小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

変えられない日本人の本質

2013年01月28日 15時23分40秒 | 日本人の誇り

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」から二件の記事を転載です。

どちらの記事も本来の日本人が長い歴史の中で変わらず持っていた本質について書いておられます。これは戦後占領政策によって、日本人が変わったと思われていた日本人の性格、あるいは考え方で、近年日本人の民度が落ちたという批判もあったのですが、この日本人の本来の特質、これがそんな浅薄なものではなかったということを、東日本大震災では非常な強い印象とともに、世界に広め、また日本人自身も思わぬ自分自身を発見したともいえるのではないでしょうか。アメリカのメディアも、アメリカは占領政策で日本人を変えたと思っていたが、日本人は少しも変わってなかったと言っていたほどです。

この日本人の特質は、平時の何もない時には戦後教育で培われた利己主義が顔を出すことも多かったのですが、こうした非常時の個人的な『はからい心』が通用しない同胞全体が生きるか死ぬかという程の危機に面して、自分を捨てても他を助けたいという思い、自分がひとに迷惑をかけてはいけないという自重の心、そうした自分を無にして公のことを考える気持ちが一気に自然に出てきたのです。これは理屈を超えた心であり、それゆえに、多くの日本人が自然に規律のある行動をだれも指図するわけでもないのにとれたのです。

これこそ日本人が歴史以前から、すでにこの日本列島に住み始めた時から民族の発生とともにすでに持っていたものであり、民族の本質的な性格と言えます。また同じように日本民族として神話とともにあり続けた天皇という存在も、自然発生的な自然観、宇宙観から始まった統治者であり、祭祀王であるということが、他の国の君主と決定的に違うところです。

いずれも太古の原始の、神秘が生きている時代に、人間が自然や宇宙に畏敬の心を持っている時代に生れた特質だと思います。天皇は、そうした民族的な共感の中で生れ、継続してきた君主であるということです。

だから戦後のご巡幸の時に天皇に批判的な言葉を浴びせようと待っていた共産党が、昭和天皇を間近に見て、思わず「天皇陛下万歳!」と叫んだという話も、皆理屈を超えた民族の深層の心から湧き出してくる心情であるからです。

日本の天皇が古来より変わらず、国民の親のような心で、私心を捨てて国のため、民のために祈られ、行動されるのは、皇室が今も神話とともに神々とともに生きて居られ、日本の国柄そのものの本質の中で生きておられるからです。国民もそれがわかっているから、国民の心、民族の心が、帰るところが天皇であると思っているから、天皇陛下にあった人々が皆思わず涙するのでしょう。

 

 

 

変えられない日本人の本質

 

人気ブログランキングに参加しています。
         まずはここをポチッとご協力お願い申し上げます。
 

 
 
もし、国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同胞を守るために、それぞれの立場で勇気を出して頑張ります、と覚悟を決め、力を尽くしましょう。
 
明治神宮で購入できる携行用の『教育勅語』の意訳(口語文)にこのような一文があります。
原文は「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」という短い文ですが、意訳すると上のよう長い文になるのです。
 
今の日本人は非常事態に直面しても、教育によって個人主義で自分の権利ばかり主張し、ましてや平和教育の名のもとに国のために自己犠牲などとんでもない。いかに自分だけが助かるかを考えてばかりでそんなことは絶対に出来ない、と言われてきました。
 
しかし、東日本大震災での自己犠牲の精神はどういうことだったのでしょう。
世界の多くが称賛していましたが、日本人は誰に教わるわけでもなく、必死ではありましたが、互いに助け合い、譲り合い、淡々と冷静で沈着な行動をとっていました。
これは私も被災地に居て直接肌で感じたことです。普段なら我先に自分勝手な振る舞いをするのが、あの時ばかりはそういう空気ではなかったのです。
 
自衛隊が福島原発で放水作戦の出動が決まった時、「これは覚悟の作戦である。強制はしない。行ける者は一晩じっくり考えて自分の気持ちを固めて欲しい」と上官が言うと、隊員たちは全員が「自分が行きます」と口を揃えて答えました。
 
