蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

“塀の外の同窓会”を読む。-人生の分かれ道!-

2006-07-23 00:40:01 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
 7月22日(土)曇りのち薄日差す。21~24度。

 鬱陶しい長梅雨の毎日である。庭先のトマトの実が青いままで一向に赤く熟す気配がない。そんな徒然に、先日図書館で纏め借りしてきたうちの一冊、安倍譲二著、“塀の外の同窓会”文芸春秋(2000年)刊を読む。

 これは、昭和54年、府中刑務所からの出所を機に、いわゆるそれまでのバクチ打ち稼業から足を洗った著者が、その後、娑婆で出会った元の世界の住民たちとの邂逅記である。
 実に、小気味良くスラスラと読めて面白い。そしてどこか物悲しい気分も漂う。
東映映画かなんかで、垣間見る世界でしかない、塀の中の人間模様、そこに落ちるまでの様々な犯罪態様を知ることができる。
そして、思うのは、殺人・強盗とかの凶悪犯を除けば、その他の小悪党なんていうのは、我々と大して変わらない、ひとの好いい面を持った連中なんだ、という当たり前の納得である。

こんな話が書いてある。
「親友の晴れ舞台」との題で、
『明治年間からの永い伝統を誇る博徒の一家で、引退する総長の跡目に、一門の大勢の貸元の中から選ばれたのは、僕の友達の土井正高でした。僕とは同年輩のこの男との仲は、まだお互いにほんの駆け出しだった四十年も前に遡ります。…僕より丸二年遅れて娑婆に戻った土井正高は、電話してくると、「足を洗って堅気になったのは、中で聞いたんだが、何をしてるんだい」何でも相談に乗るし力も貸すといってくれました、慣れない世界で芽が出ずに、試行錯誤を繰り返すばかりだった僕に察しをつけて、涙のでるようなことを、本心で言ってくれたのです。…届いた跡目継承の披露パーティーの案内状にも、土井正高の筆跡で、「案内状を見てもらいたいから送るだけだ。迷惑がかかるといけないから、ナオちゃんは来るな。祝儀も花輪も何にも要らない。そんなことをすると、俺は総長になったからいいけど、ナオちゃんは直木賞が獲れなくなっちまうぞ」と書いてありました。土井正高が文学賞の名前を覚えたのがおかしいのと、いつでも心配してくれているのを知って、僕は涙ぐんでしまったのです。…しかし、このパーティーは間違いなく、土井正高の一生に一度の晴れ舞台で、顔を見せられる同年輩の友達は、生存競争の激しい世界ですから、多くはないと僕は知っていました。行ってひと言、お祝いを言ったら、どんなに喜ぶかと思ったのですが、思い悩んだ末に僕はいかなかったのです。』とある。

 著者には、あったことがないが、この本を通じて伝わってくるのは、謙虚で、優しくて、ユーモアに富んだその何ともいえない温かそうな人柄である。

 こんな人柄の著者がどうして、若き日(高校生の時らしい?)、賭博に手を染め愚連隊に入り、何度か刑務所に出入りを繰り返すようになったのか、真に不思議な感じがするのである。
 まあ、その経緯については、著者の処女出版作“塀の中の懲りない面々”があるので、後日そちらを読めばわかるのかもしれない。

