さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。226事件で処刑された人たちの立派さを見るにつけ、コミンテルンの統制派の悪辣さに憎しみを覚えずにはいられないですね。それにしても、戦前はこのように、無私の精神をもった方が何と多かったことかと驚きます。
学校で教えない歴史 32(二・ニ六事件 磯部浅一)
すでに15人の同志が刑死して1年と1カ月が経っていた昭和12年8月19日、
この日の処刑者は、磯部浅一、村中孝次、北一輝(輝次郎)、西田税の4人だった。
磯部の辞世の歌、
国民よ国をおもひて狂となり
痴となるほどに国を愛せよ
・・・・・
磯部浅一は明治38年4月1日、山口県大津郡菱海村河原に生まれました。
決起青年将校の多くが比較的裕福な家庭に生まれた育ちのよい若者だったのに対し、
磯部は村で一番身分が低い極貧の家庭に生まれ育った。
この菱海村は長州の萩に近い。
戦前までの菱海村における初等教育の中核は吉田松陰の思想だったといいます。
さらに萩出身の乃木希典の精神を叩き込まれたといいます。
磯部家は農業を営んでいましたが、ほんのわずかしかない田畑からの収穫だけではとても食えないほど
貧しかったので、父・仁三郎は左官の仕事を始めて出稼ぎに出なければならなかった。
その間、残された母は一人で畑を耕し、獲れた野菜を売りに出ては日銭としていました。
母思いの磯部は、日の出から深夜まで働きづくめの母を助けるため、幼いながらに母を手伝って
一緒に野菜を売り歩いた。
小学校に行くようになっても学校から帰ると友達と遊ぶことなく母の畑の手伝いをした。
それでも入学から卒業まで首席で通した磯部は、
卒業時に山口県知事から模範的孝行少年として特別に表彰を受けた。
母親を助けながら優秀な成績をおさめるなどその評判は県知事にまで届いていました。
磯部の評判を耳にした松岡喜二郎と名乗る県庁務めの役人が、
「その才能をこのまま埋もれさせるのはあまりに惜しい、引き取って育てたい」と申し入れてきたので、
磯部は松岡家に住み込むことになりました。
松岡には6人の子供がいる上に磯部です。昔といえどもこの長州人の腹の大きさには感心する。
もちろん生活は苦しくなる。
松岡家に住み込むと、たちまち磯部は気に入られました。そして松岡は磯部に不自由はさせなかった。
夕食後は必ず磯部の部屋に行き長州の偉人吉田松陰や高杉晋作の精神を説いたという。
中でも喜二郎とその父・喜八は磯部の才智と威風堂々の振る舞いにすっかり惚れ込んでしまい、
陸軍に入って武士となるよう熱心に勧めた。
吉田松陰に心酔していた松岡親子にとって磯部はまさに維新の志士たるにふさわしい人物だった。
その後、優秀な磯部は中学には行かずに高等小学校からいきなり広島陸軍幼年学校に入学しました。
運動班では第一班で三年生と一緒に鍛えられた。体操、剣術、柔道、水泳など、全て上の腕前でした。
しかし、磯部は休暇になると仲間と遊ぶことなく山口に戻り野良着になって畑に出て母を手伝うのでした。
士官学校本科の時、日曜日に外出した磯部は宮城(皇居)の濠に沿って歩いた。
そこで宮城の石垣が先年の関東大震災で崩れたまま、いまだ修理されていないのをみた磯部は
「町は復興したが宮城は修復していない」と、涙ぐんで嘆いて話していたという。
・・・
昭和7年、磯部はすでに朝鮮に8年余りの任務で焦燥を感じていた。
昭和維新運動に身を投じるべく、朝鮮から東京に行くために不得手な経理の陸軍主計学校に入った。
磯部は「主計転科は上京の手段だ」と言ったが、そうせざるを得ない忸怩たる思いだっただろう。
主計学校在学中のことです。
磯部が少年の時に貧しかった家庭のため学資がなく幼年学校の学費を送り続けてくれた松岡が、
他人を助けようとして、逆に莫大な借金を抱え込み苦境に立ったと聞いた。
磯部は松岡を思い号泣した。そして今度は磯部が送金した。
朝鮮にいた頃の話として磯部の同期で親友の佐々木二郎は著書でこのように書いています。
その夜、朝山大尉ら野砲の将校とともに赤穂家で一席設け、美代治という芸妓を一人呼んだ。
『佐々木、芸妓にも料理を出せよ』と磯部が言うので美代治にも出した。
美代治は気質もよく、なかなかの売れっ妓であった。
満州事変で美代治に通った人がよく戦死したので、お前はタマ運がよ過ぎると、よく冷やかしたものだ。
昭和12年3月、二・二六事件で無罪で帰隊したが停職になったので、羅南在住十年の名残に町を散歩し、
美代治を思い出して三州楼に訪ねた。彼女は芸妓をやめて仲居をしていた。
大広間で二人で飲んだ。
話が磯部に触れた。
『サーさん(佐々木のこと)、あの人はどうなりました?』