ある消防レスキュー隊の隊長が勤務先から直接福島原発へ行くように命令が下った。その時、妻に「必ず返ってくるから、それまで安心して待っていてくれ」とメールをすると、妻からは「家族のことは心配なさらず、日本の救世主になって下さい」とのメールが返ってきた。
 
自己犠牲をいとわず公のために任務を遂行する姿勢。
自衛隊には「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえる」と宣誓して自衛官になっています。他の公務員にはない自衛官にだけ課せられた重い義務です。
 
これらは『教育勅語』の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」という精神があるといえます。
日本人の中には、このように非常事態に直面すると、無意識に自己犠牲の精神と良質な精神を持ち合せているのではないでしょうか。そのことに多くの国民が感じたはずです。
平時は知らずとも、非常時には、占領政策によって変えられたと思っていたこと、悪質な教育で表面に塗り被せたものは、やがて剥がれ落ち、本来の輝きを取り戻すのです。それは結局、本質は何も変わっていないということなのでしょう。
 
・・・・・・ 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
東日本大震災で甚大な被害のあった宮城県南三陸町。この町の佐藤仁町長は震災当時、南三陸町防災対策庁舎に詰めて、そして津波の様子を確認するために屋上に上がった途端、津波に襲われ、同時に庁舎に詰めていた職員30名も罹災しました。
その後も繰り返し襲いかかる津波で遂に庁舎は骨組みになり、それでも屋上のアンテナにしがみついて佐藤町長他10名が一命を取り留めたのです。しかし、残念ながら他の職員は津波に流されてしまいました。
佐藤町長は一晩、凍るような寒い中、屋上で過ごし、「流された職員の分まで頑張らなければ」と語っていたという。そして、大震災の翌々日に災害対策本部を設置して公務に復帰し、「拾った命。これから町民のために全力を尽くす」と話していました。
しかし、これに対して震災から1年たった平成24年3月、職員が犠牲になったとして、職員の2遺族が「町長が高台に避難させなかったために津波で亡くなった」と、業務上過失致死容疑で告訴しました。
気持ちはわからないでもないが、あの突発的な大震災という天災で、後付けのような理由を言い立てるのはどうでありましょう。
 
さて、この佐藤町長は震災後の南三陸町で、両陛下のお姿に感激してこのように記録していました。
「ヘリコプターで高台にある小学校に到着された両陛下は、グランドから壊滅した町並みを見られた後に、深々と黙礼されました。その後、約200人 が避難していた中学校の体育館を訪れたのですが、とても心に残ることがありました。両陛下にはスリッパが用意されていました。私は先に体育館に入ってお待 ちしていたのですが、入口付近で皇后陛下は私がスリッパをはいていないのを見られると、自らもさっさとお脱ぎになられたのです。また、天皇陛下もそうなさ れようとしたので、私はそのままお履きいただけるように必死でお願い致しました。こうした両陛下のさりげない謙虚な姿勢から、国民はいつも勇気と元気をいただいているのでしょう。皇室の存在感というものを間近で実感いたしました。
さらに私が感動したのは、避難所の体育館を出られる際、天皇陛下から『がんばって下さい』とお声を掛けられると、町民から『ワァ』という大きな歓声と同時に拍手が巻き起こったことです。泣いている人もいました。
それまで町民は慣れぬ避難所生活で疲れ、精神的にもギスギスしていたところを、両陛下のお見舞いによって本当に救われたのです」
 
両陛下は真っ先に被災した町のがれきに向かい、深々と頭を下げられ、黙祷を捧げられました。そしてスリッパのことも被災者とともにあろうとする御心であります。
そして何より、陛下からお声をいただくと、歓声が上がり、泣く人までいるのです。
 
そういう私も、被災地にいて、やっと電気が通った3月16日、突然、陛下がテレビに現れて、異例の「お言葉」を発されていたことにグッと目頭が熱くなり、何としても復興せねばと励まされたものでした。
 
 

 
 
 
 
 
・・・・・・
人気ブログランキングに参加しています。
   天皇皇后両陛下に感激した、と思った方はここをポチッとお願いします。
 
 
 

 


最新の画像もっと見る