昨日は天皇誕生日でした。私も国旗日の丸を掲揚しましたが、パッと見た感じで、うちの町内で日の丸を揚げているところはほかになかった気がします。
日の丸を掲げたいと思う人はいるのかも知れませんが、ほとんどの家が掲げていない中で掲げるのは気おくれがして、できない人もいるのでしょう。とはいえ、揚げている家がないのは寂しいものです。
祭日に国旗を掲げることは本来あたり前のことでした。この慣習を復活させるには、勇気を持って少数の人が揚げ続ける運動をするしかないと思います。
ところで、今日これほど内外に問題が山積している中、国民が心を一つにして日本を復興させ国家のゆく道を明るいものに盛り上げる努力をするための、その精神的支柱とも言うべき御存在があるとすれば、天皇陛下を於いてほかにありません。
その天皇陛下のお誕生日をお祝いする日に、国中に日の丸が飜えらないなどおかしいのではないでしょうか。国民として日の丸を掲げにくい雰囲気を創り上げてきたのは、日教組であり、左翼言論人たちです。愛国心を悪いもののように教え、天皇陛下を尊崇することを冷ややかな目で見るようなそんな進歩的文化人を多くもてはやしたマスコミの責任です。
日本の敗戦後の占領下で、マスコミは占領軍によって利用され、占領軍の意を受けた機関となりました。以来共産主義者や、占領軍や戦後の時代に阿(おもね)る進歩的文化人たちで牛耳られ、その時の体制がいまも続いています。
松浦光修先生のコラムに、今上陛下が戦後ずっとそうした占領体制と戦ってこられたことが書いてあります。以下にその一部を転載いたします。
転載開始
「仁者に敵なし」
話を、去る十一月十二日(御在位二十年式典の時)の、東京の皇居前広場での両陛下の御尊顔に戻します。なぜ、両陛下はあれほど「我が御心すがすがし」という、ご表情でいらっしゃったのか、ということです。
それは、やはり長い“戦い”を正々堂々と戦い抜いてこられたからではないか、と思うのです。
昨年私は『日本人として知っておきたい皇室のこと』(PHP研究所)という本の中で「日本は天皇の“祈り”に護られている」という一文を書きましたが、その中でこんなことを書いています。
“占 領遺制”という毒素そのものは、占領中から何一つ除去されていません。したがって、あるいは皇室にとって戦後という時代は、戦国時代以上に厳しい時代なの かもしれません。そうであるにもかかわらず、私たちが戦後六十年以上を経た今もなお“御聖徳”をありがたく仰ぐことができるのは、なぜでしょう?それは、 ひとえに歴代天皇の並外れた御力によって、その“毒素”が“解毒”され続けてきたからなのではなおでしょうか。
私は皇室にとって今という時代は、ほんとうに「戦国時代以上」に過酷な時代だと思っています。
例えば、私たちがご即位二十年を寿いでいた時、マスコミはそれについてどのような報道をしていたか、ご存知ですか?