『ウン、今頃銃殺されているかもしれん』
『私はあの時、初めて人間らしく扱われました。誰が何と言ってもあの人は正しい立派な人です。一生私は忘れません』。
“佐々木、芸妓にも料理を出せよ”と言った磯部の一言が、
これほどの感動を与えているとは夢にも思わなかった。
底辺とか苦界とか、口に言ってもただ単なる同情にしか過ぎなかった。
磯部のそれは、苦闘した前半生からにじみ出た一言で、彼女の心肝を温かく包んだのであろう。
・・
昭和5年のはじめ頃、朝鮮にいた親友の佐々木二郎宛てに同じ朝鮮・大田にいた磯部から
「至急○送れ あと文」の電報が来た。
佐々木は隊の経理室で俸給の前借をして三十円送った。
その後、磯部から詳しい手紙が来た。そこには気の毒な娘を汚い手から救うためだと書いてあった。
11月に佐々木は自分の結婚のため日本に帰国する途中、大田の磯部のところに立ち寄った。
その晩、中年の夫婦が番をしている某料亭の別荘に連れて行かれ、磯部の中隊長と三人で飲んだ。
しばらくして中隊長は帰った。
二人は一斗樽を横にやりだした。佐々木は二晩泊った。
磯部は佐々木に詩吟をやれと言い、磯部は剣を抜いて舞った。
志賀終わりに近づくと磯部は立ててあった金屏風をパッパッと斬った。
佐々木は夫婦に謝ると
「いいえ、磯部さんのやることなら」と言って意に介さない。
この夫婦には二人の子供がいた。
姉を登美子、弟を須美男といい、姉は両親の手助けをしていた。
一見して人柄の良さを思わせる夫婦であった。
磯部は
「気の毒な人たちだよ。須美男もよくできるが家庭の事情で中学にやれぬというのだ。俺は昔の自分の姿をみた。俺は勉強がしたくてならなかった。あまり出来ぬ奴が中学に通うのを見て、その思いは一層燃え立った。学資は俺が出す。中学に行けと決めたよ。アイツ喜んでノー」
佐々木に「至急○送れ」の伝聞は姉を我がものにせんとした、土建屋との闘争資金の一部になったらしい。
この登美子が後に磯部夫人となる。
・・・・・・
日本に戻ってから磯部は橋本欣五郎や大川周明の組織と接触するようになる。
橋本や大川が軍幕僚、青年将校、政治右翼を引連れて連日連夜、東京の花街で豪遊し、
維新の志士気取りで秘密を芸妓にペラペラ得意げに話しているのを見て磯部は、
「連夜豪遊を極め、不謹慎千万にも明日をも知れぬ命云々と芸妓の前に口外するが如き等・・吾を失望せしめ・・」と書いている。
その後、磯部は維新の同志を探すに当たって、
たとえ親友であってもそのものが狂気に振りきれるような人物でない場合、
「お前は来るな、そのまま生きろ」と言って現実生活の中でそのままささやかな生活を送り
そこで一生を終えることを進言していた。磯部とはそういう男であった。
公務に関して女はくちばしを入れるな。これが当時の軍人家庭の不文律でありました。
特に磯部は最も男くさい男であった。
二・二六事件の決起の日、午後7時平然と家を出る。
妻の登美子は何ごとも知らず帰宅の時間を訪ねる。
「今夜は遅い、先に休め」と、簡単に言って出て行きました。
これが夫婦別れの言葉であった。
獄中の磯部は家族宛ての遺書にはこう書いていた。
「私の身の上のことばかり心配しては野中さんや河野さん(二人は事件で自決した)にすまないと云うことを考えよ。また自分の不幸を嘆く先に田中さんやその他、新婚したばかりの奥さん方や子供の二人も三人もある奥さん方のことを考えねばいけないぞ。何ごとにつけても須美男さんを表面に立てよ、そして女は出しゃばらないようにせよ。須美男、元気かね・・・姉さんは弱いからよく助けてあげよ。お前は男だから姉さんが泣くときでも決して泣いてはいけないぞ。男子は強くなくてはいけないぞ」
磯部は最後の土壇場になっても、わが身よりも他人のことを思う男でした。
膨大な獄中記を残した磯部でしたが、妻に対してだけの特別の言葉はない。
あれだけ「私」を抑制し「私」に対して寡黙な磯部が死刑執行の直前、
「これは妻の髪の毛ですが、処刑の時、棺の中に入れることを許して下さい」
と刑務所長に頼んだという。
登美子は病身で、磯部の死後4年足らずで磯部の後を追っていった。
二人が晴れて結ばれたのは磯部の冤罪である「十一月事件」の後に軍を免官になった後でした。
相信じ、相愛した二人の仲ではあったが、何とも悲しい運命であります。
「このまじめに働く立派な人々を政治の悪さのために長い間貧窮のどん底に陥れていた。
それを救い正すのが維新だ」
こう叫んだ磯部浅一の生涯は33歳でした。
磯部夫婦の墓は常磐線南千住駅の近く、小塚原の回向院にあります。
磯部の尊敬した吉田松陰らの志士の墓や顕彰碑のある回向院の墓地の一隅に
磯部夫婦二人の墓はひっそり建っています。
(磯部浅一)