さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
この記事を読むと、ラジャー・ダト・ノンチック氏の日本はかつて清らかで美しかったという詩が決してお世辞でも誇張でもなく、本当だったのだと思います。
「かつて日本人は親切でこころ豊かだった、アジアの国の誰にでも自分のことのように一生懸命つくしてくれた」ということがここには、書いてあります。
世界一の陸軍国であり、ナポレオンすらもかなわなかったというロシアを相手に、国運を賭けて日本は戦います。それはまた、戦わざるをえない状況であり、おそらく戦わなければ、ロシアはどんどん南下して、やがては満州と朝鮮半島を支配下に置き、さらに日本にも侵攻してきたはずです。自分のためでもあり、またアジアのためにも戦わざるをえなかったのです。
この日露戦争の勝利は、その頃やはり大陸の西側で、南下を目論んでいたロシアに悩まされていたトルコに、大きな勇気を与えました。トルコは、日本の勝利に西洋人以外の国がロシアを破ったことで、自分たちの国も日本のように頑張れるという自信を持ち、日本のような近代化に取り組むようになりました。明治天皇と東郷元帥はトルコではヒーローです。
白人に虐げられていた国々の希望の星となった日本、この日露戦争の勝利は、白人の植民地とされた多くの国々の独立の気運を芽生えさせます。白人には絶対にかなわないと思っていたあきらめが、日本の勝利によって打ち破られたのです。
それでも、日本にとって、ほんとに大きな国力以上の戦いでした。明治大帝はもし負ければ、皇祖皇宗の神々にどのようにお詫びすればよいかという思いに日夜心をすり減らされたことでしょう。天皇にとって、皇位を継ぐとは大きな責任を背負い、国の始めより受け継がれた日本の国をしっかりと無事に次の時代へと受け渡すことです。それは、欧米植民地主義の時代を生き抜かねばならぬ日本を背負われた天皇としての孤独な責務でもありました。
ひとりつむ言の葉草のなかりせば なににこころをなぐさめてまし
これは明治天皇の御製ですが、ここには、天皇のそんなお立場のもたらす孤独感がひしひしと伝わってきます。
日本が輝いていた訳
日露戦争直前の『戯画 公園の各国児童』
(解説文)
朝日太郎(日本のこと) 「おい露助、清吉の油断に付込んで饅頭(満州のこと)を盗もうとは何事だ、さあ早く返してしまえ!」
露助 「つべこべ言うな、生意気な野郎だ。俺の身体の大きいのが見えんか」
仏次 「露助君、そっと僕にも分けてくれたまへ」
独一 「仏次君、君が貰ったら僕にも分けるんだよ」
米蔵 「これは面白い。露助のやつ強そうなことを言っているが、朝日にヤラレルんじゃないかな」
英子 「露助の顔の憎らしいこと、有夫サン、その艦を太郎さんに上げなさいよ」
有夫 「そうだ、早くやろう」(アルゼンチンより巡洋艦日進、春日を購入)
韓坊 「太郎兄ちゃん恐いよ」
清吉 「グウ・・」
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日本人がいちばん輝いていたのはいつごろであっただろうか。
高度成長期か、否。 それとも大東亜戦争を戦った時か、否。
それは日露戦争がはじまる前から終わる頃までだと思うのです。
日露戦争後は日本人にゆるみが感じられますが、その前までは全く違いました。
この日露戦争はロシアはもちろんチャイナも学校で教えない、というよりも歴史に“ない”のです。
そして肝心の日本でも大事な部分をほとんど教えていません。
先達が祖国の危機に瀕して勝つ望みの薄い戦にひとつになり勝ち抜いた栄光に満ちた時代を知ることなしに、どうして日本人として生きてゆく喜びを味わえるのだろうか。・・
東ヨーロッパのことわざにこういう言葉があります。
「ロシアの隣国になるほど不運なことはない」。
現在の日本に当てはめればロシアの他にチャイナ、韓国、北朝鮮というところでありましょう。
日本はいい国だが近隣国に恵まれない、まこと不運であります。・・
明治33年、ロシアの大軍が満州支配を目指して黒竜江を超えて南下します。
その時、ロシアは黒竜江の東岸であるブラゴウェシチェンスクにおいて、三千人の支那人を一人残らず駆り立てて、全員を黒竜江に突き落とすという大虐殺を行ったのです。
この時、ブラゴウェシチェンスクにいた帝国陸軍の石光真清の日記にはその状況がよく書かれています。
これを知った日本人は怒り、同じ東洋の民族がこんなにむごたらしく扱われている、それを黙って見ていられようかと国民感情は沸騰し、我が国危うしとして正義の戦としてロシアとの戦いを決意していくのです。
同じように現在までに、チャイナが内モンゴル、チベット、ウィグルにおいて大虐殺しておりますが、これを知った日本人は所詮他国の事よと国民感情は冷めており、それがやがて我が国に対して降りかかってくる危機感だとは全く感じていないのです。
当時、明治大帝ご自身による陸軍大演習の御統監、昭憲皇太后までもが軍艦に乗り込まれて海軍将兵の士気を鼓舞されたことをみても、日本の軍隊の強さが皇室のお心遣いの賜物であるといえます。
現在の日本では天皇陛下が自衛隊を直接鼓舞することは一切ありませんが、一旦緩急あれば命を惜しむことない自衛官にとってこのことがどれほど励みになるか、目に浮かぶほどであります。
明治天皇は戦争だけはお避けになりたかったのですが、
あえて決断を下さねばならなかった明治大帝の御気持ちが偲ばれるお言葉があります。
事乃一蹉跌を生ぜば 朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、すなわち涙さんさんとして下る
失敗することがあれば、我が高祖皇宗(御始祖と歴代天皇)の神霊に何とお詫びを申し上げ、我が子のごとく慈しむ国民に対してどうして顔向けが出来ようかと苦しみ、涙が流れるばかりである。
この戦より御食事がおすすみにならず、八年後に明治大帝は御隠れなるのですが、
明治大帝の御心労のほどが如何ばかりだったかが偲ばれます。
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」