  ただ、想像できるのは、若さのもつ制御しがたい男の破壊本能のなせる業ということであろうか。

  そして、著者の改心の経緯は次のようであったらしい。

「三十半ばまでに芽がでなければ」というタイトルである。
『…総長や組長になる男は、三十も半ばになれば頭角をあらわして、男を売り、他の一家の者にも知られるようになるものです。残念ですが僕も昭夫も、そんな歳は通り過ぎようとしていたのに、出世する気配はありませんでした。自分では気が付いていない欠陥や傷が、致命的だと僕には分かっていたのです。つまり博奕打ちの大物になるほどの器量が、なかったということでした。博奕打ちの若衆は、三十半ばまでに目が出なければ、もうほとんど親分よ、貸元よと呼ばれるチャンスはないのです。三歳年上で既に四十歳を過ぎていた僕は、府中の塀の中で、既にすっかり諦めていました。…「安部さん。器量のある下目のもんが、どんどん出世して自分より高目になってしまったら、これは随分、つらいことでしょうね」…「自分は根性がないから、とてもそんなことには永く我慢がきかねえよ」僕は昭夫に叫び返しました。…「自分はそれもあって、今度、出所したら、足を洗って堅気になるかもしれねえ」僕が叫ぶと…』とある。
 これが、動機となって、この出所後、足を洗って堅気、そして売れっ子、小説家になった次第のようだ。

 この感慨は、どこの世界にも共通するところがあるように思う。
 私も、若い頃、役所に入って、試験成績だけは学校時代の延長みたいなもので、そこそこ上位の方だったが、それだけでは、公務員法の上では成績主義がうたわれていながら、実際の組織の中では、そんなものが出世に繋がらない事がだんだん分かってきた。
自分より下の成績のものがどんどん良いポジションへ異動していく。こちらはどうしたわけか同じポジションに溝(ドブ)漬のままに置かれたままである。しまった。これは自分には合わない世界に入ってしまった、と臍を噛んだ覚えがある。
人には、組織向きの人を束ねていける者、上の者から可愛がられる者と、そうではない者とがあるようである。
 どうやら著者も私(同列に書くのはおこがましいが)も自我の強い、一匹狼的な“そうではない者”組のようである。こういう人間は組織の中では、ついつい浮いてしまうのである。

 人生は、短い。そして右へ行くか左へ行くかの決断は、あっという間に過ぎ去る若き日の一瞬の選択で決まってしまうのである。
 その一瞬の選択が、後の人生の大半を決定付けてしまうのである。その選択にあたって、誰も何も教えてはくれないのだ。
 こうして、我々はそれぞれの幸、不幸の人生行路に、自らを振るい分けていくのだろうか。

と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
紙一重 (さくら)
2006-07-23 17:21:05
《そして、思うのは、殺人・強盗とかの凶悪犯を除けば、その他の小悪党なんていうのは、我々と大して変わらない、ひとの好いい面を持った連中なんだ、という当たり前の納得である。》・・・そうですね。

そして自分自身も何かの弾みで加害者(犯罪者)になるかも知れない、絶対そんなことはない!とは言えない気がします。



どんな世界でも生き方の器用な人、不器用な人はやはりいますね。

どこかで神様が辻褄合わせをしてくださればいいな、と思います。











返信する
紙一重、言い得て妙ですね! (蛾遊庵徒然草)
2006-07-23 23:52:30
 さくら様、<そして自分自身も何かの弾みで加害者(犯罪者)になるかも知れない、絶対そんなことはない!とは言えない気がします。>

 そのとおりです。

 

 こう見えてもなんていっても、ブログでは電線の向こうで姿形をお見せできないのですが、今の私は実に穏やかに落ち着いていて大人に見えると思いますが、若いとき、一度は中学二、三年の時、あと一度は、就職して5年目ぐらいのとき、こちらは机の向こうからことごとく私の仕事に口を出してくる先輩職員に猛烈な殺意を覚えたことがあります。



 もし、あの時、一瞬の冷静さを失っていたら、私は殺人未遂ぐらいの罪を必ず起こしていたのではと思います。

 そのほか、売られた喧嘩で、相手と死ぬ覚悟で対峙しようとしたこともあります。

 こちらは、正当防衛がなりたつとおもいますが、それは証人次第ですから、こちらも危ういものでした。



 ということです。この歳まで無事これたこと、つくづくありがたいと思います。



 こうして、思い返すと、我々の日頃歩いている道、結構幅があって危なくないように錯覚していますが、案外それって、我々に足元がみえないだけのことかもしれませんね。



 と言うわけで、まさに、さくら様のおっしゃるとおり、この世は”紙一重”とですね。(嗚呼!)

返信する

コメントを投稿