皇居前広場で行われた国民祭典の翌朝のNHKニュースなど、ひどいというより、犯罪的とさえいってよい内容でした。皇室に対する無礼きわまりない世論調査をして、その結果を延々とやっていたのです。
「天皇陛下が憲法で定められた象徴としての役割を果たしていると思うかと尋ねたところ、『十分に果たしている』が四十八%・・・」などとやっているのです。
皇室は政党ではありません。支持率でどうこうしてよいものではないし、またしてはいけないものです。
また、これは女性週間誌に載っていたことですが、どこかのマスコミが「将来の天皇は、愛子様がいいと思うか、悠仁様がいいと思うか」などというアンケートをやっていて、それを皇后様がご覧になって「なんということを」と、つぶやかれた、という話が伝えられています。
皇室は芸能人ではありません。
まことに無礼千万です。
たとえば、ある家の後継ぎについて、長女がいいか、長男がいいかなどと、世論調査をやって、それをマスコミが報道したら、これは明らかにプライバシーの侵害にあたるでしょうが、庶民の家にさえやってはいけないような無礼ごとを、今のマスコミは皇室に対してするのです。
今のマスコミが、ひいては戦後社会がどれだけ皇室に無礼をはたらいているのか、例をあげていけばきりがありません。
それもこれも、戦後の反天皇教育が六十年以上も続いた結果です。
しかし、両陛下はそんな時代にもひたすら耐え、耐えるというだけでなく、むしろその無礼極まりない国民に対しても、限りない愛情をそそいでこられました。考えてみれば、すごいことです。
そ れに比べてみると、私たちは甘えているのではないでしょうか。今の時代と戦い続けているうち、ともすれば私たちは「自分たちのことを、みんな解ってくれな い」などとグチをこぼしがちです。しかし、両陛下は自分たちに対して無礼な人々、攻撃的な人々にグチをこぼすこともされず。それどころか、これまでひたす ら惜しみなく愛を注いでこられたのです。
私たちには、とてもできないことです。そのような両陛下のご姿勢は、まさに「戦い」と表現せざるをえません。私たちの苦労など、両陛下のそのようなご苦労に比べたら万分の一にすぎません。
儒教の有名な経典の一つに『孟子』というものがあります。吉田松陰などが愛読していたところで知られています。
そこに、こういう言葉があります。そこに、こういう言葉があります。私は、両陛下のお姿を拝見するたびに、この言葉を思い出すのですが、それは次のとおりごく短い言葉です
仁者に敵なし
「仁」というのは、現代の言葉でいえば、「愛」にあたります。「愛あるものには、そもそも敵というものが存在しない」、つまり愛を以って、万人に対する者には敵がいない、というような意味です。
ここにある「仁」という文字、これは天皇のお名前に、あるいは男子の皇族方のお名前にしばしば使われている文字であることは、皆さんご存知の通りです。両陛下はこの言葉「仁者に敵なし」という言葉を、本当に体言されて、と私などはしばしば痛感しています。
それでは、その陛下の「戦い」はいつ始まったのでしょう。
私はすでに少年時代からはじまっていたのではないか、と思っています。
今上陛下の“戦い”
今上陛下は、大東亜戦争の戦闘終結の年、昭和二十年に「新日本の建設」という作文をお書きになり、それが公にされています。時に陛下は学習院初等科六年生、十一歳であらせられました。その作文には次のような一節があります。
今上陛下、学習院初等科六年生(十一歳)の作文「新日本の建設」
「今は日本のどん底です。それに敵がどんなことをいってくるかわかりません。これからは苦しいこと、つらい事が、どの位あるかわかりません。 どんなに苦しくなっても、このどん底からはひ上がらなければなりません。・・・
今までは勝ち抜くための勉強、運動をしてきましたが、今度からは皇后陛下の御歌のように、次の世を背負って新日本建設に進まなければなりません。それも皆、私の双肩にかかっているのです。
それには、先生方、傳育官のいふ事を、よく聞いて実行し、どんな苦しさにも、たへしのんで行けるだけのねばり強さを養ひ、もつともつとしっかりして、明治天皇のやうに皆から仰がれるようになって、日本を導いていかねばならないと思ひます」 (木下道雄『側近日誌』)
ここで注目すべきは「それも皆、私の双肩にかかっているのです」「明治天皇のやうに皆から仰がれるようになって、日本を導いていかなければならない」とい う箇所です。明らかに、もうこの時点で陛下は「戦後」という時代に対する「戦い」の覚悟を、そしてその「戦い」の先頭にまず自らが立つというご決意を固め ていらっしゃることがうかがわれます。
「戦後」という時代の現実は、まるでそのご覚悟を試すかのように、厳しいものでした。占領軍は 皇室を支える法的仕組み、制度的な仕組み、経済的な仕組み、教育的な仕組みなどを、こぞって解体し、独立後もその占領軍がつくった枠組みを死守する勢力が 日本の中枢を占め、皇室解体をもくろむ政治家、言論人、教育者、官僚、学者司法関係者などが、まるでいくつもの連合艦隊を組んで襲い続けているかのような 時代だからです。
転載終わり