっていとのことです。そこで、神宮では大正時代の末から二百年計画で神宮宮域林において檜を育成しています。宮大工や、屋根を葺く職人の養成など、技術 的な伝承についても考えなければならない時代にもなっています。
上記でも述べましたが、式年遷宮には約八百種、 千六百点の御装束・神宝を古式により新しく作りお供えいたします。これは平安時代に定められ、その時代の最高の刀工、金工、漆工、織工などの美術工芸家に 調製を依頼します。太刀の原料の玉鋼(たまはがね)も入手困難ですし、砂鉄をたたらで操作する和鉄精錬の技法も継承者が少なく、草木などを用いる染色家も 少なくなり、技術の保全が実に困難になっており、やはり伝承技能の維持・継承が大きな課題となっています。
当代の至高の材料・技術をもって大御神さまにお供えするということは、伝統文化・技術の継承であり多くの国民の誠の結晶であり、先人の叡智、魂をも継承することです。
「式年遷宮」は、建て替えのご用材を山から伐り出す安全を祈る山口祭というお祭りを皮切りに、平成二十五年十月の「遷御(せんぎょ)」の儀が行われるまでの八年間にわたって数多くの祭典や行事が行われます。
遷御の儀は、今の御社殿から新しく立て替えられた御社殿へ大御神さまにお遷りいただくお祭りで、夜すべての灯りが消された浄闇(じょうあん)の中、百名を越える束帯や衣冠に身を包んだ奉仕者が付き従い、荘厳な古代絵巻が繰り広げられます。
「式年遷宮(しきねんせんぐう)」には、たくさんの祭典や行事がありますが、一般国民が参加できる行事は二つあります。 「御木曳(おきひき)行事」と「御白石持(おしらいしもち)行事」です。この二つの行事は、数ある遷宮の行事の中でも、唯一私たち国民が関わることができ る行事です。
(1/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―
(2/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―
神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)とは、悠久(ゆうきゅう)二千年の時を超えて、今もなお清々(すがすが)しい神気漂う伊勢の神宮最大のお祭りです。
式年遷宮の制度は、今から約千三百年前に第四十代天武(てんむ)天皇の御発意により、次の第四十一代持統(じとう)天皇の御代四年に皇大神宮の第一回目の 御遷宮が行われました。以来、長い歴史の間には(室町・戦国時代)に一時の中断はありましたが、二十年に一度繰り返され今日に至っています。
遷宮とは、上記の画像のように、新しいお宮を造って大御神(おおみかみ)にお遷(うつ)りを願うことです。
式年とは定められた年を意味し、神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、二十年に一度同じ形の御社殿を交互に新しく造り替えます。また神さまの御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)も新しく調製されます。
明治天皇陛下の御代のことです。当時の芳川内務大臣と田中宮内大臣の二人が、神宮の式年遷宮に必要な御用材の不足を理由に、土台に礎石を置き、コンクリートで固めれば二百年は保つことが出来ると、明治天皇に上奏(じょうそう)しました。
しかし、明治天皇陛下は、この上奏をお聴きとどけになられないで、質素な御造営に祖宗建国の姿を継承すべしと、お諭(さと)しになられ、二十年ごとに斎行される式年遷宮の大切さをお説きあそばされたのです。
明治天皇陛下は次のような御製(ぎょせい)をお詠みあそばされた。
しかし、明治天皇陛下は、この上奏をお聴きとどけになられないで、質素な御造営に祖宗建国の姿を継承すべしと、お諭(さと)しになられ、二十年ごとに斎行される式年遷宮の大切さをお説きあそばされたのです。
明治天皇陛下は次のような御製(ぎょせい)をお詠みあそばされた。
いにしへの姿のままにあらためぬ
神のやしろぞたふとかりける
神のやしろぞたふとかりける
この式年遷宮の制度こそは、天武天皇が崇高なご精神でお定めになって以来、万代不易の制度として伝えてゆかねばなりません。
式年遷宮の制度が確立された時代の歴史的な背景は、仏教や儒教など外来の文化を積極的に受け入れた遣唐使などによる文明開化の花盛りの時代でした。。こうした中で、日本固有の文化を堅持し、日本本来の精神を自覚する、最も確かな方法が、この式年遷宮の制度でした。
二十年に一度、御社殿を新しく造り替える式年遷宮は、皇租の天照大御神が常に瑞々(みずみず)しくあってほしいと願う表象でありますが、同時に私たち日本民族の「いのちの甦り」の祈りが込められているのです。
式年遷宮の制度が確立された時代の歴史的な背景は、仏教や儒教など外来の文化を積極的に受け入れた遣唐使などによる文明開化の花盛りの時代でした。。こうした中で、日本固有の文化を堅持し、日本本来の精神を自覚する、最も確かな方法が、この式年遷宮の制度でした。
