敗戦の年(昭和20年)に26歳だった堀田善衛<上海日記>を読む(2009.2.25)

2009-02-25 19:25:57 | Weblog

*左;堀田善衛=上海日記(2008年11月発行、右;堀田善衛=上海にて(初出本は1957年7月発行)、いずれも集英社。

 この間の10日程の入院は、担ぎ込まれたわけではなく計画入院でした。だから4,5冊の本を持ち込みました。
 きちっと読もうと決めていたのが、<堀田善衛の上海日記>です。11月頃に新聞広告がでて、すぐに読もうと思っていたのです。朝日にも日経にも書評が載りました。

 春日部市立図書館の新刊棚で見つけることができず、町の本屋TSUTAYAに置いていることもなく、結局、アマゾンで購入したのです。すぐに読みそうになるのを、<これは入院時用>と押さえていたのです。

 敗戦の年、1945年・昭和20年、上海、26歳の日記とキーワードが並ぶ、そして、その後の著者(堀田善衛さん)を思う時に、すぐに読もう決めたのです。

 私は赤ん坊時代で、意識があったかどうかは別として、わが人生の中で、社会変動の最大のものは、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦です。この折、社会は大混乱だったことでしょう。私の親は当時30代。どういう思いで生き抜いたのだろうと、時に考えるのです。

 私は、岡山市を空襲で追われ、県下の山地(現在の岡山県井原市)で育ちました。私のウチから川向こうに、3、40分歩くと<街という程でもない街>があって、そこに<内山書店>がありました。小学校5,6年の頃から、時々行っていました。目のぎょろっとした痩せたオヤジさんがいました。こちらは子どもです。余計な会話をしたことはありません。同じ町の高校に通うようになって、担任の先生が、<上海の内山書店>、店主・内山完造の話をしてくれました。戦前、日本と中国の文化人交流の拠点となった<上海の内山書店>の話です。<井原の内山書店>の店主は、内山完造さんの弟さんだったのです。

 例えば、中国文学者、魯迅の話には、必ず内山完造さんが登場します。現在の岡山県井原市生まれの、内山完造さんは、28才で上海に渡り、1917年(大正6年)、上海に内山書店を開業しました。そこは、中国文学者、魯迅、や日本文学者のサロンになったのです。

 今も、東京・神田神保町のすずらん通りに、中国書籍を扱う<内山書店>があります。2階の真ん中に、内山完造さんの著作や関連図書を扱うコーナーがあります。私は、よく立ち寄っていますが、<内山書店>で買ったことは、ほとんどありません。

 上海に、そういう思いを持っている私は、上海日記を読みながら、内山完造さんの名前を意識します。上海日記の中には、10箇所ぐらい内山完造さんの名前が登場しますが、<会合で一緒だった>という以上の記述はありません。堀田良衛自身、親しく会話する間柄ではなかったようです。堀田は、26歳の若造です。上海での存在感がまるで違っているのでしょう。

 堀田良衛は、昭和20年3月の東京大空襲の後、<敗戦を承知していたかもしれない>時期に、上海に飛びます。敗色濃い上海での、26歳の文学を志していた若者の日記です。人間社会、人間の裏と表が、如実に現れる動乱・混乱の3年間の日記です。今の、平和ボケの時代とは、まさに大きく異なります。将来の展望が何も見えない、しかし、お先真っ暗の絶望感があるわけでもありません。計画だの、スケジュールだのいうことでなく、その日その日を背一杯生きるという時代だったのでしょう。

      【おまけ】

*入院当初のマイベッド。地球の歩き方<インド編>も持ち込んでいました。若い執刀医の先生が<インドに行くのですか>と話され、<もうだめでしょうね>と私が答えたら、<行けますよ、行けるようにしてあげますよ>と。、

* 10日間ほどの入院で、さあ、本が読めるぞと思って、読んでいたのは、手術前の3日間だけです。割腹手術後の退院までの1週間は、<気分衰弱状態、無気力状態>だったのです。

*文庫本<上海にて>さえも、当地のTSUTAYAで手に入らず、東京に出かけた時、日本橋<丸善>に。ちゃんと2冊並べてあった。その下には、加藤周一<私にとっての20世紀>も。わが町にも、本屋さんらしい本屋さんがほしいなあ。

* 上海に行ってみたいな、と思っています。戦前の列強諸国が、好きなように統治した上海の、その跡形を見て見たいと思うのです。お隣の国、中国には、行ったことがありません。