蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

66回目の終戦記念日、戦争の悲惨さよりも戦争の撲滅について考えよう!

2011-08-15 00:41:19 | 日常雑感
8月15日(月)

 今日、8月15日、66回目の終戦記念日。この日ごろ、メディアは様々な形であの戦争のことを取り上げるのが、今や歳時記と化しているかの観がある。

 先日の8月11日(木)深夜0時から2時まで、NHKスペシャル再放送「日本人はなぜ戦争へ」「過熱報道」「開戦の真相」を視た。

 日支事変、日中戦争、太平洋戦争と続くあの戦争へ、軍、メディア、民衆がトライアングルとなって世論を駆り立てたという。

 中でも、天下のNHKは、近衛総裁のもとナチス、ヒットラーの大衆プロパガンダの手法を逐一模倣したそうだ。朝日等の新聞各紙も皆、強硬路線を我先にと主張したという。

 そして、さらに東条英樹首相始め陸軍、海軍等政府首脳は、米国と一度戦端を開くならば、280倍とかの国力の差で、絶対に勝目が無い事を、百も承知だったという。
 ところが、そうと分かっていながら、当時の国家指導者層は、アメリカが突きつけた最後通牒たる中国からの日本軍の完全撤兵要求を呑むならば、国民からそれまで強いてきた20万将兵の血の債務を、どう果たすべきか突き上げられる恐怖に怯えて、誰もその責任を果たす勇気を持たずヅルヅルと奈落の底へ落ちることの愚を知りながら、開戦への決定に至ったという。

 知れば知るほど、今更ながらにやりきれない気持ちにさせられる。

 しかし、この日ごろの各メディアの戦争特集は、戦争の悲惨さや国家指導者層の愚かしさばかりを、後智恵の高みに立って、さも賢しげに流し散らせば済むかのごときである。
 視聴者や読者の各自のとっておきの戦争体験と称するものも、各自が自身で、はたまた家族親族等で蒙り体験したことが、如何に悲惨であったかということを語るものばかりである。

 だが、そこに救いの無いやりきれなさを感じるのは、私だけだろうか。終わってしまった戦争をいくらああだの、こうだの言ってみたところでいかに虚しいことではないだろうか。
 問題は、今後このような愚かしく悲惨な戦争というものを、いかにして人類の歴史から駆遂しさるかということではないのか。

 そのためには、人間がお互いの利害が相反する時、その解決の手段をどうするかということに尽きるのではないか。
 要は、かかる場合に絶対に生の暴力を、その最後の手段にしないという決意ではないか。どんな困難な問題でも絶対に話し合いで解決する覚悟と智恵にあるのではないか。

 そのためには、世界連邦国家制度の実現が望ましいが、今の世界の現状からは、「百年河清を待つ」が如く、甚だ非現実的であると認めざるを得ない。

 そこで、次善の策として考えられる一例として次のような仕組みはどうだろうか。

 それは、例えば、A国と隣接するB国の間でのっぴきならない紛争が生じたとき、両国に利害関係を一切有さない多数国が集まり、公の場で両者の言い分を聴取し、公平にかつ慎重に審議し、両者間の言い分に審判をくだすこととする。
 その結果、A、B両当事国は、一度その審判が下されたら、絶対にこれに従わなければならないこととするのだ。
 万一、これに反した場合いには、審判に参加した各国の連合軍により、強制的にA、B両国を制圧できることとする。
 
 この仕組みだけでも、実現したならば、現在の米中間や、米露間等の強大国家間を除けば、大方の中小国家間の紛争は、戦争とならずに収拾することが可能となるのではなかろうか。

 
 今や何時までも、子供にでもさえ自明な戦争の愚や、悲惨さばかりを嘆き語るのではなく、どうすれば少しでも戦争をなくすことができるかを、世界中の人々が考え論じる時ではないのだろうか。

 そして、このような方策を実現するためには、先ず私たち一人ひとりが、各家庭内で、親子間だろうが夫婦間だろうが、絶対に暴力を解決手段としないことから始めることではないだろうか。

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