二十年に一度、御社殿を新しく造り替える式年遷宮は、皇租の天照大御神が常に瑞々(みずみず)しくあってほしいと願う表象でありますが、同時に私たち日本民族の「いのちの甦り」の祈りが込められているのです。
神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)は「皇家(こうけ)第一の重事(じゅうじ)」といわれ、戦前は国費で行われていたほど、日本の国にとって極めて重要なお祭りです。
神宮の建物は、掘立柱(ほったてばしら)に萱葺(かやぶ)き屋根という素朴で清純な建物です。神道は清らかさを重んじますが、大御神(おおみかみ)さまに常に清浄な所にお鎮(しず)まりいただくために遷宮は行われます。
常に瑞々(みずみず)しく、尊厳を保つことによって、神さまの御神徳(ごしんとく)も昂(たかま)ります。その御神威(ごしんい)をいただいてこそ、私たちの生命力が強められるという、日本民族の信仰心の表れなのです。
日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。
神宮の建物は、掘立柱(ほったてばしら)に萱葺(かやぶ)き屋根という素朴で清純な建物です。神道は清らかさを重んじますが、大御神(おおみかみ)さまに常に清浄な所にお鎮(しず)まりいただくために遷宮は行われます。
常に瑞々(みずみず)しく、尊厳を保つことによって、神さまの御神徳(ごしんとく)も昂(たかま)ります。その御神威(ごしんい)をいただいてこそ、私たちの生命力が強められるという、日本民族の信仰心の表れなのです。
日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。
エジプトのピラ ミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、 しかし、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術は勿論のこと、さらには、信仰や精神も消 滅しているのです。
しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくとい う努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。結果として、物が常に瑞々しい形を保ち続けるとともに、技術も継承され、物も心も永く久 しく伝えてきたのです。 式年遷宮の考えは日本民族の叡智(えいち)として世界から賞賛されています。
しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくとい う努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。結果として、物が常に瑞々しい形を保ち続けるとともに、技術も継承され、物も心も永く久 しく伝えてきたのです。 式年遷宮の考えは日本民族の叡智(えいち)として世界から賞賛されています。
明治以降は神宮式年遷宮にあわせて架け替えられていた宇治橋、昭和24年に架け替えられ、以降は神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになりました。別名御裳濯橋(みもすそばし)ともいいます。
平成21年11月3日、宇治橋渡始式、渡女は三世代健在の一族の女主人が務められま した。これは長命を寿(ほとと)ぎ、三世代であることが和合を意味する呪い(まじない)である。参列員は全国の三代夫婦61組である。写真の先頭あたりを 歩かれる緋袴の方が齢81歳の渡女(わたりめ)です。伊勢在住で、三世代健在でお孫さんまで参列できる崇敬心篤い人が選ばれました。
宇治橋渡始式での神宮御祭主、池田厚子さま。旧名、順宮 厚子内親王(よりのみや あつこないしんのう)殿下、畏くも今上陛下の姉にあたられます。
「式年(しきねん)」とは前にも述べましたが、「定められた年」という意味です。二十年に一度というのは、人生の一区切りと考えられ、一世代を意味します。
技術や思想を伝承するためにも合理的な年数とされ、御社殿の建築に携わる宮大工をはじめ、御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)をつくる職人たちが技法を学び、技術を高め、その技術を若い弟子に伝えるためには年月が必要とします。
二十代で弟子入りして、技術を習得し、四十代で熟練工として活躍し、そして六十代で指導者になるという営みを繰り返してきました。平均寿命の短かった昔にも同じことが言えるでしょう。
式年遷宮が行われた第四十一代持統天皇の御代(みよ、約千三百年前)には、世界最古の木造建築として今なお現存する法隆寺は、すでに建造されていました。
当時の技術を持ってすれば、半永久的な御社殿を造ることが出来たはずです。しかし神宮では、二十年に一度、御社殿を造り替え続けていく式年遷宮の制度を守り伝えることで、日本の文化を絶やすことなく次の世代に伝え、「悠久」を目指しつづけてきたのです。ここに日本民族の先人の叡智(えいち)が窺わます。
先に述べましたが、式年遷宮(しきねんせんぐう)は国を挙げての最大のお祭りで す。しかし、戦後は神道指令により、政府と神宮の関係が断たれましたので、国民の真心込めた浄財によって御奉賛申し上げる事になりました。今回の第六十二 回式年遷宮には約五百五十億円の費用がかかり、そのうちの三分の一程度を募財しています。
神宮大宮司を総裁とする「神宮式年造営庁」が神宮司庁内におかれ有識者からなる大宮司の諮問機関「遷宮委員会」が設置され、さらに「(財)伊勢神宮式年遷 宮奉賛会」が結成され、各都道府県においてもの地区本部が組織化されます。この記事をご覧の皆様の地元の神社の神職・総代が、奉賛をご依頼の際には、ご協 力をお願い致します。
式年遷宮において新しくなる建物は、皇大神宮、豊受大神宮の御正殿と、東宝殿・西宝殿・御饌殿(みけでん)・外幣殿(げへいでん)・四丈殿・宿衛屋などの殿舎に、これらを取り囲む四重の御垣と御門、そして十四の別宮。
遷宮に必要な御用材の檜は約一万平方メートル、一万本あまり、なかには直径一メートル余り、樹齢四百年以上の巨木も用いられます。屋根に葺く萱(かや)は 二万三千束、神宮の萱山で十年がかりで集められます。昔は神宮備林が木曽の山にあったそうですが、今は国有林となり、次第に良い材料調達するのも困難に なっていとのことです。そこで、神宮では大正時代の末から二百年計画で神宮宮域林において檜を育成しています。宮大工や、屋根を葺く職人の養成など、技術 的な伝承についても考えなければならない時代にもなっています。
上記でも述べましたが、式年遷宮には約八百種、 千六百点の御装束・神宝を古式により新しく作りお供えいたします。これは平安時代に定められ、その時代の最高の刀工、金工、漆工、織工などの美術工芸家に 調製を依頼します。太刀の原料の玉鋼(たまはがね)も入手困難ですし、砂鉄をたたらで操作する和鉄精錬の技法も継承者が少なく、草木などを用いる染色家も 少なくなり、技術の保全が実に困難になっており、やはり伝承技能の維持・継承が大きな課題となっています。
当代の至高の材料・技術をもって大御神さまにお供えするということは、伝統文化・技術の継承であり多くの国民の誠の結晶であり、先人の叡智、魂をも継承することです。
「式年遷宮」は、建て替えのご用材を山から伐り出す安全を祈る山口祭というお祭りを皮切りに、平成二十五年十月の「遷御(せんぎょ)」の儀が行われるまでの八年間にわたって数多くの祭典や行事が行われます。
遷御の儀は、今の御社殿から新しく立て替えられた御社殿へ大御神さまにお遷りいただくお祭りで、夜すべての灯りが消された浄闇(じょうあん)の中、百名を越える束帯や衣冠に身を包んだ奉仕者が付き従い、荘厳な古代絵巻が繰り広げられます。
「式年遷宮(しきねんせんぐう)」には、たくさんの祭典や行事がありますが、一般国民が参加できる行事は二つあります。 「御木曳(おきひき)行事」と「御白石持(おしらいしもち)行事」です。この二つの行事は、数ある遷宮の行事の中でも、唯一私たち国民が関わることができ る行事です。
「御木曳(おきひき)」 旧 神領にあたる伊勢市・二見町・御薗村の住民が2ヶ月間にわたり御用材を両宮に曳き入れる盛大な行事。旧神領地の町内総出の晴れの舞台で、数日前に揃いの法 被姿で二見浦に「浜参宮」をして心身を清めて行事に臨む。内宮の領民は木橇に御用材を積載して五十鈴川で「川曳き」を行い、外宮の領民は巨大な御木曳車で 「陸曳き」を行う。全国の「一日神領民」も多数参加し、期間中の伊勢の街は勇壮な掛け声と木遣音頭で包まれる。前回は翌年の第二次御木曳行事とあわせ20 万人が参加した。
「御白石持(おしらいしもち)」 完成した正殿が建つ御 敷地に敷く白石を奉献する行事。御木曳行事と同様に、旧神領の住民が揃いの法被姿で「浜参宮」の後、内宮は川曳き、外宮は陸曳きで御白石を運び、御敷地に 奉献する。「御木曳行事」と同様、地元の旧神領民に加え、全国の「一日神領民」も参加する。前回(平成5年)は21万人が参加しました。
本ブログにも転載させていただきました、さくらの花びら大兄の「大切な日」には、日本人として忘れてはならない祝祭日についての本義が述べられていました。
そして、神宮の「式年遷宮(しきねんせんぐう)」を始めとする祭祀も氏神さまの祭りもその本義を日本人としては忘れてはならないでしょう。
太古の昔より、連綿と紡(つむ)いできた伝統と、魂なのですから・・・
本ブログにも転載させていただきました、さくらの花びら大兄の「大切な日」には、日本人として忘れてはならない祝祭日についての本義が述べられていました。
そして、神宮の「式年遷宮(しきねんせんぐう)」を始めとする祭祀も氏神さまの祭りもその本義を日本人としては忘れてはならないでしょう。
太古の昔より、連綿と紡(つむ)いできた伝統と、魂なのですから・・・
(1/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―
(2/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―
転載元: 美しい国